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大津歴史博物館に「大津の須恵器と生産遺跡」を見に行ってきました。の続きです。
大津市の須恵器窯跡は西側斜面で4基見つかっており、そのミニ企画展が開かれていました。大津市は琵琶湖から少しの平地があり、すぐに坂道になります。あたりには皇子山古墳群、大津宮跡、膳所城跡(ぜぜじょう)があり、古代から現代まで続く歴史の地です。
一緒に行ってくれたえこさんによると、県庁所在地なのに寂しい街、とのこと。そういえばそうかな。大きなビルもないし。でも大津歴史博物館は見ごたえのある内容で、いくつものジオラマがあり、ジオラマ高いんです、お金かけてるな〜という感じでしたよ。当日は幕末の膳所城に関する企画展もあり、見るところがたくさんありました。旦那さんはこちらに興味を持ってみていたようです。
須恵器は古墳時代に、半島からの技術の導入によってつくられた、当時の人々にとって高級な器でした。ろくろを使って形作り、高温の窯で焼きます。これは大量生産にも向いていたので、奈良平安時代になると、役所の宴会の器に用いられるようになっていきます。
各役所で行事の後には必ず直会をした
須恵器が伝来したころは西日本のいくつかの地域で焼いていたのが、次第に窯の数が増え、東にも移っていきました。当初の有名な窯が、大阪和泉市にある和泉窯。のちに東海地方でも大量に作られ、広い範囲へと運ばれました。和泉窯の5世紀ごろはさまざまな種類が作られ、焼く前の成型も入念にナデを行っていました。主に古墳での祭祀用に使われたようです。
7世紀になると、都や各地の役所で使われる、個人用の椀が多く作られました。銘々皿として各膳一つの料理に一皿が必要となり、5品あれば一人に5皿。50人いれば250皿が必要になります。身分によっては椀に蓋がつけられ、汁物、焼き物など、本当にたくさんの椀や皿が必要になって来たのです。
古墳時代 巫女によってささげられた(とおもう)
出土した須恵器 古墳時代
古墳時代に、神様のために丁寧に作られた器は、スピード→省略→退化していきます。蓋つきの器の、蓋をあけるための出っ張りや、蓋が身の中にきちんと納まるためのでっぱりなどがなくなります。そして蓋には摘まみがつきます。つまみは、大勢の膳には便利です。今の料亭で蓋物を配膳するとしたら、摘みがないと仲居さんは苦労しますよね。神様用には、両手で蓋を取ってあけていたんだと思います。この方が所作としては恭しいですよね。給食となるとそうはいっていられません。役所で儀式があると、その後に直会をするのが習わしでした。国の役人、地方の役人、僧など一緒に食事をするのがよしとされていたのです。手早く配膳し、一時に食事が進まなくてはなりません。だからたくさんの器の注文が、窯元に届いたと思います。
ろくろで作った器を切り離すのは、回転いと切ですが、その跡がどの器にも消されずに残ります。ナデ成形が行われなくなるのです。底に回転糸切痕が残っているのは平安時代と私は思っています。丁寧なつくりは古墳時代、厚くなって、模様もなくて、回転いと切は平安時代。まるで土物みたいな須恵器もあり、時代が新しいほどグタグタになっていきます。発掘で出て来た時に、小さいかけらでも、須恵器は割と時代がわかりやすい器です。
時代が下ると須恵器は作られなくなり、釉薬を塗った陶器が主流になっていきます。戦国期にはぶ厚い陶器の茶碗が、景色がいいなんてことになって、芸術品になっていくのです。和泉窯の匠たちが見たらなんと思うでしょう。
今回の大津の須恵器は、まだ丁寧さが残っているように思いました。一つの郡に一つの窯が作られ、近隣に供給されます。近くに大津宮跡や寺があるので、そういうところからの注文があったのでしょうか。搬入先がわかるととても面白いんですけど。
えこさんご夫妻には、このようなマニアックな展示に付き合ってい下さり感謝いたします。
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須恵器、奥が深いのですね!大津歴史博物館のジオラマすごく気になります。観てみたいものです。ナイス!
