【ファイルF65】2014.10.21 大阪にある大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】だよ(その3)大林芳五郎さんが創業した大林組。前回の大林組旧本店ビル【現ルポンドシエル ビル】の中の大林組歴史館についての記事で、大林組創業者、大林芳五郎(由五郎)さんが。明治25(1892)年1月25日、齢(よわい)にして弱冠(じゃっかん)27歳で『土木建築請負業』として『大林店』の名を掲げ旗揚げしたという記事を書きました。それで、前回からの続きです。 大林組創業阿部製紙工場に続いて、明治26(1893)年3月に朝日紡績の今宮(いまみや)工場を受注、さらに翌年にも阿部製紙と同族経営の金巾製織(かなきんせいしょく)四貫島(しかんじま)工場と大工事を請け負っています。“事業は人なり”と言われますが、芳五郎(由五郎)さんが率いる大林組もその例にもれなかったのですね。特に、大林店(大林組)創業当初から力を合わせた下里熊太郎さん、菱谷宗太郎さん、小原伊三郎さん、福本源太郎さんは『四天王』と呼ばれました。また阿部製紙所の幹部松本行政さんは、26年にその甥の伊藤哲郎さんを由五郎(由五郎)さんに託して入店させます。先ほどの四天王と合わせ、伊藤哲郎さんは、白杉嘉明三(初名亀造)さんとともに、やがて大林店(大林組)の柱石(ちゅうせき)となりました。これら受注は、その技術において優れていたということは勿論のこと、芳五郎さん個人の人柄が信頼を得たことも大きいとされているそうです。例えば、創業期に資金的に面倒をみてくれた亡父徳七さんの友人、片山和助さん、材木の供給や資金面で援助を惜しまなかった堀江の材木商佐々木伊兵衛さんなどがそうでした。芳五郎(由五郎)さんは創業に際し、棟梁、親方の経験もなく、大資本や権力の背景もありませんでした。ただ、なにがしかの経験による請負業の管理能力と先見性のみが頼みだったのです。しかし事業には資金が必要です。これを助けたのが片山さんで、創業に際し5,000円の資金を提供し、母美喜さんの蓄えと自己資金1,000円を合わせたものが、芳五郎(由五郎)さんの旗上げの資金となったのです。芳五郎(由五郎)さんが当時常に標榜していたモットーは『施工入念』、『責任遂行』、『誠実勤勉』、『期限厳守』、『安価提供』。当時の建築業界においては、これらは必ずしも守られていない風潮があり、そこに芳五郎(由五郎)さんは新風を吹き起こしたのですね。明治30年に大阪舎密工業(おおさかせいみこうぎょう)、大阪製薬、毛斯綸紡織(もすりんぼうしょく)の各工場や九州倉庫会社の倉庫、阿部製紙所火災復旧工事、31年に大阪府第三尋常(じんじょう)中学校、同第四尋常中学校、日本繊糸寄宿舎(にっぽんせんしきしゅくしゃ)、京都の大日本武徳会演武場(だいにっぽんぶとくかいえんぶじょう)を請け負い、そして同年6月には、大林組の歴史にとっても大きな意味をもつ大阪市築港 築港(ちっこう)の大工事を受託するに至りました。大阪市築港工事と並行して、31年住友銀行広島支店、32年日本銀行大阪支店本館基礎、日本繊糸麻工場(注1)、大阪市中大江尋常小学校、滋賀県尋常師範(じんじょうしはん)学校、京都蚕業(さんぎょう)講習所、住友本店倉庫、大阪府第二師範(しはん)学校、33年大阪工業学校冶金窯業(やきんようぎょう)工場、北酉島樋管(にしとりしまひかん)新設、大阪府第一師範学校(現・大阪教育大学 教育学部)、大阪府第七尋常中学校、東京倉庫大阪支店倉庫などの諸工事を請け負いました。【※注1 日本繊糸麻工場の読み不明。繊糸の読みは『せんし』。日本製麻(にほんせいま)株式会社という会社が現存しているので、『にほんせんしまこうじょう』と読むと思われる】これらの工事のうち、第一師範学校工事が図らずも重大な危機を招くことになります。それは工事の監督、用材の検査が常識を超える厳格なもので、不合格とされた木材は山をなしたといいます。そのため、この工事によって莫大な損害をこうむったのですが、それは折悪しく大阪に始まった金融恐慌の最中でした。大阪市築港工事と同時に多数の工事を施工中であった芳五郎(由五郎)さんも、この恐慌によって金融難に陥り、万策つきて築港工事返上を申し出ます。これを聞いた築港事務所の西村捨三所長は大林なくしては工事不可能と考え、岡 胤信(おか つぐのぶ)工務部長、内山鷹二(うちやまたかじ)庶務部長その他幹部らとはかって救済策を講じ、その結果、金融の道が開けて、危機を突破することができました。芳五郎(由五郎)さんが工事の返上を口にしたのは、生涯でこのとき以外にはありません。それほどの危機だったのです。それを救ったのは西村所長以下の好意だったのですが、そこには仕事を超えた心の結びつきがありました。この相互信頼は後に内山さん、岡さんを大林の人として迎えるもととなったのでした。さらに芳五郎(由五郎)さんは、明治37(1904)年2月に店名を正式に『大林組』と改名、同年6月には東京にも事務所を開きます。同年には旅順口閉塞船(りょじゅんこうへいそくせん:注2)石材積込作業に従事したほか朝鮮軍用鉄道、捕虜収容所、駐屯軍兵営(ちゅうとんぐんへいえい)、陸軍予備病院等日露戦争を中心とした請工事を逐次(ちくじ)完成します。