白州の人物史

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自須蔵入(白須村)《現北杜市白州町白須》(「甲斐国志」
一蓮寺(甲府市)過去帳に、法名「老阿」長禄元年(1457)12月28日小河原合戦の討死の内に見えたり。余は名を全く記せざれば挙げず。
『太平記』観応三年(1362)の条に、甲斐諸将ノ中に「白州上野守」あり。
《筆註》
足利尊氏の方の援軍として
千葉氏胤、小山氏政、小田治久、宇都宮氏綱、常陸の大丞、佐竹義篤、佐竹刑部大輔、白河権少輔、結城判官、長沼判官、川越弾正少弼、高坂刑部大輔、(中略)武田信武、その子息・武田直信、武田薩摩守、武田弾正少弼、一条三郎、板垣三郎左衛門、逸見美濃守、「白洲上野守」、云々
『甲陽軍艦』長篠ノ役(天正3年・1575)に武田信豊も馬乗はただ三騎馬、慕う敵を追い払い、追い払い退きたまうと。
『甲陽軍艦伝解』に白須又市、青木主計、横手源七三騎あり。始めの返しに青木主計は討ち死にするとあり。
白須平次は即ち白須又市の子息で、竹王信勝(武田勝頼の子息)の小姓なり。
『武家盛衰記』に壬午ノ後(天正10年・1582 武田家滅亡時)慕府に召出されたけれどもて小姓衆とロ輪し、御旗本を立退き稲葉蔵人道通
 稲葉家(http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%A8%B2%E8%91%89%E8%94%B5%E4%BA%BA&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=-1&oq=

 に倚頼し、名を「白須又兵衛」とあらため、後に稲葉家の家老となり、関原ノ時(関が原の戦い)勢州岩手に於いて、九鬼方堤荘蔵と戦って功あり。
同藩種田喜左衛門のニ男金三郎を婿養子にして、《白州十郎兵衛》という。食禄五百石。慶安中(1648〜1651)稲葉紀通(稲葉紀通 - Wikipedia)の家が断絶して白州(白須)の子孫は豊州杵藩
臼杵藩 - Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E6%9D%B5%E8%97%A9
にありと云云。
後に《自須十兵衡》という者あり・中郡筋七沢氏ノ条(「甲斐国志」)に附記せり。又、本村四郎右衛門ト云者ノ家蔵に、寛永元年(1624)子8月21日、室賀長左衛門印書、寛永10年(1633)酉10月6日平岡七兵衝印書2通あり。皆当時の御代官なり。荒地起し、榑(くれ)木の事四郎右衛門に進退を令する趣きなり。
図版に「白州町白須上・白須下」あり。

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白州町花水 清泰寺(せいたいじ)曲淵勝左衛門(まがりぶちしょうざえもん)

