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諸書を読み直して見たら
県内外の古書店をはじめ図書館巡りを始める。仕事の合間の調査活動であり時間の遣り繰りに苦慮する。各地の知人からの調査協力もありは思わぬ進展を生む。素堂の足跡は芭蕉関係の書に多くの記載があり、その抽出を重ねる。しかし『国志』以前のものには素堂が教来石村字山口はおろか甲斐との繋がりさえ実証する文献一向に現れてこない。『国志』は素堂が没後百有余年を経て編纂されたもので「素道」として紹介されその筆調は他に見えない講談調で、この項は素堂の事蹟が主ではなく、元禄九年の甲府代官桜井孫兵衛の事跡を素道の項を借りて記載した内容で、その基は濁川の傍らにある「桜井社」と孫兵衛の親族である斎藤正辰建立の孫兵衛の「顕彰碑」である事も解かった。素堂の事蹟は顕彰碑には記載はなくそれを窺う記述も見えない。又現存する桜井社の建立も孫兵衛の死後で生祀では無いことは明白になった。(孫兵衛の没年は享保十六年、建立は十八年) 『国志』の記載はその後の素堂伝に大きな影響を及ぼしている。特に濁川改浚工事の責任者の件は確かな資料を持たずに有名になって独り歩きする。虚実でも複数の同様な記事は読む人に史実として伝わりしかもそれは定説となる大きな要因ともなる。定説化の主因は高名な人が書す事と繰り返し同説を掲げる事であり、これは歴史に良く見られる「歴史洗脳」とも云える。『国志』以外に素堂の動向を伝える文献は何処にあるのであろうか。 素堂周辺の資料からは元禄九年の動向は不詳でこれは素堂の生涯で度重なる不幸に原因していると思われ、それは元禄五年の妹の死去、元禄七年には朋友松尾芭蕉と妻の死去、元禄八年には長く連れ添った母と死別、更に元禄九年一月には親友人見竹洞が死去して生涯で最も辛い時期となっていた。こうした事実は『国志』には記載されてはいない。これまで「素堂は妻を娶らず」従って「素堂には子供がない」、そして素堂の母の没年は甲府尊躰寺の墓石の元禄三年刻字 老母山口氏市右衛門尉建立を根拠に元禄三年が定説になっているが、素堂には妻も子供もいて嫡孫まで確認でき、しかも素堂の母の没年は確かな資料で元禄八年夏の事である。 元禄八年には素堂は亡き母の生前の願いの甲斐身延詣でに江戸深川を出発する。道中記には俳諧や漢詩もあるがこれも山梨県ではどうした事が紹介される事が無い。素堂は尊敬する元政上人が母を伴い身延詣でをしたのを羨み身延詣でに出立したのである。道中の紀行『甲山記行』の「甲斐は妻の故郷」「甲斐府中外舅野田氏を主とする」の言は素堂の出自に及ぶ大切な部分である。野田氏は確証がないが当時の甲府代官野田勘兵衛が有力で勘兵衛の父同じく甲府代官野田七右衛門で代々甲府在住の家柄で、野田氏は素堂の妻の父であるがこれも諸本には見えない。素堂は寛文元年に江戸に出るとされるが、前年の万治三年には府中は大火災に見舞われ府中は殆ど消失する。山口家が如何に富豪であれ家督相続した長男素堂が母を連れこの時期に江戸に出ることなどは有り得ないしそうした記載資料は見えない。寛文年間の山口家市右衛門の母は今諏訪村に在住していたことが資料により判明している。素堂と山口屋市右衛門家は資料からは関係のない家系と思われ後世の作為と結びつけがこうした誤伝を生む結果となったのである。 当時の俳諧での地位と信頼度は芭蕉より素堂の方が高く、芭蕉も素堂を先生と称した事は有名である。現在俳諧中興の祖とされる芭蕉の俳論の中には既に素堂が予兆を表わしていて、これは資料で確認が出来るのに何故か無視され論外になっている。素堂は文学の世界では芭蕉の陰に追われ業績を認めてもらえない犠牲者でもある。 |
山口素堂の部屋
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二、山梨県の調査から
