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《水売リ》

《水売リ》
(資料 歴史読本臨時増刊94−6日本人シリーズ『事典 日本人と水』「暮らしの中の井戸」)
水を入れた桶をてんびん棒などで担いだり、荷車に積んで飲料用の水を売り歩く商売をいい、水屋ともいった。水道が普及する以前は、水はもっぱら井戸に頼るしかなかったが、水質の悪い所や井戸に遠い家では水を一荷いくらで水売りから買った。明治の頃、東京の下町あたりではだいたい一荷一銭くらいで朝夕二回定期的に買う家が多かったようである。井戸の便のよい家でも、渇水時には水が濁るので水漉し用の嚢を台所において使ったし、また普段でも洗顔後の水を、撒き水に使うなど水を大切に扱っていた。
また、江戸時代には、本所・深川地区では井戸水の塩分が多く飲用に適さないので、飲用水を運水船で運搬し一荷四文で売る商売があった。これは呉服橋の側の竜の口に、江戸城を流れてくる神田・玉川両上水の余った水を外濠に落としている水があって、この水を売ったのである。また深川以外の上水道の普及している地域でも、上水の最終地点に一間四方の水溜が設置してあり、近くに井戸のない家では、この水溜場まで飲料水を汲みに行かねばならなかったが、この運搬を商売にした水売りもあった。
こうした飲料用の水を売る水売りとは別に、夏季に〈ひゃっこいひゃっこい〉などと口上を述べながら、砂糖入りと称する冷水を一杯四文くらいで売る冷水売りという商売もあった。容器は冷味のある錫や真録など金属製の水呑を用いたらしいが、〈水売の砂糖なんだか知れぬなり〉と皮肉られたように砂糖とは別のもので甘味をつけていた
ようであり、またいくら木陰で売ってもなまぬるい水になってしまったものが多かったようである。

《井戸端会議》

《井戸端会議》
(資料 歴史読本臨時増刊94−6日本人シリーズ『事典 日本人と水』「暮らしの中の井戸」)
また、下町のあちこちの長屋では井戸があったから、朝晩となく井戸端で隣近所の人たちとも顔を合わせ、おしゃべりする。俗にいう井戸端会議である。朝、口をすすぐにも、米をとぐにも、洗濯にも、みなここへきてやるのだから、賑やかなことだった。
特に洗濯などで井戸端に集まる主婦たちのしゃべりまくる話しぶりはすごいもので、近所の噂話などに花を咲かせて、それからそれと話のタネがつきない。水は、その周りに集まる人々の心を強くつないでしまう力を持っているようであった。

《井戸浚い》

《井戸浚い》
(資料 歴史読本臨時増刊94−6日本人シリーズ『事典 日本人と水』「暮らしの中の井戸」)
毎年夏になると井戸替(井戸凌いともいった)が行なわれた。七月七日の七夕の日にするのが江戸時代からの習慣だったようだが、明治時代になってからは、年に一度、暑い夏の盛りに井戸を凌って井戸水を清めるということで、必ずしも七夕の日というように厳密には守られてはいなかった。
まず、一メートル余りの高さに出ている井戸の化粧側は、作業中ははずしておき、丼戸の上にやぐらを立て、綱につないだ大桶で井戸水をかい出す。商売人の井戸屋が褌一つの裸になり、縄梯子を降ろして井戸の中に入る。桶に水を入れると、上では長屋の衆姻、この共同井戸の井戸替の綱引きを手伝い、休みなしに井戸水を汲み出す。井戸の水を汲み干すと、下に降りた井戸屋は井戸側を洗い清め、井戸の底に残った汚れ水をかき出して掃除する。一年の間に落とした茶碗やザルが底に見える。時には大事にしていた鍍金の簪(かんざし)なども発見されることがある。これらは綱でつるした小桶に入れて引き上げる。
最後は晒し粉をまいて消毒し、化粧側はもとの位置に戻して、御神酒をあげ、塩をまいて井戸を清め、シャンシャンと手をたたいて井戸替は終わる。井戸の底はすっかり干されるが、やがて綺麗な清水が少しずつ湧き出してくる。そして翌日頃にはいつもの水位に戻ってくる。とにかく井戸屋には忙しい夏であったようである。