 清泰寺を開いたのは、甲斐源氏の祖新羅三郎義光が大治元年に開いたと「社寺記」に記してある。
 さらに同記によると開山は、当時の山梨郡積翠寺村輿因寺三世雲鷹玄俊和尚文明六年四月先宗天台退転に付き禅曹洞宗に改めた。
 また、文禄年中当村に住居する武田家の家臣、曲淵勝左衛門、同縫殿左衛門、同助之丞三代ともに当寺に葬られ、その墓がある。曲淵の末裔は当時江戸牛込御門内に住居していた。
 徳川家に仕えた曲淵氏は道中奉行や江戸奉行を歴任している。初代の勝左衛門の逸話は多く、剛勇ぶりが偲ばれる。(別記)
現在の花水は、合併までは長坂町に所属し、合併により白州町となった集落で、由緒書では「甲斐国巨摩郡逸見筋片颪村霊長山清泰寺」
とある。
 この寺には「曲淵」地名に関する伝説がある。
 開山当事、この村落内に「座禅石」があり、釜無川に面した場所に曲淵と云淵に大蛇住み此里の人に害を与えていて、付近には人が住めなかった。こうした話しを聞いた雲鷹和尚は曲淵を尋ね淵に向かって「毒蛇降伏禅定」に座禅を行った。雲鷹和尚の読経は続きそれは夜半に及んだ。すると淵から大蛇が飛び出した。そのさまは凄まじく嵐の様相を呈して、大蛇は裂けた口からは炎を吹き上げて怒りを露わにした。雲鷹和尚は大蛇に向かって
「声色不干眼耳」・「天地本自同根」・「時節因縁現成」・「須転身鎮仏門」
 と、一偶を下し杖を以て一棒に打却すると大蛇は、たちまち大蛇は天に向かって消えていった。
 雲鷹和尚「不退禅定三昧」に座して同五日夜半に至った。すると淵の一帯が白昼のようになり、香花を捧げ持って二十才くらいの美目麗しい女性が二人来た。和尚は、「大慈大悲の教化に依って五すい三熟の苦を免れる願いは血脉(けちみゃく)を授け、われ形体を、解脱し給ふ」と。
 雲鷹和尚が二人の女性に諭すように、
 「あなた方は元の姿にて来るべし
 と話した。この女性たちは、先ごろの大蛇の化身であった。女性はたちまち大蛇が揃ってきて、心改めたお礼を述べた。
 「三皈戒」を唱へ「清脱泰脱」と両蛇へ血脉を授け礼として直に天上にのぼり、空中にて「天上遂仏果」と呼び蛇の握捧である雲板という法器を落し、梢雲中にてこの寺「金千倍朱千倍漆千倍三千倍」「朝日さす夕日輝くその樹の基へ吾誓い此寺の守護の神とならん」と、大蛇は去って行った。
 この雲鷹和尚は「座禅石」と「雲板蛇」は寺宝として代々大切にしていた。
 また、毒蛇降伏の時用いた。「青地金?(らん)」の袈裟打蛇の柱杖水晶の珠数は、今(江戸末期)に至っても寺代々の宝物なりとしている。(これが現存するかは定かではない)
 気になるには、「清脱泰脱」の言葉で、「(清)--脱--(泰)-脱」の()内を寺号としたともとれるし、清泰の由来を大蛇の話に託したともとれる。

 この曲淵氏の発祥については異説もある。それは中巨摩郡昭和町押越に関する話である。
 押越村は枝村の名で、「甲斐国志」には
 此辺ハ慶長年間、承応年間の頃までは釜無川の河涯にて、(略)域内に大なる淵ありて地名となす。曲淵荘左衛門は彼の淵に住む蛇の子なりと記す。妄談なりとてとるには足らず。

 (略) 一条ノ過去帳に「明応四年七月習妙欽禅尼曲淵母逆修とあり、曲淵圧左衛門は逸見筋片颪村に於テ慶長中(徳川)采地を賜り、彼所ニモ地名(曲淵)ありて本領なりという。
  本村本妙寺に古碑あり。享保中曲淵下野守本州勤番支配なりし時、ここに詣でて先祖の祀りをなすという。
  一書には、本妙寺は曲淵庄左衛門吉虎が建立したもので、母をここに葬るという。
  また清泰寺と曲淵氏について
 曹洞宗正覚寺末黒印五百四扮四坪・本尊薬師
・ 寺記云黒源太清光ノ子逸見四郎清泰開基、(略)地顕曲淵荘左衛門吉景(略)文禄三年十一月二十二日没ス、同縫左衛門吉清、元和五年九月朔日没ス、同助圭丞吉重、寛文十七年七月八日没ス、同助之丞、寛文八年十二月十四日没ス、各牌子アリ。云々

松平定信・曲淵景露  蜑の焼藻の記(森山孝盛) 

寛政三年五月、(定信が)御目付になりて、其年のことになりけり。曲淵景露朝臣(出羽守・初勝次郎、于レ時御目付)御作事奉行になりて、西丸吹上御門の升形の塀を修造するに、其比は定信朝臣の計ひにて、御城郭といへ共、故なき堀圍なんどは廃し捨られ、又は御模様替とて、昔より板塀なりしを、此度は損益を考へて、練塀に作りかへて、長き所も直に短くして、無レ害は改め作られて、専に費用を省かるゝことになりにしに彼吹上御門の升形の時(俗に高石垣とて、外桜田御門よりは高くそびへて見ゆる肝要な塀なり)練塀にすべき由沙汰あるにより、定信朝臣に逢てかゝる事承り候ひぬ。彼所は御郭外より見付第一の所と云、彼所は御城外より塀は元来矢狭間筒狭間を切候こと勿論に候得共、御治世の御在城左迄には不レ及ゆへか、御外郭の塀何処にも狭間の事に見当たり候はね共、既に筋違浅草両御門の升形には、于レ今隠し狭間を切て候なり。云々



