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 ふと夜中に目が覚めた。とても嫌な夢だった。

 あぁ、私はこうやって強い人たちにネチネチと嫌味を言われたことがよくあったなぁ、と思った。誰かもっと強い立場の人たちにかわいがられるのに嫉妬した同年代の子どもたちの標的になることがよくあった。ただ私の存在が疎ましい、そんな感じ。
 私は人前で自己主張をできないタイプだ。

 小さかった頃は本当におとなしくて、じっと他人を観察している子だった。

 母は言う。感受性が強い子で、じっと大人のすることを観察していた、と。そして、同年代の子どもたちから、おもちゃを奪われても、やっぱりじっと彼らのすることを見ていて、泣きもしなかった、と。彼らが飽きて放り出したおもちゃを何事もなかったように取りに行って、また静かに遊んでいたんだと。

 私自身はよく覚えていない。でも、確かに、ほかの子どもが泣きわめいて、彼らの両親を困らせている様を見て、どうしてあんなことをするのだろう・・・と思った自分の心象風景だけは、くっきりと今も思い出すことができる。

 そう、子どもは大人と同じくらいいろんなことを感じて毎日を生きている。子どもなりに自分ができることは何か、と考えてもいる。

 私の場合は、母も祖母も働いていたから、祖父と一緒にいることが多かったわけだけど、たった週一日の休みである日曜日は家事に追われる2人の女性には時間がないことを十分に承知していた。母に甘えたかったが、甘えると迷惑になるからと我慢した。お買いものに行けば、一緒に過ごせたから、その時間が楽しかった。

 やがて高齢だった祖父が亡くなり、女3人の家族となったのが小学校2年生の時。私は一人でおつかいができるようになった。この祖父がもう少し長生きしてくれていたら、私はもう少し子どもらしくいられたかもしれない。内務省の官僚だった祖父は亡くなるまで数学の本をひもといていた。そして、孫を決して子ども扱いしなかった。いろんなことを話してくれた。子どもの短慮で間違いを犯せば、きっちりと叱ってくれた。そして、一方で一緒にたくさんいたずらをして大笑いもしてくれた。楽しい時間だった。今でも、祖父の美しい死に顔を思い出すことがある。父に続いて私の元を去る2人目の大切な人だ、となんとも言い難い無力感を感じたものだ。

 けれでも、祖父は本当はもしかしてもう少し早く逝っていたかもしれない。私は祖父のベッドを取り囲む男たちの幻を見たから。けれども、その中のとても背の高い男性が(私の父は190儷瓩あったらしい)私に気付いて、私が知らない人が家にいると近所の人に助けを求めにいった間に、祖父以外の幻たちは消えてしまっていた。そう、その日は土曜日だったと思う。書道の日だった。その他にピアノや剣道にも通いながら、私は当たり前のこととしてお手伝いをよくする子だったが、それが苦痛であるということはなかった。

 祖父が亡くなってからだろうか、私は勉強をもっと頑張るようになった。明治生まれで大学を出ていた祖父の最期まで学ぶ後姿が、私をそうさせたのだろう。そして、その頃まだ薬剤師として働いていた祖母の知的な美しさにも魅かれたのだろう。母は毎日仕事が終わって帰宅すると、夕食前に私の勉強を見てくれた。

 私は地域の小学校でただ一人、私立の中学校に合格した。母の母校だった。外部ではトップの成績で入学したから、クラスの学級委員に指名されたが、それが苦痛でならなかった。とにかく、そこが私の外の世界に出るための第一歩だった。亡き父や祖父や祖母のために、母を安心させたかった。そう、中学生になった時、私たちは2人になっていたから。私は漫然と生きたくはなかった。目標を持って努力をする人間でありたかった。毎日遊び呆けるような同年代の子どもたちとは、小学生高学年の頃から全く話が合わなくなっていた。広い世界のことをもっと深く知りたい、それが私の目指した道だった。

 受験戦争を経験したといっても、私学のお嬢様学校だったから、入学してからは「死」の世界からは程遠い、ほとんど苦労知らずの同級生たちのお気楽な会話に合わせるのが、なかなかに大変だった。一度、「母子家庭なのに、よくこの学校に通えるね」と言われてからは、私は自分の父親がいないことを隠すようになった。祖父母が特にぜいたくもせず孫のために遺してくれたものや母が全く遊ぶことなく教育資金にと貯めてくれた思いを汚されたようで悔しかったことだけは忘れない。だから、私は、そこを早く通過したかった。つまらない他人の邪念にかかわっている無駄な時間は必要なかった。前に進むことだけを考えていた。

