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買いものの帰り、電車の線路脇に「鵜の木祭り」のお知らせが出ていました。
東京には、大田区に鵜の木という場所があり、駅名にもなっています。表記の仕方に多少の違いがあっても、同じ「うのき」という読み方の土地が、全国に何か所もあるんですねえ。その同じ読み方の各地の「うのき」から人が大田区の鵜の木へやってきて、写真のようなイベントをやるようです。他愛もないと言ってしまえば、それまでですが。
秋田県や岩手県には、それぞれ3か所もあるんですねえ、「うのき」が。
江戸時代には、今の大田区の下丸子にある光明寺(住居表示は、たしか今でも鵜の木でした)が、江戸の人たちの観光スポットの一つとして賑わったんだそうですけど、今では見向きもされません。
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そう言えば福山○治が住んでいたといっていましたね。鵜の木って地名がそんなにあったんですねぇ。目黒って山形だったか秋田だったか地名があった気がするんですよ。どうも我々の目黒と関係があると聞いた気がしたんですが勘違いかもしれません。
江戸時代あの光明寺の池がかなり広かったんですねー。現在は小さくなってしまいました。環八があそこで途切れていた理由は墓の移動に手間取った様ですね。あの寺のお墓石がどうにも出来ないでドミノ倒しの様においてありました。隣のアパートから見たんですがその当時は通り沿いに仮設の塀がぐるっと張り巡らせてありました。池の片隅にその墓石がズラーッと置いてありました。番号が墓石に書いてあったからまた何処かに移設したかもです。
2018/7/19(木) 午後 3:08 [ E.ada ]
E.adaさん
それで、沼部の中原街道の旧坂を題材にして、「桜坂」という歌をつくったんですかねえ。
鎌倉時代の御家人に目黒を名乗る一族があって、今の中目黒の私立の目黒高校の敷地に館を構えていたものが、江戸氏に圧迫されて東北地方へ移って行った、という説があるようで、お説と案外無関係でもなさそうですよ。
光明寺の池、80年代までは目蒲線の車窓からも見えたと記憶しています。ブラタモリで、江戸時代には多摩川の本流が蛇行して流れていたものが、本流から取り残されて「三日月湖」になったものだと、タモリが言っていました。そうかも知れません。
光明寺は江戸氏ゆかりの寺で、例の新田義興謀殺の頃には寺が存在していたといいますから、墓石を移動させるだけでも大変な手間だったでしょうねえ。今でも、多摩堤通り沿いには土留めの仮囲いが立ったままだと思います。
2018/7/19(木) 午後 3:58 [ kuroyuonsen ]
や、や、や〜さすがkuroyu様!ご存知でしたか〜。東北の目黒の事を〜!これまた勉強になりました。
まだ、あの囲いはそのままなんですかぁ。
2018/7/19(木) 午後 8:15 [ E.ada ]
E.adaさん
私の申すことは、ほとんど他人様からの又聞きですので、おかいかぶりの無いように。
それはそうとして、仮囲いの内側には雑草が雑木みたいに背高く繁茂して、光明寺は、まだまだ整理が終わっていないように見えます。
2018/7/19(木) 午後 9:27 [ kuroyuonsen ]