山口素堂の部屋

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《素堂の俳諧生活始まる》
『國文學』解釈と鑑賞 昭和三十年発行。松本義一氏著

江戸では林羅山の第三子春斎より經學を授けられ、京へ赴いて和歌を清水谷家に(或は持明院家ともいふ)書道を持明院家に学んだといはれる。かくて延寶年間、何かの公職に就いていたらしいが、同七年の頃、職を辞して上野不忍池畔に退隠した。その剃髪も改號(素堂)も、この時にかかわりを持つものであったらしい。
 ともあれ、ここに隠士素堂の生活が開始された。彼は更に閑居を葛飾の阿武(あたけ) に移した。不忍退隠後は、漢詩・和歌・俳諧・書道・茶道(宗旦流)・香道・猿樂(寶生流)・等に瓦って広く楽しみ、葛飾へ移住後は、葛飾隠子、又は江上隠士として悠々隠逸の境に徹し、庭池に蓮を植え、菊園を造り、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなう」といった、京都東山隠士木下長嘯子の言葉をあはれみ(芭蕉『嵯峨日記』)ひたすら簡素・静閑の世界に端然と起居したのであつた。

 けれど、至孝を捧げた母を失い、且つは小名木川を上下して親しく交渉したる芭蕉をも引續いて失つてからは、とかくこの閑居を出ることが多くなった。
山口素堂
『國文學』解釈と鑑賞 昭和三十年発行。松本義一氏著
 
 
 山口素堂は寛永十九年五月五日(一説に正月四日)甲斐北巨摩郡教來石字山口に、郷士山口市右衛門の長子として生まれた。名は信章、字は子晋また公商、通称は勘(官)兵衛といった。初め來雪と号し(延寶六年初見)、後素堂と改めたが、(同八年)それは堂號素仙堂の略で、隠棲後の呼名素道と音の通ずるところから俳號に用いたものといはれている。別に信章斎、松子、蓮池翁とも号し、且つ茶道の庵號として今日庵、其日庵等があつた。享保元年八月十五日、武蔵葛飾に於いて病歿。享年七十五歳、法名廣山院秋厳素堂居士、遺骸は上野谷中感応寺中瑞院に葬られたが、別に小石川指ケ谷厳淨院に山口黒露の建立の墓があり、元禄九年故郷甲斐濁河の治水に、代官櫻井孫兵衛政能の懇願によって助力したので、里人その恩に感じ、後年蓬澤に祠を営んで山口霊神と称しているのである。
 山口家は彼の少青年の頃、甲府に移り、魚町西側に居を構へ、酒造業を営む富商として、時の人から山口殿と称せられていた。
 彼はかゝる境遇に恵まれつつ好學の若き日を送ったが、寛文の初年頃であったろうか、遊學のため江戸へと志した。家督を弟に譲ったいふのもこの頃であったと推定される。 

増補『日本俳諧史』池田秋旻著 昭和八年発行

 山口素堂、通称官兵衛、後市右衛門、来雪又は信章斎、別に葛飾隠士と号し、字は子晋とも云へり。
 寛永二十年、(正しくは十九年)甲斐巨摩郡山口に生まれ、後甲府に移る。初
め江戸に出で、林春齋に従て漢籍を学ぶ、彼が漢學のの力に就ては、芭蕉もまた之れを稱揚したりとて如何のも碩學なりしが如傳ふるものあれども、漢學者としての彼れは、餘りに斯道の記録にも見えず、恐らく俳諧仲間に於ての巨擘たりしと云ふ位に過ぎざるべきか。