 そして、系列の進学校に進んだ。中学生の頃から進むべき道は決めていた。だから、高校時代に母が2度入院した時、くじけそうになった時も、心は折れなかった。母は元気だった時もいつも仕事が優先で、学校の行事に来れたのはほんのわずかしかない。外国への研修旅行から戻った時も、関西空港から1人で帰ったのは、私1人だったかもしれない。それでも、私は韓国で代表としてスピーチを首尾よくこなせたよと、母が帰宅してから報告できることを楽しみに帰った。いつだって寂しいという気持ちはあったけれど、母が私事を優先しない生き方は間違っていなかったから、私はむしろ自分の子どもっぱい甘えた気持ちから早く解放されたいと望んでいた。

 だから、第一希望の東京の上智大学に合格した時、私はなぜ、2度目の退院後の母の元に留まろうとしたのか、その時は本当はよく分からなかった。高校の先生たちが「チャンスをむざむざ逃すなんて」と私を翻意させようとしたが、私は頑なに首を縦には振らなかった。母が一番哀れだったかもしれない。私は大丈夫だから、目標の大学にちゃんと行ってちょうだい、と言った。でも、母の体調が心配なままで、離れては暮らせない、と私は決めたのだ。18歳の私は、私の将来のためにもっと貪欲であるべきだったのだろうか。

 でも、私は急に弱気になったのだった。私は、母がやっぱり無理をしていたのだと気付いてしまったから、別に上智でなくてもいいのではないかと、揺らいでしまったのだった。それでも、実家にはまだ合格証明書が大事に残っている。「上智を蹴るなんて」そんな同級生の陰口があったことも、大学生になってから知った。けれども、私は、チャンスを逃したとは思いたくなかった。

 私が通った大学は、父の母校だった。だから、私はここでいいと思ったのだけど、通い始めて失望することが本当に多かった。それでも、交換留学生に選ばれ、イギリスに1年留学し、首席で大学を卒業した。ゼミの教授からは国立の大学院へ進み、研究を全うすることを薦められたが、中学生の頃から行きたいと思っていた希望通りの仕事に就くことを選んだ。就職氷河期だったが、6月には内定をもらえたから、後は英語で卒業論文を書くことに専念すればよかった。

 私はただ自分の弱い心に負けたくなかった。でも、やっぱり私もたくさん無理をしていたな、と思う。私は自分の素直な気持ちを封じ込め、封じ込めやってきたから、結果は残したものの、やっぱり折れてしまう時が来るべくして来たんだと思う。

 私は会社に入って2回入院した。そして、会社を辞めた。ふんばりきれなかった。もう父の亡くなった30歳という年齢を超えていたから、かもしれない。もういいんじゃないか、と思うようになっていた。

 「どうしてそんなに生き急いでいるのかと思っていたんだよ」と取材先で親しくなった人に後に言われたことがある。そう、私は、ただ前へ行きたくて、いろんな寂しい気持ちをただ一刻も忘れて、自分が確固たる場所に行きたかった。

 そして、とうとう疲れてしまった。逃げてしまいたかった。

 あぁ、今、私は自分のこれまでがなんだか他人事のように思える。私は今もっと弱虫で、自信がない。ずっと昔、小学校の2年生頃に祖父を亡くして途方にくれた気持ちが今も私の中でうずく。

 私は他人の悪意がこわい。私はずっと悪意をはらいのけるために、強がってきたが、本当の意味で強い人間にはなることができなかったんだと思う。
 
 私のベビーちゃんはきっとこんな母親を情けなく思うときがくるだろう、と思う。

 でも、一緒にいられる時はたくさんいようね。私は、あなたと向き合う時に、もしかして初めて自分を取り戻すのかもしれない。大事にしたい存在を最も身近に感じることで。

 きっとおなかのベビーちゃんも既にいろんなことを感じているだろうなって思う。そう、彼に対し、赤ちゃん言葉で接することは絶対にしたくないと思う。だって、彼は生まれたら、もうちゃんとした一人の別人格をもった人間なのだから。

 私とは全く違う人生を歩みだす存在を見守るということ。それは、きっと素敵な出来事に違いない。

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