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〔塚原四秋〕松屋に勤務 白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
四秋は谷村郡役所に勤務していたが、定年退職後は上京し、家族とともに松屋に勤め、北多摩郡三鷹町牟礼に転住し、同所において昭和十六年十二月七日、七十七歳で逝去した。
・日最中蝶狂い込む関屋哉     甫秋
・薮梅や寄りもつかれぬ枝配り   幾秋
・美濃の羽子近江の屋根へ外れけり 雲鳳
 
〔塚原雲鳳〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
雲鳳は天保元年七月七日に生れ、通称を甫秋といい、祖父の甫秋と混同しやすいところから号を松垣または雲鳳と称していた。
雲鳳は幾秋亡きあと、よく教庵を継承し、明治十三年明治天皇御巡幸の折、父母に孝順の故をもって賞賜された。明治二十八年刊行の「ももよぐさ」には次の句が掲載されている。
あら楽し千町八千町庭のまど
明治三十一年四月二十四日、六十八歳をもつて逝去した。
〔甲子太郎〕
孫の甲子太郎は、元治元年十二月二十八日生れで、四秋と号している。四代の「秋」を継承したという意味であろう。俳諾と和歌をたしなみ、明治三十一年刊行の「百花園」に数歌が掲載されている。
甲斐が嶺の雪の中より立つ雲は
誰か炭がまの煙りたるらむ
〔塚原幾秋〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
甫秋、幾秋、雲鳳、四秋の父子四代
文化年間以降、下教来石の甫秋、幾秋、雲鳳、四秋の父子四代によって、この地方の俳諾の道が高揚された。幾秋は文化二年(一八〇五)下教来石一五四番戸に生れた。幾秋の父は通称彦平といい、号を甫秋と称した。幼少のころから風雅の道を志し、俳諸雲水として諸国を行脚し、見聞も広く超然として衆にぬきんでていた人である。幾秋はこのような父の影響もあって、風流の道に詳しく、各地の俳人と交わり、明治六年初代鳳来小学校長として教育にもつくした。  
幾秋は通称の名であり、また俳号でもあって、父の教庵を継いで号ともした。
この時代は県内でも峡北地方は府に俳諸の浸透がおそかった。それでも山口素堂とその弟子の輩出、貞享三年四月、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途次、教来石宿に立ち寄った(ママ)ことなどから、この地にも俳諸の道が盛んになっていった。
幾秋の宗匠としての活躍は各地にその事績が残されており、峡北の天地に燦燗たる光彩を放った。当時の宗匠仲間としては、石原嵩山、小野松濃、広島南里、有泉?斉、輿石守郷、山本閑潮、金井志雪、宮沢随斉などがいる。山高の幸燈宮に献吟の額が納められている。「時天保重光単□玄吉辰」とあるのがそれで、辛卯天保二年、幾秋二十六才のときに甫秋(雲鳳)、嵩山等峡北俳人五十六名が名を連らねている。
其の後慶応三年七月発行の「甲斐俳家人名録」にも幾秋、雲鳳の名が見える。幾秋は、「遊びよき家に遊びて夜の月」と詠じ、雲鳳は俳画の宅手で鶴二羽を一筆画きにして、「馬市の場も田とたり青みどり」と作句している。
〔塚原幾秋の事績〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
幾秋の最も顕著なる事績としては、晩年の明治十三年、山高の実相寺境内神代桜の下に「しばらくは花のうえたる月夜かな」の芭蕉の句碑を建てたことである。この記念事業として、翌々年、明治十五年に「大桜集」を発刊した。この句集には三枝雲岱の大桜の絵を、篁石が画いて版にしている。東京、京都、尾張、三河、駿河や近くは蔦木、立沢、乙事、金沢など信州諏訪郡の村々、県内各地から有名俳人が寄稿し、幾秋も「月に明け花に暮るるや草まくら」と詠じている。この句集の諸言に、私は病のため右手は全くかなわず、筆をもつことができないので、孫の甲子磨が代筆し版を録した。費用は子の雲鳳に任せ、此の編はすべて子と孫によって成ると記している。
巻末は駒峰中山正俊が撰文し、雪斎小池真清が書をしたためており、
咲きにほう故の山高の大桜
たちさりがたき花の木のもと幾秋
