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【ファイルMK1】2007.11.07大坂千日前(せんにちまえ)の刑場(仕置き場)と千日(せんにち)デパートビル火災について(その1)
上の写真は『千日デパートビル火災跡』で現ビック・カメラ
ところで、前回の本編で千日前という場所の語源は、法善寺(ほうぜんじ)の千日回向(せんにちえこう)に由来するということと、法善寺横丁(ほうぜんじよこちょう)の再建についての疑問をつらつらと書かせていただきました。
前回の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/37957684.html
『地元がそれで良いんだから余所者は文句をいうな!』って言われそうですけど、私がちょっと引っかかった理由と、その後調べたことも含めて今回は書かせていただきます。
千日前は、今でこそ『なんばグランド花月』もある賑やかな繁華街ですが、昔は処刑場と火葬場とお墓だったのです。
上方落語の大ネタで、笑福亭一門の十八番で、最近鶴瓶(つるべ)師匠が演じた『らくだ(後に三代目柳家小さんにより江戸にも移入された)』にも、千日前の火葬場(火屋)が出てきます。
六代目笑福亭松鶴(しょうふくていしょかく)師匠の『らくだ』のCDは絶品です。
前回写真でもご紹介した、法善寺は江戸時代初期、上本町8丁目から寛永14年(1637)現在地に移ってきました。同21年から千日念仏回向を始め、法善寺の南に建てられた竹林寺でも千日回向を続けたので、両寺、特に古い法善寺を千日寺と称し、南の墓所へ通じる道は千日寺の前ということで千日前と呼ばれるようになりました。
北には刑場、南には火葬場がありましたが、明治3年(1870)には刑場が廃止され、同7年、墓所と火葬場も阿倍野(あべの)に移されました。
刑場(仕置き場)ですから、晒し首(さらしくび)が並んでいました。首洗い井戸や人骨が積みあがる灰の山もありました。
刑場、墓所、火葬場が無くなってから、再開発が始まり、一坪につき50銭のお金を付けて払い下げられたといいます。
十坪引き受けたら、なんと5円がもらえたのです!
ただし、世の中こんな美味しい話はないわけで、これには『灰を片付ける』という条件があったのです。けれど、人足を雇って灰を片付けても儲けはあったみたい。
それでも縁起が悪いので、貰い手がありません。
お金に目がくらんで、二百坪もらって、親類中から義絶されたおばあさんがいたという話までのこっているそうです。
そこで、この場所を賑やかな場所にするために、行政は見世物小屋を許可しました。
ここに三勝・半七(さんかつ・はんしち)の墓があるので【元禄8年(1695)12月7日、大坂・千日前で、赤根屋半七と女舞三勝の心中事件があり、当時の芝居や浄瑠璃『艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」』に取り上げられた】、見世物師の元締めだった奥田弁次郎・ふみ夫妻が、近くの寺で三勝・半七の大々的な供養をして、それをあてこむ見世物を出したのです。
これが大成功したので、弁次郎さんはたちまち興行師の顔役になりました。
それにしても、親類中から義絶されたおばあさんはその後どうなったのでしょう…。土地に値打ちがでるまで生きていたのかな?
