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長野県下伊那郡阿智村に浪合(旧下伊那郡浪合村)という地籍があります。国道153号線を飯田から豊田に向かう途中の村です。
ここで、長年名主を務めた千葉さんというお宅の古文書が、この度県宝に指定され、記念講演が開かれました。
3月9日、家から40分ほどかかりますが、阿智村浪合支所 コアホールへ行ってきました。千葉家文書は古くから存在は知られており、私も見る機会はありました。特に中馬の中継地を表した古地図に興味があり行きました。
高速道路やバイパスができてからは、阿智村、平谷村には全く行くことがなくなったので、浪合の中心集落は、本当に久しぶりでした。
昭和40年ころまで、飯田から東海方面に行く主要道路で、中央道ができるまでは必ず通りました。車の弱い私はげーげーやって、ようやくついたのが浪合で、まだ半分も来てないよと言われてげんなりしたものです。あまり建物や道が変わっていないようで、とっても懐かしくて涙が出そうでした!
浪合は江戸時代街道の宿場としてにぎわったので、千葉家には街道に関する資料が大変多いのです。木曽には中山道が通っていましたが、伊那街道は脇往還なので、伝馬がありません。そこで中馬家業が盛んになりました。中馬は一人で三〜四匹の馬を引き荷物を運びます。一度積んだ荷物は、目的地まで直接運んでよいことになっていました。それは伊那街道の中馬に特別許可されたものだったのですが、次第にもうけがいいことがわかると、東海地方の馬(三州馬)が伊那街道にもやってくるようになり伊那の中馬を脅かすようになります。そこで伊那の中馬たちがお上に訴え、伊那は訴訟に勝つのですが、結局三州馬の勢いは止められなかったということです。千葉家にはその時の訴訟の資料がたくさん残っていたそうです。
このように、歴史的に価値があり、地域の生活もよく表していて、文書の整理がついていることが、県宝に指定された理由だとのことです。
演者の飯田市歴史研究所の吉田ゆり子さん(東京外国語大学教授)によって、文書の解読と研究がされてきました。その間、千葉家の奥さん、千葉貴美子さんが先生と一緒に研究に携わってきました。その時の思い出も交え、貴美子さんもあいさつされました。貴美子さんはお嫁に来た頃、舅が先生たちに古文書を見せているのをお茶を出しながら見ていたそうです。その舅さんもなくなり、子供も手が離れたので、うちの古文書には何が書いてあるんだろうと、興味を持ち始めたのだそうです。そこで、飯田市でやっていた古文書講座に通うようになりました。週一回、夕方5時に夕飯を作り、7時の講座に間に合うように出かけます。帰りは10時近く、それを20年続けたそうです。わからない文字をずっと夜も昼も考えて、ふっと浮かんでわかった時の喜びは格別だった、とお話ししてくれました。千葉家の文書については、一つ一つにラベルをつけて整理していってください、と先生に言われ続けてきたそうです。
これはすばらしいですね〜〜。うちにはそんな古文書はないけど、うちの古文書を、自分で解読してみようと思うところが立派ですよね!その甲斐あっての県宝ですからね。
いい話を聞けました。
阿智村ではこんな企画もやっているそうですよ。
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旧伊那街道
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7月13日土曜日。
地名研究会の講座は、「古代東山道関係の地名と歴史」でした。
講師は阿智村役場参事の 原 茂伸さん
阿智村は神坂峠のあるところで、古代東山道の研究が盛ん。峠のふもとの園原というところには「ビジターセンター箒木(ははきぎ)館」があって、神坂峠までのウォーキングコースの案内、周辺の名所の案内などをしています。また全国の研究者を招いての講演や研究発表などもされ、レベルの高い研究に触れることができます。
なので今回の原さんの講座もとても面白いものでした。
神坂峠は峠に捧げられた石製品などが出土し、ここを東山道が通っていたのは確実です。
ところがそこを出てから飯田、上伊那になると、3通りの説が主張されており、いまだにまとまりません。
飯田で言うと、山よりの伊那街道か、真ん中の久米街道か、天竜川沿いの遠州街道かというぐあい。
最近の研究では、古代官道は幅広いまっすぐな道が国衙と国衙を結ぶように設計されたそうなので、そうなると伊那街道が最有力。ただし考古学的証拠が見つかっていません。発掘はすぐ、いくらでもできるわけではないので、確定にはまだ時間がかかりそうです。
わたしは今、遠州街道を歩いていますが、この後は藪の中を行かねばなりません。これは夏には無理なので冬まで待つことにしまして、伊那街道を歩いてみることにしました。
松川町上片桐は延喜式に東山道の駅として載っている「賢錐(かたぎり)」がおかれたところです。飯田の我が家から22キロ。ここへ仕事のついでに娘に乗せてもらって、歩いて南をめざしました。写真撮りながらとぼとぼ歩き、11時30分ころの電車に乗って帰る計画です
出発地点。橋を渡ると下伊那郡。私が立っているのは上伊那郡です。写真の石碑は「歴史の道」が書かれたころには谷底のほうに置かれていたようです。
旧道の橋のあと。新しい道になったのは10年くらい前だと思います。
道からは東のほうがよく見えます。天竜川の対岸は部奈というところ。
一里塚の碑。
古地図にあって、場所が確かな一里塚はあまりないのですが、ここははっきりしているところ。
伊那街道は中馬の道として大変にぎわったので、江戸時代から残る旧家が軒を連ねています。この日は暑く、歩くのにやっとで、旧道の町並みをとり忘れてしまいました。
旧道の雰囲気はあるのですが、ここ10年ほどですっかり寂れてしまい、お店が一軒もなくて驚きました。
飯田の1617年から1653年在城の御殿様は脇坂安元。当代きっての文化人といわれた方です。ここは脇坂氏の狩の休憩に建てられた小屋があって、後に幕府代官の座光寺氏が陣屋を置いた、片桐陣屋跡です。正面は生垣が邪魔でこんな写真しか…。
建物跡をとってみると。
なんだ??木の下に白いものが!!この直前には
なんかもやもやしたものが?!