ここの博物館はやはり撮影NGなのでしょうか?わたしのところの博物館は常設展示はOKなんですよ。( ⌒ ー ⌒;)
2018/4/20(金) 午後 7:08
絵があるだけで、ずいぶんわかりやすいですね。
なるほど、大量に必要になったんですね。
大津は京都のすぐ近くということもあるのでしょうね。
2018/4/20(金) 午後 7:52
> ねこじゃらし・Kさん
いくつも、見ごたえのある大きなジオラマがありましたよ。私の中ではあれほどの博物館は初めてです。常設展示なのでいつでもみられます、が、写真は禁止だったと思います。ねこじゃらしさんのところはOKなんですね。スバラシイ!
2018/4/20(金) 午後 8:07
> Komoyo Mikomotiさん
すえきが作られなくなったあとに、しびを作ったことが発掘でわかっているようです。とても大きくて、これはきっと琵琶湖の水運が使われたんだろうなと思いました。
2018/4/20(金) 午後 8:17
詳しくまとめられていますので、勉強させていただきました。
ナイス―6.
講座と現地探訪が中心ですので、専門的なことの勉強ができません。
いまだ聞くこと、見ることで目いっぱいですわ。
2018/4/23(月) 午後 3:16 [ おっさん ]
昨日、「行方不明だった古墳」を訪ねて、大津へ行ってきました。
高台の一旦車を停めた駐車場から歩いて5分くらいの森の中にありました。
車で近江神宮に向った道の、1本上の道沿いだったのですが、古墳まではそうと階段状の登りがきつかったです。
須恵器の製造は、現代の量産文明に似たものとお聞きし、その考え方を進歩発展させていたら、産業革命は日本から始まったのではないかと思うほどでした。
挿絵が素晴らしいですよ。
2018/4/23(月) 午後 6:04
> おっさんさん
ナイスありがとうございます。おっさんさんの探訪、とても面白く拝見しました。こちらでも古墳の発掘はありますが、あのようにど真ん中も掘るということはないので、本当に眼福でした。友達にもすぐ見てと言いました。ありがとうございます
2018/4/23(月) 午後 9:32
> えこさんさん
本当に近くにあったのですね。とても良い復元をされた古墳で、惜しいことをしました。でもその後で近江神宮に行き、次の週に映画の放送があって、食い入るように見てしまいました。
当時の庶民からすれば、木を切るし、火を焚くし、大工場のように見えたでしょうね。
2018/4/23(月) 午後 9:55
和泉窯を含む大阪南部の陶邑窯跡群の須恵器は4世紀に始まると聞いてます。大津市の場合、瀬田の山ノ神遺跡の須恵器などは、いつ頃から始まるんでしょうね?それから技術者集団は渡来系だったのかという情報はなかったですか?
以前、朝鮮半島からの渡来人の移民時期を少し調べた事があるのですが、669年に近江国蒲生郡に700名の百済人が移住しています。これは663年に滅亡した百済遺民ですが、恐らく大阪湾岸で何年か過ごし、琵琶湖南部に移住したものと思います。大津市瀬田の須恵器遺跡は多分それよりも古いと思いますが、もしかしたら瀬田付近には百済人が既に移住しており、新たな同郷移住者を受け入れやすかったのかなと、この記事を読んで思いました。蒲生郡と瀬田とは14kmくらいしか離れていないです。
2018/4/27(金) 午前 0:42
> 形名さん
大津博物館のイメージキャラクターは、ミニチュア竈のおじいさん。ここは渡来人の痕跡がたくさん残っているようです。古墳からミニチュア竈、生活址ではオンドル。展示のなかにも半島系のよく叩いた土器がありました。この土器は渡来人が通りすぎただけじゃなく、生活していた証拠になるときいたことがあります。すえき、土木、馬匹生産、文字など、古代の日本はたくさんの知恵を授かっていますね。
2018/4/27(金) 午後 8:46
おはようございます。
先日 大津博物館の近くにある、天皇陵と神社を散歩してきました。
近日中に、ご覧いただきます。
孫が、陸上記録会に参加したため応援に行きました。その時周辺散策したんですよ。
2018/5/9(水) 午前 6:41 [ おっさん ]
> おっさんさん
では、皇子競技場で試合だったのですね。大きな競技場の試合、見る皆さんも意気が上がりますね。近くにある前方後方墳は見ごたえがありそうです。琵琶湖の岸辺は何をするにも便利で、遺跡が多いのも納得できます。
2018/5/9(水) 午前 7:16
おはようございます。
大津博物館の近くにある、「弘文天皇陵」UPしましたので、
ご覧くださいませ。
2018/5/10(木) 午前 5:43 [ おっさん ]