山越え谷越え旧道ある記

長野県飯田市を通る旧道を探検しています。三州街道、遠州街道、秋葉街道などを、散歩感覚で☆

秋葉街道

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高遠長谷入野谷
 
11月2日に高遠歴史博物館の「高遠石工 鑿に込めた想い」をみにいって来ました。そのつづきです。
 
秋葉街道と言うのは近年の呼び方です。
街道と言うのは明治以降、もっと言えば昭和や平成になってつけられている、道路につけた愛称であることがほとんどです。現国道が数字で味気ないので、親しみがわくようにつけていることもあり、歴史の裏付けが無い場合もあります。
実は私がここ4年ほど取り組んできた遠州街道もそのようにつけられたもの。
だからと言って道自体が古くないと言うわけではありません。
 
しかしその逆もあるのです…
それが秋葉街道です。
この道は、江戸時代秋葉詣でが盛んになって交通量が格段に増え、そう呼ばれるようになりました。
 
その前の時代には、南朝の皇子が吉野、伊勢、井伊谷、諏訪へと移動した道です。
南朝側ではこの道が使えるのを知っていたのでしょうね。これは太平洋側から諏訪へ行く最短ルートです。
 
そしてさらに古く、南信を走る道の中で最も古い道じゃないかと私は思います。
八ヶ岳山ろくには黒曜石がとれて、縄文の大集落が発達しました。日本各地から黒曜石を求めて交易があり、海辺の村からは塩が運ばれたと思います。
そのときこの遠山谷ルートが開かれていったのです。
天竜川は天龍峡〜平岡のところが谷が深すぎ、最短ルートとなりません。つまりここが秘境駅エリアで、飯田線が開かれて初めて「輸送」が可能になった地域と言えます。
 

遠山谷のほうは、秋葉街道というよりももっと古道といえます。そして、深い山を越えてきた先に、湖が広がっていたのは、なんとも神秘的な感じがあっただろうと想像します。
 
と言うマニアックな私説を読んでいただいたところで本題です。
 
高遠、分杭峠、大鹿村、上村、南信濃村、水窪、秋葉神社、と言うのが今の秋葉街道です。今回はこのうち高遠の先の長谷村入野谷へいって来ました。
いまだに古い宿場の面影のある集落です。バイパスができたので古い街がそのまま残っていました。
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「橋本屋」さん。宿屋のつくりが今も残っています。
分杭峠というのは下伊那郡大鹿村と伊那市長谷の間の峠です。
5年ほど前から、パワースポットとして有名になり、それまでほとんど来る人がいなかった山中が、大変にぎわうようになりました。
 
また、その手前の非持、黒河内は美和ダムができて、古道がダム湖に沈んでいます。
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入野谷の円通寺というお寺に貞次の石仏が2体あります。
円通寺は小高いところにあり、集落を見下ろす形で建っています。
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延命地蔵尊像と聖観音菩薩です。
 
パワースポットのお客さんでにぎわう長谷村ですが、美和湖の岸に道の駅があり、そちらも賑わってきたようです。
 
でも、ここもおいしいです。
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道の駅長谷より、5分ほど先。
「くるみ」です。
味がちょうどよくて、センスがいいなあと感じます。
奥さんはパッチワークとか鉢物とかを上手に育てていらして、和めるお店です。
 
長谷村をお尋ねの際はぜひどうぞ。
 
 伊那市の高遠歴史博物館の企画展、高遠石工〜鑿に込めた想い〜
を見に行ってきました。
伊那は飯田から車で1時間。親戚の大叔母95歳をたずねながらいきました。
 
お昼は伊那名物のソースカツ丼を食べていくことに。
伊那インター近くの「青い塔」さん。店名の他にひげのとんかつと言う名前でも知られています。なんだか人気アップしたのかな。すごい混んでいて、人がどんどん来ます。私たちの後は並んで待っていました。
!あ〜〜丼じゃないのを選んでしまった。カツが大きくて、食べきれずお持ち帰り。親切にパックを出してくれました。
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食事の後は博物館へ。
高遠城址公園の端のほうにあり、元禄のころに高遠に流され、幽閉されていた江島の囲み屋敷などもあります。今日は、秋のお祭りをやっていて、こちらもすごい人、駐車場もいっぱいでした。
高遠城址は桜の名所ですが、秋は紅葉も見所のようです。
私はとにかく博物館へ
 
