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台ケ原・だいがはらく白州町〉(「角川日本地名大辞典」より)一部加筆
甲府盆地の北西,釜無川とその支流尾白川に挟まれた台地上に位置する。地名の由来は,台地状をなす地形にちなむという。地内には縄文時代の中台・根古屋・屋敷平遺跡がある。
〔中世〕
台ケ原之郷戦国期から見える郷名。巨摩郡のうち。
永禄11年7月14日の武田家伝馬口付銭捷書写(相州古文書1)に「馬壱疋之口付銭之事,従府中台原へ四十文,従台原蔦木へ十五文」と見える。
永11年7月5日,相模海蔵寺の僧侶が上洛するにあたり,甲斐の武田領を通過して木曽方面に出たが,武田氏も伝馬7疋を各宿々に僧侶たちが使うのを許可し、7月13日にはその伝馬手形を出した(同前)。そして,翌14日,前記史料のように,「馬壱疋之口付銭之事」として甲府から当郷までは伝馬1疋40文,ついで当郷から信濃蔦木へは15文と定めた。
天正17年12月1I日の徳川家奉行伊奈忠次知行書立写にr一,弐百九拾九俵三升七合五夕二才台ケ原郷」とあり,当郷内299俵余,
そのほか計7,335俵余が天正17年以前に、忠次によって行われたと推定される検地により,武川衆の人々の知行に確定された(記録御用所本古文書/伊奈忠次文書集成)。
〔近世〕
台ケ原村江戸期〜明治8年の村名。巨摩郡のうち。武'川筋に属す。
はじめ幕府領(「慶長古高帳」では旗本馬場氏知行),のち甲府藩領,
享保9年からは幕府領(甲府代官所)。村高は,「慶長古高帳」261石余(ほかに大官神領1石余),
寛文12年の検地高392石余,
「宝暦村高帳」422石余,
「天保郷帳」424石余,
「旧高旧領」も同じで,うち荒尾大神領1石余。
甲州街道の宿駅台ケ原宿が設置された。
文化初年の戸数79・人口322(男159・女163),馬50・牛3(国志)。入会地は中山と奥山があり,中山を入会とする横手村より9升を受け取り,小物成米3斗6升を上納,奥山は白須・横手・台ケ原の3か村を山元とする入会地で,山手米6斗4升上納。用水は尾白川より引水した。
畑作物は粟・稗・ソバ・菜・大根・大麦・小麦など。鉄砲は猟師鉄砲2丁・威鉄砲2丁があった。諸商売は酒屋1軒・車屋2か所・茶屋3軒・鍛冶屋3軒・紺屋1軒・桶屋2軒など。
神社は荒尾神 社,寺院は曹洞宗清光寺末台原山竜福寺がある。
明治4年山梨県に所属。地租改正前の反別は田22町1反余・畑37町4反余(市郡村誌)。
明治6年取締出張所・台ケ原郵便局を設置。
明治8年菅原村の一部となる。
〔近世〕
台ケ原宿江戸期の甲州街道の宿場名。
巨摩郡のうち、台ケ原村地内に宿場を形成。「甲州道中宿村大概帳」によれば,宿高は422石余で,ほかに三吹村(高657石余)が加宿で,地子免許はなく,加宿村とともに六尺給米・御蔵前入用は免除された。
江戸への里程は43里!0町余,近隣の宿へは韮崎簑宿へ4里,教来石宿へ1里14町,蔦木宿へ2里20町,宿往還は牧原村境から白須村境まで長さ1里7町6問,宿内の町並みは東西9町半,天保14年の宿内人別670(男340・女330)、宿内家数153,本陣は字中町に1軒あり、建坪は97坪余で門構・玄関付き,脇本陣は天保14年当時にはなく,宿役人のうち手広の住居がある者の家にて勤めた。
天保14年の旅籠屋は14軒あり,その規模別内訳は大1軒・中6軒・小7軒。宿建人馬は25人・25疋,うち5人・5疋は囲人馬,人馬継立問屋場は宿の中ほどに1か所あり,問屋1人・年寄1人・馬指1人がいた。
人馬継立は韮崎・教来石・蔦木宿と「申合之宿場」として行われ,当宿は江戸方向へは御朱印・御証文御伝馬荷物とその他商人荷物を毎月1〜25日の期間に韮崎宿へ継立,武家荷物は1日〜晦日の期間に韮崎宿へ継立,信濃方向へは御朱印・御証文・御伝馬荷物を1〜25日の期間に蔦木宿へ26日〜晦日には教来石宿へ継立した。
正徳元年に定められた駄賃・人足賃は,韮崎宿まで荷物1駄206文・乗掛荷人共206文・軽尻馬1疋134文・人足!人102文,蔦木宿まで荷物1駄102文・乗掛荷人共102文・軽尻馬1疋65文・人足1人49文,教来石宿まで荷物1駄49文・乗掛荷人共49文・軽尻馬1疋32文・人足!人25文。
天保9年には、同10年から10年間にこの駄賃・人足賃の1割5分増しすることが決められた。
宿内の木賃銭は主人1人35文・召仕1人17文・馬1疋35文。宿の中ほどに高札場が1か所あり,また郷蔵も1か所あって貯穀が行われていた。当宿から教来石宿までの往還通りには白須村・鳥原村があり、白須村の往還通りの長さは31町53間で,うち家居は8町余あり,ほかは野問,鳥原村の往還通りの長さは16町31間で,うち家並は2町余あり、ほかは野間であった。また教来石宿までの間には当宿地内に一里塚があった。しかし,立場はない。
当宿の両側には家並みが続くが、ほかは野間が広がり,耕地は田より畑が多かった。用水は尾白川から引き取って用い、その流末も同川に落とす。飲み水は川水を利用。農業は五穀のほかにその時々あ野菜を作る。旅籠屋のほかに食物を商う茶店もあり、その他の諸商人もいた。米の津出しが行われ,鰍沢を岩か河岸へ9里余,同河岸から駿河国岩淵河岸へ川路を18里,それより蒲原浜へ陸路1里8町,清水湊へ海上4里半,同湊から江戸へは海上80里ほどの里程であった。
宿内には尾白川が流れ,川幅は通常は6問ほどで橋渡しであった。
加宿の三吹村地内には大武川が流れ、通常の川幅は8間ほどだが,出水時には50間ほどになり、通常時は橋渡しであった。また,当宿から若神子通りの日野村へ出る脇道は釜無川を渡り,川には丈夫な橋が架けられていた。
〔近代〕
台ケ原明治後期・大正期〜現在の大字名。
はじめ菅原村,昭和30年からは自州町の大字。もとは菅原村の一部。
明治24年甲府区裁判所菅原出張所を竜福寺の庫裏の一部を借用して開庁。
昭和24年甲府地方法務局菅原出張所と改称。同年鳳来郵便局が開局。
昭和33年簡易水道完成。
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