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今日は、花村太郎「知的トレーニングの技術〔完全独習版〕。 渡部昇一さんの「知的生活の方法」とか、外山滋比古「思考の整理学」など知的生活ものに目がない私です(笑)。本屋さんで立ち読みして、面白そうだったので購入しました。 この本は、「準備編知的生産・知的創造に必要な基礎テクニック」と、 「実践編読み・考え・書くための技術」に分かれる。 特に、実践編の「直観する 思想術」における節約モデルの思考と浪費モデルの思考が、 今の私の問題意識にぴったりと当てはまったので、この章を取り上げる。 筆者の言う節約経済学とは、 アダム・スミスからリカードまで、新古典派もマル経も近経もふくめ、生産視点にたって、サヴァイヴァル(生き残り)のための成長原則をとき、経済的価値法則の必然の上にまたは彼方に、「福祉社会」または「自由の王国」を考える立場。
(花村太郎「知的トレーニングの技術〔完全独習版〕」ちくま学芸文庫P333) また、浪費の経済学とは、 ニーチェをひとつの起源を発し、未開民族の交換システムにかんするM・モースの研究をふまえて、ジョルジュ・バタイユが『消費の概念』、『呪われた部分』で展望した、消費(浪費)と象徴的価値法則との優位性をとく《普遍経済学》の立場。
(花村太郎「知的トレーニングの技術〔完全独習版〕」ちくま学芸文庫P334) 筆者が、科学的思考を超えた思考を検討した時、その思考原則は浪費の経済学にのっとっている。 ジャン・ボードリヤールは、 「個人にせよ、社会にせよ、本当に生きていると感じられるのは、 過剰や余分を消費することができるからなのである」と説く。 つまり、 浪費こそが、人生の価値と意味とを生産するのだ。 これは、経済だけでなく「考える」という行為の発生にも当てはまる。 カントによれば、人間は想像力を援用して自由に欲望をこしらえあげることのできる特性がある。 つまり、必要によって考えるのではなく、 考えるぜいたくを楽しむといった自己目的化された思考である。 これは、日常のぼんやりした思考のなかで、 あるいは夢や幻想や狂気や芸術や宗教的信仰やナンセンスや遊びのなかで、 私たちが無尽蔵に繰り返しているものだ。 ただ、それらに「意味」と「価値」とを付与することを、 科学万能の現代社会が暗黙のうちに禁じていただけだ。 「そんなこと考えたって何の役に立つか?」という実用主義一辺倒のひとは、役に立つことだけを考えればいい。そうして、思考を手段化し、節約していって、さてその先にどんな楽しみがあるか、という問いに逢着したら、はじめて思考の浪費(ぜいたく)ということのすばらしさがわかるだろう。
(花村太郎「知的トレーニングの技術〔完全独習版〕」ちくま学芸文庫P335) 目的論を徹底的に排訴した分子生物学者のジャック・モノーは、 つまり、世界や人間は、予定調和的に仕組まれた目的とか必然性とかの観念を 捨て去ることによって、「完全な創造の自由」「絶対的な新しさ」を手に入れることができる、 という。 先人たちの思想を踏まえ、筆者は最後にこう結論づける。 無上の快楽と破滅の危機とをあわせもった思考でなければ、 真に「創造」的な思考とはいえないのだ。 そして、創造の自由と楽しさは、偶然(運)という契機をぬきにしてはなりたたない。 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆ どうしても、情緒が邪魔をする。 あまりものを考えずに、目の前にある仕事を処理してゆけばよかっただけなのに。 結婚、出産を経て、再就職した時、 私は20代に仕事の上でやり残した宿題を片付けないと、と思っていた。 自分の感情や情緒は二の次で、とにかく依頼があった仕事を効率的に手早く仕上げる。 そのために、相手の感情を慮り、まわりの空気を読んで、 どうすれば、皆さんが納得いく形ではやく目的を達成できるかを考える。 