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今日は、芥川龍之介「一塊の土」。 以前、芥川龍之介全150篇のうち、日本文学全集に収められている 各時代の代表的な著作43篇を読みました。 (詳しくはこちら→「芥川龍之介のススメ1」、「芥川龍之介のススメ2」) その中で、最近思うことと「一塊の土」がふっと重なり、改めて読み直しました。 【あらすじ】 田畑を守り、家を支えるという名目をもった未亡人の嫁・お民。 倅に死なれ、家を存続する担い手を失った姑・お住。 お住は、家事をよそに婿もとらずに、外で野良仕事に精を出す。 一方、息子が死んだ当初は、身の回りの家事を嬉々としてこなしていた姑・お住も、 次第に老体にこたえはじめ…? 【感想】夫を亡くした未亡人・お民は、せっせと野良仕事に精を出し、田や畑を広げ、村中から「嫁の手本」「貞女の鑑」として崇められるまでになる。 一方、家事を一手に引き受ける姑・お住は、家事やその他の下働きの重責に耐えつつ、 老体の身にそろそろ限界を感じ始めている。 外での働きと業績は、目に見えやすい。 内(家)での働きは、報酬もなく当然のこととみなされる。 そうやってできあがる家の稼ぎ手に対する劣等感、忍従。 それはいわばはやりきった馬と同じ頸を背負わされた老馬の苦しみだった。
お民はあいかわらず家を外にせっせと野良仕事にかかっていた。 お住もはた目にはあいかわらず小まめに留守居役を勤めていた。 しかし見えない鞭の影は絶えず彼女を脅かしていた。 ある時は風呂を焚かなかったために、ある時は籾を干し忘れたために、 ある時は牛を放れたために、お住はいつも気の強いお民に当てこすりや小言を言われがちだった。 が、彼女は言葉も返さず、じっと苦しみに堪えつづけた。 それは一つには忍従に慣れた精神を持っていたからだった。 (芥川龍之介『一塊の土』「日本文学全集18芥川龍之介」河出書房」P233) 今でも娘や嫁の社会進出は、少なからず祖父母世代に負担を強いていることだろう。 実際、私も就職活動をしていた時、 「こんな時、実家の父母が近くに住んでいたら、どんなに強気でいけることだろう…」 と思ったものである。 それが祖父母の負担を当たり前に思っている証拠だ。 女性の社会進出による祖父母の負担。 家事の担い手の忍従。 家のことや育児をすべてをやらねばならぬ人の大変さは並大抵ではない。 特に、電化製品がなかった昔であればなおさらだ。 娘や嫁の社会進出で、家事や育児を「やらされている」祖父母はたくさんいるだろう。 やっと自分たちの子育てが終わったかと思えば、 孫育てやもっと大量の家事が待っている。これでは報われない。 家のことや子育ては誰がやるのか? 女性は家事をやるために家庭に戻るべきだ――とは性急な考えだ。 もう女性の社会進出の流れは、経済的にも女性の性質的にも、 誰にも止められないだろう。 忍の一字で、歯を食いしばって頑張ってきた嫁像を再び復活させては、 女性の社会的地位を高めようとしてきた女性たちの努力が無駄になってしまう。 ではどうするか? 今や便利な電化製品が出回り、スイッチひとつでお米も炊けるし、洗濯もできる。 スーパーやコンビニが充実し、クリーニングや掃除もお金さえあればすべて外注できる。 保育も徐々に整ってきて、祖父母の手を借りなくても、 ヘルパーさんなどをうまく使えば、子育てだって可能だ。 そのようにして乗り切っている共働き家庭は多いと思う。 「仕事をしている」という名目があれば、家事や育児が少し疎かになったとしても、 なんとなく逃げ道があるような気がする(←おい!爆)。 「無職だから」「稼いでいないから」「何もしていないから」といって、 お住のように、雑多なことはすべて家の主婦がやらなければならないのだろうか。 「仕事してないんだから、それぐらいやらなきゃ…」という暗黙の雰囲気は、 打ち壊せないものだろうか。 そして私自身、なぜ専業主婦であることにこんなに負い目を感じているのだろうか。 「専業主婦」という言葉は、いつか死語になる時代がくるのだろうか。 私が惑わされやすいこの「専業主婦」という言葉を少し脇において考える。 すると「家族という和を保つために働く」というテーマが浮かぶ。 家事や育児のほとんどは外注可能だ(ちょっと乱暴すぎ?)。 外注できないことは何か。 