《龍吐水》

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《龍吐水》
(資料 歴史読本臨時増刊94−6日本人シリーズ『事典 日本人と水』「暮らしの中の井戸」)
江戸時代火消しの七つ道具と呼ばれていたものには纏、龍吐水、大団扇(飛び火を防ぐ用具)、竹梯子、鳶□・刺股(破壊用具)、玄蕃桶(龍吐水に水を運ぶ用具)、消札があった。
消火作業には、水による消火法と、延焼を防止するための破壊消防があり、破壊消防の方が数多く行なわれていた。
龍吐水は、現在の手押しポンプに相当するもので江戸時代の消火用具の一つであった。その名は、「龍が水を吐くように見える」ところから名付けられたものといわれ、一説には、享保年間(1716〜1735)に、オランダから渡来したといわれ、また一説には、宝暦四年(1754)に、長崎で発明されたともいわれている。
放水能力は十数メートルと貧弱で、連続して水を出すことが難しく、消火作業にはほとんど役に立たなかったが、火災現場の最前線の屋根で消し口を取った纏持ちに向かっての援護注水では、猛火の中に飛び込んでいく火消たちの士気を大いに鼓舞したと伝えられている。

《車井戸》

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《車井戸》
(資料 歴史読本臨時増刊94−6日本人シリーズ『事典 日本人と水』「暮らしの中の井戸」)
地盤のことを「ヤマ」という。東京の山の手地区のようなヤマの良いところでは井戸側を入れる必要がなかった。 
しかし、下町などでは地下水面の浅い深いに応じて、数層の井戸側を重ねて入れるようなことをした。
井戸側は、長く大きな桶のように上から下までつらぬき、地下に埋めて周囲の土崩れを防いだ。地上の部分を化粧側といい、これには木製・石製・鉄製のものがあった。形は円いものが多く、四角いものは少なかった。
井戸掘り業者が新しく井戸を掘る地点を定めるのに、場所によっては地下水脈が通じていない所もあるだろうし、水質にも良否の差があるから、むやみやたらには掘らない。まず、あらかじめ錘で試掘してみて、地盤をよく選んでから鍬を入れて掘り始めるのである。
掘り進むと、井戸孔の上に木材を交差し、これに井戸車をかける。綱をつけ、綱に玄蕃桶をつけて、この桶を上げ下げして泥土をかい出し、濁水を汲み上げ、最後に井戸掘り職人がこの綱をよじ登って出てくる。
こうして掘り終わった井戸には、戸板をかぶせる。その上に御神酒をお供えして水神を祀る。そうして一晩たってから水を汲むのが、わが国ではならわしとなっていた。
永井荷風の随筆『井戸の水』(随筆集『冬の蝿』所収)によると、山の手の高台の井戸はみな深く、なかでも地下水層まで深く掘り下げた掘抜井戸は、渇水のときでも水が涸れたことがなかった。
汲み上げるのには車井戸が用いられた。井戸側の上に井戸屋形という人家の軒ぐらいの高さの屋根をつくって、その下に樫の車をつるし、車の釣瓶桶を両端に結びつけた太い縄をかけ渡して井戸に落とす。これをたぐり上げて水を汲むのが車井戸の仕掛けになっていた。
江戸川端あたりの地盤の低い町では刎(はね)釣瓶で水を汲んでいた。これは井戸端に太い柱を立てて、その先に秤の竿のようにやや細い丸太を横にわたし、片方の端に四角い石を結びつけ、他の端には竹竿の先に釣瓶桶を結びつけて汲むのである。
東京では明治の末頃まではまだ釣瓶井戸が見受けられたが、大正五、六年頃には市内では釣瓶井戸に代わって手押しポンプ井戸那使われだしている。

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