白州町の文化財

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白州町の芸能 虎頭の舞 代太神楽 獅子舞 馬八節

獅子に代わって虎が舞を踊る貴重な民俗芸能「虎頭の舞」が台ヶ原には残されている。虎の舞
は全国でも11県27七市町村にしか伝えられていないという。台ヶ原では明治初年頃にいったん
途絶えたが、平成三年に台ヶ原宿虎頭の舞保存会が結成された。文化財指定はされていないが、地
域のシンボルとして継承活動が進んでいる。
由来を知る文献などは残っていないが、地域にある田中・荒尾神社について、文化年間(1804〜1818)の『甲斐国志』は「祠側ニ虎石アリ(現存、案内板有り)、故ニ本村ニテハ獅子(舞)ヲ禁ジテ入レズ、正月14日道祖神ノ祭リニモ「虎舞」ト名付ケテ他村ノ獅子トハ其ノ形異ナリ」と記しており、神社の本堂と石の祠には虎が彫り込まれ、境内にも虎石が祭られている。いわば虎の神様がいるかのような場所である。
かって台ヶ原で疫病、風水害、火災などの予防祈願をした際に、虎石に獅子頭を乗せたところ、
それまで平穏であった集落内に災難が降りかかったことがあり、これが虎の頭による舞に改められ
た理由であったとの言い伝えもある。
現在の虎頭の舞は毎年9月22日の夜、田中荒尾神社祭礼の前夜祭として、虎頭を先頭に小太鼓の囃子にあわせて、舞手が台ヶ原宿の各家々を訪れ、勇壮な舞を披露する。
このほか、町指定文化財にもなっている「横手、甲斐駒ヶ嶽神社代太神楽」、「下教来石の獅子舞と道祖神祭り」、「馬八節」の三つも民俗芸能として貴重。
〔代太神楽〕
代太神楽は、大巳貴命他七柱を祭神とする駒ヶ嶽神社前宮に伝わる舞で、4月20日の例大祭に
奉納されている。家内安全、五穀豊穣を祈願するため三百年来続けられて来たが、昭和の初年社殿
が改築されたのを機に、諏訪神楽(大和神楽)の流れをくむ円野町持久神社の伝授を受け、今日にいたっている。神楽の次第は、「一祭場淡美」から「二十天之釦之命」まで、朝の神事に始まり夕刻納める。
竹宇の駒ヶ嶽神社と花水の白山神社でも、四月に神楽を奉納するが、内容は横手の駒ヶ嶽神社のものとほとんど同じである。
〔獅子舞〕
獅子舞は教来石地域の小正月行事として受け継がれてきた。御神楽獅子または女獅子とも呼ばれ、
一般の獅子舞いと違ってもの静かで優雅である。1月14日の午前四時より、悪魔払い、初産児の無病息災、新婚夫婦の和合、新築家屋の安泰、その他一切の無障害を祈願して、集落内全戸を舞い
歩く。
舞いは本舞いと剣の舞いの二種類で、獅子役は和服に黒足袋をはき、獅子頭をつける。尾にあたる部分に同じく和服に黒足袋、おかめの面をつけた後舞いがつく。笛、太鼓、お難し方もすべて和服で統一されている。剣の舞いも服装は同じで、剣の御歌を皆で囃す。道祖神祭りは、同日夜に道祖神に若者が集まり、御神体の石を奪い合いながら集落を練り歩く。
〔馬八節(武川町にもある)〕
馬八節は道中歌・田植歌として親しまれていた。平安時代末期から戦国時代にかけて、武川筋一帯は、甲斐源氏が支配し、牧の里馬の産出地であった。武田家の臣、黒田八右衡門を父とし大坊村
(白州町大坊)に生を受けた八兵衛(馬八)は、馬を好み、成人して馬子となった。彼は美声の持ち主で、毎日河原部村(韮崎市)まで荷物を馬で運び、白作の歌をうたった。街道の人々はその美声に聞き惚れ、いつしか道中歌・田植歌として広まっていった。馬八節は、七、五、五、七、四の詩型と独得のテンポ、リズムを持ち、最近まで峡北地方で盛んに歌われた。

