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素堂、追善集「通天橋」素堂の庶子山口黒露編
没後も生き続けた素堂家系と俳諧 誤伝、山口素堂その後(新提示・未稿)
3、『通天橋』
…『通天橋』…山口雁山(黒露)編。素堂一周忌追善集。享保2年(1717)刊。
……序文、内藤露沽(風流大名内藤風虎の息子で職を継がずに俳諧を継承した)
かつしかの素堂翁は、やまと(日本)もろこし(唐土)うたを常にし、こと更俳の狂句の達人なり。おしひかな、享保初のとし八月中の五日(十五)、終に古人の跡を追いぬ、予もまた志を通ること年久し。しかあれど猶子雁山、をのをの追悼の言葉を桜にお集んとて予に一序を乞ふ。おもふに彼翁、周茂叔が流に習ふて、一生池に葵蓉を友とせしは、此きはの便りにもやと、筆を染るものならし。(この「ならし」を素堂は良く用いた)
遊園軒 月清く蓮の実飛で西の空 露沾
追悼…狙公をうしなふて朝三暮四のやしなひだにあたはず。
猿引にはなれてさるの夜寒かな 雁山
悼…素堂翁は近きあたりに軒を隔て、月雪花鳥のころは、互に心を動し、句をつづりけるに、時こそあれ、仲秋中の五日に世を去て筆の跡を残す。
枕ひとつ今宵の月に友もなし 衰杖(杉鼠)
愛蓮のあるじ尋よくはゐ掘 専吟
其むかしの句を
目には青葉うつり行世の野分哉 青雲(甲斐の人)
山口素堂手さりし八月良夜、また月に思ふ。
泉鑑が下の客いかに覆の月、
といひしは一二十年朞年にとなふ。
下の客に折まて世界柴の露 沾徳
深川の旧庵をおもへば、あるじなし。文の巧みは人口にありて、おもひだすに
蓑むし蓑むし錠に錆うき水の月 祇空
来れるは何ごとぞや。なつかしの素堂、しかじかの夜復命すとや。我此人をしらず。それを唯しらず。まことに蓮を愛して周手に次ぎ、名を埋て炉下に帰ス。されば其世を同じうして其道を同じうせざることをうらむ。愁て今さらに其ことをしらんとすれば、炭消えて灰となり、灰空しうして一炉寒く残るものとては唐茶に酔し心のみなりけらし。猶その趣を携て一句を積とは、我をしてなかしむるか。汝におなじきものは何ぞや。葉は眠るに似てうつぶき、花は語るに似て笑。誰か是に向かひて昨日をしたひ、けふを諦ざらめやは。
花散葉折て非風謡ひ芦花舞て池氷秋なり。かれはその秋の冥々たるに入、我は偶然と口明き偶然と手を打て後あゝこゝに星す。同じくはうけよ。
秋にして舞ふて入けり風の笠 謝道
素堂翁は、担にありて世をはなれ、奮貴は水中の泡と貧泉を苦しまず。前の大河、後ろの小流を當に吟行し、武江の東葛飾に住居し、一窓に安閑をたのしみ、花の日は立出てとかなで、雪の朝は炉中に炭などものして、沁(?)音にしたしき友を待、さて月のゆふべは即輿の章おもしろく、拙からも筆をしめて、まことに其名都辺までも著し。折こそあれ、享保のはじめのとし名月の其夜果られしこと、哀も殊勝になつかしくおもひ侍りて
名月に乾<日ごろの硯かな 麦々堂 昌責
はづかしの蓮にみられて居る心 素堂
此句世の人口にとどまり候。此度の一集へ御加入可被成候。
雁山サマ 桃隣
三澤印月硯 釈心越禅師及有一見。竹洞記(幕府儒者)
端石円而大不満尺。
石而如高山聳時有其申自然淵。
濃意味不似異石。
所謂為硯海有三孔偶通墨矣。
謂輿西海一景三澤印月硯。
尚二子於記中詳焉。
雲起す硯の簿の秋の風 雁山(黒露)
一とせ野竹洞老人より素琴を送られける趣を
月見前聞たことありいとなき世
