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【ファイルMK13】2010.02.27 京都の清水寺は不思議なお寺(その1)

征夷大将軍の坂上田村麻呂公ゆかりのお寺だよ。

 さて、室町時代に建てられた重要文化財の仁王門 -から清水寺にお参りします。

 鮮やかな朱塗りの仁王門。
 
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 仁王門(重要文化財)は境内入口に建つ朱塗りの門。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺きで、正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士(仁王)像を安置しています。室町時代の建立で、馬駐(うまとどめ)、鐘楼とともに寛永6(1629)年の大火をまぬがれました。

 清水寺の正式名称は音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら)です。

 古都京都の文化財の一部としてユネスコ世界遺産に登録されたこともあって、外国のお客さんも多いのです。

 本堂を始めとする諸堂は現存する建物の多くは上記寛永6年の火災の後、寛永10年(1633年)、徳川家光の寄進により再建されたものです。

 寺の縁起によると

※  ※  ※

 音羽山清水寺は、1200余年前、すなわち奈良時代の末、宝亀9年(778)の開創になります。

 奈良の子島寺の延鎮(えんちん)上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、松は緑に、白雲が帯のようにたなびく音羽(おとわ)山麓の滝のほとりにたどり着き、草庵をむすんで永年練行中の行叡居士(ぎょうえいこじ)より観世音菩薩の威神力を祈りこめた霊木を授けられ、千手観音像を彫作して居士の旧庵にまつったのが、はじまりです。

 その翌々年、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)公は、妻室の高子(こうし)の安産のためにと鹿を求めて上山し、清水の源をたずねて 延鎮上人に会い、殺生の非を諭され、鹿を弔うて下山し、妻室に上人の説かれたところの清滝の霊験、 観世音菩薩の功徳を語り、共に深く観世音に帰依して仏殿を寄進し、ご本尊に十一面千手観音を安置しました。

 その後、上人は坂上公を助け、協力して更に地蔵尊と毘沙門天(びしゃもんてん)とを造像してご本尊の両脇士とし、本堂を広く造りかえました。

 音羽の滝は、清水滾々(しみずこんこん)と数千万年来、音羽の山中より湧出(ゆうしゅつ)する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、わが国十大名水の筆頭にあげられます。これが「清水寺(きよみずでら)」の名の由来です。

※  ※  ※

 征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂さんは、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができました。

 このことから、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけています。

 蝦夷討伐の際に田村麻呂さんを助けた地蔵菩薩さんは、とくに合戦の仏、勝軍地蔵として武士の信仰を集めました。

 それはそうと、殺生の非を諭され観世音に帰依した田村麻呂さんが蝦夷征伐っておかしくない?

 第一、蝦夷(えみし)といっても、同じ日本人だったのです。

 7世紀半ばの朝廷勢力の北限は今の福井県と新潟県とを結んだあたりでした。

 国司の指導の下、朝廷が支配した地域で農業が盛んになると、北方から国司の支配下になるべく移住する者が増えていきました。彼らは、新たに天皇の支配を受けるようになった者という意味の『俘囚(ふしゅう)』と呼ばれます。

 陸奥や出羽の開発がすすむと、関東地方から東北地方に、武装した農民『柵戸(きのへ)』が移住するようになります。

 柵戸の中には俘囚を差別する者が多く、地方官も朝廷の威光をふりかざし俘囚を粗略にあつかい、俘囚の首長を押さえつけます。

 そこで、奈良時代末から俘囚の反乱が頻発するようになります。

 中でも胆沢(いさわ)の首領、阿弖流爲(あてるい)さんは朝廷の大軍を破り都は騒然としました。

 朝廷も経済的に逼迫していて、東北経営に関心を払っていたので、時の桓武天皇は有能な田村麻呂さんを征夷大将軍に任じ、蝦夷地の平定を命じます。

 そこで東北に向かった坂上田村麻呂公は何をしたかというと、それまでの討征軍のように力尽くで反乱軍を鎮圧したのではなく、国司の支配下にありながら賊と内通した者を罰し、功績を残した蝦夷の人に禄を授けると宣言しました。

 延暦19(800)年には、田村麻呂公は朝廷に、東北経営がうまく進み、蝦夷や俘囚が城柵に帰伏しているので、さらに人々の生活を安定させるため、田30町を開発したいと申し出ています。