3、臺眠の俳歴(附、近隣俳人消息)
天明五年(1785) 臺眠  三十八歳
  《『春秋稿 五篇』 白雄撰 天明五年(1785)の項》

 旧題懐旧
 * 行鹿や茜さす野の露を負   甲州台ケ原 臺 
   朝日にもふるゝこよひのさくら哉 かひの台ケ原 黒沢
   衣がへ身の垢をだにすてごゝろ   甲斐暮地 琴水
  《『春秋稿 五篇』天 白雄撰 天明五年(1785)の項》

《筆註》
白雄−加舎吉春。通称五郎吉。元文三年(1738)江戸深川に生まれる。
寛政三年(1791)歿。年五十四歳。
 信州上田藩士加舎源太吉重の弟。『春秋稿』−明和年間信州に滞在、安永三年に江戸に帰り、日本橋鉄砲町に春秋庵を開いて、安永九年(1780)に『春秋稿』の初版を出して、第五編天明五年(1785)まで続刊。
安永四年(1775)から五年春にかけて甲斐に滞在し、大月初狩で芭蕉碑を建立、『甲峡記行』を著している。


天明六年(1786) ▽  臺眠  三十九歳

 《『葛の葉表』白雄の弟子、中村伯先撰 天明六年(1786)の項》
  『舎良白雄全集』所収』
   里童ぬれありく見ゆ花の寺      甲州台ケ原  台眠
   ひかるゝやあるじをしらぬ梅の宿   甲さし出磯  閨歌
   雪おれの竹にかくれて梅の花     甲さし出磯  春路
   春雨や湯豆腐いまだに捨られず    甲州石和   高牛
   もの寒きなさけにや降はるの雨    甲州藤田   黒沢
   庵木には倦ともあかぬ柳哉      甲州     敲氷
   水に落ちからに重き椿かな      かひの暮地   井
   菴に落る椿の音の聞くらす      甲さし出磯  石牙
   松の風きくを子の日のあそび哉    甲さし出磯  百朶
   しばらくは梵誦も笠ぬげ花の影    甲さし出磯  何鳥
   夜ざくらや酒うる家の遠あかり    甲さし出磯  長古
   鐘の音も和らかにひるの桜哉     甲さし出磯  如洗
   とふ人にまつはる見ゆ藤の花     甲州韮崎   巴本
   (以下、地域関係俳人のみ)
天明八年(1788) 臺眠  四十一歳
  
 《『農男』可都里撰 天明八年(1788)刊行》 
  県立図書館蔵「甲州文庫史料所収」

   葉さくらや水の底なる薄みどり   台ケ原 竹山
   六月や聲あるうちをほとゝぎす   台ケ原 臺 

《筆註》 
 可都里
  寛保 三年(1743)生、〜文化十四年(1817)歿。
  年、七十五歳。本名、五味宗蔵・益雄。甲斐俳壇の雄。中巨摩郡藤田の生まれ。
  蕪村ら当時一流の俳諧師と交遊。

 蟹守
  宝暦十二年(1762)生、〜天保 六年(1835)歿。
  年、七十四歳。本名、五味五郎左衛門。可都里の甥。可都里没後、
  『諸家俳諧文集』を執筆する。

寛政元年(1789) 臺眠  四十二歳

  《『駒墳集』 三車上人撰 天明九年(1789)頃刊行》
   県立図書館蔵「甲州文庫史料所収」

《筆註》 
 現在の勝沼町等々力万福寺境内に芭蕉句碑建立した時の句集。
半化坊闌更の序文が見える。闌更は寛政十年に没しているので、『駒墳集』の序はそれ以前となり、ここでは天明九年の項に入れた。
 
