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ヤフー!ブログが終了という事でアメーバブログに引っ越します。「山越え谷越え旧道ある記」というタイトルですが、まだ設定がわからず、IDがそのまま使われてます。何とかせねば。めんどくさい作業のいくつかを山越え谷越えて終わらせました。ヤレヤレです。
皆様あちらでも宜しく…まだ整っていませんが一応下記に貼り付けました。プロフィールにいっちゃうみたいですが、ちゃんとまたご案内します。 https://ameblo.jp/meruru3140/entry-12459153389.html https://profile.ameba.jp/me |
東山道
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この度大津歴史博物館で、「大津の須恵器(すえき)と生産遺跡」のミニ企画展が開かれ、先日の日曜日(3月4日)に行ってまいりました。
ブログでお付き合いしていただいているえこさん (←えこさんのブログに行きます)ご夫婦に、「そちらを通るので、行きでも帰りでもちょっとお会いしたいです」といったところ、「その展示に興味があるので、博物館で待ち合わせましょう」と言ってくださいました。
ところが当日は「琵琶湖毎日マラソンの日」
![]() ![]() 道路は時間により封鎖、一方通行。交通渋滞必至。事前に調べなかったため(‖ ̄■ ̄‖)
行けるところまで行って、あとは電車、を覚悟で向かいました。
琵琶湖大橋を渡るまでは結構渋滞しましたが、あとはすんなり通れて、博物館につきました。
えこさんご夫婦は電車で来てくれました(T_T)
須恵器についてANAHORIの熱のこもった解説〜〜〜
![]() ![]() 私の通っている現場でも須恵器がよく出ることから、須恵器にはとても興味を持っています。
↑須恵器 𤭯(はそう)、蓋つきのうつわ、硯など
日本の器の歴史を古い順に並べると…
1.縄文土器
2.弥生土器
3.土師器
4.須恵器
5.施釉陶器
6.磁器
須恵器は古墳時代に朝鮮半島から渡ってきた技術によってつくられました。須恵器の技術をもった半島の技術者が大勢日本にやってきたのです。土木、米作り、馬飼い等の技術者も多く来て、各地に渡来人の痕跡があります。
須恵器の焼成は窖窯(あながま)でおこない、
それによる高温の焼成方法が極めて革新的であることが、従来品と大きく違っています。製品もそれまでにないほど薄く硬質で灰色をしています。成形には轆轤が使われるのも特徴の一つです。窯の歴史http://www.geocities.jp/shimizuke1955/30100main.html こちらのHPが詳しくわかります。
上の画像もお借りしました
創業当初は祀りのための特別な器だったようで、この頃のものはたいへんきれいなつくりです。古墳時代から平安時代末まで作られ、以後施釉陶器、磁器が器の主流となり現在は須恵器の生産はありません。
須恵器は水漏れしないが煮炊きができないという弱点があります。古墳時代は祭祀用だったものが、飛鳥時代、奈良時代に中央集権化が進み、国、郡の役所で使う饗応用の食器に用いられるようになりました。
つまり、律令時代を代表する器です
![]()
地方の官衙からの需要により各地にも窯が作られます。しかし器は規格化されていたので、これまでの土器のような地方色はあまりありません。料理ごと×人数の皿が必要になり、器による身分の違いを明確にすることにも使われました。――銅椀〉緑釉陶器〉須恵器〉土師器〉木の葉、のように差別化した。大量生産により次第に作りが雑になります。器種と粗略化から、器の制作年代の判断がしやすい。わかりやすい器です。
今回は地方に作られた大津地方の窯というのが興味を引くポイントです。窯は使用中に崩落し、中のものが取り出せずに残されました。完成品にならずに歪んだものやくっついてしまったものが展示されていました。7世紀半から8世紀半ばの操業ということです。窯の構造、器の入れ方、その後鴟尾(150cm、おおきい!)の制作にも使われたこと、などがよくわかる内容でした。遠くから行くので、と事前に電話を入れたら、「期待していただくほどの展示じゃないかも。」と電話の方がいっておられましたが、そんなことはなく満足してきましたよ〜〜。館内の他の展示も、ジオラマなど多く使われていて、見どころ満載でした。
窯の器の搬入先がどこなのかは、発表されていなかったようです。周りに多くの寺、官衙があるので、比定は難しいかもしれませんが、わかるとおもしろいですね。特に大津京確定につながるととてもおもしろいんですけどね〜。
字ばっかりですみません。つづきます
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2月から行われていた、恒川遺跡の発掘が終わり、現地説明会がありました。飯田市座光寺の恒川遺跡は、奈良平安時代の役所の跡で、国指定の史跡に指定され、学術調査が続けられています。今回は20年前の発掘の隣接地。その時は正倉院を区画する溝が出て、瓦などが出土し瓦葺きの建物の存在が推察されたので、今回は是非建物跡を出したいと言う期待がありました。しかし残念ながら、大きな建物を乗せたような遺構の発見はありませんでした。それでも沢山の炭化米が出、米を納めた倉があったことは確かです。また、瓦の欠片11点、硯の欠片も出ました。瓦を葺いた建物があり、事務仕事をした役人がいたのも推察できます。