 さらに延暦21(802)年に胆沢城(いさわじょう)、志波城(しわじょう)を築きました。

 城と言っても、実情は軍事的拠点ではなく朝廷の官衙(かんが:役所)で、農地を開発し胆沢周辺の人々を帰順させるための拠点といったものだったようです。

 もともと蝦夷の人たちが反乱を起こしたのは、過酷な支配に反発したからなので、反乱する理由が無くなった人々は、次々と帰順し、阿弖利爲(アテルイ)さんは孤立します。

 同年=延暦21(802)年にはついに阿弖利爲(アテルイ)さんも兵士五百余人を率いて降参しました。

 坂上田村麻呂公は兵士五百余人の帰農を許し、阿弖利爲(アテルイ)さんと彼を補佐していた母礼(モレ)さんの二人を従え上洛します。

 田村麻呂公は、二人の助命嘆願書をあらかじめ都に送っていたので、二人は天皇への忠誠を誓った上で蝦夷に帰されると思っていたようです。

 田村麻呂さんと阿弖利爲(アテルイ)さんの軍隊は一度も正面衝突していませんし。

 ところが、平安京の貴族は「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決め、阿弖利爲(アテルイ)と母礼(モレ)は、河内国で処刑されました。

 田村麻呂さんの心配りが台無しです。

 貴族にしてみれば、阿弖利爲(アテルイ)さんを謀反を起こした悪人として処刑しなければ、彼らを反乱に追い込んだ側の責任を問われかねないので、二人を処刑しないわけにはいかなかったのでしょう。

 清水寺は、阿弖利爲(アテルイ)さんと母礼(モレ)さんを慰霊する施設でもあるのですね。

 延暦24年(805年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、弘仁元年(810年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされます。

 当時、寺院の新設・移転は禁じられていて、京には東寺、西寺以外の寺院はありませんでした。その中で清水寺の公認というのは、いかに坂上田村麻呂公の東北経営が評価されていたか分かります。

 没後、田村麻呂公は甲冑を着け、立った状態で葬られ、京都の守護神として崇敬を集めます。
 
 征夷大将軍の坂上田村麻呂さんといえば、最近、そのお墓が京都市山科区で約90年前に発掘された「西野山古墓」である可能性が高いことが、京都大大学院の吉川真司准教授(日本古代史)の調査で分かりました。
 
 以前そのことは、京都大学の博物館の記事で紹介しています。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/38678342.html

  西野山古墓というのは、清水寺から程近い場所にあります。

 前回、平清盛さんが清水寺に籠もって吉夢を見て鵺を捕らえ、安芸守(あきのかみ)になった話を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50159263.html

 延鎮(えんちん)上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢を見て訪れ、征夷大将軍の坂上田村麻呂さんにもゆかりのある清水寺に籠もった平清盛が吉夢を見て鵺を捕らえ、安芸守になったという逸話が残っているのは、武家の正当性は、征夷大将軍の坂上田村麻呂公を源流とするという当時の人たちの認識から来ているのです。

 平清盛さんの伊勢平氏の家系は、田村麻呂さんを征夷大将軍に任命した桓武天皇、桓武平氏の流れをくんでいますから、官位は征夷大将軍にこだわる必要はありません。清盛さんは武家として初めて太政大臣まで登り詰めました。

 源義経が弁慶と出会った場が、坂上田村麻呂公を本願とする清水寺、もしくは、清水寺の参道である五条の橋(現松原橋)あるいは五条天神だったという伝承も、源氏政権の正当性の根拠を坂上田村麻呂とのつながりで示したものでしょう。

 源頼朝が坂上田村麻呂公の征夷大将軍の位にこだわっていた以上、鎌倉幕府の成立年は清和源氏の源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた1192(いいくに)年じゃなきゃおかしいのです。

 さて、前述の通り征夷大将軍の坂上田村麻呂さんは、蝦夷(えぞ)を平定し阿弖利爲(アテルイ)さんの本拠地の胆沢(いさわ)に胆沢城(いさわじょう)を築きました。

 胆沢城(いさわじょう)といえば、城跡のすぐ近くには西松建設が工事を受注するために民主党の小沢幹事長に献金したといわれる胆沢(いさわ)ダム(別名小沢ダム)がありますが、どういうわけかこのダムは事業仕分けのリストにすら入っていません。