さて調査の手はじめに『白州町誌』・『甲斐国誌』・『北巨摩郡誌』等を読む。町内の石碑や痕跡を改めて調査するが新しいものばかりで残存する資料も少なく途方に暮れる。県内の刊行書の内容は大同小異で時代経過とともに素堂家は甲府府中魚町の酒造業を営む家であり、教来石の家は郷士であったとの説が追加されている文学研究書に出会う。また素堂の墓が在ると云う甲府尊躰寺に行き調査を始める。門外漢の私には理解出来ない点が多く何度となく訪れる。素堂の母の墓石や素堂を模した地蔵が新しい時代のものと感じられたし、親族以外に墓を訪れた跡が無い事も一抹の淋しさを感じた。私は甲斐が生んだ全国に誇れる文人素堂の墓前には線香の煙が絶えないものと信じていたのに現実は紙上だけの賛美であったのである。墓所には埼玉の俳人山口誓子が手向けた卒塔婆が傾いて立てかけてあったのも印象的であった。山梨県文学の歴史上、山口素堂は最上位に位置する人物である。諸本の中では無く人々の心の中に生きる素堂の希薄さが私には信じられなかった。『国志』を再度読むがどう読んでも素堂が教来石村の生まれとは書してはいない。「祖先は甲斐国巨摩郡教来石村字山口の生まれ」としか読み取れないのである。素堂に関する諸本を読むと「素堂は甲府魚町の生まれ」「江戸の生まれ」などの諸説が入り混じっている事が分かってくる。しかし山梨県の素堂に関する歴史書は「俳人素堂」として扱い、その内容は『国志』の丸事引用で実際に再調査した形跡は見られずに、その後甲府文庫の生みの親功刀龜内氏の『甲州俳人伝』素堂の項と著名な素堂研究者の論文が大きく作用して、以後の素堂伝として現在まで伝わって既に定説化しているのである。最近では甲府城も大掛かりの調査の結果で、長年にわたり天守閣の無い城とされていた定説が覆った。度々歴史調査の難しさに直面するが素堂事蹟の真実を求めて『国志』以下の定説を捨て白紙の状態で素堂の生涯を追い求めることを素堂の墓前で誓い調査活動を再開した。 |
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誤伝山口素堂の背景
一、素堂研究のきっかけ 素堂の名がはじめて世の中に表れたのは素堂が二十七歳の時に刊行された伊勢に住む加友撰の『伊勢踊』である。 県内で素堂の生涯について最初に触れたのは山梨県歴史書のバイブルである『甲斐国志』が初見である。その編纂は大変な労苦を伴うものであった事は、素堂の調査を開始してはじめて理解できた。しかし最近『甲斐国志』の記述で疑問視される箇所が研究書などに紹介されているが、素堂の記載については現在もそのまま信じられていて、諸書の研究や紹介には『甲斐国志』(以下『国志』)の内容はそのままに引用されて、更に史実でない著者の私見を加えて誤伝の部分が拡大しているのが現状である。『国志』は不詳な部分は後世の研究に委ねている。 『国志』によると素堂は私の住む白州町の上教来石集落(当時は教来石村)の字山口に生まれ、幼少の頃家族とともに甲府魚町に出る。元来家は富裕で時の人は「山口殿」と挙げ奉る家柄であったという。二十歳の頃に江戸に出て幕府儒官林家の門に学び、諸侯に講義する俊才であった。西山宗因や松尾芭蕉を友として林春斎と並ぶ人見竹洞とも交友を結び、元禄八年には父母の墓参りの為に帰郷して、かって僚属として仕えた甲府代官桜井孫兵衛に再会し、当時下流地域を水害で悩ましていた濁川の改浚工事の手伝いを依頼された。素堂は父母の国であり、住民の難苦を救うために快くこの件を承諾して一旦江戸に戻り翌年に桜井孫兵衛の手代として武士に戻り、工事の陣頭指揮をして桜井孫兵衛を助けて工事を完成する。後江戸に戻り松尾芭蕉と共に俳諧活動を再開して正風を確立した これが私たちの知る山口素堂伝でこれは『国志』の説である。私が山口素堂の研究を始めたきっかけは単純で、「目には青葉山ほとゝぎす初鰹」の一句は全国でも知らない人がない位有名であり訪れる人も多いので、素堂を町の文化興しに利用しない手はないと考えたのが始まりである。 |
