白州の民話

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〔白州町の民話と伝説〕駒ケ岳神杜 集落 横手

甲斐駒ケ岳神社は、今からおよそ千五百年の昔、雄略天皇の御代に、出雲大社からお移したといわれ、祭神は大已貴命ほか七柱の神々を、合祀しております。当杜は始め、駒形明神叉は駒形神杜といわれ、現在は駒ケ岳神社に、改められました。
駒ケ岳はけわしい岩山のため、神仙たちの集る霊山として有名でした。よって役行者などが、山にこもって仙術を修練されました。
駒ヶ岳を水源とする武川筋は、古くから良馬の産地として、広い牧場であったそうです。それ故、甲斐の御牧として、朝廷へ献馬をいたしました。また、駒ケ岳は薬草が豊富だったといい、神山としてまことに、ふさわしかったのです。
それからはるか降って、文化年間に、小尾権三郎という若者が、横手村名主の山田七兵衛宅に来て、わたしは、延命行者ですが、ぜひとも駒ケ岳の入山をお許し願えませんか」と、請うたが、なにぶんの若者故、応じませんでした。
しかしかれは、この目的を果すため、山田方に留まって、家事の手伝いをするかたわら、しばしば神通力を発揮して驚かせ、ついに入山を許されました。権三郎は食糧を携えて、山に入りましたが、数ケ月を経ても帰らなかったので、七兵衛は下男を探しにやったところ、衣服は裂け、ひげ茫々、眼光鋭く人間離れした、男に出会いました。これが入山して修験の道に励み、登山道を開いた延命行者であったのです。かれは二代開山駒開霊神・三代開山開運霊神の、跡継ぎをして、駒ヶ岳神杜の発展に尽した偉大な人であります。
そのため、長野・静岡両県や京浜方面に、講社・分社もふえ、夏期には白衣の信者が「六根清浄」の声にぎわしく、集中登山の盛況を、呈するようになりました。(元話 山田瑞穂)

〔白州町の民話と伝説〕曲渕氏宅 集落 花水

花水集落の西端に、曲渕勝左衛門という武士の屋敷跡と伝えられている所があります。
北から流れる小深沢を西に掘り廻し、屋敷が広がりを見せています。その小深沢が釜無川に合流する所で、釜無川が屈曲し、深渕をなして流れるので、曲渕の姓ができたといわれます。
屋敷跡は一町歩以上もありましょうが、今は同区数名の宅地になっています。昔の屋敷跡の形跡はありませんが、その西北隅に、屋敷神として若宮八幡が祭られ、そばにカヤの大木があり、それに藤がからみつき、少々昔を偲ぶことができます。
勝左衛門は、幼少の頃から武田の重臣、板垣信方の重臣として、仕えておりました。それから次第に出世して同心となり、後、山県三郎兵衛に仕え、手柄をたてました。
武田氏が減亡してからは、徳川氏に召され、甲府城勤番を勤め、二百二十七石の録を受けました。清泰寺の本堂西に曲渕氏の墓があり、五輪塔や石祠などが数多く、ありし日の暮しの様がうかがわれます。(清春村誌)
《註—本来歴史的には現在の昭和町に「曲淵」の地名も曲淵氏の由緒ある寺もあります。徳川時代に白州町片颪(花水)を領した曲淵氏は末裔であり、そのあたりからこうした伝承が産まれたとも考えられます》

〔白州町の民話と伝説〕中山のトリデ(砦) 白州町・武川町

中山のトリデ(砦)は、白州町と武川村との境にあって、武田氏のころトリデとし、またノロシ台として築かれたもので、今もトリデ跡が残っています。
武川村では、発掘調査をしています。伝えによれば、天正十年八月、北条氏直が北から甲州乗っ取りをしようと、大軍で攻め寄せました。一方徳川家康は、わが領地をあらされてはと、これに対抗しました。地元花水曲渕氏や武川衆らは、このトリデを中心に応援して、激戦の末打ち破り、家康を喜ばせました。「中山のトリデ」は、その時の根拠置であったようです。(町誌 内藤末仁)

〔白州町の民話と伝説〕 集落 鳥原 ノロシ(狼煙)台

今から四百年も前には、通信方法が発達していなかったので、戦争に明け暮れの時代は、一刻も早く味方れんらくに連絡をとらねばなりません。
そこで「ノロシ台」が考えられ、山の峰から峰で煙や爆竹を鳴らして合図する仕組みです。鳥原の石尊(せきそん)神社の頂上に「ノロシ台」がありました。真向いの笹尾の「ノロシ台」からは呼べば答える至近距離です。
これを受けて「中山のノロシ台」それから新府と伝わるわけです。「鳥原のノロシ台」も昔使用したのみで、その後は放置されたので、跡形さえはっきりしません。(町誌 内藤末仁)

〔白州町の民話と伝説〕城山 集落 花水

花水の七里岩が釜無に突き出している所を、城山といい、付近一帯も城山という字名になっています。眼の下には信州往還(国道20号線)を眺め、南は新府城跡付近、北は信州境あたりまで望み、眺望絶佳の地です。それに戦国の山城もよい場所と見込んで、むかし甲斐源氏逸見冠者義清が館
を構えた所だと、伝えられています。
清泰寺を菩提寺(開基)とし、大宮神杜を守護神として、ここに城を構え、武川筋一帯を支配したことは、まことに意義あることでした。しかし今は雑木茂り、その名残りを伝えるものはなくなりました。(元話 清春村誌)
 《註—一説には清泰寺の開基は義清の弟清泰との伝えがありますが、系図上には清泰は見えません。なお清泰寺は白州町きっての古刹で、石像物やカヤ・イイギリの大木古木もあります。また秋には寺の周囲一面に女郎花が咲き誇ります》


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