親とともに幾世をかけて仰ぎみん
まれのさくらに雪の富士の嶺雲鳳
と結んでいる。
幾秋は、その二年後の明治十六年六月二十二日、七十九歳をもつて逝去している。
〔山口素堂の俳諧()白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
・かへすこそ名残おしさは山々田 (伊勢踊、寛文七年)
延宝二年北村季吟の歓迎百韻(廿会集)の発句、脇句より
・いや見せじ富士を見た目にひへの雪    季吟
・世上は霜枯こや都草           信章
延宝三年五月、西山宗因を迎え芭蕉とともに二百韻興業(江戸両吟集)
・梅の風俳諸国に盛んなり         信章(素堂)
・こちとうづれもこの時の春        桃青(芭蕉)
・目には青葉山ほとゝきす初松魚      (江戸新道、延宝六年)
延宝六年夏から長崎に赴く。
・入船やいたさそよぎて秋の風       (誹枕)
延宝七年、上野不忍池畔に移居す(三十八歳)
・塔高し梢の秋の嵐より          (とくとくの句合)
・鮭の時宿は雨夜のとうふ哉        (武蔵曲)
・蓮の実有り功経て古き亀もあり      (向之岡)
・宿の春何もなきこそ何もあれ       (江戸弁慶、延宝八年)
西国下りのころ周防長門の堤に大木の柳ありけるを。
・胴をかくし牛の尾戦ぐ柳哉        (とくとくの句合)
・春もはや山吹白く萱苦し         (続虚集)
・芭蕉いづれ根笹に霜の花盛        (続虚集)
・年の一夜王子の狐見にゆかん       (続虚集)
・池はしらず亀甲や汐を千す心       (武蔵曲、天和二年)
・市に入てしばし心を師走哉        (歳且帖、貞享三年)
・雨の蛙声高にたるも哀也         (蛙合、貞享三年)
・もろこしのよしのの奥の頭巾哉      (続虚栗、貞享四年)
・我をつれて我影帰る月夜かな       (瞭野、元禄二年)
・旅の旅つゐに宗祓の時雨哉        (枯尾花、元禄七年)
・めでたさや星の一夜も朝顔も       (墨吉物語、元禄七年)
・漆せぬ琴や作らぬ菊の友         (翁草、元禄九年)
・苔の底泪の露やとどくべし        (続有磯海、元禄十一年)
・菊遅し此の供養にと梅はやき       (冬かつら、元禄十三年)
 
 ○山口素堂 白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
〔略歴〕
寛永十九年五月五日、当町字山口の郷士山口市右衛門の長子として生れた。名は信章、字は子晋、通称官兵衛、素堂と号した。後、一家は甲府魚町に移り酒造業を営んで巨富を得た。翁は二十歳ころ家業を弟に譲り大志を抱いて修学のため江戸に出て、幕府の儒官林春斎(林羅山の三男)に入門Lて朱子学を修めた。
壮年のころ(延宝二年)京都に上り北村季吟に俳諸を学んだが、江戸下向中の西山宗因から芭蕉と共に、談林俳諸を学ぶに及んで、漢学に造詣のある翁が漢詩文調の新風の先達となり、やがて展開する蕉風俳諸に寄与したことは多大である。
特に延宝七年仕官を辞し上野不忍池畔に隠居したことは芭蕉の芭蕉庵入り(延宝八年)の動機となっている。
また数学にも秀でていた翁は、甲府代官鰯頭桜井政能の懇望により、元禄九年濁川三千二百三十間の治水工事を指揮した。これは父母の国を思う親切な精神の発露で、土民は感激し庄塚に生祠を建てて祭った。
 広く風雅を楽しみながら葛飾で隠居していた翁は享保元年八月十五日、七十五歳で没し谷中感応寺に葬られた。法名広山院秋厳素堂居士。翁を祖とする俳系は蔦飾派と呼ばれ幕末まで栄えた。
〔素堂の碑〕
翁の句碑は、昭和四十六年十一月、白州町中央公民館を建設するに当り、白州町が町役場地内と、素堂の生家近くに建てた。
素堂の生家近くに建てた碑文
碑の表
山口素堂誕生の地
目には青葉 山ほとゝきす はつ松魚 素堂
碑の裏
寛永十九年五月五日上教来石村山口に生れる。
享保元年八月十五日江戸葛飾阿武の草庵で没す。七十五歳
昭和四十六年十一月吉日建之白州町
碑の除幕式は十一月二十日、中央公民館落成式とともに行われ、そのあと山梨大学教授清水茂夫氏の「俳人山口素堂翁について」の講演があった。
 