素堂と濁川工事について考える『甲斐国志』を何回読み直して見ても不思議なのは、元禄九年の濁川改修工事に於て時の代官桜井孫兵衛政能が、山口素堂に依頼してようやく実現した事と、孫兵衛の「手代」として改修工事を指揮したとされる事である。此工事は幕府の資金で実施された事業である。三百五十両弱の多額の出費を伴い当時多額の財政赤字があった甲斐は更に財政の悪化が予想され、幕府としてもおいそれと手を出す事は出来なかったと思われる。そうした事情が此工事を遅らせた大きな原因の一つである。当時は将軍綱吉の時代でかの柳沢吉保も元禄元年則用人に当用され、元禄七年には川越藩主となり、綱吉の絶対の信任を受け、その後も比例なき大出世をする。又甲斐に所縁ある荻原重秀も勘定奉行に元禄九年に登用されている。代官桜井孫兵衛は度重なる洪水と排水のままならぬ状況、地元民の困窮と田畑の不作に思い余って工事の至急着工を幕府に促した。そんな行き詰まりの中、素堂に懇願し素堂の助言に依り幕府も着工を決める。こうした事は孫兵衛より素堂が幕府に於ける位置も地位も上位だった事になる。 その素堂が孫兵衛の「手代」になって工事の指揮に当ると云うのは考えられない。孫兵衛の親族とされる、斎藤正辰の「碑文」にも「老臣歸愁」とあり、素堂翁の名は見えない。 又、地元の人々が建てたとされる 桜井靈神・山口靈臣の生碑も、桜井靈神は有った事は実証されているが、山口靈神 については後世の物とする先生も居る。とにかく『甲斐国志』以前の書物には「濁川改修工事と素堂」を結びつかる記述のあるものは未だに目にすることは出来ない。 『甲斐国志』の素堂の項は他の項とは突出して記述内容が異なっている。これは『甲斐国志の編纂者の中に桜井孫兵衛の関係者、もしくは家系に含まれる人物が居たと思われる、桜井孫兵衛をの業績を際立たせるために記述したものと推察される。『甲斐国志』の編纂者の江戸担当の中に「斎藤」姓が二名見える。素堂に就いて出生や甲斐甲府在住を書した歴史書や文献はなく、『甲斐国志』刊行の後に於いてそれを引用した書物のみが散見出来る。それに私見を挟み現在の素堂像を創り挙げてきたと推察できる。『甲斐国志』の編纂は、甲斐と江戸で行はれて、甲斐の編纂者の知る事のない記載内容もあった事も窺われる『甲斐国志』は編纂完了後は幕府に納められた。何時の時代から一般の者が見る事が出来たのだろうか。 真の歴史はその時代の資料の積み重ねである。山梨の歴史はその為政者の変遷に伴い主体性の無いものが多い感がする。素堂が甲斐の出身が『甲斐国志』を見て知りその後に於て歴史を確認し、祖先の出身が北巨摩郡上教来石村山口とあるのを、素堂が出生したとして、当時の甲斐の状況を鑑みても可能性のない甲府酒造業山口屋市右衛門をその生家と定めてしまったのである。そして「史実」でない「紙実」がまるで真実のように独り歩きしてしまったのである。 確かに素堂は甲斐に来ている。素堂の側の書物か実証出来るのは元禄八年の、亡き母(八月に死去)の願いを果たす為に身延詣でと、黒露追善集『みをつくし』(久住・秦娥編。)に見られる久住の句文である。句文には「露叟(黒露)の扉は府(甲斐府中)の柳町といふにつゝきし緑町と申所なり、町つつきのおもしろきにや、《むかし素堂も此所にしはし仮居せられしとなん》 柳には緑の名あり庵の琴 久住 とある。これは年代が明確には出来ないが、元禄八年の「身延詣で」の際か、元禄九年の濁川工事の時(事実とすれば)なのかは資料不足で断定できない。 元禄八年は素堂の『甲山記行』によれば外舅野田氏宅を宿にするとあり、これに依り素堂の在府中の宿は「外舅野田氏宅」であり、「緑町の仮居」は元禄八年ではないと云う事になる。この野田氏は素堂の妻の父親の可能性であると思われる。