アトモス部屋

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【ファイルF61】2014.06.21 大阪平野は昔は河内湾(かわちわん)という海で、鯨さんが泳いでいたよ。

大阪の谷町は、何故谷町なのか?

 前回は、大阪の谷町がお相撲のタニマチの由来だというお話をしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/55013139.html

 それで、これはそもそも昔の大阪の地形と関係があるのです。今回はそのお話をしましょう。

6000年前の大阪の姿です。


イメージ 1



もともと、現在、上町台地と呼ばれている場所は、縄文期には東西を河内湾(かわちわん)と瀬戸内海に挟まれていた半島状の砂嘴((さし)だったと考えられているのです。

紀元前約6000年–前約5000年ごろの縄文海進により海水が河内平野へ進入し、現在の枚方市付近を北限、東大阪市付近を東限として、上町台地と生駒山地の間に河内湾と呼ばれる湾が形成されていたのです。

それで、今の大阪の姿からは想像もつきませんが、この河内湾には鯨さんが泳いでいたのです。


大阪市立自然史博物館本館玄関前ポーチにて常設展示中のナガスクジラ全身骨格標本で愛称は「ナガスケ」さん。


イメージ 2



↑但し、このナガスケさんは、昔の化石じゃなくて、1990年4月に大阪湾の護岸にうちあげられた18メートルのナガスクジラの死体の骨格標本です。

今でさえ大阪湾にこんな巨大な鯨の死体が漂着しているくらいですから、今の大阪平野は昔の河内湾だった頃に、こんな巨大なナガスクジラさんが泳いでいたのですね。

びっくりだよお!

なお、大阪市立自然史博物館の展示室では、比較的新しい年代の大阪近郊で発掘されたクジラ等の化石から、カンブリア紀の化石まで、地質年代を追う形で展示されています。


じゃあ、この鯨さん達を、縄文の人たちはどうしていたのでしょう?


例えば、青森県青森市大字三内字丸山にある三内丸山遺跡(今から約5500年前〜4000年前の縄文時代の集落跡)からはイルカの骨が出土されています。

 独立行政法人 情報推進機構 教育用画像素材集より 三内丸山遺跡(縄文時代) -イルカの骨
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz2/k-jda1/k-jcs1/k-jss1/IPA-san1050.htm

イメージ 3



 【動物や魚の骨は縄文人の食生活を知る手がかりとなる。動物も食料であったが、あまり多くはなかったと考えられる。特にこの遺跡ではシカやイノシシなどの大型動物は少なく、ノウサギやムササビなどの小動物が大半であった。写真はイルカの骨である。(所蔵先:青森県教育庁文化課)】

つまり縄文の人たちは、イルカさんを食べていたのです。


日本人の鯨食について書いた文章を見つけました。

 第440号  鯨研通信   2008年12月より
 鯨と日本人・日本文化 森 浩一氏(同志社大学名誉教授)
http://www.icrwhale.org/pdf/geiken440.pdf

※    ※    ※

クジラは“海の大魚”である。“魚のなかの王者”と言われたこともある。

 これは中国人をも含めて漢字文化圏での伝統的な考えであった。この視点にたって今回は論を進める。

中国人は後漢時代ごろ(日本の弥生時代後半ごろ)からクジラの生態をよく知っていた節があり、雄のクジラにたいして鯨の字を作った。魚偏にしたことは何よりも大魚であるという考えをよく示し、旁の「京」は都の意味ではなく巨大さをあらわしている。

つまり鯨という字そのものに海の大魚という考え方がよくでているのである。

 (中略)

 奈良盆地の南部の橿原市((かしはらし)に橿原遺跡がある。昭和13年に「紀元2600年」の記念行事として橿原神宮の外苑が整備されたとき、縄文時代晩期の大遺跡があらわれ、遺跡の一部には奈良時代の豪族の邸跡にともなう井戸跡もあった。

このときの出土品のなかにクジラの脊椎骨がある。縄文人が伊勢湾かさらにその南の熊野方面から交易でもたらしたものであろう。

 クジラの脊椎骨は道具(例えば土器を作る際の台)として、九州の縄文時代には海岸地帯だけでなく九州中央の山地の遺跡にももたらされていた。

おそらく脊椎骨とは別にクジラの身も交易でもたらされたのであろう。

なお先に書いたように日本でも中国でもクジラを海の大魚とみており、ぼくはその伝統を重んじてクジラの肉ではなく身という言葉を使うことを最近は心がけている。牛肉や豚肉とは感覚のうえで区別したいのである。

 (中略)

よく縄文時代や古墳時代には海岸に寄ってきた弱ったクジラを捕っていたにすぎないと書く本があるが、それらは想像にすぎず実在の古墳壁画などからはすでに独特の漁法があったとみてよかろう。

その漁法とは数艘の舟が囲んで、時間をかけて弱らせてから獲ることで、そのためにも一人の指揮者の命令のもとに団結して行動していたのであろう。

このような漁法と江戸時代の漁法とのあいだの関連を調べることは今後の重要な研究課題となるだろう。

よく捕鯨は近世になって始まったと書いてある。これは本格的な捕鯨ならその通りであるが、小規模でも捕鯨といえる漁法はすでに縄文時代からあったといってよかろう。

 (後略)

