アトモス部屋

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【ファイルT202】2014.01.12 五代友厚さんは、大阪経済近代化の功労者。

「東の渋沢、西の五代」と称された大阪の大立て者だねえ。

 前々回に今の難波橋について記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54652587.html

その際に、大阪証券取引所が写っていたのですが、今回はその前に立っているのが、五代友厚さんの銅像です。

難波橋のライオンさん越しに見える五代友厚像。


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大阪証券取引所ビル前に、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)初代会頭五代友厚さんの銅像が建っています。


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 右足を半歩前に、右掌を上に一寸前へ出していますが、これは示現流【じげんりゅう:、薩摩藩を中心に伝わった古流剣術。流祖は東郷重位】の使い手がいつでも拔刀できるポーズなのだそうです。

 この五代さんの人物と業績を知る人は、今日大阪でもごく少ないのだそうですが、この五代さんこそが近代大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人なのです。だから、こんな立派な銅像が建つんだねえ。

五代 友厚【ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日】さんは、日本の武士(薩摩藩士)、実業家です。【※以下、日付は明治5年までは旧暦】

 『三国名勝図会』の執筆者で記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)に生まれました。幼名は徳助。通称才助。

 質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学びます。

14歳のとき、琉球公益係を兼ねていた父親が奇妙な地図を広げて友厚少年を手招きました。そこにあったのは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図でした。友厚少年はお父さんからこの世界地図の複写を命じられます。

そこで、友厚少年はそれを2枚写し、1枚は藩主に献上し、1枚は自分の部屋に掲げ、日がな一日ながめていたということです。


幕末の五代さんの経歴は以下の通りです。

 安政元(1854)年、ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となりました。その折、五代さんは「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったということです。

安政4(1857)年、藩の選抜で長崎海軍伝習所へ藩田習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びます。

安政6(1859)年 水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航、藩のために汽船購入の契約をします。

文久3(1863)年 生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となり、横浜で釈放されます。

 国元ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀さんの取り成しによって、ようやく帰国を許されることとなりました。

慶応元(1865)年 藩命により寺島宗則・森有礼らとともに英国留学に出発し、欧州各地を歴訪。ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたのですが、諸事情により失敗に終わりました。

しかし、この時の経験が、のちの五代さんの経営手腕に大きな影響を与えることになるのです。

慶応2年(1866年) 長崎の小菅に日本初となる近代ドッグ(小菅修船場)建設に着手し、その後、長崎製鉄所(現・三菱重工業長崎造船所)を設立します。

御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任。

長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めました。ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので、いまだに現存しています。

慶応3(1867)年 幕府が崩壊。御納戸奉公格という商事面を担います。

慶応4(1868)年 戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍しました。

 薩摩藩時代から、波瀾万丈の人生を歩んできたのですね。

明治維新で、幕藩体制は終結しましたが、五代さんはこのような経歴と欧州留学経験を持ち、外国事情にあかるいことから、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛に任用されました。

そして外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの重大事件の外交処理にあたりました。

また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開けることになります。

これらが、五代さんが大阪と関わるきっかけとなります。

江戸時代の大坂は全国の藩の蔵屋敷が建ち並び、年貢の集積地として、全国の米相場の基準を発信する、まさに『天下の台所』として繁栄しました。

 それについては、以前書きましたね。

 大坂の堂島米市場跡の記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53022987.html

 大坂の豪商だった淀屋の栄枯盛衰にもついて記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54547552.html

このように、大坂は江戸の幕藩体制における商業の中心として、大いに栄えたのです。

ところが、降って湧いたような明治維新。

廃藩置県によって、藩が消滅します。従って大坂の各藩蔵屋敷も無用の長物となり、大阪独自の銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や両替商の資産消失も大きな打撃でした。

明治2(1869)年 五代 友厚さんは新政府の参与という要職に任ぜられていたのですが、当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代さんの言)といった感のあった大阪経済を立て直すために、官を辞し実業界へ。商工業の組織化、信用秩序の再構築を図りました。

五代 友厚さんの肖像写真です。


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 なかなか押し出しのあるハンサムさんだねえ。

退官後、大阪へ再び戻り、手始めに本木昌造の協力により英和辞書を刊行。また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力します。順を追っていくと。

明治4(1871)年 大蔵省、造幣局(現・大阪造幣局)設立。

明治6(1873)年 弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立し日本の鉱山王となります。

 明治7(1874)年 半田銀山(福島県)の経営を開始。

 明治8(1875)年 朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立。

明治9(1876)年 堂島米商会所を設立する(堂島米会所の復興)。


明治11(1878)年 大阪経済の低迷打開策として、五代さんを筆頭とした財界指導者の有志15名が明治11年7月に大阪商法会議所設立の嘆願書を政府に提出。これが今日の大阪商工会議所の礎となりました。

 嘆願書の集め方は、交渉手腕に長けた五代さんらしい強引な勧誘で、その決め台詞が「万が一、後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」というものだったようで、結果的に60人の同志を募ることができました。