現地説明会に向けて、前日から周辺整備に頑張りましたが、天気予報は雨☔(T-T)。頑張った甲斐がないのかなーと思いましたが朝は小雨。見学のかたも少しずつ集まってきました。 次第に雨が強くなりましたが、皆さん傘を指して、最後まで熱心に見学されていました。今回は四角い白いテープで区画されたところから固くつき固めたような土が出てきました。そこからは特に多量の炭化米も拾えています。土壌改良の跡かもしれないのですが、他に事例がないので目的不明遺構としかなりませんでした。今後発掘していくなかで、解明されるかもしれません。 座光寺地区の人たちも熱心に活動されているので、何かもっと注目されるようなものが出てくると良いんですけどね。 次の発掘も決まっており引き続き穴堀します。今度こそ❗なのであります。 今夏は朝夕の野菜採り、桃、唐辛子の出荷、雑草との格闘など、そと仕事ばかり、ま〰、良く日に当たりました。 秋は行楽しなければ!皆様もご自愛ください。 |
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飯田の古墳13基が昨年、国指定の史跡になりました。その記念企画展が、飯田市美術博物館で開催されています。ぜひお越しください。
天皇陵でもなく、特別大きくもない、一見すると地味〜〜〜な古墳たちなのですが、なぜ国指定に選ばれたのでしょうか?
それは成り立ちがとてもユニークだからです。最初に言ってしまうと、それは東山道の開鑿時期に関係があるんです!!(なんと、東山道!マイテーマです!)
飯田の古墳を見ると、東山道の出来たわけが見え、東山道ができたのは日本の交通事情が変わってきたから、日本の事情が変わったのは東アジアの状況が変わってきたからなのであります。国指定になった理由はそこにあります。
そんなお話をしてくれたのが今回の講座の土生田純之先生です。
(古墳研究の第一人者。専修大学文学部教授)美博の講堂に収まり切れない120人余の参加がありました。
土生田先生のお話をかいつまんで
古墳が全国に広がったのは、政治的な意味を多分に含んでいたといわれます。
1. その形(前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳、積石塚古墳ほか).
2. 副葬品(鏡、武器、武具、馬具他)
3. 広がり方(畿内から全国の首長へ)
などを調べると、4世紀、古墳というモニュメントの築造を通じて、畿内政権が全国に勢力を広げていったことがわかる。当時200m.300mという巨大古墳が東海、関東などに作られた。この時、船で沿岸をつたいながら東海や、関東に伝わって行った。つまり東海道が使われていた。
それが5世紀になると、いったん巨大古墳が途絶える。
そして、100m以下の古墳が作られ始め、副葬品も変わってくる。それは日本が朝鮮半島で高句麗と戦って(高句麗が南下し、百済に圧力をかけてきたので友好国として参戦 好太王碑の時)、高句麗に惨敗した後の傾向とみることができる。鎌倉時代に、元寇襲来で古来の戦法が全く相手にならないと知った時のように、最新の武器、馬による戦闘に日本人はコテンパンにやられ、これではいかん、と思ったのがこの後の古墳に見ることができます。
それまで武器は王を飾るもの、呪術用で、実戦用ではなかった。馬も知らなかった。馬を飼って、戦争に使えるようにしなくてはならないということになり、朝鮮から馬と馬を飼う人と技術を取り入れる。実戦に使える鉄の武器を作る、製鉄の技術を取り入れるため、多くの朝鮮人が渡来した。(強制か、あるいは亡命)多くの人が東国へと派遣され、多くの製品が畿内へもたらされる。同時に陶器、建築の技術も伝えられた。
大量な荷物を、確実に届けるには海よりも陸だということになり、原東山道が開鑿された。その時畿内から東国に行くための道筋がひかれ、その途中にある飯田に最新の技術がもたらされ、飯田古墳群が成立したのです。
飯田の古墳には、全国で類を見ない数の馬の墓、馬具の副葬品があります。飯田は馬を飼い、更に東国へ牧が広がると、成長した馬が東山道を通じて飯田に集積され、神坂を超えて畿内へと運ばれていったのです。
しかし政権はまだ中央集権体制ではなく、古墳の作り方には地方色があることから、地方行政は各地の首長に任せたとみることができる。特に渡来人の扱いには差別的だった地域、融合した地域などがある。飯田の古墳は、後の部民性のように、いくつかの畿内豪族と直接つながっていたように見える。
というおはなしでした〜〜〜。資料も充実、わき道にそれることもなく、大変良い講座でした。すごいな流石だなと思いました。
東山道に凝っててよかった〜〜。と思うような講演でありました。漠然と単純に、真っすぐな道がすごいと思っていた私に、知の雨が降ってまいりました〜〜。うお、うお、ウオーターーー!!(ガラスの仮面)
このまま進んでよしですな
弥生から始まった稲作は、階級をつくり首長が現れます。各地で次第に一人の首長に絞られるようになり、なかでも畿内の豪族達の力が大きかった。(卑弥呼はこのころの豪族の王だった?)畿内では天皇家はまだなく、共立性だったけど全国に及ぼすほどの勢力があった。古墳時代はこのころ始まったと思われます。東山道が作られたころになると、次第にヤマトの王が、日本の王になっていき、地方にも命令がゆき渡るようになって、飛鳥時代が来ます。
東山道を知るには前時代を知らなければなりません。ですからとてもためになり、楽しい講義でした。
おわり
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暑い毎日ですね。35度とか、36度とか、外で活動するには辛すぎる暑さです。皆様ご自愛されてますか?
