山越え谷越え旧道ある記

長野県飯田市を通る旧道を探検しています。三州街道、遠州街道、秋葉街道などを、散歩感覚で☆

歴史の話

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伊那谷地名研究会の地名フォーラム、今回は4人の研究発表がありました。

1.伊那郡青表紙検知帳の地名…山内尚巳さん
2.竜東地域の集落地名とその考察…下平隆司さん
3.道に刻まれる地名…中島正韶さん
4.明治維新と町村地名の誕生…青木隆幸さん

中で面白かったのが青木隆幸さんのお話。
最近つけられた地名、
南アルプス市、つくばみらい市、高輪ゲートウエイ駅、朝日ヶ丘、光が丘
といったキラキラ地名。
ちょっとどうなの?と思いませんか?それまでの地名を消して、こういう地名がつけられる。その土地が長年使われてきた、由緒ある地名が消されてしまうのはとても悲しいことです。
平成の大合併で、複数の町村が一緒になり、地名の取捨選択できないとなると、無難な地名で手を打ってしまう。という事態が起きました。あまりにも短絡..

ところがこういうことは明治14年の合併でも起こっていたのだそうです。
特に伊那谷は、県の命令が強く出て、一度にたくさんの村が合併させられ、明治のキラキラネームがつけられたのです。
たいてい、役人が自分で考え、押し付けられたそうです。でも結構よく考えられていて、かっこよすぎるきらいはありますが、住民は納得しただろうと想像できます

喬木村…たがぎむら。中国の「詩経」出典。助け合う村の姿からとったもの。
泰阜村…やすおかむら。漢詩、「泰山丘阜」に由来
三穂…みほ。三つの村が一緒になったので
信夫村…しのぶむら。今また分かれている。由来は不明。
伍加村…ごか。五つの村がいっしょになった
旦開村…あさげむら。朝日の当たる村。

あまりに無理やり合併したので、すぐにまた元に戻ったり、再編されました。村の名前を考えた人は、いい名前にしようと相当知恵を絞ったと思います。豊村、とつけたら、うちのような山間地にそれはないと言って反対され、変えた村もあったそうです。最近のキラキラネームだって、いい名前にと思ったことは確かでしょう。

次の元号が明日決まりますね。
どんなんなるんでしょうね。わざと悪い字をつけるわけないから、まあいいんじゃないのとなりそうです。

そう期待します。




Yahooがブログを終了するそうですよ!。まー、いきなりやめるというのはあんまりですよね。なんかもっと規模を縮小するとか、やり方があってもいいんじゃないの?前にアバターが終了したときも、利用者のことをないがしろにしたやり方だったし、今回の終了もYahooならあるかもという感じですね。(-_-メ)
そのうちどこかに移動しますので、その時はまた見に来てくださいね
せっかく知り合いになったブログの皆さんとも、バラバラになってしまうのが悲しいです。ワンクリックで尋ねられたのに(´・ω・`)これからはそうはいきません。(T_T)
まあ、気を取り直して、この先も更新していきますのでよろしくです!なんて、今回は二カ月以上ほおっていましたが。(^_-)-☆

私の発掘に行っているのが飯田市座光寺の恒川官衙遺跡。奈良平安時代の遺跡です。同じ時代で最も近いのが、岡谷市の榎木垣外遺跡
隣の県では岐阜県関市の弥勒寺官衙遺跡です。
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ここで、3月の上旬。官衙遺跡の保護に関するフォーラムがあり行って来ました。初日3月2日は弥勒寺官衙遺跡、伊勢国分寺遺跡、久留部官衙遺跡の三つの遺跡の担当の方の話がありました。
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三重県四日市市くるべ官衙遺跡パンフレットより
北勢バイパス建設中に見つかった遺跡。北勢バイパスを高く架橋して遺跡を保存しています


いつも自分の発掘に行っている、恒川遺跡は、後世のかく乱が多くて、とても大変と思っていましたが、三人のお話を聞いて、うちだけじゃないんだなあと、担当者の皆さんはどなたも大変な思いをして調査しているんだなあと、再認識してきました。思わず(´;ω;`)
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三重県鈴鹿市伊勢国分寺の平面図 パンフレットより


3つとも発掘は終わっていて、整備中なのですが、今はそれぞれ工夫を凝らしたイベントなどで、官衙の研究や体験学習などを行っていて、その発表がありました。古代衣装を着たり、昔の硯で字を書いたり。縄文の遺跡だと火おこしをしたり、弓矢を射たり、割とわんぱくな遊び(学習)ができますが、お役所の遺跡はちょっと地味ですよね。何をしたらいいか知恵がいるみたいです。
役所というのは給食、直会が必ずあったので、給食をイベントにとり入れたらいいんじゃないかなあ。このころから個人のお膳に各料理を盛り付けるようになったので、給食を出したらいいんじゃないでしょうか。イベントのお料理はお客さんも喜ぶけど、作る方も結構楽しめますよね。

フォーラムの講演会は午後からだったので、午前中に弥勒寺官衙遺跡を見に行ってきました。
ここはこれから整備をしていく、今まさに途中です。あしたはここで整備の説明があるのですが、私たちは見るだけに。
ここは長良川が大きく蛇行した凸の部分に、つくられた官衙です。

