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〔餅つき〕(「白州の民俗」昭和52年 東洋大学民俗研究会編)
十二月二八日・三〇日
菅原・鳳来地区のほとんどの家では、この日に餅をつく。二九日をクンチモチ・三一日をイチヤモチと言ってつかない。オスワリ(供え餅〕は二段重ねであリ、一番大きなオスワリは床の間・歳神棚に供える。小さなオスワリは便所・蔵・台所・イェジソ・仏壇に供える。
《台ケ原》
台ケ原では、以前は一二月二〇日頃から三回ほど餅搗(つ)きをした。主人が早朝三時頃から搗き始め、タ方までかかって四斗ほど搗く。オスワリは水神・蔵・便所・火の神・イェジソ・厩などに供える。また、荒神さんには三段重ねのオスワリを供える。
《白須下》
白須下では、三〇年くらい前までは一人が一ウス搗き、六〜八升ほど搗いたが、現在はその半分ほどである。一番大きな一升餅は床の間へ、小さなオスワリは神棚・井戸・便所,などに供える。
《白須上》
白須上で・も、床の問に一升のオスワリを供える。
《前沢》
前沢では、主人が一俵ほど搗く。オスワリ用にはニマス搗き、蔵・物置・蚕室・便所・風呂場・墓地などに供える。
《竹宇》
竹宇では、オスワリ用はニウス(臼)目からとリ、歳神さん・火の神さん・恵比須さん・便所
神などに供える。
《松原》
松原では、一五年くらい前まで早朝二・三時頃から夜までかかって八〜一〇ウスほど搗いた。餅は、冬の問アラレやその他のものにし、間食として食べる。オスワリ用は最初のウスからとリ、直径三〇センチほどの一番大きなオスワリは歳神棚に供える。他の小さなオスワリはカワバタ・井戸・産土神などに供える。年取りの晩には、氏神さんにも一膳持って行く。一〇年くらい前までは、三宝荒神さんに三段重ねの餅を供えた。餅を揚いた後のウスは、湯をかけ、洗ってフタをしておく。また、以前は本家に分家の者が集まって餅搗きをした。
《荒田》
荒田では、手伝いはなく、家の者だけで一.五〜一六ウスほど搗く。また四ウスはいけないときれた。オスワリ用には三升ほど搗き、大きなオスワリは歳神棚・癌瘡神・床の問に一膳ずっ、小さなオスワリは三宝荒神さん・川の神・恵比須さん・仏壇・ドベ・米俵などに一膳ずつ供える。また、笹を敷いたネコワシ(猫足)の膳に一番大きなオスワリをのせ、その上にイタコブ・ダイダイをのせる。そのまわリにゆでたクリを数珠つなぎにして飾り一床の間に供える家もある。
イタコブは喜ぶ、ダイダイは代々めでたく過ごせるように、クリは金の繰りまわしの良いように
と言う意味がある。
また、餅搗きをした後のウスはフタをしておく。ウスは家内を表わし、ふせると良くないとされた。
《鳥原》
鳥原では、夫婦で夜中の二時頃から夜の七時頃までに一俵ほど搗く。ニキロほどある一番大きなオスワリは、神棚に供える。また、子分は三〇日までに親分宅にオスワリと荒巻サケを一匹持って行き、親分側ではその金額の半分を返した。四〇年くらい前まで行っていた。
《下教来石・上教来石》
下教来石・上教来石では、だいたい一人一ウスは搗く。また、下教来石では、オスワリ用は最後のウスから、上教来石では、それを最初のウスからとる。大武川では、以前は七〜八ウス搗いたが、現在は四ウスほど搗く。オスワリには二、三ウスほど使い、一番大きなオスワリは床の間に、その他神棚に二膳、仏壇・家畜の小屋などに供える。
〔トシオソナエ・年お供え〕
一二月二八日・三〇日
《白須上・竹宇・荒田・下教来石》
餅搗きのとき、白須上・竹宇・荒田・下教来石では、家族の人数分のオスワリを作り、神棚に供える。下教来石では、このオスワリをその年の干支の人だけが食べて良いとされた。
《白須下・白須上・前沢・竹宇・松原》
また、白須下・白須上・前沢・竹宇・松原では、一二のオスワリ(閏年には一三)を作り歳神棚に供える。
《竹宇》
竹宇では、このオスワリをジュウニゼンサンと呼ぶ。
《松原》
松原では、トシゾナエ・ジュウニゼンサンと呼び、歳神棚の大きなオスワリの横に並べて供える。
《荒田》
荒田では、ツキノオソナエと呼び一二ケ月滞リなく過ごせるようにと、一二のオスワリと家族の人数分のオスワリを笹を敷いたヒロブタ(赤い漆の塗リ物)の盆にのせ、ツルシガキ(吊るし柿)を添える。カキは良き事をかきとるという意味で飾る。
《大武川》
大武川では、低い膳に重ねてないオスワリをのせ、その周囲に一二の小さなオスワリを飾る。これは、オタイヨウサマノカズであると言う。
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