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祇園祭について最初から読まれる方はこちら。 18保昌山(ほしょうやま:東洞院通松原上ル) 19蟷螂山(とうろうやま:西洞院通四条上ル) 20山伏山(やまぶしやま:室町通蛸薬師下ル) をご紹介します。 18保昌山(ほしょうやま:東洞院通松原上ル) 応仁の乱以前から記録に残る由緒のある山です。 古来より『花盗人山(はなぬすっとやま)』と呼ばれて親しまれています。 この山は、平井保昌(ひらいやすまさ=藤原保昌)さんが情熱の女流歌人和泉式部(いずみしきぶ)のために、夜中に紫宸殿の庭に忍び入り、紅梅を手折ったのですが、警護の兵に矢を射掛けられ、ざんばら髪で逃げたという話に由来します。 そのおかげもあって、和泉式部さんは、保昌さんの奥さんになりました。 よかったねえ。 それで、ご神体は緋絨(ひおどし)の鎧に太刀をつけ、蒔絵の台に紅梅を一杯に盛って捧げています。 平井保昌さんは藤原大納言元方(もとかた)の孫で、致方(むねかた)の子で武勇に秀で和歌も堪能だった人です。 また保昌さんは、源頼光(よりみつ=通称らいこう)の大番頭として 配下の四天王とともに大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治したことで有名です。 源頼光の四天王とは、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき=足柄山の金太郎さん)、卜部季武(うらべのすえたけ)、碓井貞光(うすいのさだみつ)の4人です。 早い話が、金太郎さんの親分だったのですね。金太郎さんの親分の奥さんが和泉式部さんだなんて、知らなかったよ! 酒呑童子は丹波大江山に住んでいて、近国他国の者、都のみめよき女房の十七八を頭(かしら)としてあまたさらいました。そして池田中納言くにたかの一人娘をさらいます。 御伽草子から、酒呑童子の挿絵。 酒呑童子の家に上がりこんで宿を請い、持って行った酒で酒盛りを始める図。 左端のおかっぱ頭が酒呑童子。その右下が手下の鬼で、台にはさらった人の足が載っている。右が源頼光と保昌と四天王の6人。 鬼の姿に変身した酒呑童子の首を頼光(左端)が切り捨てた図。鬼の首が頼光の頭を咬もうとしていますが、星甲(ほしかぶと)が防いでいます。 家柄もよくて、才能もあって、腕っ節も強くて、うらやましい人だねえ。 花泥棒って風流ですね。でも、良い子はマネしちゃあだめだよ! 今の御所の紫宸殿は左近の桜、右近の橘(さこんのさくら、うこんのたちばな)が植えられていますが、嵯峨天皇の御世までは、桜ではなく梅が植えられていたのです。 後ろに建っている建物は、入母屋造(いりもやづくり)妻入(つまいり)で、桧皮葺(ひわだぶき)風に漆塗りが施されています。紫宸殿という設定ですが、中には祇園祭の祭神、牛頭天王(ごずてんのう)=素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀ってあります。 前懸は胴縣と一連の作品で、円山応挙下絵の『蘇武牧羊図(そぶぼくようず)』刺繍で、特に有名なものです。前漢の武帝に仕え、匈奴(きょうど)に使いするも捕らえられ、19年も羊牧して暮らし、雁に便りを託して無事を知らせたといいます。 雨よけのカバーが邪魔で、からくりで動く様子をよく見ることができなかったのが残念でした。 御神体人形山伏(やまぶし=修験僧)の姿をしているので、この名がつけられています。 応仁の乱以前から出ている山です。『山伏みね入山』『浄蔵山』などと書かれています。 神事色の強い祇園祭にあって、修験道の法力を持った人物をピックアップし、巡行に先立つ15日には修験の本山である聖護院から巡拝が行われており、八坂神社の清祓(きよはらい)とともに天台宗の六角堂から法印(ほういん)の祈祷が行われ、神前に供える三宝も仏式のものであるなど、神仏習合時代の名残をとどめる山として知られています。 御神体人形は浄蔵貴所(ぞうじょうきしょ)像です。 