【ファイルT182】2012.10.27 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その6)大阪天王寺公園内の茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)は大阪の陣の古戦場。住友家についての記事を最初から読まれる方はこちら。http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53064436.html 天王寺公園内の住友さんが寄贈した大阪市立美術館敷地と、住友家茶臼山本邸庭園だった慶沢園(その1)から読まれる方はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53462787.html 前回は慶沢園を訪ねました。 今回は、慶沢園(けいたくえん)のすぐ裏にある、茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)をご案内します。 茶臼山古墳は5世紀の豪族の墓と伝えられているのですが(墓の主は不明)、そうではなくて円墳または自然丘陵との見方もあるそうです。 もしこれが、古墳だとすれば、全長200mの大阪市内では最大級の前方後円墳となるそうです。 茶臼山古墳も住友邸の庭園で、大阪市に寄付したんだよ。 茶臼山古墳は河底池(かわぞこいけ)にかかった和気橋(わけばし)を渡っていきます。 橋を渡ると、ここには、碑が立っています。 史跡 茶臼山 及 河底池 その近くには、こんな味わいのある案内板が立っています。 徳川家康が三つ葉葵(みつばあおい)、真田幸村の六連銭(りくれんせん)、すなわち三途の川(さんずのかわ)の渡し賃の六文にちなんだ家紋だねえ。 冥土で支払う船賃の六連銭を旗印にすることは、『不惜身命』(ふしゃくしんみょう:仏法のために身命をささげて惜しまないこと)を意味するといわれているそうです。 『不惜身命』って貴乃花 光司さんが、横綱への昇進伝達式で「謹んでお受けします。今後も『不撓不屈(ふとうふくつ)』の精神で、力士として相撲道に『不惜身命』を貫く所存でございます」と使者に答えたことで有名になった言葉ですね。 布陣の図を拡大します。 となりに立っている説明版にはこう記されていました。 ※ ※ ※ 茶臼山古戦場跡 慶長二十年五月七日〔1615年5月7日〕、紅の旗・吹貫(ふきぬき)であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤揃が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤揃えと松平家の家紋のツマ黒が交互に入り乱れる大坂夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大坂夏の陣 天王寺口の戦い) 数では劣る真田隊ではあったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。 ―真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由―「薩藩旧記」 〔以上原文ママ〕 ※ ※ ※ それで、 ここ茶臼山では、冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田幸村【さなだ ゆきむら:真田信繁(さなだ のぶしげ)】がそれぞれ陣を張っていたのです。 なお、真田幸村という呼称は、江戸時代になってから広まったもので、史実としては真田信繁と呼ぶのが正しいそうです。 豊臣秀吉の死後、豊臣家に代わって天下を取ろうとしていた徳川と豊臣の間に緊張が高まって天下分け目の関が原の戦いで徳川方が勝利。 さらに豊臣方が建造した京都の方広寺鐘銘の『国家安康』『君臣豊楽』という文字に徳川が言いがかりをつけたことを引き金に、大坂夏の陣が起きました。 牢人衆の真田幸村(信繁)さんは、野戦に打って出て、いざとなったら篭城しようと主張したのですが、それは入れられず結局豊臣家宿老の大野治長の主張の通り、最初から大坂城に篭城します。 大阪夏の陣の布陣(画像クリックで拡大可)。【大阪今昔散歩 原島広至著 中経文庫より】 画像下左の徳川本陣が茶臼山です。 結局、豊臣方の劣勢で、徳川方も兵糧が不足してきたので和議が成立。 和平成立後も徳川方は、国友鍛冶に大砲の製造を命じるなど、戦争準備を着々と進めます。 慶長20年(1615)年3月15日、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は牢人の解雇【関が原の時に父昌幸と居城の上田城に立てこもり、徳川秀忠の大軍を迎え撃ち、大坂冬の陣でも大活躍の真田幸村さんは牢人です】、豊臣家の移封を要求し、再度一戦を交えることになります。 それで、大坂夏の陣で堀が埋められ、裸城になった大坂城に篭城するわけにもいかないので、豊臣軍は一転野戦に打って出ます。徳川家康は、城攻めが苦手だから思う壺です。 ですから、真田さんの陣も南に張り出して、夏の陣では徳川家康が陣を張っていた茶臼山に陣を敷きます。 