一、武川衆文書   一話一言(大田南畝) 急度申入候仍此已然の御役様には壹萬石に鑓百本被仰付候へ共向後之義は壹萬石に鑓五拾本相残五拾本之代に鉄砲貳拾挺可持之旨 上意候右之外は最前被仰遣之通相違無御座候恐々謹言   三月廿三日    
安藤対馬守   重信判
酒井備前守   忠利判
酒井雅楽守   忠□判

武川衆中
武川衆御重恩之覚  
一、百拾石  柳沢兵部丞
一、八拾石  曲淵庄左衛門
一、八十六石  曽雌民部丞
一、九拾貳石  折井長治郎
一、五十石  有泉忠蔵
一、八拾石  青木與兵衛
一、百石  馬場右衛門丞
一、百拾八石八斗  伊藤三右衛門
一、五拾六石四斗貳升 曽根孫作
一、六拾石  折井九郎三郎
一、百拾石  曽雌新蔵
一、七拾五石  山高宮内少輔
一、貳拾石  山高清左衛門
一、貳百石  折井市左衛門
合千貳百五拾石貳斗貳升
 御重恩之地
一、仁百俵  馬場勘五郎
一、仁百俵  青木尾張
一、仁百俵  曲淵玄長
一、仁百俵  青木彌三左衛門
一、八十俵  馬場小太郎
一、八十俵  横田源八郎
一、八十俵  米倉左太夫
一、八十俵  米倉彦次郎
一、八十俵  米倉加左衛門
一、八十俵  米倉彦太夫
一、八十俵  曲淵庄左衛門
一、八十俵  曲淵助之丞
一、八十俵  折井九郎二郎
一、八十俵  青木彌三郎
一、八十俵  伊藤新五郎
一、八十俵  青木勘四郎
一、八十俵  曽雌民部助
一、八十俵  入戸野又兵衛
一、六十俵  柳沢兵部少輔
一、六十俵  米倉六郎右衛門
一、六十俵  山寺甚左衛門
一、四百俵  折井市左衛門
 合貳千九百六十俵
  右野分可有宛行候
寅正月廿七日  成澤吉右衛門
 大久保十郎兵衛  日下部兵右衛門 右米倉家貞享書上之写天正十八年寅としの事跡なるべし
御朱印
 
武川次衆事

曽雌藤助   
米倉加左衛門尉
入戸野又兵衛
秋山但馬守   
秋山内匠助
秋山織部佐
秋山宮内助   
功刀彌右衛門尉
戸島藤十郎
小澤善太夫   
小澤甚五兵衛
小澤縫右衛門
小尾與左衛門  
金丸善右衛門
金丸新三
伊藤新五   
海瀬覚兵衛
樋口佐太夫
若尾木工佐衛門 
山本内蔵助
石原善九郎
名取刑部右衛門 
志村惣兵衛
鹽屋佐右衛門
山主民部丞   
青木勘次郎
 右各武川衆所定置也仍如件 天正十一年十二月十一日 右米倉家貞書上

一、曲淵甲斐守   一話一言(大田南畝) 
 藤枝外記一件(略)
 右於評定所久松筑前守、曲淵甲斐守、伊藤伊予守立会筑前守申渡之。

一、曲淵甲斐守   兎園小説(瀧澤馬琴) 天明七年の飢饉
 (前略)このときの町奉行は曲淵甲州と、山村信州なりしが、信州は新役にて、甲州は故臈なり。この夏の五月の頃にやありけん。甲州、件のねがひ人等をよびのぼして、汝等が願ひにより、米商人等を穿鑿したけれど、彼等に米はなしといへり。
云々

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白州町上教来石(かみきょうらいし)大覚山教慶寺の国道側。

