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素堂跋文
『旅路の画巻』
素堂の跋によると、琴風の家にあった立圃と其角の画を見た芭蕉が自ら旅路の風景を描き、大垣の中川濁子加彩させたという)
風流とやせん、名印あらざれば、炎天の梅花雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。されば彼翁の友にいきのこりて、証人たらんものは我ならずしてまたたそや。
しもつさの国かつしかの散人素堂 花押
参考
『国文学』「俳諧紀行文の誕生」、もう一つの表現。米谷巌氏著。 昭和54年10月号
「かへれば先ず吟行のふくろをたたく、たゝけば一つのたまものを得たり」と素堂が語っているように、野ざらしの旅土産は、貞享二年四月の帰庵後直ちにつづられて、待ち受ける素堂・其角ら周囲の門友に披露されたものと推測される。(中略)なお、泊船本の原点に付されていたという素堂の跋文は、狐屋本および濁子本に書写されている素堂跋文(短文型)とおそらく同種のものであろう。(略)ちなみに素堂の跋文には、他に長文の類似のものがあり、素堂の自筆が芭蕉真蹟画巻の巻初に、序文の形で貼付けされている。その長文型の序文の作者及び執筆年次についても議論がある。(略)素堂の自筆と認められる序文(岡田利兵衛『図説芭蕉』34頁)が出現した現在、偽作説はもはや問題にならない。
(略)素堂は、やはり落款のない芭蕉の遺稿『旅路の画巻』(三巻一軸)にも跋文を寄せて、
「名印あらざれば、炎天の梅花・雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。
されば彼翁の友にいきのこりて、証人たらんものは我ならずしてまたたそや
と述べている。芭蕉没後の素堂にこのような気持ちがあったことを参酌すれば、ましてかって跋文を贈った因縁のある野ざらし紀行の、無署名の自筆画巻のために快く懐かしく筆を執ったであろうと想像される。(以下略)
『野ざらし紀行翠園抄』 (序跋付録を省き本文のみ翻刻) 積翠編。 (『国語国文学研究史大成』12)
此紀行は貞享元年にして、桃青四十一歳なり。今世に行はるゝ甲子吟行と題せるもの也。云々
猿を聞人捨子秋の風いかに
素堂評 … 富士川の捨子は憶測の心ぞみえける。かゝる早瀬を枕として捨置けん、さすがに流にはとおもはざるまじ。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらん
かたなくかなしけれども、と昔の人の捨心まで思よせて哀れならずや。
馬上吟
道のべの木槿は馬にくはれけり
素堂評 … 山路来ての菫、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべけれ。
みそか月なし千とせの杉を抱あらし
素堂評 … ゆきゆきて山田が原の神杉をいだき、又うへもなきおもひをのべ、何事のおはしますとは知らぬ身すがらもなみだ下りぬ。
芋あらふ女西行ならば歌よまん
素堂評 … 西行谷のほとりにて芋洗ふ女にことよせけるに、江口の君ならねば答もあらぬぞ口おしき。其日のかへさある茶店に立寄りけるに、てふといひける女、あが名に発句せよといふて白き を出しけるに書付侍る。
わた弓や琵琶になぐさむ竹の奥
素堂評 … わた弓に琵琶なぐさみ、竹四五本の嵐哉と隠家によせける。此両句をとりわけ世人もてはやしけると也。
しかれども山路来ての菫、道ばたのむくげこそ此吟行の秀逸なるべけれ。
砧打て秋にきかせよ坊が妻
素堂評 … 麓の坊にやどりて坊が妻に砧このみけん。昔潯陽の江のほとりにて楽天を泣しむるはあき人の妻のしらべならずや。坊がつまの砧はいかに打て翁をなぐさめしにや。
明ぼのや白魚しろき事一寸
素堂評 … 桑名の海辺にて魚の白き吟は、水を切て梨花となすいさぎよさに似たり。天然二寸の魚といひけんも此魚にやあらん。
年くれぬ笠着て草鞋はきながら
素堂評 … 笠着てぞうりはきながらの歳暮のごとき、是なん浮世の旅なる事を知らざるを諷したるにや。
物白しきのふや鴨を盗れし
素堂評 … 洛陽に至り三井秋風子の梅林を尋ね、きのふや鴨を盗れしと西湖に住人の鴨を子とし、梅を妻とせし事をおもひよせしこそ菫むくげの句の下にたゝ事かたかるべし。
山路来て何やらゆかし菫草
素堂評 … 山路来てのすみれ、道ばたのむくげこそ、この吟行の秀逸なるべけれ。
素堂の詩 『俳諧二百年史』
素堂を以て一廉の詩文に精通せるものゝ如く云へるのは、甚だ以て解すべからざる所なりとす、素堂の詩文の如きは随分と迷惑なものにして、精通とか巧妙とかうふべき程のものにあらざるを、芭蕉が之を以て精通云々せるは、悪く之は解釈する時は彼は素堂に限らず敢て何人に對しても阿諛せりと認むる能はざるを以て、然らば盲従せしものか如何。
『俳諧史上の人々』 高木蒼梧著
先般夏目成美手澤の「素堂家集」二冊及び坎窩久臧の「素堂家集」二冊より、素堂の漢詩五十数篇を得て一閲するにその漢詩文は實に堂々たるもの、老手にあらざれば道破し得ざる底のものが多いのに一驚した。なまかに浅学の筆者が論評するよりもと考へ、これを漢詩壇の泰斗國府犀東先生に寄せて批評を需めたるに、その一説に曰く、
箇様に褒め立てゝ見ると、宗人の唾餘を拾はず、唐賢の下風を拜せず、 夐かに漢魏六朝の上にまた躋ぼって、先泰周季に力を得て居る。薀蓄の啻ならぬ詩壇の一巨擘であるかのやうに見える。さうして殊に古文辭学派の起こり來らんずる先驅をなし、宗儒道学者流の口吻を一擲し去った。一新機軸の新作家であるやうに認めらるゝ。古文辭学派の詩人を、そのまだ起り來らざる前に當つて、アッと云はせるだけの力があったばかりでなく、同時に又宗代の新流行であった詞餘の調子をも取り入れることを知ってゐた所のハイカラであった。云々。
俳誌「石楠」昭和三年四月號に「素堂の詩境凡ならず、國府犀東」「素堂の詩文、高木蒼梧」に二文がある。
これは従来褒貶一ならざりし素堂の漢詩文に就て、正しき帰結と見る事ができやう。詞藻は別として、学問の造旨は芭蕉より深く、當時の俳諧者流に於て、第一の碩学たりしは疑ふべくもない。云々
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