何も言わずにただそこにいて、子どもや夫が目をかけてもらっている、 手間をかけてもらっている、認めてもらっているという満足感を与えること。 場や空間・時間をを調整し、そこを盛り上げること。 共有できる思い出とぬくもり。 そのために家事を利用することもある。 家事に振り回されるのではなく、家事を家族の和のために利用する。 もちろん、大変なときは一手に引き受ける必要はない。 少しキツイ時は、上手に手を抜けばいい。助けを求めればよい。 お住の時代と違って、文明の利器やサービスや夫(爆)が揃っているのだから。 家庭の主婦が、便利なものやサービスを使うことを恥じる必要はないのだ。 もし気が引けるなら、こっそり外注すればいい(笑)。 そして、外注できない家庭の核をクリアできるのなら、 もちろん外で働いたっていい。 そんな風に考えてみても、お住が感じている稼ぎ手への遠慮や劣等感は、 容易に消えるものではない根深い感情のような気もする。
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芥川龍之介
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芥川龍之介のススメ〜ピックアップできなかった作品たち(備忘録編)前回、芥川龍之介全150篇のうち、日本文学全集で各時代の代表的な著作43篇を読み、特に印象に残った小説だけをピックアップしました。 (詳細はこちら→「芥川龍之介のススメ〜断片の綴り」) しかし、落選した作品にも傑作が多かったので、それらの作品の感想を備忘録代わりに書きます。 ここからは興味のある方だけどうぞ↓ 【感想】「鼻」禅智内供の内なる劣等感は、彼の心を巣くう。しかし、長い鼻が短くなった途端、人々は彼を嘲笑し始める。 誰もが心にそれぞれの劣等感を持っている。そこは誰にも触れられたくない場所。 他人の劣等感の克服は、自分の劣等感を際立たせる役割を果たし、 相手にささやかな敵意さえもつようになる。 人間の自尊心は、ほんの微妙なバランスで満たされたり、傷ついたりするのだろう。 (『今昔物語』巻二十八「池尾禅珍内供鼻語第二十」) いっさいのことが少しも永続した興味を与えない。
だからいつでも一つの境界から一つの境界を追って生きている。 もちろんそれでも地獄は逃れられない。そうかと言って境界を変えずにいればなお、苦しい思いをする。 そこでやはり転々としてその日その日の苦しみを忘れるような生活をしてゆく。 昔、こういう男の人に会ったことがある。いや、青年期ぐらいには誰でも陥る地獄だろうか? 何とつながれば、彼は救われたのだろうか? でも、何かとつながってしまったら、こんな傑作群は生まれなかったのかもしれない。 「世之助の話」これ、面白い!世に浮名を流す世之助、交わった女性の数はなんと3742人!その勘定の仕方は…?男と女のはじまりを「はじまりのまま完結」させてしまう。 肌の一部分だけで出会いから別れまですべてを体感する妄想力には脱帽(笑)。 「偸盗」芥川作品にしては少し長い方だろうか?私の中で傑作☆なのに、芥川本人も後世の作家たちも失敗作と言っていたらしい。 盗賊の棟梁・沙金(しゃきん)に翻弄される太郎と次郎兄弟。 戦いの中での兄弟の葛藤、最後の血の力が蘇る場面、などとてもよかった。 なんで失敗作なんだろう…? (『今昔物語』巻二十九「不レ被レ知レ人女盗人語第三」 および「筑前前司源忠理家入盗人語第十二」より材を得ている。) 「或る日の大石内蔵助」年来の仇討ちを成就した大石内蔵助の心理を描く。内蔵助は、すべてが行き着くところに行き着いた満足感に浸っていた。 復習の成就は彼の道徳上の要求と完全に一致していた。 しかし、自分たちの忠義は、庶民への影響力と変心した朋輩によって、事実以上に崇められている。 自分への激賞の一人歩きが、彼の穏やかな心の調和を破っていく。 「戯作三昧」読者の厳しい評価、無神経な編集者、創作の思想的孤独――。「勉強しろ。癇癪をおこすな。よく辛抱しろ」孫の口からの思いもかけない言葉。 馬琴の筆は走り始める。空を走る銀河のように滾々としてどこかから溢れてくるもの。 どんな世俗の沙汰に惑わされようとも、戯作三昧の悦びは馬琴よりほか知るものはない。 (「馬琴日記抄」から題材を仰いだもの) 「袈裟と盛遠」後の「藪の中」にもみられる、袈裟と盛遠の独白からなり、ひとつの事件を違った人間から見るという手法。 