ここは白州町上教来石から一段と道路が引くなる場所にある。
狭い土地だが一段と広く区切られた敷地に数基の墓石がある。
細かいと記述は避けるが「古屋徳兵衛」も刻時字も見える。

白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)

白州町上教来石、古屋長吉の長男として嘉永二年四月十日に生まれ、幼名を徳太郎という。
東京松屋デパートの前身である呉服反物商鶴屋の創始者である。
氏は文久元年、十三歳で江戸に出て日本橋本石町一丁目にある豊島屋五兵衛という薪炭仲買人の家に身を寄せた。
時あたかも明治維新の大変革に遭遇し、主家が倒産したので郷里に帰る。その後家産所持品などを売却して金に代え、再び横浜に出て呉服の仲買商を始めた。
慶応四年二十歳の時江戸・横浜問を往復しながら横浜緑町に呉服商を開業した。
明治二年横浜の石川口に鶴屋呉服店を開業し徳兵衛と改名する。誠実と勤勉で商にあたったので店は大いに発展した。
明治二十三年、東京神田今川橋の松屋呉服店が経営不振になつているのを買収して立て直し、松屋と名のった。
明治三十六年代には横浜貿易銀行・横浜実業銀行などの取締役に耽任し、また東小呉服、反物協会頭取として繊物税問題で奔走するなど業界において大活躍した。
また氏は商道に徹し、華客であるとして客人を大切にしたり、店員を優遇し当時は年期奉公が普通であつたが給料を与えて、積み立てさせて株金として配当をつけてやるなど気を配り事業を拡大していったが、その陰には夫人満寿が和裁などを教えて店員教育に心がけたり、端切れ布の小売りや、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って客に提供するなど、今日のバーゲンセールに相当する特売日の創始者として努力したことも松屋デパートの繁米につながっている。
一方氏は郷土愛に燃えており、鳳来小学校の子弟のために多額の金銭や物品など数十回にわたって寄付している。鳳来小学校跡地(現熊本ジユースエ場敷地内)にはその業績をたたえて顕徳碑が立てられて永くその功績を伝えている。明治四十四年七月六十二歳で残した。
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白州人物史 古屋徳兵衛氏(東京松屋創始者 特売日の創始者)

白州町上教来石、古屋長吉の長男として嘉永二年四月十日に生まれ、幼名を徳太郎という。
東京松屋デパートの前身である呉服反物商鶴屋の創始者である。
氏は文久元年、十三歳で江戸に出て日本橋本石町一丁目にある豊島屋五兵衛という薪炭仲買人の家に身を寄せた。
時あたかも明治維新の大変革に遭遇し、主家が倒産したので郷里に帰る。その後家産所持品などを売却して金に代え、再び横浜に出て呉服の仲買商を始めた。
慶応四年二十歳の時江戸・横浜問を往復しながら横浜緑町に呉服商を開業した。
明治二年横浜の石川口に鶴屋呉服店を開業し徳兵衛と改名する。誠実と勤勉で商にあたったので店は大いに発展した。
明治二十三年、東京神田今川橋の松屋呉服店が経営不振になつているのを買収して立て直し、松屋と名のった。
明治三十六年代には横浜貿易銀行・横浜実業銀行などの取締役に耽任し、また東小呉服、反物協会頭取として繊物税問題で奔走するなど業界において大活躍した。
また氏は商道に徹し、華客であるとして客人を大切にしたり、店員を優遇し当時は年期奉公が普通であつたが給料を与えて、積み立てさせて株金として配当をつけてやるなど気を配り事業を拡大していったが、その陰には夫人満寿が和裁などを教えて店員教育に心がけたり、端切れ布の小売りや、それを利用した紐、袋もの、よだれ掛けを作って客に提供するなど、今日のバーゲンセールに相当する特売日の創始者として努力したことも松屋デパートの繁米につながっている。
一方氏は郷土愛に燃えており、鳳来小学校の子弟のために多額の金銭や物品など数十回にわたって寄付している。鳳来小学校跡地(現熊本ジユースエ場敷地内)にはその業績をたたえて顕徳碑が立てられて永くその功績を伝えている。明治四十四年七月六十二歳で残した。
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