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白須しらす・<白州町〉(「角川日本地名大辞典」より)一部加筆
甲府盆地の北西,西は駒ケ圧の支峰に連なり,東は釜無川上流に接する西高東低の斜面上に位置する。地名の由来は,白州が多いことから起こったという(北巨摩郡誌)。地内には縄文時代の北原・竹宇・堰口・川平・大久保遺跡と,縄文時代〜古墳時代の堰口東遺跡がある。
〔中世〕
白須之郷南北朝期〜戦国期に見える郷名。巨摩郡のうち。初見は後醍醐天皇の皇子宗良親王の
歌集「李花集」に,親王が甲斐国に入った時に詠んだ歌として
「甲斐国しらすといふ所でかりそめの行かひちとはききしかといさやしらすのまつ人もなし」
とある(大日料6-6)。
下って永禄4年閏3月吉日の武田晴信禁制に「六十番白須の禰宜」とあり,府中八幡に国内中小神社の神官が2社(2人)一組で交替で勤番し,2日2晩国内安穏を祈穣する行事に,当郷の若宮八幡宮の禰宜が出向いたことがわかる(八幡神社文書一!甲州古文書1)。
天正10年,武田氏・織田氏の滅亡後徳川氏は甲斐に入部するが、一方小田原北条氏も甲州をうかがった。
天正年7月,諏訪頼忠は信州に在った北条氏直と結んだため,徳川勢の先鋒酒井忠次らは諏訪高島城攻撃に向かったが,「家忠日記」8月1日条には「相州衆出候沙汰に,自須迄引取り候」とあり、一度は戦略上当郷に退いたことが知られる。その後同年1.O月に北条氏と講和し,甲州を分国とした。徳川家康は武田氏旧臣に知行の安堵・充行を行ったが,同年11月8日の徳川家印判状写(網蔵勇八郎家文書/甲州古文書2)によると「白須棟別替九貫八百文」など計47貫800文の地を河西喜兵衛に本領として安堵した。
天正11年4月26日の徳川家康印判状写(旧武川衆所蔵文書/同前)によると,武川衆の一員折井次忠の所領として「白須内大輪助三分九百分」ほか,計49貫990文の地を充行っている。
天正17年12月1I日の徳川家奉行伊奈忠次知行書立写によると,忠次が国内で行った検地により,米蔵主言十・同彦二郎・折井市左衛門・同九郎次郎を除く武川衆の人々に,当郷内697俵余を含む7,335俵余が安堵された(同前)。
天正18年
同じ武川衆の折井市左衛門次昌・米蔵主計助忠継の知行についても,同18年と推定される正月27日の徳川家奉行連署知行書立写(同前)には「八百七拾俵四升白須郷」とあり,当郷内870俵余を次昌に,そのうち24俵余を忠継に給付したことが見える。また翌28日の徳川家奉行連署知行書立写(同前)には忠継の所頷の年貢分として「弐拾四俵壱升二合五タ五才白須内ニ而」
とある。また,同年2月24日の徳川家奉行連署知行書立写では,知行として武川衆の人々に「千拾表壱斗七升七合五タ六才白須之郷」ほか,計2,960俵の知行地を決定した。
なお,「浅羽本武田系図」や「南葵文庫本武田系図」などによると,武田一門の一条忠頼5代の裔一条時信は南北朝頃,その子息を白次(白須・白洲)をはじめ、慶良吉(教来石)・鳥原(現白州町)、牧原・山高(武川村),青山・折居(韮崎曇市)などの諸村に分封し,おのおのはそれら諸村名を苗字とし,さらに分家を派生した。これらの諸家をのちに渕11衆と称し,武田氏の有カな家臣団となった
(韮崎市誌)。
〔近世〕
白須村江戸期〜明治8年の村名。巨摩郡のうち。武川筋に属す。はじめ幕府頷(「慶長古高帳」では旗本馬場氏知行),のち甲府藩領,
享保9年からは幕府頷(甲府代官所)。村高は,「慶長古高帳」では「しらす」と見え816石余(ほかに若宮領3石余)、
寛文/2年の検地高I,417石余(反別は田83町余・畑90町余・屋敷5町余),「宝暦村高帳」1,463石余,
「天保郷帳」工,492石余,「旧高1日領」では1,494石余(うち若宮八幡領3石余)。
村の規模は東西26町・南北21町余。甲州街道台ケ原宿の大助郷を勤め、助郷勤高622石余。
「国志」によれば,枝郷に門前(前沢)・殿町(白須下)・竹宇があり,
文化初年の戸数2旦5・人口953(男496・女457),牛202・馬48。
文政4年の戸数251(平百姓210・水呑百姓41),人口1,036(男514・女522),牛200・馬50。用水
は尾白川・濁川より引水,堰は4筋あり,大破の時は御普言青とされた。また入会地の秣山は,北は
は尾白川境まで広がり,小物成米4斗5升を上納、横手山は白須・横手・台ケ原の3か村が山元で,入会村の日野・長坂上条・渋沢・三吹・柳沢の5か村から山手米2石を受け取り,小物成米3斗6升を上納した。
御林は字向林29町6反・字前御林20町4反の2か所があり,山守2人を置いて村で4俵宛渡した。
砂地が多いため砂留堤2か所・用水堰砂留16か所があった。
神社は八幡宮,寺院は曹洞宗清泰寺末白砂山自元寺・日蓮宗身延山久遠寺直末妙法山蓮照寺などがある(村明細帳)。
明治4年山梨県に所属。地租改正前の反別は田78町余・畑111町余・大縄場畑2町余(市郡村誌)。
明治6年小学校を開設。
明治8年菅原村の一部となる。
〔近代〕
白須明治後期・大正期〜現在の大字名。
菅原村,昭和30年からは白州町の大字。もとは菅原村の一部。
明治41年菅原尋常高等小学校開校。
昭和30年明星保育園認可。同年町診療所設立。
昭和33年簡易水道完成。
昭和37年菅原小学校新校舎完成。
昭和43年白須前沢線が農免農道となる。
昭和46年中央公民館完成,
昭和47年役場庁舎完成。
昭和52年鳳来・菅原・駒城の3小学校を統合し白州小学校とたり校舎新築,
昭和54年白州中学校校舎新築,
昭和55年民俗資料館完成。
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