新視点 北巨摩の古代御牧 白州ふるさと文庫新視点 北巨摩の古代御牧 白州ふるさと文庫 清水三郎. 一、甲斐古代牧の謎 ... さて今回は北巨摩地域の古代歴史の中で最も文献資料が充実している−北巨摩の古代勅使御牧(官牧)−の存在について資料を基にした調査結果を述べてみたい。 ...
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山梨県のこと
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![]() 2010/6/16(水) 午前 10:22
... 甲斐にあったとされる「逸見()へみ」の御牧について<つみの御牧> 2009/4/11(土) 午後 2:32 ... かひなきことは甲斐の国つみの御牧あるゝ駒のいかでか人は影とめむ と思ふ者からたらちねの云々、 坂仲文が解環には、かひの国みつの御牧と直して ... ![]() 2010/4/7(水) 午前 10:52
甲斐御牧調査報告 甲斐御牧(貢馬) 甲斐の黒駒(有史以前) 柳田國男と甲斐の馬 甲斐御牧(勅旨牧) 古代駒牽の行事と駒を飼う事 馬の図版 <びっくり仰天!牛と馬の合体生物> 実録古代御牧<上野(群馬)御牧> <実録古代御牧>(武蔵御牧) 実録<甲斐 ... ![]() 2009/4/11(土) 午後 2:32
... 御堂道長の長歌に、 かひなきことは甲斐の国つみの御牧あるゝ駒のいかでか人は影とめむ と思ふ者からたらちねの云々、 坂仲文が解環には、かひの国みつの御牧と直して、さて其説に、みつの御牧原本「つみ」とあり、契本に「つ」を「へ」と直して ...
![]() 2010/5/22(土) 午後 2:01
... 群馬御牧年表 武蔵御牧年表 信濃御牧年表 信濃詳細年表(1) 信濃詳細年表(2) 信濃詳細年表(3) 甲斐と馬の関係記述○甲斐源氏と馬 古代行政詔(みことのり) 甲斐古代の道 甲斐の御牧を詠んだ歌。しか し勘違いされて甲斐の御牧を詠ん ... ![]() ![]() 2010/4/7(水) 午前 10:52
... 実録古代御牧<上野(群馬)御牧> <実録古代御牧>(武蔵御牧) 実録<甲斐御牧> <空前の古代御牧実態>(その1) <空前の規模 古代御牧の実態>(その2) <空前の規模 古代御牧の実態>(その3) 3、甲斐の勅使牧(御牧) 甲斐の古代の道 ... ![]() 2007/11/22(木) 午後 7:14
山梨 古代歴史講座 北巨摩の古代御牧 総論 1、甲斐古代牧の謎 山梨県の歴史は古代から語り継がれていたものは少なく、後に中央に残された断片的な資料を基にした研究によるものである。 ... |
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さて今回は北巨摩地域の古代歴史の中で最も文献資料が充実している−北巨摩の古代勅使御牧(官牧)−の存在について資料を基にした調査結果を述べてみたい。 ... さてここまで甲斐の駒や御牧と北巨摩地域との関連はみえない。 ...
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十八文で診察した永田徳本
(『山梨県歴史の旅』 山梨県観光連盟監修 堤義郎氏著)
永田徳本は、戦国-江戸初期の医師である。外で姿を見かけると、首から薬の袋をぶら下げていた。遠くへ行くときは、青牛の背にまたがっていた。患者に接すれば、地位がどうであろうと貧しい人であろうと、同じように診察した。 その礼には、だれが聞いても一貼十八文と答え、けろりとしていた。
ある病人を診察したら、大声をあげて泣き薬を投げ捨てたが、この病人は間もなく死んだので、決していいかげんなヘボ医者ではない。医学の知識はかなり深く、新しい技術も用いたようである。
後年、徳本のことは新潟から出た尊王論者の医師.竹内式部が知って大いに感
嘆したといわれる。いろいろな地方を歩いたが、徳本を名医としたっていた人は多く、医師の間にも敬愛の声が高かった。
甲州へきて武田信虎につかえ、甲府の上一条あたりに住んでいた期間はかなり長い。一度は信州へ行きながら、武田氏の減亡後に再びやってきた。徳川家康と会い、家康の郷土・三河(願知)の風土病について答えたこともあり、徳川二代将軍・秀忠の難病を切開が必要という他の医師の主張をふりきって薬でなおしたこともあった。そのときも薬代は十八文と答えたので、秀忠はいくら何でもと米や土地を贈ったが、米の方は隣近所にあっさり分けてしまった。
甲州にとって、徳本が忘れられない人となったのは、植物学の知識もそなえていた彼が、古いブドウ畑を見てタナ作りの方法を勧めたと伝えられることである。それに近いヒントをあたえたにしても、国産のブドウにもまた名医であったわけだ。植物学を昔は本草学といい、外国の書物に目を通した人なら有効な栽培法を気がついたものだろう。
信州の生まれともいい、三河の人ともいわれ、長田という姓も使ったようだ。乾堂とも号し、鎌倉円覚寺の帰化僧・月湖道人からは目向知足斎徳本道人と長い名を受けた。
医術は野州(栃木)で覚えたというが、くわしいことはわからない。晩年は信州諏訪郡東堀村(長野県諏訪町下諏訪町)に住みついて、妻をめとり隠屠の身を楽しんだ。一生病気を知らず寛永七年(一六三〇)に死去したときはなんと百十八歳であったとか。著書に『医弁救急十九方』がある。
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