 ※    ※    ※(以上引用終わり)

森名誉教授は、『小規模でも捕鯨といえる漁法はすでに縄文時代からあったといってよかろう』と主張されておられますが、少なくとも、縄文時代には、『海岸に寄ってきた弱ったクジラを捕ってい』て、食べていたことは間違いないのです。

大阪にお住まいだった縄文人の皆さんも鯨さんを食べていたんですね。


日本人は数千年も前から鯨さんを食べるという食文化を持っていたのですから、絶滅危惧でもない種類の捕鯨について、外国人にとやかく言われる筋合いはないねえ。

その後、大阪は、弥生期から現在に至る期間を経て上町台地東部(東成地区の語源と言われる)は、淀川・大和川水系から運ばれる大量の土砂が堆積し、河内湾が『河内湖』、『湿地帯』を経て沖積平野とって、台地西部(西成地区の語源と言われる)も同じく河川の働きにより大阪市の中枢部を含む平野を形成するに至ったのです。


ところで、国土地理院は 航空レーザ測量 1:25,000 デジタル標高地形図(カラー印刷図) という、とても興味深いサイトを作成しています。

http://www1.gsi.go.jp/geowww/Laser_HP/digital_image.html

 1:25,000デジタル標高地形図「大阪」 平成18年8月 国土地理院作成 国土地理院技術資料 D・1-No.461 全体図(高解像度)[1790KB] を見てみましょう
http://www.gsi.go.jp/WNEW/PRESS-RELEASE/2006-0223b-3.html

イメージ 4



 地図の色分け基準の表を拡大します。

イメージ 5



 【国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました】

これを見ると、現代の地形が、昔の河内湾だった海と、河内湾と瀬戸内海に挟まれていた半島状の砂嘴((さし)だった『上町台地』の名残をとどめています。

それで上記標高地図の谷町付近を拡大しますとこうこう位置関係になります。


イメージ 6



この地図から、谷町は上町台地の高台から、もともとは海だった低い谷に落ち込む『谷坂』に位置していることがわかります。

だったら、『谷町』ではなくて、『谷坂町』と呼んだ方が良いと思うねえ。

そういえば、女優の石川さとみさんが、NHK大阪放送局制作の朝ドラ『てるてる家族』(てるてるかぞく:2003年度下半期のNHK連続テレビ小説)の思い出で、「朝ドラの、NHKに通うあの坂をずっと登っていたっていうのは、いまだにあの景色は忘れられないですね。谷四【たによん:谷町四丁目=地下鉄の駅】のあの坂はなかなか急なんですけど、あそこを毎日登っていたので」と言っていました。

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54499669.html

ということで、谷町の地形は、もともとは縄文期には東西を河内湾と瀬戸内海に挟まれていた半島状の砂嘴((さし)だった上町台地の名残を今にとどめているのです。

縄文時代には、このあたりから泳いでいる鯨を眺めることが出来たんだねえ。


イメージ 7



 ↑谷町3丁目交差点(再掲)

 うへえ、びっくりだよお。
 
 ということで、地名というのはとても面白いのでした。

閉じる コメント(4)

鯨一頭で、かなりの人数分の大量確保できるし、それこそ余すところなく食べたり活用したりできるもんね。縄文人も見てるだけってことはないと思う。凸

2014/6/21(土) 午後 9:14 むにゅ 返信する

むにゅさん、座礁鯨が一頭上がれば、一つの村が当分食うに困らないといわれますからね。

江戸時代だって、動物タンパクが不足していたので、あの生類憐みの令を出した将軍綱吉公の時代でも、鯨は魚として、庶民は堂々と食べていたのです。

未開な縄文時代と、洗練された弥生時代という固定観念は、学問レベルでは否定されつつありますよね。

縄文人がこんな有難い海の幸を放っておくはずがありませんよね。

ポチありがとうございます。

2014/6/22(日) 午前 0:45 眼とろん星人 返信する

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弥生、縄文時代に大阪がこんな湾になっていたなんて思ってもみませんでした。
広い湾だったのですね。
ここなら、クジラだってやって来ると思いますよ。
弱って、岸近くに寄って来たクジラを捕って食べるほかに、もっと違った捕鯨法があったのではないかと想像します。

この土地から水が引いたのはいつごろだったのでしょうね。

2014/6/22(日) 午前 10:43 [ afuro_tomato ] 返信する

トマトさん、特に縄文時代には海になっていて、弥生から現代にいたるまで、河内湖という浜名湖のような淡水湖になって、湿地になって、平地になっていたのですね。

こういう湾ならエサも豊富にあるでしょうから、クジラもやってきますよね。
そうですよね、三内丸山遺跡だって、研究が進むにつれて、かなり文明が発達していたことが分かってきているようです。

仁徳天皇(オオササギ王)が難波の堀江(なにわのほりえ)という難波(現代の大阪)に築いたとされる水路(または運河)があるようですから、だんだんと土砂が堆積して来て、治水の必要があったのでしょうね。

それでも、湿地帯は多かったようです。

難波の宮が廃都になって、大阪がずっと歴史の表舞台から遠ざかっているので、石山本願寺攻めの織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の大坂城を経て、いろいろと開発整備されたのでしょう。

2014/6/26(木) 午前 1:02 眼とろん星人 返信する

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