 八ッ場(やんば)ダムの工事は中止なのにご都合主義もいいところです。

 民主党を支持している日教組は、天皇の存在価値を歴史から少しでも軽くしたいので鎌倉幕府の成立年を源頼朝が征夷大将軍に任命された1192(いいくに)年じゃなくて、1185年にしたがっています。

 坂上田村麻呂公、阿弖利爲(アテルイ)さんと母礼(モレ)さんに祟られるんじゃないのかな?


 仁王門のカンカン貫(ぬき)です。

イメージ 2



 仁王門の東西には、このように磨り減った木口(こぐち)があります。
一人が耳をあて、反対側をもう一人が叩くと、「カンカン」と澄んだ音が聞こえるようになっています。

 西門(さいもん:重要文化財)の背後に聳え立つ三重の塔(重要文化財)

イメージ 3



 鐘楼です。

イメージ 4



 鐘楼の柱が6本あるのは珍しいそうです。

 鐘には、金剛杵 (こんごうしょ:密教の法具)が刻まれています。

イメージ 5



 ということで、次回に続きます。


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閉じる コメント(6)

さすが!細かいとこまでじっくり見てますね〜小沢ダムは確か、仕分けリストの作成中に徹夜の突貫工事でほぼ9割完成みたいにしてとぼけたっていう話しですよねぇ??まったく・・・ですよね?凸

2010/2/28(日) 午前 2:02 むにゅ

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清水寺は、中学校の修学旅行に行ったけど、
清水の舞台から飛び降りる...のところを
覗いたしか覚えてないです(^^;)
何年か前に行った時はもぉ買い物に忙しかったり、
さっさと上に上がるだけが目的の人だったり...。
それで最終的には入らなかったし。
一緒に行ったのがめとろんさんだったら
きっと入っていろいろと楽しく勉強できただろうな...と思います(*^^*)

2010/3/1(月) 午前 10:07 [ みゆりん ]

むにゅさん、清水寺は歴史がありますから、いろいろ由緒や不思議があるのですね。
『いさわダム』って漢字を見るまで胆沢城のある場所だって分かりませんでした。
すでに工事が進んでいるからって外したんですね。この基準自体が、胆沢ダムを外すために決めたようです。
でも、水は張っていないから、自然保護の観点から、無駄なダムは工事は中止すべきなんですけどね。検討もしないのはおかしいと思います。
ポチありがとうございます。

2010/3/1(月) 午後 9:00 眼とろん星人

みゆりんさん、清水寺はやはり舞台ですね。
私は高いところが苦手なので、手すりのところにいるだけでもどきどきしましたよ。
前記事に書かれていましたね。
坂を登っていく景色も京都の情緒が満点ですし、結構距離があるのでお買い物しだしたら、時間がなくなりますね。
清水寺は、私も舞台だけだと思って調べたら、いろいろ歴史のエピソードが出てきてびっくりしました。

2010/3/1(月) 午後 10:46 眼とろん星人

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清水寺には、中学生の修学旅行に同行して、毎年行っていました。上の写真の仁王門をバックに毎回集合写真を撮っていました。
が、清水寺に関しての様々な歴史は、今、この記事を読ませていただいて初めて知りました。
ここを訪れるために、事前学習していった生徒達も、ここまで詳しくは調べられなかったと思います。
この記事を読んでからもう一度清水寺に出かけたら、あの地に立つ印象も随分違ったものになることでしょう。

2010/3/19(金) 午後 4:00 [ afuro_tomato ]

トマトさん、仁王門の前は本当に清水寺に来たという気分になれますね。
ここは場所が便利なのに、山に囲まれて、京都の風情が楽しめるので歴史を知らなくても雰囲気を知るだけで勉強になると思います。
観音信仰と、京都の守護神の坂上田村麻呂公に対する崇敬で平安時代からずっと身分の上下を問わず人気スポットだったのですね。
こんな険しい場所によくお寺を建てたものだと感心します。

2010/3/19(金) 午後 7:40 眼とろん星人


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