【ファイルET63】2012.05 07 平将門の首塚は魔都東京一のパワースポット(上)
日本のビジネスの中心に建っているねえ。
今回の記事については、どちらかというと『魔界の部屋』に分類されるべきものなのですが、魔都東京一の大パワースポットでもあるので、『江戸東京の部屋』として掲載させていただきますね。
平将門(たいらのまさかど)さんは、朝廷に楯突いて、自ら『新皇(しんのう)を名乗った朝敵です。
でも、江戸東京の守護神でもあります。このあたりの矛盾が日本の文化を理解する大きな鍵なのです。
恨みを呑んで亡くなった人の怨霊を神に祀りあげ、守護神にするというのが日本の文化ですからね。
東京丸の内、日本一の近代的オフィス街のど真ん中に、全く場違いな平将門(たいらのまさかど)さんの首塚(くびづか)があります。
周囲はビルだらけです。
こんな感じで碑が建っています。
碑の裏に首塚が建っています。
今も参詣する人が絶えず、大切に祀られているのが分かります。
私がここを撮影していたときも、ぱりっとした身なりのいかにもエリートサラリーマンといった感じの男性が参拝に来ていました。
一流企業のビルの屋上に神様をお祀りするのが日本の文化ですから、ある意味当然ですね。
将門さんの首塚は、高層ビルの建ち並ぶ、一等地丸の内のオフィス街のど真ん中で、皇居(旧江戸城)の東北、すなわち鬼門を守護しています。
平将門(たいら の まさかど、平 將門)さんは、平安時代中期の関東の豪族で、平氏の姓を授けられた高望王の三男・鎮守府将軍平良将の子として生まれました。桓武天皇5世にあたります。
生誕年は不詳ですが、菅原道真公が亡くなった年【延喜3(903)年】に生まれたとも言われています。
平将門さんは下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争に巻き込まれ、やがてそれは関東諸国を巻き込む争いへと発展しました。
それで起きたのが『平将門の乱』。
将門さんは国衙(こくが)を襲撃して印鑰を奪い、自ら皇位に就いて『新皇(しんのう)』と名乗りました。
将門さんは、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ:応神霊の本地にして菩薩として成仏修行する神)が将門に皇位を授けたとし、その位記(辞令)を書いたのが冥界の菅原道真公の神霊であると主張したのです。
天慶2年(939)12月19日。将門さんの前に一人の巫女(みこ)が現れ、八幡大菩薩の使いだと口走ります。
そして「平将門に皇位を授ける。その位階は菅原道真の霊魂が授ける」と告げたというのです。
この様子は『将門記』に「時に、一昌伎(かんなぎ)ありて云へらく、八幡大菩薩の使ぞとクチバシる。朕が位を蔭子(をんし)平将門に授げ奉る。その位記は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂表すらく、右八幡大菩薩八万の軍を起こして、朕の位を授け奉らん。今すべからく、三二相の音楽をもて早くこれを迎え奉るべし」と記されているそうです。
その時代は、太宰府に左遷され不遇の死を遂げた菅原道真公の祟りが人々に大きな恐怖を与えていました。
道真公を追い落とした政敵藤原時平(ふじわら の ときひら)が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死するなど関係者があいついで死亡し、天変地異が頻発し、ついには延長8年(930年)朝議中の御所清涼殿に落雷するに及んで、道真公の怨霊を鎮めるため、朝廷は道真公を神様(天神様)に祀りあげ、北野天満宮を建立したほどです。
ですから、菅原道真公の御託宣(ごたくせん)により『新皇』を名乗ったということは、世上に大きな動揺を与えたのですね。
戦(いくさ)で将門さんは『右大臣正二位 菅原朝臣霊魂』を振り翳しながら戦ったといいます。
将門さんは朝敵になり、『新皇』即位後わずか2ヶ月たらずで百足退治(むかでたいじ)で有名な藤原秀郷【ふじわらひでさと:俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)】、平貞盛らにより討伐され(承平天慶の乱)、その首を京都に晒(さら)されてしまいました。