明治18年(1885)南海電気鉄道難波駅が開業すると一気に発展。芝居小屋や寄席、映画館が立ち並び、今の千日前の原型が出来上がります。
その後、明治45年(1912)の大火災(ミナミの大火)で焼け野原になりますが、翌翌年にはドーム型の屋根を持つ総合娯楽場『千日前楽天地』が完成。それ以降、千日前は大阪きっての繁華街として発展をとげます。
それで、『千日前楽天地』の跡地が大阪歌舞伎座を経て、千日デパートになるわけです。
写真の『千日デパートビル火災跡』=現ビック・カメラ前の広い道(旧電車道)あたりが刑場で、いくら掘っても掘っても人骨が出てきたといいます。
それで、千日デパートビル火災について書きます。
『千日デパートビル』は今の『ビックカメラ・なんば店(旧・プランタンなんば)』の位置にありました。
千日デパートビル火災は1972年5月13日に起きた死者118名・重軽傷者78名の大惨事です。
千日デパートビルといっても、実態は『雑居ビル』でした。
この火事の特筆すべき点は、亡くなった方の主な死因が一酸化炭素中毒で『一件の火災で焼死以外の被害者数』が非常に多かったということだそうです。
出火原因は工事関係者のたばこの不始末でした。閉店直後の22時27分頃、3階婦人服売り場より出火。延焼は7階建てのこのビル中の5階まででしたが、建材の燃焼による有毒ガスが階上に流れ出し、避難設備の不備と通報の遅れ、従業員の不手際が重なったのが被害を未曾有のものにした原因だと言われています。
火災発生時に、このビルの階段室が煙突の役目を果たし、当時この時間帯で唯一営業していた7階最上階のアルバイト・サロンに煙が充満しました。この時、従業員がパニックに乗じて客が『飲み逃げ』しないように、避難扉の外側から施錠したため被害が大きくなったと言われます。
逃げ場のなくなった客の多くは窓ガラスを割り飛び降りました。そのため21名が全身挫折や頭蓋骨折などで死亡。これが被害を拡大させる一因となりました。また非常誘導路に勝手に間仕切りがなされ、塞がれていた等、雑居ビルの火災に対する不備を露呈させるものとなりました。
これは従来の火災による被害の概念を覆すような大事件でした。
これを受け、自治省消防庁はデパート、旅館、診療所等など不特定多数の人々が出入りする場所で火災が発生した際の人命の安全確保と火災の初期消火を目的とした、消防法改正を行ないました。
法律まで変えてしまうような大惨事だったのですね。
それで、ここが現代の心霊スポットだっていう人がいますが、被害の大きさや亡くなった方のことを考えると、そういうのはどうかな?って思われるのも事実です。
ここで処刑された罪人の数と火事で亡くなった方の数が同じだって噂もあるそうですが、どこでそんな統計を拾ったのでしょう?なんか眉唾です。
ちなみに、このビルの6階は演芸場の千日劇場が、桂米朝一門の活動拠点だったそうです。
ただ、火事の教訓は忘れてはなりません。
特に今の季節の乾燥した空気では湿度があるときと、火の付き方が全く違うんですね。
テレビで模型の実験をやっていたのを見たことがあるのですが、夏の湿度だと、なかなか火を近づけても燃えないのですが、冬の湿度だとあっという間に燃え広がります。
ですから、火事の恐ろしさを心に留める為であれば、心霊スポット云々というのも『あり』かも知れません。
実は、私も昔週刊誌でここに『千日デパートビル火災』で亡くなった方の幽霊が出るっていう記事を読んだのがきっかけで、この火事の悲惨さについて考えるようになったのです。
(その2へ続くhttp://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/38010402.html)
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え?そんな噂もあったんだぁ・・・この火事のことはぼんやりとだけど、ニュースでやってて大惨事だったっていうことだけは覚えてるのよ。でも、そういう背景のある土地でもあったんだね・・・
2007/11/10(土) 午前 1:29
ここまで詳しいことは知りませんでしたが、千日デパートビルの火災の件については、まだその断片が記憶の底に張り付いています。
そうでしたか、その地は、刑場、処刑場だったのですね。
そういう土地が、そういう経過を経て今の繁華街になったということを、黙って見過ごしている聖職者の気が知れません。
2007/11/10(土) 午後 2:57 [ afuro_tomato ]
むにゅさん、やはりそれだけの大惨事だから、そういう噂もでてくるのですね。このあたりの雰囲気は独特ですね。見世物小屋とか繁華街というのは闇の世界に繋がっていますからね。
2007/11/10(土) 午後 6:59
afuro_tomatoさん、千日デパートビル火災は大きな火事でしたからね。これだけ因縁のある土地ですから、もともとあったお寺の本堂がないというのは、やはりおかしいと思います。水掛不動さんは商売繁盛の現世のご利益があるからこれだけが残っていればいいというものでも無いはずです。やはり歴史というものを考えないといけませんよね。
