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沖縄県平和祈念公園は摩文仁(まぶに)にありました。 1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍の攻撃により、首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄本島南端部(島尻)に撤退しました。 狭い島尻には、南下侵攻する米軍から避難する一般住民と撤退・抗戦する日本軍の軍人が混在し、パニック状態に陥ったのです。 どうして本来保護されるべき非戦闘員が一緒に避難しなきゃなんないのかな? 日本軍による組織的抵抗は、同年6月23日に司令官・牛島満中将が摩文仁の司令部壕で自決したことにより終了しましたが、アメリカ軍は翌7月初めまで掃討戦を続けたのです。 アメリカ軍は、非戦闘員ですら平気で殺すのです。 日本軍は、南京で非戦闘員を保護しました。それが支那のでっちあげで大虐殺だって嘘の歴史が刻まれようとしているのに、どうして日本人はアメリカ軍の非戦闘員虐殺は不問に付すのでしょう? アメリカ軍は、日本軍が白旗掲げて降伏しても、捕虜にせずに射殺したり、砲撃したり、火炎放射器で焼き殺します。 それで、この“沖縄戦終焉の地”となった摩文仁の丘は、今は「平和祈念公園」として生まれ変わり、毎年6月23日の「慰霊の日」には、ここで沖縄全戦没者追悼式が行われます。 バスの車窓から見た旧守備軍司令部壕があった摩文仁(まぶに)の丘。第32軍の守備隊司令部があったところで、ここで牛島司令官と長参謀長が自決しました。黎明之塔(れいめいのとう)が立っています。 昭和23年6月23日の黎明(れいめい=早朝)に自決されたから黎明之塔のようです。 琉球新報 2005年6月24日にはこうあります。 「黎明之塔」で陸自が慰霊祭 幹部も出席 陸上自衛隊那覇分屯地の幹部や隊員らは「慰霊の日」の23日、糸満市摩文仁の「黎明之塔」で、慰霊祭を行った。「黎明之塔」は沖縄戦当時、沖縄を守備する第32軍の牛島満司令官、長勇参謀長が祭られている。陸上自衛隊第一混成団の君塚栄治団長も参加した。同広報室は「個人的に賛同している人による行事」と話し、陸自の公式行事ではないとしている。 この日午前5時半から行われた慰霊祭には、陸自や航空自衛隊の隊員ら約100人が参加。君塚団長は、沖縄の防衛にあたった第32軍を「現在の沖縄の防衛を担うわれわれが追悼するのは大切」などとあいさつしたという。 ということは、5時30分頃に自決されたんですね。 それにしても、どうして、陸上自衛隊がここで公式行事ができないの? それで、ガイドさんについて、最初に訪れたのは、沖縄平和祈念堂です。 中には沖縄平和祈念像が安置されています。 平和祈念資料館は、沢山の資料が展示されているのですが、観光バスではゆっくり見る時間がありません。 シーサーさんがお出迎え。 綺麗なお花もお出迎え。 平和祈念資料館では、砲弾を床下のガラス越しに見ることができます。 沖縄で使用された爆弾は約20万トンと推定され、そのうち約1万トンが不発弾で、年間平均約850個が処理されていますが、まだ3000トンが地下に埋没しているとみられています。離島を含め県内いたるところに不発弾が埋まっているのです。不発弾処理には、あと60年を要するとみられているそうです。 魚雷や大砲も展示しています。 そして島の南端の海岸に着いたとき目に見えたものは、アメリカの艦隊で埋め尽くされた海でした。 その海に面して、『平和の火』が設置されています。 多くの人がこの崖から身を投じたといいます。 『平和の火』は円錐の中に灯っていて、地図がデザインされています。 この『平和の火』は沖縄戦最初の上陸地である座間味村阿嘉島において採取した火と被爆地広島市の『平和の灯」及び長崎市の『誓いの火』から分けてもらった火を合火し、1991年から灯しつづけた火を、1995年6月23日の「慰霊の日」にここに移し、灯したものだそうです。 「平和の礎(いしじ)」です。 刻銘された、その氏名の数は実に約24万人、国籍や軍人、非軍人を問わず、アメリカ軍の軍人約1万4千人も含まれています。 公園は美しいのですが、広大でとにかく暑いんですよ。 式典が行われる「平和の丘」のモニュメントです。 本当に平和を願わずにいられません。 しかしね、イデオロギーによって、歴史を捻じ曲げたり、現在リアルタイムで行われている抑圧に口をぬぐっている人がいるのは残念でなりません。 捻じ曲げられた歴史は、全く教訓になりませんから・・・。 日本政府と軍が悪くって、国民はみんなだまされていた。そんな簡単なことが戦争の理由だったら、考えなくていいから本当に楽です。第二次世界大戦後も、戦争は沢山起きました。そのことの説明がつきません。 追記 ひめゆりの塔をめぐる人々の手記 仲宗根政善 角川文庫 にはこうあります。 第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。6月18日いよいよ米軍が間近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌19日、第三外科は敵襲を受け、ガス弾を投げ込まれて、地獄図と化し奇跡的に生き残った5名をのぞき、職員生徒40人は岩に枕を並べた。軍医・兵・看護婦・炊事婦等約29名民間人6名も運命をともにした。その他の壕にいた職員生徒たちは、壕脱出後弾雨の中をさまよい、沖縄最南端の断崖に追い詰められて多く消息をたった。南風原(はえばる)陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の3分の2が、こうして最期をとげたのである。 あのね、どうして米軍は病院を襲撃したの?
ガス弾が投げ込まれるの? 立派な戦争犯罪でしょ? どうして医療従事者や、非戦闘員に弾雨がみまわれるの? おかしいと思わない? 赤十字って何? どうしてこんなことまで日本軍の責任にされるの? 私には理解ができません。 |
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勝てば官軍だね・・・でもさ、本当に全部が全部、日本軍のせいだったんだろうか?って疑問に思わないのも怖いよね・・・よっぽど、うまい具合になすりつけたんだね・・・
2008/8/11(月) 午前 0:17
むにゅさん、そうですね。手記を読んでも、ひめゆり部隊の女学生に、感謝して、気を使いながら、亡くなっていく、普通の若者が描かれているんだけどね。実際に兵隊に行った人が少なくなるにつれて、おかしなことになっていきますね。
2008/8/11(月) 午前 1:07
空の青さと祈念堂の白…色の美しさが余計物悲しいく思えます。沖縄の海と空の美しさとめとろんさんの写真の素晴らしさにポチ。
2008/8/11(月) 午前 6:25 [ みゆりん ]
昨日、ちょうど戦争の写真見てきたの(T^T)こわくてあんまりしっかり見れなかったよ〜理解できないほどこわいよね(O_o)!!
2008/8/11(月) 午後 0:33
みゆりんさん、この日はとってもいい天気で、空が真っ青でした。日照が本土とは全く違うので、コントラストが強烈でした。本当にこんな美しい自然で惨禍が行われたことが信じられません。ポチありがとうございます。
2008/8/11(月) 午後 8:31
ミユキちゃん、本当に戦争は怖いね。写真とか記録を見ると、本当に気が滅入るものね。本物の戦争はそれ以上に怖いんだろうね。ミユキちゃんみたいに海外のお友達と仲良くするのが、遠回りのようでも一番の方法だね。
2008/8/11(月) 午後 8:34