パンフレットにあった館長さんの言葉です。
「江戸時代、信州高遠は石工の里として全国的に知られていました。高遠藩領内各地の村々から、優れた腕を持つ石工たちが全国各地に出向き、出張先で石仏や石塔、石橋、鳥居、石垣などさまざまな石造物を造立しました。
彼ら「高遠石工」の作品はブランドとしての価値を持ち、長い年月を経た現在でも様々な場所で彼らの作品を観ることができます。さらに江戸時代の高遠石工をルーツとする石屋(石材店)が各地にあり、高遠石工の心と技が受け継がれています。
本特別展では、各地に残る関連資料や作品を紹介しながら、高遠石工が誕生した背景を探るとともに、江戸時代から現在に至るまでの軌跡をたどってみたいと思います。」
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生産力の無い山間地の高遠では、藩が出稼ぎを許可し、農民たちは石工として各地に出向いていったようです。
なかでも江戸末期に現れた「守屋貞治」と言う石工が、すばらしい作品を残しています。
貞治は松本、諏訪、三重県、山梨県など、高遠からかなり離れた場所にも出向き、仏像を残しています。
 
博物館を見たあと、この地域に残る貞治の仏像を見に行きました。
 
 
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美和湖と高遠湖の境、常盤橋
この橋のたもとに、貞治の最高傑作といわれる不動明王が祀られています。
近づくにはこんなところにかけられた、20センチ巾の橋を渡ります。
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さらに高遠から離れ、伊那市長谷に向かいます。分杭峠のふもとの入野谷の集落に、円通寺という寺があり、そこに祀られている2体をみにいきました。
 
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つづく
 
 
思ふにはなほ色浅き紅葉かな そなたの山はいかが時雨るる
おもうにはなおいろあさきもみじかなそなたのやまはいかがしぐるる
 
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南北朝時代、信濃の伊那の山奥にこもり戦機を伺っていた南朝の皇子、宗良親王の歌。後醍醐天皇の死に際し、吉野に居る仲間たちに送った歌です。
色づき始めた紅葉と、今日の雨が似ているなと思いました。
 
悲しみは色づき始めたいまの紅葉よりも深い色です。
そちらでもみんな悲しんでいることと思います。
そちらの山はどんなふうに時雨れているでしょうか。
 
天皇の死は悲しいけど、その気持ちを抑えて、仲間のほうを心配しているような感じがしませんか?
 
しまった。ちょいと湿っぽかったですね。
友を思うところがいいなあと思ったので。
 
下栗の里でも紅葉が見ごろになってきたとのことです。
このチラシは、下栗でガイドをしている方からついさっき頂きました。
 
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親王もここまで足を伸ばしたかも。
 
 
来月下栗を訪ねてきてくれるブロ友さんが居ます。
情報を集めていたらくれたので偶然にびっくりして、うれしくなってのせました。
 
。。・・。。☆★。。・・。。
 
皆様も秋を満喫してくださいね〜〜
 
 
 

月を詠んだ歌

18日は中秋の名月でしたね。
この日が満月なのは8年後なのだそうで、また晴れることも珍しいのだそうで、今年のお月さまはとてもきれいでしたね〜〜。
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南北朝時代に、南信の下伊那郡大鹿村に、後醍醐天皇の第8皇子(第4、第5とも)宗良親王が、南朝の勢力拡大を図って居城していました。
南朝に忠誠を誓う駿河の井伊氏、諏訪の香坂氏を頼り移り住みますが、これらを一直線に結ぶ道が、秋葉道、国道152号線です。
日本の地形図で、一直線の谷が見えると思いますが、これは中央構造線の谷。九州まで続く日本列島の継ぎ目です。
 
 
南北朝時代、天竜川の向こう飯田側は、足利尊氏の側近小笠原氏が領地を持っていて、その間近を悟られず移動し、戦機をうかがっていた宗良親王。
なんともスリルがありますよね。
 
こんな田舎に高貴な方が住んでいたこと、国を二分した争いが、この地で行われていたことで、地域史の中でも人気のテーマです。
 
また、宗良親王は和歌に秀でて「李花集」、「新葉和歌集」などの歌集を編纂しています。
なにもなければ都にいて、なに不自由なく暮らしていた皇子が、雪の中、山奥、谷間の急流などを詠んだ歌は、他にはない緊迫感、寂寥感があります。
 
