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〔教育課程の変遷〕白州町教育の歴史(「白州町誌」昭和61年より)

明治三十二年十月、「小学校教育費国庫補助法」が制定され、
明治三十三年八月、小学校令が改正された。それは尋常小学校の修業年限三年または四年に統一し、近い将来義務教育を六年に延長する布石とした。そして高等小学校はみだりに年限の長いものを設けずに二年程度のものを設けるような方向を示し、二年制の高等小学校を尋常小学校に併置することを奨励した。
明治四十年三月二十一日、小学校令を一部改正して、尋常小学校を六ヶ年に改め、これを義務教育とした。これが戦時中国民学校と名称を変えた以外は、戦後の教育改革まで制度的に固定して大正から昭和初期にかけては教育制度の基本的た変革はなかったが、教育の普及とともに大正デモクラシーといわれる自由主義教育が開花した時代である。
政府は臨時教育会議や教育評議会などの答申にもとづいてデモクラシーを抑制する方向で教育内容の改正が行なわれた。すなわち「兵式体操ノ振興二関スル建議」(大正六年)、「市町村義務教育費国庫負担法」の公布(大正七年)、国民道徳の育成重視(大正八年)などがそれで、大正十二年には「国民精神作興二関スル詔書」が発布され、大正十四年には中等学校において軍事教育が実施され、陸軍現役将校が学校に配属されて軍事教練や、その査閲が行なわれるようになった。
昭和初期は、世界的経済大恐慌のため、農産物が暴落して農村の危機が深刻となり、労働争議や小作争議が続出し、共産主義運動も活発になったので、政府は思想統制を行なうようになった。
《修身教科書》
明治以来の国定教科のなかで学校教育の中心的地位を占めていたのが修身教科書で、その内容は教育勅語を基底とし、国家主義的、家族主義的徳目で構成されていた。「小学国史」も「建国ノ精神・国体ノ要義ヲ児童ノ脳裡一徹底セシムル」ことをねらいとしていた。
国語では、尋常高等国語読本」が使用された。灰色表紙で、巻一の第一ぺージは桜の花絵に「ハナ」次に「ハト、マメ、マス」「ミノ、カサ、カラカサ」の単語から第四ぺージの「カラスガヰマス、スズメガヰマス」の文章になっている教科書はなつかしいものである。
桃太郎などの童話から、リソカーンの苦学、トーマス・エジソン、チャールス・ダーウィンなど西洋の律人を内容とした題材も組まれているが、金鶉勲章(券五)、神風(巻六)など国家主義、軍国主義の教材も色こく併存した。

〔教育制度の改革〕白州町教育の歴史(「白州町誌」昭和61年より)