(『長野俳人大辞典』「出典資料一覧」には天明五年刊か?とある)
   かれ草に風のなき日となりにけり  台ケ原 臺 
   目のおよふたけを桜の曇りかな   台ケ原 臺 
ひな鶴峠を越るほと
   山中やいつかいつまで鹿の聲    台ケ原 臺 
   ちいさいは女の業か雪丸け     教来石 甫秋
  《筆註》
 塚原圃秋の初出(筆者の資料から)

寛政五年(1793) 臺眠  四十六歳
   
 《『花供養』 闌更撰。 寛政 五年(1793)》 
(池原錬昌氏紹介『甲斐の俳壇と芭蕉の研究』)
   折さしと火のとほれり夜の花    台ケ原 臺眠
《筆註》 臺眠は、俳号臺眠と臺 (玉に似た一種の宝石)を使い分けている。

寛政七年(1795) 臺眠  四十八歳
 《『花供養』 闌更撰。寛政 七年(1795)》
  池原錬昌氏紹介『甲斐の俳壇と芭蕉の研究』
   日つもりや見尽しかたき雨の花    台ケ原 臺眠

寛政八年(1796) 臺眠  四十九歳
 台眠の編んだ句集

 《『ななし鳥』可都里撰 寛政 八年(1796)著》県立図書館蔵「甲州文庫史料所収」
   山里や包むものなき冬の月 臺 

 連句歌仙 
 連衆   闌更・祥夷・可都里・鱒魚・六 ・美敬・臺 ・樗冠・菊丸  
 《筆註》
 後、文政十二年に甥蟹守の編した『可都里連句集』に『にふなひ鳥』の連句歌仙が見える。
  
 ○闌更……享保十一年(1726)生、〜寛政十年(1798)歿。七十三歳。
  本姓、高桑氏。通称、釣瓶屋長治郎。加賀金沢の人。
  天明六年(1786)以後、毎年芭蕉追悼の法会を催して『花供養』を編集在世中に十二冊を刊行した。

寛政 十年(1798)
 ▽ 臺眠 五十一歳 (伊兵衛延辰、10歳)
 《『霜夜ほとけ』 寛政 十年(1798)刊行》
   日最中の蝶くるひ込関屋哉    教来石 甫秋
《筆註》
 この寛政十年十一月四日、教来石村(塚原甫秋と同郷)の風次亭(不詳)に於ける、素明居士(不詳)の十七回忌法筵につらなり、漫々・台眠・可都里らと追福の吟を手向けている。として、
相見ぬ人の追福に備ふ
   しらぬ世をこほりかへすか夜の雨    雲水 嵐外
  (その他の句は不詳)
《筆註》
 翌年の臺眠の『にふなひ鳥』には、臺眠・盛徳・可都里・花仏・甫秋・柳紅らとの歌仙、臺眠・可都里・嵐外の三吟半歌仙が収められている。
 ……(清水茂夫氏著、『山梨大学学芸部研究報告』「辻嵐外の研究」より)
 嵐外書簡…北原家蔵。(清水昭三氏著『俳風韮崎宿の哀歌』紹介)
 かねてお約束いたし参りつもりの処いかなる事にや、りん病さしおこし御役にもたち不申、しかし柳町三丁目大神宮へ祈願いたし候まゝ大かた今晩あたりハ倅も用立可申と、存じ候へばかならず今晩は手入をいたし云々
《筆註》
 手紙の内容は甲府柳町のその道の女性に宛てたものである。放蕩家嵐外の面目躍如の内容である。