信濃の小林一茶は素堂伝来の『仮名口決』を大切に所持して常に参考としていた。

調査活動から見える素堂の事蹟 

 芭蕉時代の素堂の活躍と事蹟については正確に伝わっていない。幕府儒官人見竹洞(宣卿)とは特に親しくその親交は深く長い。竹洞は素堂の家を訪れた時の様子を日記に書しているが、その屋敷地の広さは広大なものである。また元禄六年に取得した深川の抱地は芭蕉庵に隣接するか、包含する場所で四百四十余坪の敷地で幕府郡代伊那半十郎の屋敷跡地である。
 素堂は門人ではないが水間沾徳を林家に紹介したり、甲斐谷村の藩主で後の幕府老中になった秋元但馬守に芭蕉と同じ伊賀出身の和田蚊助を俸禄二百石で仕官させている。芭蕉の筆頭門人とされる宝井其角や服部嵐雪も素堂の周辺の人で俳諧集の序文や跋文を与える程の間柄であった。素堂が序文・跋文を与えた俳諧人は多く時の有名な俳人は全て素堂の指導を請い慕ったと言っても過言ではない。重ねて言うと素堂は俳人ではないのである。一時はその道に没頭しようとした時期もあったが、それは芭蕉に任せて学識者として地方に出かけそれは晩年まで続いた。芭蕉亡き後には俳諧の復興を目指して活動し京都とには頻繁に出かけている。晩年の活躍は『国志』も語られていないものである。晩年は困窮した様な記述書もあるがそれは違う。素堂は没年の前まで活動を続けたのである。
又芭蕉の俳諧集の中には素堂の編集意見や素堂と模索した新風論もあり、二人で奏でた数々の試みは絶妙の二人三脚と賞賛する文学者も居られる。
 『江戸両吟集』京都の伊東信徳を加えた『江戸三吟集』や素堂と芭蕉の心の葛藤を描いた「蓑虫句文の遣り取り」や『甲子吟行』(『野晒紀行』)の絡み等は当時の俳人の追随を許さないものである。
 しかしこうした素堂の事蹟を芭蕉の事蹟にすり替えてしまった功罪は多きくそれが後世の素堂伝に大きな影響を与えた。   
 私は素堂と芭蕉の句作の優劣については触れる事は出来ないが、客観的に見れば新風を提示する素堂は芭蕉等の俳人に大きな示唆を与えていたのである。その素堂の句に奥行きがないと云う指摘は当たらない。
 芭蕉中心の俳諧論は戦国時代の武将中心の記載内容と良く似ている。織田信長が本能寺で明智光秀に殺害されたと云う定説も、矢切止夫氏が資料をもって史実で無い事を訴え、最近でもその説を取る人もいるが、歴史学界には何の変化も起きない。一旦定説になるとなかなか訂正されないのがこの世界なのである。
 隣の長野県の考古研究者は縄文時代既に稲作があった資料をもって主張したが、多くの考古学者は一笑に伏していた。最近では実証される遺跡が出現し定説の改変が迫られている。一部の学者の説を定説化してしまった事が起因している。素堂や県内歴史についても定説を繰り返すのみでなく確かな資料や遺構の出現が期待される。
 話は横道に逸れたが素堂の功績も長年にわたって芭蕉信仰で来た文学界では見直される事はなく、最近更に希薄になって来ている。素堂の事蹟資料は現在でも生きているのである。表面に出ないだけの事である。
 私は調査では作品よりは生活の一端を窺わせる部分の記述を重視した。また序文や跋文、及び俳文や前書きを拾うことで素堂の事蹟と人物像を探ることに専念した。理解不能の箇所については師と仰ぐ小川健三氏にお願いして理解を深めるた山梨県立図書館に納められている数々の素堂関係書のうちで特に俳諧作法秘伝とも云うべき「素堂口伝」は重要なもので、素堂没後も与謝蕪村や小林一茶にも少なからず影響を与えていたのである。俳諧にのめり込む事のなかった素堂の句作を「奥行きがない」「追求心がない」「愚作が多い」などは素堂を理解されない人の妄説で、俳諧を業とする人と一芸として俳諧を嗜む人を一緒にして論じる事は避けるべきであり、素堂に対するこうした評は素堂の人間性にまで及ぶ事もあるので十分な配慮が必要である。素堂は芭蕉や他の俳人の様に業俳宗匠では無く、広い活動を展開し俳諧はその一部分であったことの理解が欲しい。


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