『甲山記行』に《甲斐は妻の故郷云々》の記述がある。では元禄九年の「濁川改修工事」の時であろうか。これも史実を示す資料は無く言及できない。又、元禄八年素堂が墓参とあるがこれも史実とは違う。素堂の『甲山記行』にはこの事実を示す記述はなく、又府中山口市右衛門の母の墓(甲府尊躰寺)もその没年の違いが明確であり、(素堂の母は没年は元禄八年夏)、元禄七年九月中には妻の死去により親友芭蕉の死にも忌中で立ち会えなかった。(素堂曾良宛書簡による)素堂の父親については資料がなくその没年については解からないが、この時代父・母・妻は素堂翁の墓所である谷中感応寺に埋葬されたとする方が自然である。 未だ推察の域を脱しないが、素堂の親族の墓所は府中には無く、尊躰寺の墓所は素堂とは関係のない、後世の山口氏ものと考えられる。尚、尊躰寺の山口家の墓所は二箇所にあり、山口屋市右衛門の墓石もなく、甲府勤番士の名もあり、時代の変遷が窺われると共に、 山口殿 と云われた富家の墓とすれば余りにも淋しい。(この項別述) 拝読した諸文献・資料によれば現在の段階では素堂は甲斐の出身を示す史実はなく、教来石山口で生まれたという事実はない事しか浮かんで来ない。 『甲斐国志』の記述で確証がなく、定かでないものに就いては諸説又は後世の課題としている箇所が見える。それは、甲斐側の編纂者の誠実さの現れであり、編纂も当時、既に歴史の史実資料も少なく後世に伝えるものの少ない事を憂いた、松平定信の発案により事業が開始されたと云う。素堂死去より約百年弱経ての編纂である。その間の素堂に関する俳書や解説書にも素堂翁と甲斐を結びつける文献は少なく、『国志』の孫兵衛と素堂との出会いは講談調で他の項と比べて異質であり、もし事実であるならどんな資料や文献から引用されたのであろうか。時代差がありすぎて今では如何ともし難い事である。しかし、歴史は創られた部分と事実の部分が混同されて成り立つものであるが、その時代の創作歴史を信じて疑わない事の方が情けない気がする。 |
資料 『俳諧茶話』雇言編。嘉永七年(1854) 一 門云、曠野集(ひろのしゅう)に、
蓮の實の抜け盡したか蓮の實か 越人
此句、ある人の説に、越人、素堂亭へ行に、例の蓮池より蓮の實を取りてもてなすに、皆くひ盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、馳走を忝くするの挨拶也。物を残すは不敬にあたれば、かくは興ぜし句作也といへり。いかゞ。
一荅、さにはあらざるべし。越人が素堂の所へ行て蓮の實の馳走にあひたるにもせよ、皆喰ひ盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、馳走を忝くするの挨拶也とはおかしからず。愚案にては蓮は花の清香なるもの也とも云て、佛家その清香を愛して、専ら蓮花を玩びて佛座とも成し、又浄土の池中、其花の大サ車輪の如し とも説り。唐土には美人の顔(かんばせ)にもたとへたり。芙蓉モ不∨及美人ノ粧といふも、其蓮花の清香の、かたちよりはまたまさりて美人なりといふ事也。芙蓉といふは即ち蓮花の事也。今いふ芙蓉は木芙蓉といふもの也。 素堂は山口氏の隠遁したる也。かの謝靈運か癖を傳へて蓮を愛せり。蓮庵と云、素堂といふ。 尤白蓮を愛せしと見えたり。其氣性清潔たる、推して見るべし。 その素堂に對して、越人亦其向上の趣意を句作れり。其ゆへは、此清香淨潔の蓮に實の多くみのる事こそ本意なけれ。されば蓮の實の本意であるかといふ句作にして、尤蓮の實情えお尋出し見附出したる向上の趣向也。唯ひと通りの挨拶・洒落の句にてはあるまじ。 朝顔や此花にして實の多き
といふ句をもつて解すべし。此句、作者忘れたり。おのづから句意明か也。
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