kuroyuonsenのブログ

このブログ,段々と愚痴をこぼすコーナーになって来ました。

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昔、中日や日本ハムでプレーした大島康徳氏、がんで闘病中というニュースをスポニチの電子版で見ました。


詳しくは、上のアドレスでご覧になるか、紙のスポニチにも載っているかも知れませんので、そちらをどうぞ。

報じられていることが全て本当だとすれば、とにかく豪快ですな、大島氏。ここまで来れば、生き仏と言っても良いですね。全快とはいかないのだとすれば、がんと上手くつきあって、1日でも長く生きてもらいたいですな。

この話に限っては、私の下手な写真など要らんでしょう。
中原街道を都心方向へ歩いて、川崎市に入ったところで妙法寺という寺を見物しました。ここも日蓮宗です。

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以前、大森の善慶寺という寺の義民のお墓を見学かたがたお参りしました。ここにも、バカ殿の悪政の犠牲になったお百姓が葬られていると聞きましてね。

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お堂の中では、誰かが大勢の人に向かって話をしている様子でした。法話の催しか、法事の前に何か住職が話でもしていたんでしょう。

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事の顛末は、3枚目の画像をお読み頂けば、お分かりでしょう。私が下手な解説を加えることもありません。
拡大しなくても読めるんじゃないかと思いますが、どうでしょう。

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お地蔵さんの後ろの卒塔婆は、圧政に苦しめられたお百姓の子孫たちが、自分たちの先祖を供養するために納めているんでしょう。納めた人の名字に同じものが多いです。

領民に苛斂誅求を科して、おそらく自分は酒色に耽ったであろうというバカ殿は、昔もいたんですなあ。犠牲になったお百姓が哀れでなりません。合掌。
丸ノ内線の「本郷三丁目駅」のほぼ真上、本郷三丁目の交差点にあるのが、この「かねやす」です。ショーウィンドを見ると、女性用のバッグなどを売っているようで、雑貨屋というのが適当なんでしょう。昔風に「小間物屋」と言ったら、間違いなんですかねえ。(笑)

たしか昭和22年まで、東京の区部は23区でなく、35区でした。この文京区は、本郷区と小石川区が合併してできました。35区の名前は、区名と地名が大体同じで分かりやすいですよね。

他にも、淀橋区・四谷区・牛込区が合併して新宿区になりましたが、新宿って今の新宿駅周辺が「内藤新宿」と呼ばれていたのからとってきた名前で、新宿区の西の外れですからね。すぐ隣は渋谷区だったり中野区だったり。

麻布区と芝区と赤坂区が合併して、港区となりましたが、これも何だか分からない。大森区と蒲田区から一字ずつ取って「大田区」というのは、一見して折衷と分かる名前で、何の芸も無いですな。(笑)

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先日、本郷菊坂のお話をしました。上の写真のように、行政上の地名は「本郷」何丁目でしょうけど、町会の名前として「菊坂」が残っているようです。

町会の掲示板の隣の、銀色の説明板に「宮沢賢治旧居跡」とあります。説明板の後ろのコンクリート打ちっぱなしの建物が、宮沢賢治旧居跡らしいんですが、説明板には旧居跡の位置を地図で示していないので、ハッキリしたことは分かりません。樋口一葉や宮沢賢治以外にも、この辺りに縁のあった明治の作家が大勢いるようです。文京区の立てた説明板に、そんなことが記してありました。

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2枚目の籠のようなもの、竹で出来ていれば竹矢来とでも言うんでしょうが、これは木製のようです。何を保護しているんでしょうねえ。芸者の置屋や料亭などにありそうなイメージを持っています、竹矢来。

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先日アップした井戸を、デジカメで撮ったものです。我が家の隣にも、親類の家が掘った手押しポンプの井戸がありました。写真と全く同じ形でしたが、大腸菌か何かのせいで飲用にはしていませんでした。

聞いた話では、井戸水を飲用していた世代とピロリ菌の保持者には、相関があるんだそうですねえ。地下水の中にいるらしいんですよ、ピロリ菌が。

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4枚目の写真の後方は本郷の台地面で、その台地を刻む小さな谷筋にあるのが、いわゆる「菊坂」と呼ばれる地域です。視界に入っていませんが、直上の写真の右隅下に、3枚目の井戸があります。

この斜面に建った3階建てに見える木造家屋、以前フィルム写真をアップしたことがあると思います。1970年公開の、ある日本映画でこの階段がロケに使われました。階段両脇の2軒の古い木造家屋が映像にあるのを確認できます。この辺りも空襲を受けているでしょうが、奇跡的に焼けなかった地域もあるかも知れませんので、戦前からの建物なのか、戦後のものか、ハッキリ分かりません。しかし味のある建物ですなあ。今でも現役だと思います。

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今は喫茶店を併設しているようですが、かつては釣堀だったのか金魚の問屋だったのか、面白そうな店がありました。

金魚を水槽に入れて、おじさんがリヤカーで売りに来る様子を、私の子供の頃でもたま〜に見かけましたが、今は滅多に見ませんね。銭湯の庭に掘られた池で、金魚が泳ぐ様子を湯上りに眺めるのは、昔の楽しみの一つでした。

金魚の中でも和金は丈夫な生き物で、ちゃんと買ってやれば長生きしますし、個体によってはフナと同じくらいに大きくなるものもいて、ビックリするんですよねえ。「赤いフナ」がいるって。金魚は元々フナからつくられたので、「赤いフナ」で当たり前なんですね。

世田谷慶元寺

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岡本民家園から結構な距離を歩いて、慶元寺という寺へ行きました。平安時代の末期、当時の江戸城に本拠を置いて、江戸湾の水運を押さえていた豪族の江戸氏が、江戸城(実質的には砦のようなもんでしょう)内に開いた寺を、喜多見へ退去したのに伴ってここへ移したものだそうです。説明板には室町時代中期とありますので、太田道灌にでも追い出されたんでしょう。

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元々江戸氏は、桓武平氏の秩父氏の子孫で、畠山重忠や源義経を娘婿にした河越重頼と同族です。源頼朝が石橋山から安房へ逃れて、房総半島の豪族であった上総氏や千葉氏を従えて、たしか江戸川か隅田川までやって来たところで、頼朝の前に立ちはだかったのが当時の当主・重長だったようです。

江戸湾と諸河川の水運を牛耳っていた重長を敵に回すと、後の関東経営がはかどらないので、頼朝は重長を説得して味方につけたらしいですね。
南北朝の頃、子孫の「江戸遠江守」は、新田義興(新田義貞の息子)を多摩川の矢口渡でだまし討ちにして以後、周りから「汚い奴」と蔑まれて没落し、やがて江戸城から追い立てられて、喜多見へ落ちのびたというところでしょう。

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それでも江戸氏は、戦国時代に小田原の北条氏にしたがい、家康が関東に入って来ると、喜多見氏と名字を変えて徳川に鞍替えして、たしか5代将軍の綱吉に大名にまでとりたてられたはずですが、なぜか当時の当主が綱吉の不興を買って取潰しに遭いました。喜多見藩が存在した短い間、この辺りに陣屋があったようです。藩が置かれるくらいですから、ここは完全に江戸の外側ですね。

鈍った体で急に思いついて、二子玉川から慶元寺まで往復7kmほどを歩いたので、翌日腰が痛くなっちゃいましたよ。湿布を貼って、ようやく持ち直してきたところです。

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