男を鏡にして自分の醜さを知ってしまった女の複雑な心情と、 その醜さに嫌悪を抱きつつ自分でも理由のわからぬ情でつながる男。 (「源平盛衰記」第十九から題材を得たもの) 「地獄変」芸術を追求するあまり、娘が焼かれる姿にさえ恍惚を覚えるある画家の話。一般的にみたら変態だけど(笑)、芸術家でこんなものだろうか? 芸術に魂を売った男の絵は、人々を魅了し続ける。 (『宇治拾遺物語』の「絵仏師良秀の焼くるをみて悦ぶ事」、 『十訓抄』巻六三十二話、『古今著聞集』巻十一「弘高の地獄変の屏風を書ける次第」 から題材を得ている) 「秋山図」観るものの心をとらえて離さない幻の絵画、秋山図。美しい絵画は実際にあったのか?本物の絵画は、見るたびに姿を変えるのか、それとも鑑賞者の心持で見え方が違うのか? 実在しようとしまいとも、心にありありと映された秋山図は終生消え去ることはない。 これも私の中では傑作☆ 「一塊の土」田畑を守り、家を支えるという名目をもった嫁・お民。倅に死なれ、家を存続する担い手を失った姑・お住。 勤勉な嫁は、ほかから手本となるほどだったが、 家のことすべてをやらねばならぬ姑の大変さは並大抵ではない。 これは、現代でもかなり当てはまる問題のように感じる。 娘や嫁の社会進出で、家のことを「やらされている」親はたくさんいるだろう。 やっと自分たちの子育てが終わったかと思えば、孫育てやもっと大量の家事が待っている。 これでは報われない。 「大導寺信輔の半生」芥川龍之介の精神史が描かれてゆく。貧困を脱する唯一の手段であった学問、本を通じた現実認識、 才能や頭脳の多少を問わずに作れなかった友人、上流階級の青年に感じる漠然とした「何か」……。 「点鬼簿」父・母・姉の死を取り扱った作品。母が狂人であったこと。これは芥川に決定的な心の亀裂を残しているように感じる。 会ったこともない「初っちゃん」という姉に親しみを感じて、 幻のように母とも姉ともつかない女人の存在を感じる。 母なるものとのつながりを実感として持てなかった人なのだろうか? 断片を統率する術を持たず、人生はヴィのような花火だった? 「玄鶴山房」玄鶴山房の離れで、肺結核により寝込んでいる主人・玄鶴。彼を元凶として家族の複雑な心理が行き交う玄鶴山房の母屋。 他人の苦痛を享楽する看護婦・甲野は、冷ややかに家庭的悲劇を眺め、その悲劇の火に油を注ぐ――。 玄鶴山房の空間的配置が、家族の複雑な心理交錯にうまく組み入れられ、 ありふれた家庭にある鬱屈した重苦しさをじわじわと感じる。 「日本のイエ」は、安定を保ちながらもこのようなどろどろした心理劇が繰り広げられていたかしら? と想像する。 「侏儒(しゅじゅ)の言葉」「文芸春秋」に常設された小さな欄にひきつづき発表されたアフォリズムを集めたもの。自由意志と宿命とにかかわらず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦、理性と信仰、
――その他あらゆる天秤の両端にはこういう態度をとるべきである。 古人はこの態度を中庸と呼んだ。(中略) わたしの信ずるとところによれば、グッドセンスを持たない限り、いかなる幸福も得ることはできない。 |
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読み終わって今頭に浮かぶのは、「断片」と「つながり」いう言葉である。 作品中でも著作全体としても、ある断片が無数の角度から光を当てられ、 時に華麗に、時に重苦しく、時にユーモラスに、まったく違った表情をみせる。 しかし、その断片をつなげる何かが見つからない。 辛うじて、田舎娘が汽車から投げかけた蜜柑の日の色に象徴される、 土の匂い、真摯に営む生活、絆のようなものに答えが見つかるだろうか? 著書「孤独地獄」のように、境界から境界へ、ひたすら断片を転々とする芥川が見えてくる。 「河童」、「歯車」を読んで芥川龍之介って駄目…と勝手に思い込んでいたが、 初期の作品から少しずつ読んでいくと、この二作品の傑作ぶりがわかる。 きれいにまとまっている短編群は読みやすいが、 芥川晩年の生と死、正気と狂気のゆらぎや歪みを描いた小説は、私の中に異質な世界を植えつける。 晩年は、私小説のような作品が多くなり、自分の出所と向かわなくてはならなかった。 