山口素堂の部屋

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《素堂の俳系》

《素堂の俳系》
『國文學』解釈と鑑賞 昭和三十年発行。松本義一氏著

 素堂の俳系は門下の長谷川馬光(素丸)に継承され、彼は葛飾正風の開祖と称された。もとより彼はそうした意識はなかったのだが、かく開祖と仰がれるところに彼の徳望の自ずかからなる現はれであり、のみならず、葛飾蕉門がその後長く栄えて行つたことはまことに慶祝であつた。彼の句集には、
 荻野清氏の好著「元禄名家句集」中の素堂篇がある。(大分大学教授)

《素堂と芭蕉》

《素堂と芭蕉》
『國文學』解釈と鑑賞 昭和三十年発行。松本義一氏著
 
 彼と芭蕉との交渉に就いては記すべき多くの事柄もあるであらうが、ともあれ彼は芭蕉より二歳の年長とはいへ、彼の及び難い芭蕉の俳諧的力倆を畏敬したことであつたし、芭蕉も素堂の學識と人格を尊重しつつ、彼の俳諧を推進するに當り、素堂の心からなる支持に多分の喜び力と得たことであつたに相違ない。
 真実二人はこよなき俳友であり心友であった。

《素堂、不易流行説の先驅説》
『國文學』解釈と鑑賞 昭和三十年発行。松本義一氏著

 貞享度はもとより『冬の日』・『春の日』が公にされて蕉風の確立を見たが、これに續く其角編の『續虚栗』(同四年)の序に於いて、
 素堂は、景情の融合を望み、
更に『時の花』・『終の花』の論に及び、
 時の花は一時的興味的美であり、終の花は永遠的生命的詩情であると、
 蕉門の不易流行説の先驅説を述べているが、當時の彼は自然を凝視し静観する制度に立って氣高き幾つかの作品をうたひ上げた。      
雨の蛙聲高になるも哀也 (貞享三年・『蛙合』)   
  春もはや山吹しろく苣苦し (同四年・『續虚栗』)   
 かくて世の聲望を得つつ元禄期に入り、その三四年に至るまで、相當數の作品を制作したものの同五年の沾徳撰の『一字幽蘭集』の序文に於いて、彼は、
自己を絶對視して他の排撃することを避け、是非・新古は畢意鑑別しがたく、俳諧の風體は推移に任すべきであると、主義主張にかかはらぬ自由の態度を示すに至った。これは、一門の總師として、この一筋に繁がり、ひたぶるに新味を追求し、新風を宣揚したやまぬ芭蕉の生命を賭しての俳諧態度とは全く對蹠的で、清閑の世界にその多趣味を楽しみつつある隠逸者の性格と生活の自ずからなる歸結であつたのであろう。この態度はその命終に至るまで変わる事が無かつたが(『とくとくの句會』自跋参照)、かくて彼自身の制作熱が微温的となり、而も俳諧の良友たる芭蕉を失つてからは、愈々それが低下の一路を辿って行くのであつた。
 だが彼は寛文以来長きに瓦る作家であり、且つは高潔の人格と和漢の深き學識の故に、人々の尊信を得つつ、依然として俳壇の高き位置を占めていたのであつた。

《素堂の俳諧生活》

《素堂の俳諧生活》
『國文學』解釈と鑑賞 昭和三十年発行。松本義一氏著

 素堂の俳壇への登場は寛文七年(時に廿六歳)、加友撰の『伊勢踊』で「江戸山口信章」として五句入集している。もとよりその句振りは          

   かへすこそ名残おしさは山々田  

 といつて具合に、貞門風そのものであつた。かくて延宝二年十一月には上洛して季吟以下の歓迎百韻の席に臨んでいる(『廿日會集』)。けれど翌年五月には、大阪より東下して談林風を鼓舞していた總師宗因を中心に、桃青(芭蕉)らと百韻興行に参加し、新風への關心と接近を示したのであつた。時に彼の周囲には桃青あり信徳あり幽山ありで、「江戸両吟集」(同四年)・「江戸三吟」(同六年)・「江戸八百韻」(同年)と、談林讃美の心から、談林風の俳諧をものし、甚だ熟情的に活躍した。
 當時の彼の俳句、「江戸新道」(同六年)所収。

かまくらにて    目には青葉郭公はつ鰹   
は諸書にも採録されて、彼の作品中最も有名であるが、古歌以来の初夏の風物として青葉と郭公に更に鎌倉名物の初鰹を添へたものである。
 最初の「目には」・で、以下「耳には」・「口には」を類推させるあたり、談林作家としての彼の得意の程が思はれる。その軽快の調べと、江戸っ子の愛好した初鰹のあしらひとが、初夏の清新さを表現して、大衆の人気を獲得したのであつた。延宝に於いて芭蕉と交渉を持った素堂は、天和に入ると愈々その親交の度を加へて行った。當時は所謂虚栗(みなしぐり)調流行時代で、それは芭蕉の新風開發の劃期的なものであつたが、その漢詩や和歌を取り入れた佶屈な句作りは、漢學や古典の教養深き素堂の得意とするところで、ここに再び彼の制作熱が燃え上り、新調のよき支持者となったのである。
荷興十唱(中一句)  
 浮葉巻葉此蓮風情過たらん (虚栗)
この句の「蓮」はレンと音讀せねば一句の趣きがないと芭蕉は評したが(『草刈笛』)、それはこの句全體の格調が破れてしまふからである。一句としてよりも生硬を免れ得ぬものの、彼一流の高致の気概が内在する。貞享から元禄にかけて、その閑居葛飾が深川の芭蕉庵に程近い關係からか、芭蕉一門との交渉が益々繁くなった。

《素堂、甲府へ》

《素堂、甲府へ》
『國文學』解釈と鑑賞 昭和三十年発行。松本義一氏著

即ち、元禄八年には父母の展墓のため甲府に帰り、身延に詣で、その翌年も甲府に赴いて濁河の治水に努め、爾後、東海道を西へ、京都を中心として、山城・近江・伊勢・尾張等への旅を屡々試みているのである。而も千年の古都京の風光を酷愛し、その地に居を移そうとする心持さへ抱いていた。
 その老後には、瘧を煩って危篤に瀕し(寶永七年か)、正徳三年の師走には火災にあって翌年の新春を他郷で迎へ、また山口本家が零落するなどと、人生の不幸を味つたが、それやこれやでその生活は不如意であつた。だが彼は清貧のうちに身を高く持していたもののようであつた。


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