自分の仕事が発掘なのと、家に帰ると畑に草は生えてるし、外にいることが多いです。が、好きでやってるので、大して気になりません。飯田はいくら暑くても夜は涼しいのでなんとかなります。
海の日含む三連休も暑かったですね〜〜。20本ばかりのジャガイモを掘りあげ(まあまあの出来でした)、畑の用事は済ませたので、歩きに行きました
う〜〜ん、何日ぶり、何か月ぶりでありましょうか。
今回は上伊那郡飯島町七久保から田切を歩きました。
いいじま道の駅 柏木近くの旧道
長野県飯島町には、花の里いいじまという道の駅があって、休憩、食事処あり、地区の農産物など豊富に置かれた売店などがあります。隣と向かいには大きなお菓子屋さんもあり、かなり楽しめるところです。道の駅のすずらんアイスはぜひおすすめ。近くの牧場の牛乳で作られています。
ここで私もアイスを食べながら出発です。
道の駅の前は20年ほど前に開いた県道15号バイパスで、その裏手に旧道が残っています。県道飯田飯島線は、伊那街道と呼ばれ、江戸時代に松本諏訪と飯田を結ぶ道でした。下街道(今の国道)よりも交通量があり、当地域の幹線道路でしたが、天竜川沿いの国道が道幅を広げ通りやすくなったので、昭和の初めには、国道に交通量ではかなわなくなりました。そこへ来てこのバイパスなので、旧道は全く静かになりました。
こちらの道は山沿いを通るので、川幅が狭く、容易に橋をかけられることと、道が直線になりやすいことから、江戸時代の街道として機能したのですが、それは古代でもそうだったのではないかというのが私の仮説です。
飯田下伊那の地形模式図
伊那地方の東山道は、木曽山脈に近い県道と、天竜川に近い国道との2線の説があり、(中道も言われているところは3説)決着がついていません。私は県道を取っています。特に松川町から伊那市までの、田切地形(川の強い浸食によって扇状地が切られる)の発達したところでは、国道のルートは渡河が困難です。この地域は特に県道が通りやすいです。
しかし、最も急流である与田切川の谷は県道も国道も渡河に難儀をしました。そこで直立した壁を降りるために、つづら折りの、七曲りと呼ばれる坂道が作られました。
ここでその昔は、県道も国道も一つになっていたようです。近年、車、荷車の道としてつくられたものです。古代までさかのぼれるという証拠はないですが。
旧道と新道が合わさったところにある石碑群
七曲り入り口の 昭和初め青年団によって建てられた道標
「本郷駅を経て龍西線に通ず」
この先は国道153に通じているという説明
七曲りに入ります。
車にはヘアピンカーブの連続ですが、歩きには階段があって直下できます。
与田切川の作った谷は70mの高さがあります。
70mおりて70m上がらなくてはなりません。
与田切川にかかる橋
鉄塔の見えるところが飯島の町です。
一昨年この下流にバイパスの橋が作られ、谷に下りずに台地から台地へひとっとびになりました。このバイパスが南北に伸びていて、国道も変わってきています。
飯島の街並み
飯島町http://iijima-kankou.org/rekishi.htmlは江戸時代は幕府の直轄地で飯島氏の陣屋があり、明治の初めには伊那県庁がおかれたところです。
少し奥にあり、今回は行きませんでした。資料館があり、ゆっくり見てこないとならないのでまた。
国道をまたぐ高い位置にある田切駅
下に見えるのは聖徳寺
聖徳寺山門
聖徳寺本堂
聖徳寺門前の六斗名号塔
隙間の無い文字の入れ方、すごい技術ですよね。この一文字に米が一斗入るので、全部で六斗なんだそうです。
豊作を祈願したのでしょうか?
この寺のあるところが追引といい、追分などの道に関する地名ではないかと思います。この先また田切川を渡らなければなりません。与田切川のあとも大きな谷が連続するので、どこでも道が通せる土地柄ではないと思うのです。
この寺と田切駅近くに{関の地蔵尊}
という有名なお地蔵様があり、これを見たかったのですが、電車の時間になってしまい断念。また今度見に来ようと思います。 田切駅(11時20分発)〜七久保駅(11時33分着)に乗って、車まで戻って家に帰りました。
続く
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