大阪冬の陣の布陣(画像クリックで拡大可)。大阪今昔散歩 原島広至著 中経文庫より】 今度は画像中央左の真田信繁(幸村)の陣が茶臼山です。 茶臼山に陣取った真田幸村は、越前松平家の松平忠直隊を蹴散らし、毛利隊らに手一杯であった徳川勢の隙を突き家康本陣まで攻め込んで、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らしました。 ちなみに、徳川が本陣に攻め込まれ、馬印が倒されたのは徳川家康が命からがら敗走した『三方ヶ原の戦い』以来二度目で、真田隊の猛攻に家康は二度も自害を覚悟したほどだったといいます。 しかし、そこは多勢に無勢、次第に徳川軍に追い詰められ、ついに四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で、味方の傷ついた兵士を看病していたところを強襲され、忠直隊鉄砲組の西尾宗次にその首級(しるし)をあげられました。享年四十九。 そして家康も、その翌元和2(1616)年4月17日巳の刻(午前10時頃)に駿府城において薨去します。まるで豊臣家を滅ぼすことができて、後顧の憂いが無くなり安心したかのように。享年75。 安居神社南の広い道路(国道25号)沿いには碑が立っています。 『元和元年五月七日 真田幸村戦歿地(大正9年大阪府)』の碑(安居神社境内にも更に新しくて立派な『真田幸村戦死跡之碑』が建っているそうです)。 グレゴリオ暦の1615年9月5日(旧暦:慶長20年7月13日)から改元して元和元年となったということなので、元和元年五月七日じゃなくて慶長20年だと思うのですが。 茶臼山と、真田幸村戦歿地の碑の位置関係はこうなっています。 青い棒線で示したのが、河底池に架かっている和気橋です。 それで、ゆるやかな石段を登って、 日本庭園の築山程度の高さしかない(せいぜい標高数メートル)茶臼山の頂上には、いとも簡単に到着。 山頂にはオブジェっぽい照明塔が立っています。 周りには草木が生い茂っています。 ここに、徳川家康も真田幸村も立っていたかと思うと、不思議な気分です。 圧倒的な劣勢だった夏の陣において、死を覚悟して決戦にのぞんだ真田幸村さんの気分になって、徳川家康の本陣があった南のほうを臨みます。 木々で視界がさえぎられていますが、ここは野原だったのですね。 ふと地面をみると、野の花がひっそりとつつましやかに咲いていました。 芭蕉の『奥の細道』から、有名な 夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと) という句が実感できるねえ。 また、芭蕉が尊敬していて、『奥の細道』でもとりあげられている、唐の杜甫(とほ)の五言律詩(ごごんりっし)『春望』の冒頭も思い浮かびます。 國破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり) 城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし) 時に感じて 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじて はなにもなみだをそそぎ)・・・・ 大阪の真ん中で、緑深くて、こんなしみじみと歴史を実感できる場所があるなんてびっくりだねえ。 大坂城を観光されるときは少し足を伸ばしてここも見学されることをお勧めします。 次回に続きますね。 |
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スジャータさん、これは偶然、と言えば本当に偶然です。今、私は池波正太郎作の「真田太平記」の11巻目を読んでいるところです。
すでに冬の陣は読み終わっています。今夜から夏の陣のクライマックスを読もうとしているところです。
小説を読んでいるだけでは、戦場の地図がイマイチ頭に入りません。小説に出てくる人物の戦場での配置は、スジャータさんのブログの地図を見ると良く分かります。
今夜はこの地図を見ながら、「大阪夏の陣」を読ませていただきます。
しかし、幸村の戦いは家康の大群に対して小軍でしたが物凄い戦いを挑んだようですね。戦いが終わって、勝つことは勝ったけれど「幸村にはひどいめにあった」と、家康は何度も呟いていたということです。
ああ、今夜が楽しみです。
詳しい地図を載せてくださって、ありがとうございました。
2012/10/28(日) 午後 3:20 [ afuro_tomato ]
トマトさん、お役に立てて何よりです。
毛利勝永や松平忠直の位置が分かりますよね。
この前御紹介した、大黒や新歌舞伎座からそんなに離れていないので、池波正太郎さんも、ここを訪れて作品の構想を練られたのでしょうね。
家康はこの時代にしては長寿の75歳の生涯を全うしましたが、真田軍の鬼神のような攻めのストレスで、免疫が落ちて寿命を縮めたように思えてなりません。
敵ながらあっぱれだとも思っていたのでしょうね。
だから江戸時代に大人気で、真田幸村の名で親しまれたのでしょう。
2012/10/29(月) 午後 9:53