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正倉域と現在の弥勒寺
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正倉の建物を表している擬木
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準備している擬木

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林の中にある、旧弥勒寺の金堂の心礎

江戸時代の有名な、円空が入定したところで、円空のお墓と、円空の作品を集めた円空館もあります。白鳳期の弥勒寺という古いお寺の跡もあり、その東側で見つかった官衙遺跡です。遺跡と史跡と博物館が、ぎゅっとまとまって存在しているところなんです。円空さんだってめったにないアーティストでお坊さんですもんね。

ここの工事が終了したらまた見に来たいですね。
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弥勒寺官衙遺跡パンフレットより

今回のお話はここまで

皆さんお体大切に。お引越し先をぜひ教えてくださいね!


大津歴史博物館に「大津の須恵器と生産遺跡」を見に行ってきました。の続きです。
大津市の須恵器窯跡は西側斜面で4基見つかっており、そのミニ企画展が開かれていました。大津市は琵琶湖から少しの平地があり、すぐに坂道になります。あたりには皇子山古墳群、大津宮跡、膳所城跡(ぜぜじょう)があり、古代から現代まで続く歴史の地です。
一緒に行ってくれたえこさんによると、県庁所在地なのに寂しい街、とのこと。そういえばそうかな。大きなビルもないし。でも大津歴史博物館は見ごたえのある内容で、いくつものジオラマがあり、ジオラマ高いんです、お金かけてるな〜という感じでしたよ。当日は幕末の膳所城に関する企画展もあり、見るところがたくさんありました。旦那さんはこちらに興味を持ってみていたようです。

須恵器は古墳時代に、半島からの技術の導入によってつくられた、当時の人々にとって高級な器でした。ろくろを使って形作り、高温の窯で焼きます。これは大量生産にも向いていたので、奈良平安時代になると、役所の宴会の器に用いられるようになっていきます。
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各役所で行事の後には必ず直会をした

 須恵器が伝来したころは西日本のいくつかの地域で焼いていたのが、次第に窯の数が増え、東にも移っていきました。当初の有名な窯が、大阪和泉市にある和泉窯。のちに東海地方でも大量に作られ、広い範囲へと運ばれました。和泉窯の5世紀ごろはさまざまな種類が作られ、焼く前の成型も入念にナデを行っていました。主に古墳での祭祀用に使われたようです。
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7世紀になると、都や各地の役所で使われる、個人用の椀が多く作られました。銘々皿として各膳一つの料理に一皿が必要となり、5品あれば一人に5皿。50人いれば250皿が必要になります。身分によっては椀に蓋がつけられ、汁物、焼き物など、本当にたくさんの椀や皿が必要になって来たのです。

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       古墳時代 巫女によってささげられた(とおもう)


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出土した須恵器 古墳時代


古墳時代に、神様のために丁寧に作られた器は、スピード→省略→退化していきます。蓋つきの器の、蓋をあけるための出っ張りや、蓋が身の中にきちんと納まるためのでっぱりなどがなくなります。そして蓋には摘まみがつきます。つまみは、大勢の膳には便利です。今の料亭で蓋物を配膳するとしたら、摘みがないと仲居さんは苦労しますよね。神様用には、両手で蓋を取ってあけていたんだと思います。この方が所作としては恭しいですよね。給食となるとそうはいっていられません。役所で儀式があると、その後に直会をするのが習わしでした。国の役人、地方の役人、僧など一緒に食事をするのがよしとされていたのです。手早く配膳し、一時に食事が進まなくてはなりません。だからたくさんの器の注文が、窯元に届いたと思います。

ろくろで作った器を切り離すのは、回転いと切ですが、その跡がどの器にも消されずに残ります。ナデ成形が行われなくなるのです。底に回転糸切痕が残っているのは平安時代と私は思っています。丁寧なつくりは古墳時代、厚くなって、模様もなくて、回転いと切は平安時代。まるで土物みたいな須恵器もあり、時代が新しいほどグタグタになっていきます。発掘で出て来た時に、小さいかけらでも、須恵器は割と時代がわかりやすい器です。

時代が下ると須恵器は作られなくなり、釉薬を塗った陶器が主流になっていきます。戦国期にはぶ厚い陶器の茶碗が、景色がいいなんてことになって、芸術品になっていくのです。和泉窯の匠たちが見たらなんと思うでしょう。

今回の大津の須恵器は、まだ丁寧さが残っているように思いました。一つの郡に一つの窯が作られ、近隣に供給されます。近くに大津宮跡や寺があるので、そういうところからの注文があったのでしょうか。搬入先がわかるととても面白いんですけど。