2007/11/10(土) 午後 7:06
安田八十八さん。ありがとうございます。1845年(弘化2)の『大阪細見図』をみると、『千日墓』とあるのが千日デパートビルあたりですね。墓地、刑場につきものの井戸がないというのは何か理由があったのでしょうか。そのへんことをお示しいただいたらとても参考になります。道頓堀垣外は瑞龍寺南の難波村から離れていたのですか?そういう古地図の表記は、今のご時勢、出版の際に良く削除されていたりするものですから・・・。道頓堀垣外といえば、与力在職中の大塩が処断した与力弓削新右衛門と結ぴついていた長吏別格吉五郎なんかがいますね。興行とか博徒とか岡っ引きというのは、表現が難しいのですが、いかにもといった感じですね。勉強になります。できれば、ご研究の成果をブログで記事にしていただければ、ありがたいのですが。ちなみに長吏というのは、『下駄隠し』に出てくる『ちゅうれんぼ』のことですね。この唄も、どうも狩られているようです。困ったものです。
2008/5/29(木) 午前 0:38
安田八十八さん、詳しくて、分かりやすいコメント感謝いたします。斬首の場所が刑場から、牢屋に移ったのは、それだけ世情が安定してきたからなのでしょうね。私は、千日前の話は、桂米朝氏の『米朝ばなし』で知って記事にしました。『らくだ』に千日前の火屋の話がでてくるという内容の文章でした。『らくだ』は死体を躍らせて強請るというとんでもない話ですが、こういう話ができる背景にはそういう時代の風俗があった訳ですね。納得しました。平安の検非違使以来、捕吏というのは、畏れと穢れの両義的だったものが、時代が下るにつれて、穢れが強調されるように変化して行ったようですね。
2008/6/3(火) 午後 10:06
光明皇后の悲田院というのは癩病の施設ですね。この病も、西洋にも聖フランチェスコが治した話があるように『業病』の側面があるとともに。『聖性』を帯びた存在でもあったわけで、タブー視して単なる差別性だけで論じるべき問題ではないと私は思っています。これだけ詳細に調べられているのですから、発表されたら嬉しく思います。それにしても、度重なるご教示、本当にありがとうございます。
2008/6/3(火) 午後 10:22
大阪ミナミに住んで6年経ったけど、ここまで深くは知りませんでした・・・
考えさせられますね・・・
2010/7/7(水) 午後 3:17 [ コナ ]
コナさん、大阪は歴史がある都市です。
歴史も古いし、世界一の商都だった時期もあるようですね。
大阪の文化は発掘していくととても奥が深いと思いますよ。
2010/7/7(水) 午後 10:45
わが曾祖父が、千日前で昭和初期に交通事故死しました。成仏していなかったせいか、私は別のところで2回交通事故に遭いました。
2010/11/14(日) 午前 1:06 [ wha_entry ]
はじめまして。昨日の福山の「ホテルプリンス」の火災が5月13日であるというのも何か意味があるのでしょうか?
2012/5/14(月) 午後 7:55 [ style7414 ]
wha_entryさん曾祖父さんお気の毒でしたね。昭和初期ならまだ交通事故もすくなかったでしょうに。
交通事故にはくれぐれもおきをつけ下さいね。
2012/5/16(水) 午前 1:09
style7414 さん、今回の福山の火災では、マスコミで千日前の事例が多くとりあげられましたね。
やはり、このような不幸を忘れないで欲しいということなのかもしれませんね。
2012/5/16(水) 午前 1:18
初めまして、とても勉強になりました。
これからも、コメントを書かせて頂いても、宜しいですか?
2012/12/13(木) 午前 10:26
月晶さんこんにちは。
お返事遅れてすみません。
記事をお読みいただいてありがとうございます。
もちろんコメントは大歓迎ですよ。
2012/12/17(月) 午前 1:45
千日デパート火災は当時テレビで見てましたし、焼け跡を何度も見ています。未だに思い出すのは高島屋の大食堂から見た煤けた建物と商店街のアーケードにいくつも穴を塞いだ跡があった事ですね、人が当たって出来た穴だと思うと下を通るのが怖かったです。あと、細かいことを申し上げると「ビッグ」のある場所は「西墓地」跡で、刑場があったのは向かいの「アムザ2000(旧芦辺劇場)」のある辺りで、焼場跡は「なんばオリエンタルホテル(旧大劇)」だそうです。
2013/3/13(水) 午後 11:21
依網野さんは、当時の様子や、焼け跡について実感されたのですね。熱さに絶えられず飛び降りた方の痕跡がアーケードに残っていたというのは痛々しい話です。
この火事は煙で亡くなられた方が多かったと聞きますが、そういう方もいらっしゃるのですね。
墓地・刑場・焼場と集中していたというのは、江戸も同じですね。
御拝読コメントありがとうございます。
2013/3/16(土) 午前 0:24