初代会頭が、後に銅像になった五代友厚さん。

大阪商法会議所を設立した目的は「大阪の実業家の相互扶助によって新時代の潮流に棹差し大阪商人の伝統である信用第一主義に則り以って自己の利益を増すと同時に大阪の繁栄を軸に国富の増強に資する」というものでした。

大阪商法会議所設立趣意書


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大阪商法会議所開業免状


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 ↑いずれも、大阪証券取引所HPより。
http://www.ose.or.jp/profile/758

役員の構成は、五代さんを初め計11人が創立委員となり鴻池善右衛門、三井元之助(後の三井財閥)、広瀬宰平(後の初代住友総理人)らの150株を筆頭とした、当時の大阪財界を代表する蒼々たる顔ぶれでした。

この時、五代さんは「大阪が日本の産業と金融機関の中枢になるのはすぐだ」と呟いたということです。

明治12(1879)年 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設。


明治13(1880)年 東京馬車鉄道、東京電気鉄道(現・東京都電車を)創設。

明治14(1881)年 大阪青銅会社(住友金属工業)、関西貿易社を設立。

明治15(1882)年 共同運輸、神戸桟橋(川崎汽船K-LINE)を設立し大阪湾を近代化させます。

明治16(1883)年 汽船会社を合同で設立。

明治17(1884年)年 大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)、大阪堺鉄道(南海鉄道)を設立。

 大阪北中之島1丁目26番地に初めて自邸を新築。

明治18年(1885年)9月、鹿児島より籍を大阪に移します。東京に於て日本郵船会社を斡旋。勲四等に叙せられ旭日小綬章を賜わります。


このように、五代友厚さんは、近代大阪の経済発展に多大な足跡を残し、まさにこれからという、明治18(1885)年に51歳の若さで亡くなりました。

当時東京において東京商法会議所(現・東京商工会議所)等を設立した渋沢栄一氏と比肩する人物として、『東の渋沢、西の五代』と称され、今なお語り継がれていますが、当時は、市井のおかみさん達までが、「五代はんは大阪の恩人や」と、その死を悼んだということです。

それにしても、51歳という短い生涯でこれだけの業績を成し遂げたのですから驚きです。

大阪を愛し、大阪のために尽力をされた五代さんは、遺言により大阪の土となりました。

 墓所は大阪阿倍野斉場にあります。

 その後大正3(1914)年。大正天皇が演習のため大阪行幸の際、特旨を以て正五位を追贈されました。

 ということで、次回に続きますね。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54747542.html

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五大友厚という方は、大阪経済近代化の功労者、と言うことですが、物凄いことを次々に実行して、成功させていかれた方なのですね。

物事を行った順に書かれている内容を読むと、よくこんなに短い期間に、大変ないくつもの創設を次々と為されたものだと思います。
この人が中心になって事を行っていったおかげで、物事が順調に進んでいったんでしょうね。
しかし、51歳で亡くなられてしまったのは、なんとも口惜しいですね。
ご本人は「俺はやることを全てやったから、もうこれでいいんだ」と思っていらしたのかしら・・・

2014/1/12(日) 午後 8:26 [ afuro_tomato ]

トマトさん、五代さんは、薩摩でとても苦労されたのですね。イギリスと戦争して捕虜ですからね。これで思い出すのは、会津出身の名市長池上四郎 (第6代大阪市長)氏です。
命のやりとりをした経験のある人は、それだけ決断力があると言うことなのでしょうか?
この時代は、戦争や暗殺で多くの有能な人材が失われたはずですから、それでなおかつ、これだけの人材がいたということに驚きです。

約束されていた役人としての栄達を捨てて、大阪のために尽力。しかも、いろいろな創造を行ったバイタリティーは、今の人には望むべくもありませんね。

50歳でようやく自宅を新築したということは、どれだけ無私だったのでしょう?
鹿児島より籍を大阪に移したということは、大阪に骨を埋める覚悟だったのですね。まさにその歳に亡くなったのですから、無念だったと思います。

でもトマトさんのおっしゃるように、これだけやったら悔いはなかったでしょうね。

2014/1/13(月) 午後 8:34 眼とろん星人

ただのポーズではなく、構えだったんですね。単なる創設した人の像だと思ってました。いえ、この方を存じませんでした…すごい方、だったんですよね。凸

2014/1/18(土) 午後 11:21 むにゅ

***さん、多分大丈夫だと思いますよ。
ぜひそうなさってください。

2014/1/19(日) 午後 11:52 眼とろん星人

むにゅさん、武士の商法といいますが、武士でもやはり商売の才能がある人はいたんですね。文武両道で、戦争で捕虜にまでなるんですから、胆力が座っている分、スケールが違うのですね。
私は五代さんの名前は知っていたのですが、ここまで凄い人だとは思いませんでした。
なんとなく大阪は昔から商人の街だから商業が盛んだと地続きに考えていたのですが、こういう人が大阪を立て直したから、今の大阪があったのですね。
関東大震災の時は、大阪が日本を支えていたのですから、その土台を造った五代さんは、日本の恩人でもあると思いました。

ポチありがとうございます。

2014/1/19(日) 午後 11:57 眼とろん星人


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