〔山口素堂の俳諾年譜〕白州の俳諧の歴史(「白州町誌」)
寛文七年
加友編「伊勢踊」に五句入集
延宝二年、
三十三歳、十一月上洛し同二十三日、北村季吟以下の歓迎百韻に出る。信章付句十一(甘会集)
延宝三年
五月、江戸下向中の西山宗因を迎え芭蕉らと百韻興行。
延宝四年
春、芭蕉と二百韻興行(江戸両吟集)
延宝五年
風虎の「六百番発句会」に二十句入集
延宝六年
前年冬からこの春にかけて、芭蕉、伊藤信徳とともに三吟三韻興行(江戸三吟)。またこの年高野幽山主催の「江戸八百韻」に加わっている。その句は西鶴編「新付合物種集」に付句五首、言水撰「江戸新道」に発句六首、不卜撰「江戸広小路」に発句七首、雪柴撰「鱗形」に発句が入集している。「目には青葉山ほとゝきすはつ松魚」の句は「江戸新道」の中に載っている。
このころから季吟、宗因、芭蕉、幽山と交わり本格的俳人活動をしている。
延宝七年
六年夏のころ江戸を出て長崎に向い、肥前唐津にて新春を迎える。暮春のころ江戸に帰り任を辞して不忍池畔に隠退。「玉手箱」、「富士石」、「江戸蛇之酢」に入集。
延宝八年
始めて素堂と号す。幽山編「誹枕」に序文を書く。五月十六日灘波本覚寺において興行した「大矢数」に付句を載せる。
延宝九年
四十歳、「東日記」に入集
天和二年
塵塒主催の月見の宴あり、素堂、芭蕉、信徳ら出座し、素堂に「月見の記」あり。
天和三年
九月、昨冬焼失せし芭蕉庵再興のため勧化文を章す。其角編「虚栗」に入集。
貞享二年
六月二日、小石川において芭蕉らと古代の俳諸興行、葛飾に移居せるはこの年の夏以後であろう。
貞享三年
三月、芭蕉庵における「蛙合」の判老に加わる。
貞享四年
春上洛か、・秋「蓑虫記」の文章をつづる。其角編「続虚栗」に序文を書く。その冬「続の原」の発句会に芭蕉、調和、湖春とともに四季旬合の判者にえらばれる。
貞享五年
九月十日、芭蕉の帰庵を迎え、芭蕉庵十三夜の会を催す。
元禄二年
三月、芭蕉の奥羽行脚を送る(松島の詩)。九月十三日園中に月賞して十三唱「臓野」に入集。
元禄三年
嵐雪の「其袋」の編集を助ける。秋、酒折宮奉納漢和連句表に八句の序をおくる。
元禄四年
五十歳、鋤立編「俳諸六歌仙」の序を書く。「勧進帳」「雑談集」「元禄百人一句」「色杉原」「餞別五百韻」「茜の雲」入集。
元禄五年
母の喜寿を賀し芭蕉以下六人を招いて宴を設ける。秋「稿本芭蕉庵三目月日記」の序を書く。十二月芭蕉、嵐蘭らを招いて年忘れの会を催す。沽徳編「一字幽蘭集」の序を書く。
元禄六年
十月九日、残菊の宴を開く、芭蕉、其角以下参加する。
元禄七年
五月、不角編「芦分船」。沽徳編「一字幽蘭集」に序文を書く。十月十二日芭蕉没、同二十三日興行の芭蕉追善歌仙に参加(枯尾花)。「炭焼」「句兄弟」「名明集」「芳里袋」「枯尾花」に入集。
元禄八年
八月十一日、甲斐に赴き九月八日帰庵。甲山紀行を書く。亡母の遺志を継ぎ身延山参詣。「花かつみ」「墨吉物語」「宵日記」を書く。
元禄九年
五十五歳、甲斐において濁川の治水に努む。三月二十八日起工、五月十六日竣工。村人祠を蓬沢に建て山口霊神と称す。
元禄十年
桃隣編「陸奥衛」の序。其角編「俳諸錦繍綴」の序を書く。「韻塞」「未若菜」「柱暦」等に入集。
元禄十一年
夏から秋にかけて上京し芭蕉の墓に詣る。「続有磯海」「続猿蓑」。「泊船集」「寄生」に入集。
元禄十三年
芭蕉庵で翁の七回忌を行う(追悼吟七章)
元禄十四年
二月上京、島田の宿で「宗長庵記」を書く。義仲寺芭蕉塚に参詣、四月大津でたまたま嵐雪と会す。
正徳三年
師走火災にあう。
享保元年
七十五歳、八月十五日蔦飾で没した。上野谷中感応寺中瑞音院に葬る。法名広山院秋巌素堂居士。
その後、
享保二年
雁山編素堂追善集「通天橋」。
享保六年
門人子光の「素堂家集」。
明治二年
黒露編素堂五十忌集「摩詞十五夜」などが編集されている。
明治六年
「鬼貫句選」の序で蕉村は「其角、嵐雪、素堂、去来、鬼貫の風韻を知らざる者は共に俳譜を語るべからず」と述べている。
谷中感応寺の墓は現存しないが位牌は上野谷中の天王寺にある。小石川の厳浄院に山口黒露の建てた碑があり、甲府の尊体寺に山口家代々の墓がある。(素堂家のものではない)

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