【ファイルET95】2014.03.04 四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その11)
山王さまの山王日枝神社は江戸城の裏鬼門を守っているよ(日枝神社その1)。
四谷から溜池山王までお散歩したよ。(その1)から読まれる方はこちら。↓
東京都立日比谷高校のすぐご近所に山王さまがあります。
石標には『山王日枝神社』、鳥居の額には『日枝神社』と記されています。
東京都千代田区永田町ですから、国会議事堂も首相官邸もあって、高層ビルに囲まれています。
以前、弁慶橋の記事の時にご紹介した位置図です(再掲)
その時に一緒に掲載した『増補改訂 麹町永田町 外櫻田繪圖【嘉永三戌(1850)年新刻 元治元(1864)年甲子歳改正 影山致恭図之 麹町六丁目 尾張屋清七板】』です。
山王日枝神社は森のように描かれていますね。
だだっ広い大名屋敷があって、対岸は外堀の堤ですから、今のような賑やかな所ではなかったようです。
歌川広重(うたがわひろしげ)の『名所江戸百景』から『糀町一丁目山王祭ねり込(こうじまちいっちょうめさんのうまつりねりこみ)』【夏51景】です。
『−江戸切絵図で歩く― 広重の大江戸名所百景散歩 −嘉永・安政 江戸の風景119− :堀 晃明著 人文者社』より、この絵の解説を引用させていただきます。
※ ※ ※ ※
糀町(こうじまち)は、江戸城の半蔵門と四谷御門との間の通りの両側に10町が、そして四谷御門の外には3町があった。
名前の由来は、昔ここに麹を作る店があったからとか、半蔵御門から昔国府(こくふ)のあった府中へ行く「国府路(こうじ)」が通っていたからとかいわれている。
山王祭(さんのうまつり)は、山王台地に鎮座する日吉山王権現神社(ひえさんのうごんげんじんじゃ)の祭礼をいった。
この社の氏子は、徳川家を始めとし、麹町から日本橋以南160ヶ町におよんでいて、神田明神と江戸市内の氏子を二分していた。どちらの祭礼にも各町が趣向をこらした山車(だし)や屋台(やたい)などの練(ね)り物(もの)を出し、その費用は莫大となったため、両祭は1年おきに交互に執り行われていた。
6月15日の祭礼には、45台の山車と踊り台が、未明に山下御門に集合し、長い行列をつくってまず山王権現社まで練り歩いた。
ここで神輿(みこし)が3基加わり、麹町1丁目から半蔵門を通って城内へ入り、吹上御殿(ふきあげごてん)で将軍や仕えの人々の御覧に供した。
この祭が天下祭(てんかまつり)といわれるのはこのためである。
このあと行列は城内を練り歩き、その殿(しんがり)が常盤橋(ときわばし)御門から出る頃には夜になっていたという。
この絵では、行列の一番手の烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)姿の猿の山車(南伝馬町)が半蔵門内に入ろうとしている。
手前に半分だけ見えている山車(だし)は二番手の太鼓の上に鳥を載せた諌鼓鳥(かんこどり:大伝馬町)である。これらの重い山車は、高輪のうし町の牛が2・3頭がかりで曳いていた。
※ ※ ※ ※(以上引用終わり)
この本は広重の美しい版画だけではなく、描いた場所が特定できる古地図と現代の地図と解説が載っていて、とても楽しくて、お勧めです。古地図もこの本から引用させていただいています。
それにしても、糀町(こうじまち)は麹町(こうじまち)で日枝神社(ひえじんじゃ)は日吉神社(ひえじんじゃ)でもあるのですね。
糀町(こうじまち)は、現在の麹町(こうじまち)のことで、引用文の説以外にも、もともとは甲州街道の起点の町ということから甲斐路(こうじ)町と書いたという説もあるそうです。
東京は麹町になっていますが、神戸市には西区糀台(こうじだい)という地名があるようです。
神戸は『灘の生一本(なだのきいっぽん)』の酒どころだから、糀(こうじ)には関係深いんだねえ。
でも、神戸といっても西区は、灘とは遠く離れた田舎の新興開発地のようですから、ひょっとして、このあたりは有名な酒米の『山田錦(やまだにしき)』が収穫されるところだったりして、酒米と縁の深い『糀』という名前がついているのかな?。
上り詰めたところに、末社である山王稲荷神社本殿があります。