天慶3年2月14日(940年3月25日)のことです。
『太平記』には、さらしものになった将門さんの首級(しるし、しゅきゅう)の話が書かれています。
将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう」と叫び続けたので、恐怖しない者はいませんでした。
しかし、ある時、歌人の藤六左近がそれを見て、
『将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて』
と歌を詠むと、将門はからからと笑い、たちまち朽ち果てたといいます。
また、京都で晒された首は、切り離された身体を求めて関東へ帰ってきたとも言われています。しかしついに力尽き、墜ちたところに塚を築いたと伝えられているのがこの首塚なのです。
一方、首を失った将門さんの身体の方も戦意を失わず、首を求めて暴れまわりました。
うへえ!首なし死体が暴れ回るなんて怖いねえ。
神田明神の社伝によれば、神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称したということです。
一方で、神田(かんだ)明神の『カンダ』は、『カラダ』の転訛(てんか)したもので、将門の身体が力尽きて倒れたところとだという説もあるそうです。
将門さんの胴塚(どうづか)がある茨城県坂東市のお寺、延命院の所在地は『神田山(かどやま)』ですからね。
ということで、(中)に続きますね。
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平将門に付いては、私は名前は知って居ましたが、どういう方だったのか全然知りませんでした。
「平」と名乗るからには、今大河ドラマでやっている平清盛のご先祖に当たる方だったんでしょうね。
それにしても、首を打たれて、恨み満々という方の首塚を作り、今以て心ある人たちが手を合わせて、何かお願いする、というのは、不思議と言えば不思議な現象ですね。
私流に言えば、平将門さんは、もうとっくに何度も生まれ変わっていらっしゃると思いますよ。
今の時代にはどうでしょうか。
もし、今の時代に生まれ変わって40代、50代になられていたとしたら、絶対有名な方になられているはずです。
それらしい方を、スジャータさんは思い当たられることはないでしょうか。
2012/5/10(木) 午前 9:33 [ afuro_tomato ]
トマトさん、将門さんも同じ桓武平氏ですから、血筋が繋がっているのでしょうね。
本当にこのような現代日本経済の中心地で、手厚く祀られているというのは、ここだけタイムスリップしたみたいで、不思議な感じがします。
そうですね。
将門さんのことですから、日本の危機の度にこの世に現れてきたのかもしれませんね。
こんな迫力のある人が外務大臣なんかになったら、日本ももっと良くなるのではって、つい思ってしまいます。
2012/5/12(土) 午前 2:15
神田明神の氏子だったので、よくわかります・・・ここ、いわくつきの話もあるしねぇ。。。。ここ、荒俣宏さんの小説で注目を浴びるようになりましたよね??凸
2012/5/16(水) 午後 3:28
むにゅさんは本当の江戸っ子でいらっしゃいますから、身近なのですね。
いろいろないわくは、中、下で書いていこうと思います。
荒俣さんの帝都物語ですね。
東京というのは機能的で無味乾燥な単なる首都ではないことがよく分かりますよね。
ポチありがとうございます。
2012/5/19(土) 午前 8:01
初めて参りに行きました
首塚の所だけが、空気が違ってた
今まで、色んな神社、寺いったけど
将門塚は、完全に空気違ってた
2016/7/25(月) 午前 1:46 [ kongu ]
> konguさん
おっしゃる通りです。もう近代的なビル群の中でここだけ空気が違いますよね。
ところが、その場違いな場所に、いかにもエリート然とした一流企業の社員がお参りに来られているのです。
このたび、周辺ビルの再開発計画が発砲された直後、オイルシェール投資の巨大損失で、三井物産は、早朝以来の連結決算赤字計上。
将門の霊的パワーは半端ではありませんよね。
2016/7/28(木) 午後 11:39