20代の頃に、まわりのみんなが当たり前にできていて、 私にはできなかったPlan-Do-See-Check方式を身につけたかった。 つまり、社会に適応したかった。 これは、トレーニングのようなものだから、少しずつうまくなる。 あまり考えなくても、そのような仕事の仕方ができるようになってくる。 しかし、ある日突然、私は何もかもがつまらなくなってしまった。 それはもう、ある日突然としか言いようがないタイミングだった。 まずいな…と思いながら、1〜2年を過ごす。 なんで急につまらなくなったんだろう? 前のように仕事に情熱を傾けられない。 技術は自動化しているから、身体はきちんと仕事をこなしている。 人に笑顔で対応して、その人が満足いく仕事を仕上げる。 それに、とても満足していたのに、その時は、心と体が乖離したような感覚だった。 だって、仕事を遂行する上で、感情や情熱は邪魔だったんじゃないの? そう思ったから、この著書でいう節約経済学的な仕事をしてきたんじゃないの? わからない。どうしたらよいかわからなかった。 何か行動しなくちゃいけないのはわかっているけど、何をしたらよいかわからない。 動きたいけど、今現在の安定とか、 やっとできるようになった仕事の仕方とかを手離す勇気がなかった。 ぐずぐずしているうちに、本当に椅子から腰を上げるのさえ面倒になってしまった。 これは、本当にまずい。 私は、重い腰をようやく上げて、履歴書を書き、郵送で送って、今現在の仕事に転職した。 本当は、2〜3年前からそうしたかった。 でも、8年続けてきた職種だったし、仕事自体は好きだったし、 ようやく20代の宿題をやり終えたと思った。 でも、私は、もうひとつ自分にとってはハードルが高いチャレンジをしたくなっていた。 それは、私の中でくすぶっていた情熱だったかもしれない。 結果的に、昨年した転職は、自分の精神的には大変よかった。 仕事に慣れなくて、胃が痛くなりそうな時期もあったけど、 私は、きっと自分の気持ちに沿ってチャレンジをしたかったのだ。 仕事をする上で邪魔だと思っていた情熱とか情緒は、私の体を動かすガソリンだった。 そこから始めないと、ただ惰性で仕事をすることになってしまう。 Plan-Do-See-Check方式で、最短距離で仕事をしようとしていた時は、 プライベートもそんな感じだった。 無駄なことはしたくない。 本を読むのも仕事のため、娘の部活動の部長も仕事の一環だから効率的に。 なるべく感情を交えないで、さっさとやる。 悪くはない。 ただ、面白くなかった。 面白くない人間だった。 20代の時と比べると、面白い人間と出会わないなあと思っていた。 当たり前だ。自分も面白くなかったのだから、他人の面白さに気が付けるわけがない。 今は、仕事もプライベートも、遊びや無駄が増えた。 っていうか、これでいいの?ってくらい無駄だらけかも(笑)。 先日行ったDA PUMPの武道館コンサートも仕事がある平日だったから、 以前なら絶対に行ってない。 でも、今回は迷わず行った。娘まで巻き込んで。 次の週、忙しくて死にそうだったけど(笑)、それでも全然後悔しなかった。 わが人生に一片の悔いなし!(北斗の拳・ケンシロウ風) 本も、仕事に関係ない本をだいぶ読むようになり、 ブログを始めた当初の読書の楽しさが戻ってきた。 最近は、義務で読んでいたから。 今は、やりたいことがあり過ぎて、時間が足りない(極端だな)。 筆者によれば、浪費の思考でしか創造的なものは生まれないらしいし(意訳しすぎじゃね?)、 何よりも、今の方が私は毎日が楽しい。 椅子から腰を上げるのもおっくうではなくなった。 ただ、節約の思考的に積み重ねないといけない分野は確実にある。 今は、そのバランスをどうやってとったらいいか考えている。 ただ、今までの反動か、圧倒的に浪費の思考的な行動が多い。 まあ、もう少ししたら落ち着くでしょう、きっと。 困ったら、その時考えよう。(だいぶ頽廃的な感じに…大丈夫か?笑)
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