皇子が大河原にいて詠んだ月の歌
 
・いづかたも山の端近き柴の戸は月見る空や少なかるらむ
 
大河原は遠山郷につづく深い山の中の村。お日様もすぐ山に沈むように、名月を愛でようとしてもじきに山の端にとどいてしまいます。
 
後村上天皇から、名月の消息を尋ねられ、その返答
 
・いかがせむ月も都と光添う君すみのえの秋のゆかしさ
 
さあどうでしょう。月も都のほうが美しい。あなたの住むすみのえの秋のゆかしさにはかないません。
 
・月に君思い出(いで)けり秋深く我をばすての山と嘆くに
 
月を見て私を思い出してくれたのですね。山の中に住んでいると、私を捨て(我をすて)られたかと嘆いていました。
 
友人から消息を尋ねられて。
 
・身の行くへなぐさめかねし心には姨捨山の月も憂かりき
 
一時、吉野に戻り、月を詠んだ歌
 
・わすれずよ一夜伏せ屋の月の影なほその原の旅心地して
 
 
わすれないよ。一夜明かした伏せ屋で見た月。こんな月を見ると、あの旅のときの気持ちが思い出される。
東山道の難所、神坂峠の麓の園原というところに救済所「布施屋」がありました。
園原と布施屋は縁語で、歌の中にセットで出てきます。
ここで読まれたのは阿智の園原ではなく、月を見て一夜明かした伏せ屋、その原っぱ、ということでしょうか。
 
再び信濃に戻り、南朝の再起を図りますが、かなわずに倒れてしまいます。
そのお墓は大鹿村、井伊谷などに説があり、お宮が建てられて祀られています。皇子でありながら戦いの中にいたこと、歌人で、悲運の生涯など、ひきつけられる人物です。ヤマトタケル。義経にも似ていませんか?
ちがうかな。
 
何より歌がいいので、もっと知られてもいいのにと思います。
 
また折を見てのせたいと思います。

夏を惜しんで怖いい話

おひさしぶりです。9月とはいえまだまだ暑いですね。
 
先週から久しぶりに発掘に出ました。
仲間たちの中には一年半、暑さも寒さも乗り越えて、大きな現場をやり通した人たちもいます。
その間私は室内の仕事で、後ろめたく、おまけにすっかり体がなまっていました。
 
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おととしの現場の近くです。前は男子高生が多かったのですが、今は学校再編で別の地区に移り、空いた校舎を別の学校が使っています。今度は女子高生が大勢歩いているので、不思議な風景…。
 
まだ暑いので、初日はばてました。
調査員の先生もいままで中のお仕事だったので、二人はお昼に立ち上がれませんでした。シニア世代の人たちは平気のへーで、お昼に家に帰っていきました。涼しい顔で。
モンスターだ!
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発掘をしていて、掘るのがつらいのは
便所とお墓でしょうか。
 
どっちが辛いかというと、う〜〜ん。
ヒミツです。
 
どちらもだいたい、掘る前にわかるのですが、前触れなく出てくるのはじぇじぇ!?ですね。でも。別の意味で前触れがあったりするのは……
 
去年の秋、現場は秋葉街道調査のときの話です。
秋葉街道は現在のR152号線。静岡県浜松市天竜区にある秋葉神社への参拝に、大変にぎわった道です。江戸時代の終わりごろから秋葉信仰が流行り、険しい山道にもかかわらず、大勢の人が通りました。車や電車の時代となって、歩いていく秋葉道は廃れてしまいましたが、今でも残っており沿線は古い祭りや風習を伝える貴重な道です。
山深く、集落を遠く離れ、車ではいけないところもあり、ちょっとした覚悟がいるみちです。
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この道を調査ということで、神社前の空き地を発掘していました。
 
1人ずつトレンチを掘っていたら、私の前で親方
(当ブログにときどき登場する元気な調査員さん↓)が、
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いつもはそれ掘れやれ掘れといってるのに、
「あれ?なんだか生温かい風が吹いてきたなあ。
この世のものじゃない物が近づいてきたぞ」
というのです。
 
わたしが「え?」と思っていると、隣のトレンチで掘っていた人が
「先生、こりゃなんだろう?」……
親方が覗くとそれは骨でした。
 
秋葉道を歩いてきた人が、ここで具合が悪くなり亡くなってしまったようです。
地主さんの先代(先々代?)が、穴を掘って埋めてあげたのでした。
でも詳しく場所をきかずに先代も亡くなりわからなくなっていたそうです。
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街道には行き倒れがよくあり、手形などから生国がわかると、
そこへしらせてやってみうちが供養にきたり、
連絡が取れないと、地域で無縁仏として供養してやったようです。
三界万霊や、南無阿弥陀仏などの碑を建てる所もあります。
ここでは住人も少なく簡単な埋葬しかできなかったかもしれません。
 
山の中で日も差さず、通る人もまれなところですので、
「ようやく見つけてくれたか」、という気持ちがあったような気がしました。
お墓を掘ると、いつもは破壊という文字が付きまとうのですが、
このときはいい事をしたなあと思いました。
 
南無南無…
 
 
 
 
 
 
 

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