|
素堂42才 天和三年(1684) 素堂編
『芭蕉庵再建勧化簿』
芭蕉庵破れて芭蕉庵を新に求む、力を二三生たのまんや、
めぐみを数十生へ侍らんや、広くもとむるはかえって其
おもひやすからんと也、甲を好まず乙を恥ル事なかれ、
各氏の有所に任すとしかいふ、これを清貧とせんや、は
た狂貧とせんや、翁ミずからいふたゞ貧なりと、貧の貧
またひん許子の貧、それすら一瓢一軒のもとめ有、雨を
さゝへ風をふせぐ備なくば鳥だにも及ばず、誰かしのび
ざるの心なからむ、是草堂建立のより出る所也
天和三年秋九月
窃汲願主之旨潜濺筆於敗荷之下 山素堂
行ずして見五湖煎蠣の音を聞
|
山口素堂の部屋
[ リスト | 詳細 ]
|
素堂41才 天和二年(1682)
『武蔵.曲』幽山編
東叡山のふもとへ市中より家を移して
鰹の時宿は雨夜のとうふ哉
花桃丈人の身しりぞかれしはいづれの江のほとりぞや梯
は教し宿に先立てこたえぬ松と聞えしハ誰をとひし心ぞ
や。閑人閑をとハまくすれど、きのふハけふをたのミ、
けふもまたくれぬ。
|
|
山口素堂詩文・序文・跋文集・詞書素堂
素堂39才 延宝八年(1680)
『俳枕』高野幽山編。
能因が枕をかつてたはぶれの号とす。つたへ聞、其代の司馬辻は史記といふものゝあらましに、みたび吾岳にわけいりしとなり。杜氏、季白のたぐひも、とをく盧山の遊び洞庭にさまよふ。
その外こゝにも圓位法師のいにしへ、宗祇、肖柏の中ごろ、あさがほの庵、牡丹の園にとゞまらずして野山に暮し、鴫をあはれび、尺八をかなしむ。此皆此道の情けなるや。
そもそも此撰、幽山のこしかたを聞けば、西は棒(坊)の津にひら包みをかけ、東はつがるのはて迄をおもしとせず、寺といふてら、社といふやしろ、何間ばりどちらむき、飛騨のたくみが心をも正に見たりし翁也。
あるは実方がつかの薄をまげ、十符のすかごもを尋ね、緒たえの橋の木の切をふくろにをさめ、金沢のへなたり、いりの濱小貝迄、都のつとにもたれたり。
されば一見の所どころにてうけしるしたること葉のたね、さらぬをもとりかさねて、寛文の頃櫻木にあらはすべきを、さはりおほきあしまの蟹の横道のまつはれ、延る宝の八ツの年漸こと成りぬ。さるによつて今やうの耳には、とませの杉のふるきを共おほかり。しかれども名取河の埋木花さかぬもゝすつべきにあらず。
是が為に素堂書
|
|
荻野清先生や清水茂夫先生がその著述に若干触れて居られるが、山梨県に於いては紹介されている書物は未見である。 素堂は晩年、京都に住む事に憧れて句作の中にもその気持ちが滲み出ている。 ... 元禄十三年(1700)素堂五十九歳. 三月、嵐雪が
blogs.yahoo.co.jp/yamasodou/ 4299496.html-キャッシュ |
|
素堂、芭蕉追善句文(刊行年による) 元禄七年 ... といふものはたそや武陽城外葛村之隠素堂子也. 元禄十四年(1701) 『そこの花』 ... 素堂と芭蕉。 芭蕉と素堂... - 素堂と芭蕉。 芭蕉と素堂... - 芭蕉は甲斐にやってきた... |