なんだろう?
もしかして
気を取り直して歩けば、このあたり旧道の趣があります。
昔この町を通った磯丸(歌人?ですか)が、残した歌を、歌碑にして大事にされている家、(つのくにやさん)がありました。磯丸の出身地が津の国
「津の国や 難波渡しの心地して よしやあしやの 里ぞ恋しき」
帰りは計画通り11時39分発の電車に乗って帰りました。
伊那大島駅は連休の登山客でにぎわっていました。
伊那大島駅からの赤石山脈 |
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めっきり秋らしくなり、日差しも和らいできました。
相変わらず、それ掘れやれ掘れで、現場は忙しく動いています。
遺跡周辺、上郷地区の紹介をします。
遺跡の東に旧伊那街道が通っています。
伊那街道は中山道の脇街道。
諏訪から高遠へ出て、天竜川に平行して南下、駒ヶ根、飯島、飯田城下から、阿智、浪合…愛知県岡崎へ。愛知県と飯田、松本を結び中馬が盛んに通って賑わいました。飯田の賑わいは山間の小藩にはつりあわない荷駄の数で、飯田を通る旅人が驚いたそうです。上郷は飯田城の北入り口。桜町駅北に大門跡があります。
川のほとりは飯田藩の処刑場跡があり、石碑が立っています。
ここから西尾醸造へ上がる道は江戸中期からの道。
庚申坂へ行くのが古い道です。
ANAHORI飼い主は子供の頃よく通った道で、行進坂だとおもっていたらしい
黒田の一里塚は、宿在家(家名)という旧家の庭にあります。飼い主の恩師の家です。(西保育園の)(ローカル)
ここから土曽川をわたる手前に道標があり、北善光寺道とありますが、座光寺の元善光寺のことです。(恒川 座光寺饅頭みてね)http://blogs.yahoo.co.jp/meruru325/2123288.html
上郷地区は県道が改修されたとき、旧道を残して通したので、車の少ない良いお散歩コースになっています。周辺にも史跡やみどころがあります。
姫宮 ひひ退治伝説
黒田村には毎年悲しい習慣がありました。それは秋に山のヒヒに村の娘を差し出すのです。今年も白羽の矢が刺さった家の娘が親兄弟と別れを悲しんでいると、ひとりの武者が通り、「私がそのヒヒを退治しよう」といって、娘の変わりに輿に乗り、お宮へ。夜中に出てきたヒヒと死闘の末、ついにヒヒを倒します。それ以後村は平和になりました。
黒田の三ツ井
上郷地区の田畑への井水。江戸時代から変わらぬ水割りになっています。今はコンクリート製です。
風越高校と大根坂
風越高校は女子高校でした。昭和50年に移転し、大根足がたくさん通るようになって付けられた新しい地名です
稲垣来三郎匠
味噌醤油の店。お土産売り場充実。おにぎり2個に味噌汁と、なめ味噌の味見ができて300円です。小腹が満たせます。古民家を改造した素敵な店。川路辻前の旧家を移築したものです。(旧道散歩遠州街道みてね)
ざぜん草群生地
道標東に川底へ降りる道があり、その坂の途中、木の歩道を設けて周遊できるようになっています。
黒田人形
江戸末期から黒田神社で人形浄瑠璃が興行されるようになり、地域の住民の年に一度の楽しみでした。阿波から人形使いを呼び、伊那谷の各地で盛んに上演されましたが、今はここ黒田を含め四座だけとなっています。黒田神社には近年人形館が建てられて四座の合同練習が行えるようになっています。
飯田は人形劇の町。毎年、各地から劇団が集まって、人形劇フェスティバルが開催されています。
中央自動車道と東山道
高速道路の建設が古代官道の発掘につながる話が良くあります。
飯田には官道の考古学的な発見はいまだありませんが、伊那街道が東山道の名残ではないかと、私は考えます。
江戸中期になって、東へ街道を移したのは、城下町へ入るのに遠回りだったから。飯田城ができる前は、鼎から上郷まで、西の山際を一直線に通っていたからだと思います。それはちょうど中央自動車道のコースです。
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