明治十二年「学制」が廃止され「教育令」が公布されたが、十三年には改正され、十八年には再改正が行なわれた。
明治十九年四月十日師範学校令、小学校令、中学校令、諾学校通則が公布された。それは教育の目的は「帝国二必要ナル善良ノ臣民」の育成にあるという国家主義の国民教育を企画したもので、教育課程のなかに兵式体操もとり入れた。これが明治二十年代以降わが国教育の正統路線となっていったのである。小学校令は小学校の種類を尋常小学校、高等小学校の二種に分ち、この区分は昭和十六年の国民学校令まで引きつがれた。尋常・高等とも修業年限は四年、計八カ年とし、土地の状況により簡易小学を設けることができた。
明治二十年一月十四日、県はこの小学校令に基づいて「小学校ノ設置区域及位置」を定めた。それによって大武川小学校は鳳来小学校に合併となり、その分校となった。また片颪小学校も清春小学校に合併され、その分校となった。
明治二十三年十月七目、小学校令が全面的に改正されて第二次の小学校令が公布された。これは欧州とくにドイツに学ぶところが多かった。
「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ本旨トス」(第一条)として道徳教育・国民教育に重点をおき、この年十月三十日下賜された「教育二関スル勅語」とともに昭和二十年の終戦に至るまで、わが国初等教育の目標となったのである。
〔高等小学校〕
高等小学校は、明治十九年四月公布された小学校令実施により北巨摩郡下では河原部(韮崎)と熱見に修業年限四カ年の高等小学校が設置された。
白州町地内は河原部高等小学校に属し(登美村外二十三ヶ村研合)、聯合会議員として菅原村宮川仁左衛門、駒城村山田紋次郎、鳳来村小池重泰がでている。
組合立ではあるが、郡長が直接管理していたので郡立の高等小学校とも称せられた。
明治二十二年四月二十五日、河原部高等小学校菅原分校が菅原小学校内に開設された。
明治二十五、六年に秋田、武川、安都那、白洲、多麻、穂足、小淵沢などの高等小学が設立された。
白洲高等小学校は明治二十五年八月、鳳来村、菅原村組合にて設立され、白須区にて民家を借用して校舎に充てたが、
明治二十八年六月蓮照寺に移転、
明治三十四年菅原小学校の一部を教室に充てた。創立時の生徒七十六名、経費百七拾七円であった。
明治三十五年には生徒百三十一名、経費四盲九拾六円六拾銭に増加したが、
明治四十一年七月組合解散して廃校となった。
この問駒城村では横手は白洲、大坊は武川の高等小学校へ委託入学し、明治二十九年五月高等科を併置し、駒城尋常高等小学校と改め、三十年四月開校した。
《就学率》
学齢児童数に対する入学児童数(就学率)はこの年、鳳来が最も多く五六%、次いで駒城が四六%、菅原が三七、五%で片颪が最も低く二八、五%であった。

〔明治六年学校開業日表〕〔「北巨摩郡勢一班」〕
山梨県北巨摩郡教育会編集(昭和五年三月)「北巨摩郡勢一班」には次のように記されている。
《菅原学校》
明治六年七月二十四目、第六十四番公立小学白須学校を創設した。
明治八年菅原村成立によって菅原学校と改め、
明治二十年新令実施により菅原尋常小学校と改称した。
明治二十五年菅原村、鳳来村組合にて白洲高等小学校を白須に設置した。
明治四十一年白洲高等小学校廃校により、菅原尋常小学校に高等科を併置し、菅原尋常高等小学校と改称した。
《駒城学校》
明治六年九月、横手村、大坊村の区域にて第六十五番公立小学横手学校を横手に創立した。
明治八年十一月、柳沢村を加え駒城村成立するに及び駒城学校と改め、
明治十一年十月二十二日校舎が新築落成しこれに移った。
明治二十年新令実施により駒城尋常小学校と改称、
明治二十九年五月高等科を併置し、駒城尋常高等小学校と改め、
大正元年十月二十二日校舎の増築工事が竣工した。
《鳳来学校》
明治六年七月二十四日、上教来石村、下教来石村、鳥原村を区域として、第六十六番公立小学教来石学校を設立し、下教来石来福寺を校舎とした。
明治八年新村成立せしにより鳳来学校と改称し、
明治十三年十月新校舎成るに及び之れに移った。
《大武川村》
明治六年八月十一日、第六十七番公立小学大武川学校を設け、村内福泉寺を校舎に充てた。以来引きつづき一ヶ村二校であったが、
明治二十年新令実施に当り、本校を鳳来尋常小学校と改称し、大武川学校はその分教場となる。
明治四十一年校舎の改築を計画し、
明治四十三年竣工、
明治四十五年高等科を設置して鳳来尋常高等小学校と改称した。
大武川分校も亦明治四十三年改築工事が竣工した。
《片颪学校》
明治七年四月十六日、片颪村を区域として第百二番公立小学片嵐学校を設立し、清泰寺の本堂を校舎に仮用した。
明治十年二月清泰寺の衆寮に移転し、
明治十一年十月二十二日新築校舎が落成して之に移った。
明治二十年新令実施により清春尋常小学校片颪分校と称し、
明治二十五年更に新令の実施により片颪尋常小学とて独立した。当村児童三十七人を単級に編成した。
学校開設当時は至急なことであり、新校舎建設にまでいたらなかったから県下どこの村々でも仮校舎として寺や私塾を利用した。
白州町地域でも教来石学校は来福寺、白須学校は自元寺、横手学校は横手私塾、大武川学校は福泉寺、片颪学校は清泰寺を仮用した。
横手学校(駒域学校)の創立について県史と北巨摩郡勢一班などの月日が異なるのは明治六年二月に横手塾を仮用して開校、九月に安福寺に移り、十月に県の係官が来て正式に開校したので、そのどちらかを採っているからである。