少し引用が長くなったが、『通天橋』には、素堂を想い慕う人々の追悼句が数多く収録されている。素堂の在世中のことが多少理解していただけると思う。この他にも素堂の『とくと<の句合』の跋を章した高野百里や旧来の友京都の池西言水も句を寄せている。謝道は館林の人で江戸の茶瓢とともに素堂の産像を作っている。
前書きでも触れているが、この『通天橋』の連衆は素堂の生前に素堂亭に集まった、芭蕉門の杉風や其角・嵐雪・桃隣らの関係者や沾徳を始め未得・調和・不卜・才麿らの関係者や、露沾・青雲・言水など江戸から上方まで参加している。
《一周忌追善を主催した雁山(後の黒露)》
この一周忌追善を主催した雁山(後の黒露)は露沾が云うように、素堂の猶子になっていたと考えられるが、雁山と素堂の家系上の関係については複雑な為に後に譲り、素堂の周辺に現れたのは元禄末から室永年間で、雁山本人が『摩詞十五夜』(まかはんや)の中で
……本人が船に乗って浅草に芝居見物に行く……下りがあるからである。
また『通天橋』の雁山の文中に
…それの春(享保元年)野夫(履山)京節に侍りしに、この便りに此句にて心得よとて、いひ送られしか、猶その際迄も、都の花を慕ふ心、いと浅からずや。案に今おもひ合すれば、とく其期を知れるにや。かの文の奥に、
初夢や通天のうきはし地主の花素堂
とあり、素堂の辞世の句が示されている。
また京都に居た雁山に素堂の急逝を知らせた僕伝九郎の存在や、晩年素堂の周辺居た子光のことは、資料不足で明確にはできないが、旧友の追悼文を見ると杉風(衰杖)は、同じ深川でも新開地のう海辺橋近くに、早くより別荘の採茶庵を開き、退隠後はそこに住んでいた。
後世の書には杉風の姉が甲斐に住んでいて、天和三年の春に芭蕉が甲斐谷村に来た折りに、この姉を頼ってきたとの記載もあるが、根拠資料が不足しており、確定していない。別荘は「近き辺りに軒を隔て」で素堂の近所に居て往来していた。
雁山は幼い頃は甲府から京都に出て入山していたようで、素堂も京都には頻繁の出かけていて、素堂への移住への思慕を表わした句
文もあり、晩年は京都で越年することも度々あった。『通天橋』は京都臨済宗東福寺にある橋の名称であり、嘉禎2年(1236)に藤原道長が創建し、禅宗の一派の寺院で唐の普化禅師を祖とし、建長6年(1254)に東福寺の法燈国師覚心が普化宗を宗より伝えたという。東福寺大本山として江戸時代には幕府から普化宗の総支配寺とされた。この東福寺に元禄年間に通天橋が建立された。
今日では紅葉の名所として有名になったが、通天橋の本来の意味は、現世を虚無とする道程を示すもので、解脱することにより完遂すると説き、これにより天への架け橋を渡れるとしたものである。
素堂も上京の折には立ち寄りあるいは請われて宿坊とし使用していたと思われる。なお素堂は日蓮宗を深く理解し、母没年の元禄八年の夏には深草の元政の故事に憧れ甲斐身延山久遠寺に詣でている。
素堂は谷中の感応寺(現在の天王寺)に葬られたが、その後雁山により他の寺へ移葬されている。
素堂と京都の関係を示す資料は多くあり、本文に収録してあるので本文を参照のこと。その他『通天橋』には多くの追悼句文が掲載されているが、拙著『山口素堂の全貌』の本文に掲載してあるので一読されたい。
また文中に「……けらし」「:…・ならし」らの語句が見えるがこれは素堂がよく用いたものである。
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