えこさんご夫妻には、このようなマニアックな展示に付き合ってい下さり感謝いたします。
 




11月12日 伊那史学会と伊那谷地名研究会の歴史探訪に参加しました。今年は下伊那郡阿南町新野と帯川です。

新野の瑞光院を見学のあと、次は行人様をたずねました。
江戸時代1687年、貞享4年僧行順、本名久保田彦左衛門は、長い修行のあと石室にこもって入定しました。全国にある20数体の即身仏の中で、とりわけ状態の良い仏様だそうです。それはこの新野の気候が良いことと、行順の想像を絶する厳しい修行のたまものなのだそうです。
行人様は石室の上にお堂を立て、今はその中に安置されています。瑞光院の裏山の頂上、標高900mのところです。この看板のところから、一切写真撮影は禁止なので、何も画像はありません。
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御開帳は年に二回、春と秋のみですが、この日は特別に開けてくださいました。

お堂は地域の人が年ごとの当番によって開閉されます。当番がまわって来ると、庭に花を植えて、ご開帳や、急な拝観に備えておくのだそうです。山のてっぺんなので集落からはだいぶ遠く、今は車道がありますが、昔はかなり急な坂道を徒歩で上り下りしなくてはならなかったと思います。行人様の前にはこの季節とは思えない見事な花がたくさん活けてありました。私たちが来る前にストーブをつけてくれてあり、線香がたかれて、お饅頭が盛られていました。

この日の当番は身長の高い、40代くらいの男性で、行人様の説明をしてくれました。保存状態がいいので、即身仏の研究者が訪ねてくるのだそうですが、薬も一切使っていない行人様に、皆驚いていくのだそうです。そしてある研究者が、「すこしカビがあるので、時々空気を入れ替えてください。でも本当に状態がいいです。この方はまだ生きていらっしゃいますね」といったのだそうです。その説明をしながら、当番の男性は、声を詰まらせたのです。

当番は一年とても大変だと思いますが、この地域の人たちは、行人様を本当に尊く思っているんだなと、私も思わずもらい泣きしました。
小さいころからお化けが大嫌い、ミイラを見ることなんて考えられなかったのですが、この日は手を合わせてきました。行人様は身長が当番の方と同じ、180センチだったそうですが、とても小さく、全く骨と皮で、金糸の衣を着ておられました。そして鈴を振りながらお経を唱えてなくなったとのことで、両手は肩のあたりまで揚げておられました。

上人は、若いときに妻と子を火事で亡くされ、その後僧になったのだそうです。それから17年間木食修行の旅にでられ、妻子の17回忌に際して、即身仏となるために石室にこもったということです。

大変ありがたいものを見せていただきました。






またまた久しぶりの更新です。
急に寒くなり、冬になってしまいましたね。厚着と、暖房に頼る日々が来てしまった。

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 私の参加している伊那谷地名研究会は、毎年、伊那史学会との共同開催で、郷土巡礼という歴史探訪を行って いまして、今回参加しました。なかなか日が合わずいけなかったので、久しぶりの参加です。

 今年は11月12日日曜日 阿南町新野でした。
 ここは長野県の南端、峠を越えれば愛知県というところです。三河、遠江、南信州の県境のここらあたりを、三遠南信地方と呼びます。どこへ行くにも山深い峠を越えなくてはならないのですが、峠を越えれば隣の県にも行ける交通の要所です。古くから県を越えて交流があり、祭りや習慣もよく似ている地域です。特に雪まつり、霜月まつり、念仏踊りなど、無形文化財に指定された古い祭りの宝庫です。

 新野は深い山の中に、奇跡のようにまっ平らな盆地が広がった、とてもきれいなところ。昔神様が刷毛でさーっとはいたので、こんな平らができたのだそうです。標高800メートルの高地なので、夏はたいへん涼しく、冬は寒さが厳しいです。

 毎年行われているこの探訪、名所や旧跡を訪ねて行くと、その場所ごとに当地の方が詳しい話をしてくださいます。今年は阿南町役場でバスを2台用意してくださり、立派な資料も配ってくれました。
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深い山の山道を登っていくと突然ぱっと開ける平地。その新野の入り口に、昔この地を収めたという武士が、お寺を立てました。寺はのちに移転し、庵跡のイチョウです。新野は米がよく取れ、千石平と呼ばれるほど豊かなところで、関氏も勢力を誇りましたが、闘争のうちに隣の下條氏に滅ぼされます。
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現在お寺は一キロほど西に移りました 瑞光院。
建て替えたばかりなのと、近隣の村からの檀家が多く、とても立派なお寺です。

こちらは古い鐘。飯田下伊那の南半分は古くは伊賀良の庄と呼ばれたのですが、その名が刻まれています。伊賀良の庄の範囲がわかる貴重な銘です。
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「伊賀良の庄 関郷」と書かれています。
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山門から千石平を眺めます。
左(東)には霜月まつりの諏訪神社があり、正面の山を越えると天竜村(坂部の雪まつりが有名)、右手(西)は雪まつりの伊豆神社、更に向こうは新野峠があります。


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瑞光院の裏山に、江戸時代即身仏となった、行人様が祀られています。標高900mの山で、気候がよかったのか大変保存状態の良い即身仏なのだそうです。年に2回の御開帳があるのですが、今回特別に公開してくれました。

昔から聞いていはいたけど、怖いな〜〜と思って、見たいとは思わなかったのですが、いいお話も聞け大変感動しました。

次回は行人様をくわしく。
つづく













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