〔学制以後の教育 教育制度の変遷と学校の設立〕白州町教育の歴史(「白州町誌」昭和61年より)

明治政府は、近代国家を建設する基礎として、教育を学制頒布と学校の創立重んじ明治二年二月五日、「府県施政順序」の中に「小学校ヲ設クル事」を設け、小学校の設置を政府の方針として打ち出した。
明治四年七月、文部省を創設して初代文部大輔に江藤新平が就任、十一月には文部大丞田中不二麻呂を欧米教育制度視察のため岩倉大使に随行させた。
明治四年十二月、文部省に「学制取調掛」を置いて新学制の起草にあたらせた。
明治五年八月二日、太政官から「学制頒布に付被仰出書」が布告された。これは「学制」発布に先だち学制の主旨を明らかにしたもので、その理想を「必ズ邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメソ事ヲ期ス」と述べている。
明治五年そして八月三日、「学制」が公布された。
それによると、全国を八大学区に分けて大学一校を置き、一大学区を三十二中学区とし、各区に中学校一校を置き、一中学区を二一〇の小学区に分け、各区に小学校一佼を置くことにした。
明治六年二月、人口十三万人をもって一中学区とし、人口約六〇〇人をもって小学区を止設けるよう指示した。学制が特に主眼をおいたのは小学校で、第二十一.章に「小学校ハ教育ノ初級ニシテ、人民一般必ズ学バズソバアルベカヲザルモノトス」と国民皆学の基本精神を述べている。
明治六年五年九月に「小学校則」を公布した。それによると、小学校の、就学年齢は六歳とし、六歳より十三歳まで八カ年間を修業年限と定め、小学校の課程を上下二等に分かち、下等小学は六歳から九歳まで八級四ヵ年間、上等小学は十歳から十三歳まで八級四カ年間とした。
教育行政担当者として、中学区に「学区取締」(一〇〜二二名)をおき、就学、学校設立、学校保護、経費など学務一切を担当させた。
各学区取締は小学区二〇ないし三〇を担当した。その学区取締は、地域居住の名望家から選んで地方長官が任命した。
山梨県は第一大学区に属し、三つの中学区から成っていた。
第四十三番中学区が甲府、東山梨、中巨摩、北巨摩で、
第四十四番中学区が東八代、西八代、南巨摩、
第四十五番中学区が南北都留郡であった。
北巨摩郡は第四十三番中学区のうち第六小学区から第二十二小学区まで(第七小学区を除く)で、学区取締受持区域は、
巨摩郡第四小学区から第二十二小学区までが八巻九万、
巨摩郡第一、二、三小学区と第二十三小学区から第三十五小学区までが近藤喜則であった。
なお明治六年には学区取締を廃して区長、副区長をもってこれを兼ねしめた。

〔学制以後の教育 教育制度の変遷と学校の設立〕白州町教育の歴史(「白州町誌」昭和61年より)
〔新設学校〕
明治五年新設の学校としては、甲府三校(振徳館、善誘館、本立館)のほか、市川校、石和校、谷村校、武川校、切石校、逸見校で従来の郷学が主であった。武川校は台ケ原郷学校で、逸見校は甲村の郷学校博文館である。
明治六年一月、大阪府参事から山梨県権令として来任した藤村紫朗の啓蒙政策は殖産興業とともに教育振興にあった。同年三月三十日、小学校設立について各区の区戸長あてに通達し、当面一区に一校を目標として設立に努力するよう指令している。

