|
図版
白州町人物史 河西九郎須(初の県会議員)
文政十二年(一、八二九)五月二十六日、鳳来村下教来石に生まれ、明治十六年十月一日没す。
河西家は維新前は代々、江戸深川木場町で「天満屋」という材木問屋を経営、江戸城の御用材などを扱っていたが、後、甲州教来石宿に移り、酒造業を営む。
明治六年巨摩郡第十九区長、九年十一区長となり、十年に最初の県会議員となる。たお、公共
事業に力を注ぎ、釜無川流域の治山治水事業をはじめ、「切り通し」という山道を開発して地元住民の交通の便を図り、地方の発展に貢献した。
また、明治十三年、明治天皇ご来県の際、当家はお小休み所にあてられた。
末孫、河西泰明氏住所東京都中央区晴美一丁目八-六-四〇三
白州歴史上の人物〔河西氏 下教来石〕角川日本姓氏歴史人物大辞典10山梨県
『続峡中家歴鑑』に、北巨摩郡鳳来村下教来石(白州町)の河西斐規がみえ、同家は新羅三郎義光の末喬河西蔵人義行を祖とし、治承四年の頼朝挙兵、義経追討に功をあげ、甲斐河西荘を領したといい、江戸期には宿駅本陣問屋・材木商を営んだとある。
《参考資料》ここにあげた河西素柳は上記の河西氏と同家と思われる。
河西素柳
生、文化十二年(1815)歿、嘉永 二年(1849)年34歳。
代表句 曙の動き初めや梅の花
嵐外恩師の五十七日に
夏来ても何をか露の忍ふ草
本名、河西九郎須。北巨摩郡鳳来村旧教来石(現白州町下教来石)といふ処に、姓を河西と名乗る武田浪士がいた。代々の主人悉く皆実名をば九郎須と称えたが、今より数代前の祖先九郎須氏、深川に居を移して材木商を営み、江戸の長者番付に載録された。その後商売も傾き、故郷に帰り余生を送った。下教来石村は臺眠と共に活躍した塚原甫秋を生んだ集落である。
『甲斐天保騒動』 天保七年(1836)八月。
(略)教来石に押し行、当初に河西六郎兵衛といふもの、江戸深川木場に出店ありて、材木問屋にて数年相続、甲州より往古仕入銀を遣わし置けるゆえに、今もって江戸より小遣ひ銀おくりくれば、それにて家内はなはだ富家に暮しぶげんの数に入りたる富家なり、江戸にても天満屋六郎兵衛といひ、当国にては教来石村の九郎九郎と謂る。なにゆえくろふぞと謂る。云々(『甲飄談』)
『峡中俳家列傳』
北巨摩郡鳳来村舊教来石と云ふ處に、姓を河西と名乗る武田浪士があった。代の主人悉く皆實名をば九郎須と称えたが、今より数代前の祖先九郎須氏、江戸の深川に居を移して材木商を営み、牙籌を把って巨万の富を致し、其の時代に於て長者番付に載録せられたったが、峡中の人で江戸の長者番付けに載せられたのは、抑も此人が矯矢である。されど有為転変の世の中、盛衰常無く、栄枯また測られず、晩境におよんでから、聊か商略を誤ったので、住み馴れし、江戸の住居も物憂くなり、遂に故郷に帰って静かに余生を送ったとの事であるが、此の人の嫡孫九郎須氏、財實余りありて家計豊かなりしがまゝに、幼少の頃より和漢の学を修め、また茶道・活花・謡曲等の風流の余技を学んで、何れも其の奥秘を究め、殊に俳諧に於ては、嵐外の洒落を慕って随遊し、四方の風土を交遊する事頗る盛なりしが、惜ひ哉、天此の人に歳を假さず、嘉永二年(1849)八月僅に三十四歳を一期として遠逝せられた。遺骸は信州諏訪郡蔦木駅の信福寺へ葬った。
暁の動き初めや梅の花
嵐外恩師の五十七日に
夏来ても何をか露の忍ふ草
居るほどの窪たみ持て冬の月
鶯のうとまるゝ日はなかりけり
葉の影をすみて日の照る清水哉
露の玉こほるゝまてに仕遂けり
等の諸吟が世間には傳はる處の咏である。
|