浄蔵が修験道の聖地、大峰山に入る姿を表しています。 浄蔵は平安時代の文章(もんじょう)博士三善清行(みよしきよゆき・きよつら)の第8子です。 菅原道真とは同時代人です。 日本の呪術史上屈指の存在で、数々の伝説を持ちます。 小さいときから聡明で、山河を跋渉(ばっしょう)して修験の道を究めました。 ある時、八坂塔(やさかのとう)が傾き、人々は凶兆だと騒ぎました。 そこで、浄蔵が祈祷したところ、夜になって激しい風が吹き塔を揺さぶりました。翌朝になると、塔はもとどおりまっすぐ建っていたということです。 また、熊野で修行中に父清行の死を察知して京に戻ったところ、とき既に遅し。一条堀川の橋上で葬儀の列と出会いました。父の死に目に会えなかったことを嘆いた浄蔵が5日間祈祷したところ、棺の中から清之は蘇り、7日間生きていたということです。 それ以来、一条堀川の橋は『一条戻橋(いちじょうもどりばし)』と呼ばれるようになりました。 浄蔵は、死者の蘇生に長けていたようで、光孝天皇の皇子南院親王が亡くなった時、祈祷で4日間蘇生させています。 また、『平将門の乱(天慶二年・九三九年十二月、平将門が下野に国衙を奪い取り、新皇を称す)』に際しては、大威徳法という朝廷の怨敵調伏のための秘法を、延暦寺の首楞厳院(しゅりょうごんいん)で二十一日間修めました。 その霊験はあらたかで、一年後に藤原秀郷が将門の首級を上げました。 また、源博雅(みなもとのひろまさ)という笛の名手がいました。月夜に朱雀門で笛を吹いていたら、一緒に笛を吹く人がいて、合奏になりました。お互い名手と認め合い、余程楽しかったのでしょう。以後、ここで落ち合って夜な夜な合奏することになります。 ある日笛を交換してみると、相手の笛の音が余りに美しく響いたので、博雅は笛を交換してもらいます。 しばらくして博雅が亡くなり、笛はそのままになっていたところ、その話を知った天皇が笛の名手として聞こえていた浄蔵に朱雀門で笛を吹くように命じました。 すると、楼上から『博雅より上手だ』という声が聞こえました。なんと、この笛は朱雀門に住む鬼の笛だったのです。 人形の頭はヒノキ材で眉、目、口は描かれ、頭髪は本毛。装束は聖護院(しょうごいん)本山派(ほんざんは)の正当な山伏衣装で、兜巾(ときん)を被り、鈴懸(すずかけ)を着て結袈裟(ゆいげさ)を掛けています。 見送は『飛龍波頭図』綴織。平成11年復元新調しています。 【付 記】 前回紹介した14郭巨山で http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/archive/2008/03/07 郭巨さんは黄金が入った釜が埋まっているのを知らずに捨て子のために山中に入ったのに、どうして鍬を持ってるんだろう?って書きましたが、その理由が御伽草子収録の『二十四孝』を読んで分かりました。 子供を生き埋めにしに行ったんですね。それで鍬を持っているのです。祇園祭の関連書に書いてなかったよお!こういうことはちゃんと書いてほしいものです。 前回の記事にもその旨付記しました。 次回に続きます 次回はこちら。 |
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すっごく、わかりやすい説明で初めて知ったことばっかりだった〜(たとえば、金太郎の親分の話しとか・・)でも、二十四孝の話しはやっぱり、そういう話は隠しておきたかったのかなぁ・・・なんか、やっぱり〜〜って感じもしますよね、昔っから、こういう御伽噺って恐いんですものね・・・だけど、今回のも本当に勉強になったわ!ぽち!
2008/3/17(月) 午後 10:21
むにゅさん、調べていくうちに記事が長くなって、容量オーバーで一つ次回に回したよ〜。保昌さんって、あの保昌さんって気がつかなかったし、浄蔵さんは安倍清明に匹敵する呪術師だって知ってびっくり!二十四孝の話は、昔日本でも間引きとかあったから、今よりも違和感無く同情できたのかもしれないね。ぽちありがとう☆
2008/3/19(水) 午後 7:33