「点鬼簿」にみられるように、母なるものとのつながりの薄さで、 彼はヴィの花火のような一瞬の情熱でしか生を実感できなかった。 それ以外は、荒野を歩いているようなものだったのだろうか。 印象深いのは、ともすれば自己満足に陥りがちな安易な調和や中庸(妥協的思想)の破り方である。 それは、一枚のハンケチだったり、自分への激賞だったりするが、 それらは頭脳で組み立てた完全なる調和を破っていく。 そして、最後は二分律という概念さえ完全に崩れ、筋を失い二分律以前の混沌の渦へ還ってゆく。 「歯車」という小説をそのようにとらえると、 あの自分の見えている世界が歪んでいるような気持ちの悪さがわかるような気がする。 芥川龍之介をもう少し知りたくなったので、これを機に芥川の全集にチャレンジしよう。 次は、私の勝手なセレクション集!?(笑)。 ■■mepo's 芥川龍之介■■入門編1.「杜子春」芥川の有名な童話。――下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり(敦盛)。 財産、名声、それに寄ってくる人間のむなしさをわかりやすく描き、心の聖域にたどり着く。 「何になっても、人間らしい、正直な暮らしをするつもりです。」という素朴な台詞に、 大人なのに胸を打たれる。能「邯鄲」のストーリーを思い出す。 2.「蜘蛛の糸」 最も有名といっていい芥川の童話作品で、ひたすら日本語が美しいと感じる。 いいなあ、こんな文章書けて。「羅生門」とは反対に、人を蹴落としたものは救われないというテーマ。 (ドストエフスキー「カラマゾフの兄弟」第七篇第三「一本の葱」からヒントを得て、 仏教的に書きなおしたもの) 3.「羅生門」 自分が生き延びるために他者を踏み台にすること、非常時における善悪の基準は、どこにあるのか? 下人は、死人の髪を抜いている老婆を通じて、 自分の中の悪を罰する心、生き延びるための悪を容認する心、両方で揺れ動く。 彼は、どちらを選ぶのか? (『今昔物語』巻二十九「羅城門登二上層一見二死人一盗人語第十八」より) 鮮やか!お見事!1.「手巾(はんけち)」知識人が頭に描く予定調和の安易な中庸を一枚のハンケチが破る。 決して意識の明るみには昇ってこない、得体の知れない何かをハンケチに象徴させて描かれる。 今後、予定調和を破るという主題がいく度も出てきて興味深い。 2.「舞踏会」 乙女の恋心は、人生の中で閃く一瞬の情熱となって燃え上がり美しい思い出となって保存される。 短いのにきれい。でも、オチは「お菊さん」なの…?(笑)。 3.「藪の中」 「袈裟と盛遠」にみられた、ひとつの事件を違った人間が違った角度から物語る手法。 外堀から中(事件)を眺めるところから入って、少しずつ当事者の証言により事件の核心に迫っていく。 最後、殺害された男の死霊が語るところは、まるでお能の一場面にでもなりそうだ。 一つの出来事は見る人によって全く違った様相をみせる。 加害者も被害者も出来事に内面をえぐられて、自分が殺す側になっている。 (「今昔物語」巻二十九「具レ妻行レ二丹波国一男二於大江山一被縛語第二十三」からヒントを得、 その主題、構想、形式は、ブラウニングの長詩「指輪と本」から学んだといわれる) 女・おんな・オンナ…1.「南京の基督」ドストエフスキー「罪と罰」の清らかな娼婦・ソーニャを思わせる宋金花(そうきんか)。 たとえ女の宗教心からくる勘違いであっても、 結果的に罪を犯した男に罰が下るという宿命と偶然。 神は直接あらわれないけれど、因果応報の循環はとどまることはない。 2.「六の宮の姫君」 「今昔物語」巻十九「六姫君夫家出語第五」を元にした作品である。 「あれは極楽も地獄も知らぬ、不甲斐ない女の魂でござる。……」
