|
それで、まず、当魔界の部屋でご案内する各所の位置図をみていただくことにしましょう。 再掲です。 前回ご紹介したように、松原通はもともと、鳥辺野(とりべの)という墓地の葬送道でした。 昔、京の都人は、鴨川により内側が洛中で、外側すなわち洛外は冥界だと考えていました。 鳥辺野(とりべの)は平安時代以前から墓地・葬送の地で、北の蓮台野(れんだいの)、西の化野(あだしの)とともに京都の三大墳墓地です。 826 (天長3)年5月、淳和天皇の第一皇子桓世親王が、22歳で亡くなり、鳥部寺の南の山に葬られた記録があるそうです。 今の五条通より南側の阿弥陀ヶ峰から泉涌寺・東福寺までは、天皇や貴族などの上流階級の墓所で、北側は庶民の墳墓が多く狭義の『鳥辺野』で、親鸞上人の荼毘所(だびじょ)や、藤原一族の火葬の地もありました。 阿弥陀ヶ峰の山頂には、豊臣秀吉の墓所、豊国廟があります。 お墓の『平安京ニュータウン』といったところですね。 さだまさしさんは、鳥辺野の今熊野の剣神社から泉涌寺までの山道がお気に入りだそうです。 『鳥辺野』も『蓮台野』も『化野』も、もともとは風葬の地でした。 風葬というのは、死体を地中に埋めずにさらしておき、朽ちるに任せる風習のことで、輪廻思想の仏教からすると、理に適った葬送の方法だと言えます。 しかしながら、屍肉の腐臭を考えただけでも、洛中(都の中)というわけにはいかず鴨川を隔てた冥界の地を設定しなければならなかったのでしょうね。 風葬の地には、いずれも『野』という地名が付いていて、京都では『野』という言葉に葬送の意味が含まれているそうです。 それがやがて土葬に変化していったのですね。 疫病のことを考えれば、衛生的には火葬が一番良いのでしょうが、キリスト文化圏の人なんかは、最後の審判の時に死者が蘇ることになっているので、土葬にこだわるのですね。 ゾンビの映画なんかは『火葬にすればいいじゃん』って思ってしまうので、怖くありません。キリスト教徒にすれば、最後の審判まで土中で待機して、やがて神の国に行くはずが、中途半端に蘇って彷徨いっぱなしというのは、異教徒には想像できない恐怖なのでしょう。 ちなみに、インドの有力なビジネス集団パルシーはペルシア系ゾロアスター教徒の集団で、ムンバイ(もと英名のボンベイ)を中心に中世から有力商人を輩出してきました。 もともとは古代イランに住んでいたのですが、7世紀にササン朝ペルシアがイスラム教徒に征服されて、国教のゾロアスター教からイスラム教に改宗させられたのです。 イスラム教への改宗を拒否したゾロアスター教徒の一部が、イラン(ペルシア)からインドに逃げてきてパルシーになりました。 インド国内のパルシー7万人のうち5万人がムンバイで暮らしていて、その人たちは『鳥葬』によって葬儀を行います。 『鳥葬』というのは、鳥に遺体をついばませる葬礼方法です。 ゾロアスター教の鳥葬場はムンバイの中心部の森にあって『ダフマ(沈黙の塔)』と呼ばれています。 しかしながら、都市化の進展で遺体をついばむハゲワシさんの数が減少して、『鳥葬』の存続が危ぶまれているんだって。自然破壊はいろんなところに影響を及ぼしています。 ということで、葬儀というのは人々の死生観にかかわっているのですね。 それで、旧五条橋(松原橋)を少し東進したところに、六道の辻(とくどうのつじ)の石塔が立っています。 仏教では解脱して仏様にならなければ、6つの世界のうちのどれかに生まれ変わるのですね。この6つの世界のことを六道(りくどう、ろくどう)といいます。 天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)が六道です。 六道輪廻(りくどうりんね)とか言いますね。 だから六道の辻は、冥界への入り口ということなのですね。 六道の辻の南西角にある小さなお寺が西福寺です。 弘法大師が自ら土でつくった六波羅地蔵を安置したことに始まる古刹で、檀林皇后(だんりんこうごう)が皇子(のちの仁明天皇)の病気平癒を祈願したことから、子育て地蔵として信仰を集めています。 夏に建仁寺に行った時に立ち寄った際には、ちょうど『精霊お迎え(8月8・9・10日)』の時期で多くの善男善女が訪れていました。 お不動さんにお参りします。 この期間だけ、地獄絵図や壇林皇后の死生観を表した掛け軸「壇林皇后九想図(だんりんこうごうくそうず)」が展示されます。 