 臺眠の名が見える書簡
《筆註》 高桑闌更(1726〜1789)が上諏訪の俳人、藤森文輔(曾良庵/1712〜1801)に宛てた手紙で、池原錬昌の『甲斐俳壇と芭蕉の研究』に紹介されている。年次は不詳であるが、闌更の没年が寛政十年であるので、ここに掲載する。
闌更
   文輔様
 朶翰愈々御安康致至祝申候幣居無別事中ゝ老衰にや今夏割り書き者横身かちにして萬事遅々御 疎遠ニ暮申候。
 翁剃髪之事処々より申来候間分かね申候。心ゝ外連へ御別紙懸御目候得とも先進而に御座候。
 さたなきやうに候ハハひそかに可進候。披露も ならぬ事筆も多くハ人たのミニ候にて甲斐なき
 事と被存知候ハハかさねて処々へ分け候まてハ 御持可被成候。然者 勧化物とハ例の講銭の事
に候や間違御座候や。
 成美よりいまた受取不申候かれか別葉御届申候。以後行脚の者に用書御伝御無用に候。分沼なと
 もいまた講銭きたり不申草堂へ直便に届候様にたのミ入候。堂藁ふき間もなきに朽申候まゝか かるものにて暮替可致候。
 まゝ臺眠なともそのかたへ集被遣可被下このかたへハ一向ととき不申候。芭蕉堂日日繁栄額聨なとも出来会も御座候。且御作も不絶承度候。家中御連へも能御達奉頼候。
 不具 九月十五日
《筆註》
 藤森文輔−正徳 三年(1713)生、〜享和 二年(1802)歿。年89歳。
  諏訪市門間の人で、別号曾良庵、または左右房と言った。
  本名は藤森喜右衛門。屋号、和泉屋。家業は紺屋。壮年頃江戸に出て、菊岡沾涼、後加藤暁台に、京都の高桑闌更に師事した。

寛政十一年(1799) 臺眠 五十二歳

 《『にふなひ鳥』瀧亭臺 撰 寛政十一年(1799)刊行》
  (この句集は、『可都里連句集』に載る)
可都里序文(ここでは省略)
   霍公鳥むら雨かゝる遠音哉    臺眠

寛政十二年(1800) 臺眠 五十三歳
 《『さきつる』可都里撰 寛政十二年(1800)刊行》
   うぐひすを長う鳴する朝寝哉    甲斐 臺眠
 《『ななし鳥』可都里撰 寛政十二年(1800)今井漁莚写》(前掲)
 ………この年以後に臺眠の名は見えなくなる………
 これ以後居峡北地方の俳壇は下教来石の甫秋が中心となる。

 《『鶴芝』「初編」舎良士朗撰 享和 元年(1801)刊行》
   日最中の蝶狂ひ込関屋かな   カヒ 甫秋
   花に泣ば又もや姥は捨られん     士朗
   味噌豆の煮るうちよりは春は行    嵐外
   こまぐと雨もふらぬか今朝の秋    漫々
   名月や何処にどうして杜右      可都里
   いつとても相図の笛を腰にさし    蟹守
 連句歌仙  
甲斐の可都里の沙汰として蟹守をさしこして
予が諏訪のやどりをとはれければ
   哀れさやおなじ旅寝の子規 士朗
   湖の月夜は夏にぞありける 蟹守
   住みなれる間々の藪刈て 素檗
  (以下省略)