自らの手で何かをつかみとることが、時代的にも本人の性質としてもできなかった女の話。 喜びも悲しみも寂しさも切なさも、心惹かれるものに自らが出向いて得ることができるもの。 安全で居心地のよいところに受身で留まっていては、魂は荒廃する。 3.「お富の貞操」 明治初期、いくさの前夜。乞食の新公は、ある町家に入り、三毛猫と戯れる。 三毛を探しにきたお富を、三毛を猫質(?)として脅し、身体を要求する。 お富は、なぜ新公に身体を任せる気になったのか?三毛もかわいいし、お上も大事だ。 しかし、お富が身を投げ出したのは違う動機があったのだ。 それは最後まで明らかにはされない。 2.「河童」 後ほど、改めて記事を書こうと思う。 3.「或る阿呆の一生」 「歯車」と同様、芥川の遺稿。 そこに直線的なつながりはなく、「時代」、「母」、「家」などの主題が断片的に切り取られている。 白い映画のスクリーンの中に、ポツンポツンと浮かんでは消える映像のようだった。 それらをすべてかき集めると「芥川龍之介」ということになるのだろうか。 一行にも満たない断片でさえ、それで完結している。 彼は、何とつながらなくてはいけなかったのだろうか?彼自身が書いた「孤独地獄」を感じる。 mepo〜芥川龍之介ベスト31.「芋粥」ゴーゴリ「外套」を思わせる作品。 小役人の人生を支える芋粥。ささいな人生の支えを失ってしまった男の最後は、 虚脱感とユーモアのなんともいえない共存だった。 阿部公房「砂の女」でも男が最後、砂地獄から逃げなかったのは、ひとつの慰みのためだった。 自分を世界にダイナミックにかかわらせたいと思っても、最終的に人間を支えるのは所詮、 芋粥や外套という他人からみたら取るに足らないものらしい。いいな、こういうの。 2.「蜜柑」 灰色の心象風景に、鮮やかに浮かび上がる蜜柑の日の色。 日常が次から次へと移り変わるだけの孤独地獄の中で、嫌悪さえ感じていた田舎娘が、 汽車から弟たちに投げた蜜柑は、一瞬だけ退屈な彼の人生を救う。 土とのつながり、人間の真摯な営み、絆のようなものを、 一瞬だけ芥川が垣間見た瞬間だったのだろうか。 いちばん好きな作品といってもいいぐらいの傑作。 3.「歯車」 やはりこれは外せない。 ■■参考文献:「日本文学全集18『芥川龍之介』」河出書房 昭和42年 「河童・或る阿呆の一生」新潮文庫 昭和43年 あなたの芥川龍之介を教えていただけたら嬉しいです。 |
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今日は、芥川龍之介「歯車」。 実は芥川龍之介の作品は、何篇か読んでいましたが、 なぜか記事にできないほど気持ち悪くなり(笑)私の書庫には芥川龍之介の本はほとんどありません。 でも、「名作を中心に読みます!」とブログ冒頭で名言しているにもかかわらず、 芥川がないなんて‥と思っていたところ、私が勝手に文学の師匠と仰ぐ(笑)NONAJUNさんのブログで 芥川の記事を読み、NONAJUNさんに励まされて(?)少し書いてみようと思いました。 【ここに感銘!!】 彼も亦僕のように暗の中を歩いていた。だが、暗のある以上は光もあると信じていた。 僕等の論理の異なるのは唯こう云う一点だけだった。 しかしそれは少なくとも僕には越えられない溝に違いなかった。 【感想】 絶えず主人公を訪れる歯車の幻覚と頭痛―。 彼はなかばそれを受け入れつつ、内側から沸き起こる得体の知れない恐怖感に慄き、 発狂を恐れ、錯乱状態に陥る。古いレイン・コオトに象徴される不気味な外的現象は、 彼の内的現象に呼応して、次第に彼の行き場を狭めてゆく。 この小説は、その内外現象の不気味な一致が、つらつらと書かれており、 これといった筋も辿れないし、彼がこういう状態に陥った原因もはっきりは書かれていない。 それだけに、鬱々とした気持ちが淡々と連ねてあり、不気味なのだ。 救いがないとも言えるし、底に沈殿したまま引用にあるように光が見えないとも言える。 要するに、全然わからないのだ。 ただ、主人公は「罪と罰」のラスコーリニコフのように、罪の意識に慄きながら 部屋と街を徘徊し、少しでも安心し懺悔できそうな場所に身を落ち着けようとするのだが、 結局は自身の錯乱状態を加速していくだけだ。 そして、最後は、 誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくるものはないか?
というセリフで締められる。 え〜、これで終わり?この読後感の悪さは何だろう?全然さっぱりしない。 自分の中に一貫した筋が通らない。入り口も出口もない。 ああ、やはり芥川龍之介はよくわからなくて、恥ずかしながら文章になりません(汗) どなたかこの作品に関して、私を救ってくれる方いらっしゃいませんか?(苦笑)
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