明治六年三月三十目
山梨県権令藤村紫朗
小学校設立二際シ各区々戸長二達ス
小学校設立ノ儀ハ兼テ相達置候次第モ有之候処却今草創ノ際一時ニ数校ヲ設クルハ難キ事ニテ又是ヲ設立スル共其ノカ能ハザレバ自然体裁モ不整、学校ハ惟其ノ名ノミニ属シ候様ノ儀ニテハ幼童ノ進歩ニ関リ侯事ニ付、即今先ツ一区一校ヲ目的トシ、其ノ中区内ノ広狭遠近ニヨリ幼童通学ノ便否ヲ計リ或ハニ三四校ヲ設立スルモ可有之、右校数設立場所等ハ昨今取締中ニテ不目確定ノ上可相
達候条仮令一区二三四校設クルモ都テ壱区内ノ全カヲ以テ取建可申主意ニ付、壱区限リ夫々合議却チ壱区中ノ儀ハ区長盟主ト相心得、正副戸長ハ区長ヲ輔ケ設立方法無怠遂心配不日ノ指令ヲ可相待、此段為心得相達候事

これと同時に学校設立区分案が示されたが本地域については次のようであった。
巨摩郡校設所所属村名
第拾八区 松向村、下笹尾村、上笹尾村、片颪村、中丸村
同小淵沢村
第拾九区 台ヶ原村、白須村、横手村
同 下教来石村、上教来石村、鳥原村 
同大武川村
第弐拾区 宮脇村、牧原村、新奥村
同三吹村、山高村、黒沢村
同柳沢村、大坊新田

〔学制以後の教育 教育制度の変遷と学校の設立〕白州町教育の歴史(「白州町誌」昭和61年より)

明治政府は、近代国家を建設する基礎として、教育を学制頒布と学校の創立重んじ明治二年二月五日、「府県施政順序」の中に「小学校ヲ設クル事」を設け、小学校の設置を政府の方針として打ち出した。
明治四年七月、文部省を創設して初代文部大輔に江藤新平が就任、十一月には文部大丞田中不二麻呂を欧米教育制度視察のため岩倉大使に随行させた。
明治四年十二月、文部省に「学制取調掛」を置いて新学制の起草にあたらせた。
明治五年八月二日、太政官から「学制頒布に付被仰出書」が布告された。これは「学制」発布に先だち学制の主旨を明らかにしたもので、その理想を「必ズ邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメソ事ヲ期ス」と述べている。
明治五年そして八月三日、「学制」が公布された。
それによると、全国を八大学区に分けて大学一校を置き、一大学区を三十二中学区とし、各区に中学校一校を置き、一中学区を二一〇の小学区に分け、各区に小学校一佼を置くことにした。
明治六年二月、人口十三万人をもって一中学区とし、人口約六〇〇人をもって小学区を止設けるよう指示した。学制が特に主眼をおいたのは小学校で、第二十一.章に「小学校ハ教育ノ初級ニシテ、人民一般必ズ学バズソバアルベカヲザルモノトス」と国民皆学の基本精神を述べている。
明治六年五年九月に「小学校則」を公布した。それによると、小学校の、就学年齢は六歳とし、六歳より十三歳まで八カ年間を修業年限と定め、小学校の課程を上下二等に分かち、下等小学は六歳から九歳まで八級四ヵ年間、上等小学は十歳から十三歳まで八級四カ年間とした。
教育行政担当者として、中学区に「学区取締」(一〇〜二二名)をおき、就学、学校設立、学校保護、経費など学務一切を担当させた。
各学区取締は小学区二〇ないし三〇を担当した。その学区取締は、地域居住の名望家から選んで地方長官が任命した。
山梨県は第一大学区に属し、三つの中学区から成っていた。
第四十三番中学区が甲府、東山梨、中巨摩、北巨摩で、
第四十四番中学区が東八代、西八代、南巨摩、
第四十五番中学区が南北都留郡であった。
北巨摩郡は第四十三番中学区のうち第六小学区から第二十二小学区まで(第七小学区を除く)で、学区取締受持区域は、
巨摩郡第四小学区から第二十二小学区までが八巻九万、
巨摩郡第一、二、三小学区と第二十三小学区から第三十五小学区までが近藤喜則であった。
なお明治六年には学区取締を廃して区長、副区長をもってこれを兼ねしめた。


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