 《『続ゆきまるげ』 素檗撰 文化 四年(1807)刊行》
   『藤森素檗全集』所収。可都里序文。
   みそさゞい佛の日より来初けり カヒ 甫秋

甲州台ケ原宿と教来石宿が生んだ俳人

    北原台眠と塚原圃秋

 臺眠は現在の白州町の台ケ原集落(合併により北杜市白州町台ケ原となる)の生んだ俳人であり、当時の著名俳人とも交流が深く、それは伝えられる以上のものがある。北原家は江戸時代の寛延二年(1749)頃、信濃の高遠から移住して造酒屋を営んだのにはじまり、(「家譜」/村役人連署「差上申済御証文之事」)現在山梨名醸として現在に至っている。
 家の作りも抜きん出ていて、切妻中二階式の大型町屋で山梨県教育委員会において発行している『山梨県の民家』に詳しく報告されている。幕末には信濃諏訪高島藩の御用商人となり、窮乏する高島藩の為に千六百二十五両を用立てた証文を蔵して居られる。 
 また長野県の『富士見町誌』には産米を北原伊兵衛宅に納めた記録が残っている。
 天保十二年の家の古図によれば醤油の醸造、明治には北原銀行も開設している。また中の間と書院境の彫刻欄間の主題は「竹林七賢」で立川流の名工立川富種の作で諏訪高島藩主より贈られたと伝えられている。先の『山梨県の民家』では、「全国的に見ても第一級の幕末大型町屋といってよい」と絶賛している。
 また山梨名醸の造酒「七賢」は山梨県を代表する銘柄であり、蔵出し始め多くの愛好者が訪れていて、休息や食事もできる「台眠」も人気がある。今回はこの「臺眠」についての調査報告である。

 一方の塚原圃秋については断片的な資料しかなく、いずれ本格的に調査を開始するつもりである。今回はこれまでの少ない調査資料から提示する。

  諸書に伝えられる台(臺)眠・臺  たいみん・だいみん

 1、『峡中俳家列傳』

  (『甲斐史料集成』第十一巻所収 明治三十八年刊)
 北巨摩郡菅原村の臺ケ原と云ふ處に北原仁と云ふ酒造家がある。其の七代前の遠祖に通稱伊兵衛、諱は延辰と云ふ人があった。
 嵐外(辻氏)に就て俳諧を學び號を臺眠と稱へた。師弟の情が最も濃やかであったから嵐外は閑暇があれば常に臺眠の下に遊びに行って居た。
 夫れで嵐外が常に携へて居た如意を記念の為に此家へ留めて置たが、其れが臺眠手より他の手へ、他の手よりまた他の手へ幾變轉した末に、當時峡中詩壇の飛将軍たる狩穂の舎主人小澤眼石翁に傳はったのである。
 文政十三年(1830・天保元年十二月十日改元)不惑を超ふる事僅に一歳(41才)にして逝かれた。龍福寺畔荘嚴なる碑石が此の人の永眠の地に建てられてあるが、此の碑石は実に永遠に此の人の俳名と其の富豪とを語るべき不文の歴史であらふ。それで此の人の作として傳はれるものは実に左の數句に過ないのである。
   目の及ぶだけを櫻の曇り哉
   時鳥引返そふか筑波山
   暮るゝほど心こもるぞ菫草
   山里や包むもの無き冬の月

《筆註》
 一部記載違いがあるがここでは省く。

 2、『甲州俳人傳』 (昭和七年四月刊。功刀亀内著)
   北原臺眠
 北巨摩郡菅原村臺ケ原の人。通称伊兵衛延辰。雪亭葛里の教で俳諧を学び、その門下高弟の一人なり。又辻嵐外と交遊浅からず、峡北の□匠なり。瀧亭臺眠と号す。文政十三年正月七日歿す。
 同村龍福寺に葬る。 著書 母布奈比鳥一冊。寛政十一年八月刊行。五味可都里序文
《筆註》この亀内の『甲州俳人伝』は現在も『甲州文庫』と共に引用される書であるが、多少の間違いもある。

白州町の天然記念物
白州殿町のサクラ
白須殿町浅川公雄昭和三四・二・九指定

樹種はエドヒガソに属し、根回り六、六メートル、目通り幹囲五、○メートル、幹の下部に空洞がある。昭和三十四年の七号台風で地上約八、五メートルで折れ樹形を損ねたが、現在はそこから四方に枝を張り形を整えつつある。国指定の天然記念物山高の神代ザクラには及ばないが、県下有数の巨樹で、平年は四月十日ごろ満開とたる。花はわずかに小さいが、花色は紅がこい。


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