横に、解説の立札が立っていました。
私は、なるべくこういうものは、残しておこうと思っているので、書き写しますね。
※ ※ ※ ※
千代田区指定有形文化財 指定 昭和63年4月
山王稲荷神社本殿
概 要
名称 日枝神社境内末社 山王稲荷神社本殿
所在 千代田区永田町2−10−5
構造 一間社春日造、本瓦葺型銅版葺、南面
規模 身舎 正面柱間 真々 1.518米
〃 側面柱間 〃 1.670米
〃 向拝間柱間 〃 1.670米
山王稲荷神社は、日枝神社が万治二年(1659)麹町隼町から現在地に移される以前、当地が福知山藩主松平忠房の邸地であった頃、すでに邸内鎮守として祀られていたと考えられる。この地主稲荷社と現存する建物との関係は不明である。
『日枝神社史』『江戸名所図会』『甲良家文書』等の資料や棟札(昭和20年焼失)、細部絵様、同時期の公儀普請・浅草神社(慶安二年・1649建立)等との比較、技法の共通性から、万治二年山王社造営奉行板倉甚太郎重直・横山内記知清両人により日枝神社造営時に新しく造営されたものであると推定される。
江戸時代の多くの災害のほか昭和20年5月25日の空襲による日枝神社社殿焼失の際、校倉とともに戦災を免れて残った唯一の社である。
本社復興までの間、日枝神社の仮本殿として用いられた。
現存の社の建立年代を示す直接資料を欠くものの、日枝神社末社として本社とともに公儀普請により建設された可能性が高く、17世紀中葉の江戸における幕府建設活動を示す数少ない遺構例のひとつであり、加えて関東地方には希少の縋形式の春日造本殿であることは特筆される。
平成元年三月
千代田区教育委員会
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『縋形式』は、『縋(すがる)破風』という言葉があるので、『すがるけいしき』と読むのでしょうか。
いかにも簡素なお社なので、そんな貴重な建物だとは思ってもみませんでした。
米軍は宗教施設でも平気で爆撃するのですね。
世界遺産のドイツケルン大聖堂ですら、第二次世界大戦時のケルン市に対する英米軍の大空襲で14発の直撃弾を受けたのですから。
ドレスデンの大空襲なんて、非戦闘員の大虐殺でした。
勝てば官軍とはよく言ったものです。
それで、日枝神社は、戦後しばらくの間、ここに仮住まいしていたのですね。御見逸れしてすみません。
ということで、次に続きますね。
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現在の麹町が、甲州街道の起点の町だったということを初めて知りました。妹が、東京に出てきて、麹町に勤めましたので、私も時々この町を通りました。
それ以外のところ、山王稲荷神社にも、日枝神社にも訪れたことがないので、記事の内容に感想がかけなくてすみません。
2014/3/5(水) 午前 9:41 [ afuro_tomato ]
トマトさん、半蔵門から甲州街道で諏訪の高島城までが有事の際の徳川家の避難路になっていたから、服部半蔵が固めていたようです。
ここはちょっと奥に入って坂道を登らなければならないので、行こうという目的がないとなかなか行く機会はありませんよね。
ここは江戸城鬼門を守護する神田明神と並んで、裏鬼門を固める魔界スポットでもあるのでそのへんのところを記事にしようと思っています。 結構いろいろ出てくるので、次回もよろしくお付き合いくださいね。
2014/3/12(水) 午後 8:52
勤めていた会社がお正月必ずこちらに参杯する会社だったのでよく行ってました。結構、平日は人も少ないんですよね。広いからそう感じるのかな??浅草よりもこちらの方が重要なスポットなのになかなか目を向けてくださるブロガーさんがいないので嬉しいです!そう!鬼門を固めてるんですよね。凸
2014/3/23(日) 午前 1:14
むにゅさん、会社はやはり氏神さんを大切にしますね。東京のビル街でもそういう感じなのでやはり江戸の都市づくりというのは意味があるのですね。
裏鬼門は、やはり神田明神とともに天下祭りを許されたこの神社ですね。
調べれば調べるほど、江戸時代の人たちの世界観の豊かさが分かるような気がします。
ポチありがとうございます。
2014/3/28(金) 午前 2:41