檀林皇后(だんりんこうごう)=橘 嘉智子(たちばな の かちこ、786年-850)様は、第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘です。 奈良の法華寺の十一面観音立像は光明皇后をモデルにしたものと云われていますが、檀林皇后をモデルにしたという説もあるそうです。 それほど檀林皇后は美しかったのですね。 檀林皇后は、鳥や獣の飢を救い、諸行無常を我が身をもって示すために、自分の死後に埋葬を禁じて道端で朽ちるにまかせ、腐乱して蛆がわき、白骨化していく過程を絵師に描かせたという伝説が残っています。 それが「壇林皇后九想図(だんりんこうごうくそうず)」だそうですが、9世紀のものにしては新しいので、この伝説を題材にした掛け軸なのでしょう。 鎌倉時代に鴨長明によって書かれた『方丈記』の世界ですね。 『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し』 ちなみに、方丈記の記述では、養和年間(1181-1182)の2年間にわたって飢饉があり、多くの死者が出たそうです。 旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷が様々な加持祈祷を試みても甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲いました。 仁和寺の隆暁法印がおびただしい数の餓死者が出たことを悲しみ、死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、養和二年四月・五月の左京だけで、四万二千三百余に達したといいます。 六道の辻付近は轆轤(ろくろ)町という町名がついていますが、昔は髑髏(どくろ)町と呼ばれていたという話もあるそうです。 昔の都は、京都に限らず、死の存在がとても身近なものだったのですね。 |
全体表示
[ リスト ]





初めまして…履歴から参りました。興味深く読ませて頂いたところです。中世は葬儀というものが極めて特定の階層でしか行われませんでしたから、この辺りは白骨がゴロゴロしていたのでしょうね…。
子供の頃から「六道さん」へ行くのが大好きでした…♪♪
2009/11/28(土) 午後 7:48
もえぎさん、こんばんは
髑髏というのは、言葉の響きもおどろおどろしくて、怖いですよね。
もともとの仏教は仏様の遺骨は仏舎利といって残しますが、魂は輪廻転生をしますから、遺骸はそのまま晒しておくのが鳥や獣の餌になって命として繋がっていくのでしょうね。
ミイラは内臓を別にして4つのカノポスの壺に収めますね。
エジプトの展覧会を日本で開催すると、大人気になりますからね。やはりエジプトの人の死生観というのは日本人にとっても興味深いものがあるのでしょう。
本場の展示は素晴らしいでしょうね。でも匂いがそんなに強いのですか。それは少しきついかもしれません。
今の日本では、人は大抵の場合病院で亡くなることになっていますからね。
でもベッドが足りないから在宅というのも悲しい話ですね。
今の世の中は健康な人がお金儲けをすることで回っています。
自分が死ぬなんて考えていないのかもしれません。
ポチありがとうございます。
2009/11/29(日) 午後 6:53
Ren'ohさん、こんにちは。
仁和寺の隆暁法印さんが、死者の額に「阿」の字を書いて結縁したということは、葬儀も行われないまま放置されていたということですね。
そういうことを考えると、京都の持つ文化の奥行きが深い理由が分かるような気がします。
このあたりは、京都の中でも独特な雰囲気がありますね。
こういう環境に慣れ親しんでこられたというのは、羨ましいと思います。
2009/11/29(日) 午後 7:05
そうなんだよね・・・だから、京都は深いんだよね・・
生まれ変わっても、人間道がいいなぁ・・・だけど、欲深いからなぁ・・・(苦笑)今までは、ただのきれいな古都って思ってたけど、実際にいろいろ見聞していくうちに京都が深い!っていうのにやっと気がついたこのごろなのよ・・・凸!
2009/12/1(火) 午後 0:22
むにゅさん、これだけの人口があって、歴史があって、伝統文化が続いている都市はありませんからね。
神道、仏教、儒教、陰陽道と混交して、複雑な世界観がありますし。
天道はあまり楽しそうじゃありませんね。
人間の集まった都市ですから、喜怒哀楽が文化になっている分深いのでしょうね。
ポチありがとうございます。
2009/12/2(水) 午後 8:18