つまり、大林組は未開だった朝鮮半島において、近代的インフラ整備に一役かっているのです。【※注2 閉塞船(へいそくせん)とは、ある国が海軍力を用いて、他国、または自国の港湾や海域などに船舶が出入港や通過することを阻止する目的などで自沈させられた船舶のこと。海上封鎖の手法の一つで、閉塞作戦と呼ぶ。日露戦争中、失敗に終わった第一回旅順口閉塞作戦に続いて1904年3月27日に第二回旅順口閉塞作戦が4隻の閉塞船によって実行されたが、これも失敗に終わった】次いで翌年には本店を発祥の地、大阪市東区北浜2丁目27番地の乙(現在の中央区北浜2丁目5番4号)に移転。この際にまだ業界では珍しかった“設計部門”を社内に新設、西区境川にも製材工場を開設して、業容(ぎょうよう)を整えました。拡大へ明治44年からの露戦争により中断されていた東京中央停車場(開業時、東京駅に改名)建設工事の3回に分けられた入札に際しては、大阪方では大林組だけ指命を受けて東京方大倉組、清水組、安藤組等と競争し、最後に清水組を破ってすべて落札。大阪方新参の大林組がこの天下の大工事を取得したことは、当時、東都の建設業界に大きな衝撃を与えました。明治44(1911)年2月のことでした。これが全国的に大林組の盛名(せいめい)を大いに知らしめることになったのです。東京駅丸の内駅舎は、明治建築界の重鎮、辰野金吾(たつのきんご)博士の設計になる名建築ですが、同時に大林組の施工も素晴らしく、辰野博士は大阪の大工・職人さんの腕を大いに絶賛しました。東京中央停車場(開業時、東京駅に改名)建設工事については、以前東京駅についての記事を書いたので、こちらを参照してください。↓http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53804685.html東京駅は、あの関東大震災でもまったく被害を受けず、昭和20年5月の東京大空襲の際に直撃されながらも、上部だけの被害にとどまり、補修・改築を経て今もその威容を誇っているということからも、その当時において、すでに高度な建築水準に達していたことが分かります。他方、大林組は、地元大阪で第五回内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)の仕事を手掛けています。第五回内国勧業博覧会 新世界「ルナパーク」明治45年5月竣工/大阪府また並行してすすめられていた生駒隧道(いこまずいどう:トンネル)工事の崩壊(ほうらく)事故や、それにともない発生した北浜銀行の取り付け事件に、師とも芳五郎があおいだ同銀行頭取(とうどり)岩下清周(いわした きよちか)氏を助けて善後策に奔走(ほんそう)する中で大正4年頃から病に臥(ふ)し、一進一退のうちに大正5年(1916)1月24日夜9時, 西宮市夙川(しゅくがわ)の別荘でついに帰らぬ人となりました。享年52でした。そして、兵庫県御影町上ノ山(みかげちょうえうのやま)共同墓地に葬られました。北浜銀行頭取岩下清周(いわした きよちか)氏 |
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大林組の棟梁の芳五郎さんが当時に常に標榜していたモットーが、
「施行入念」「責任遂行」「誠実勤勉」「期限厳守」「安価提供」
であったことは、すごいことです。
当時の建築業界においては、これらがかならずしも守られていない風潮があったのですね。
そこに、芳五郎さんは改めて新風を吹き込んだのですね。
成功の起因はそこに絞られたのだとおもいます。
大林歴史観に、創建当時の東京駅舎の煉瓦が展示されていますが、素晴らしく印象的です。
2014/10/22(水) 午後 6:53 [ afuro_tomato ]
トマトさん、芳五郎さんは、創業者として、末端の職人さん、大工さんも大切にしたうえで、責任を持って、工事にあたったことが素晴らしいですね。
その土台には、大昔からあった日本の大工さんの技量の高さがまずあったのでしょうが、そこに近代的な組織づくりを取り入れたのが、新興でありながら、ここまで発展した秘訣があったのでしょうね。
赤煉瓦の東京駅が復元改築されて益々大人気ですが、創建当初のレンガを見ると、とても感慨深い思いに浸ることが出来ました。
なにかと悪者扱いされ叩かれることが多いゼネコンですが、災害大国日本の土建技術は世界一ですから、私は外資の侵略から断固として守らないといけないと思います。
2014/10/25(土) 午後 9:46
あれ??煉瓦の目地が広くないですか??これが強度の秘訣なのでしょうか??現在のRCに限りなく近い配合のようにも見えますね。凸
2015/3/16(月) 午後 9:59
さすがはむにゅさん!
凄いところに着目されますね。
先日テレビでやっていたのですが、
実は、東京駅の化粧レンガの目地は、こんなに広がっておらず、こんもりと蒲鉾のようにもりあがっているそうです。これは「覆輪目地」という、辰野金吾博士がこだわった工法で、熟練の技術と途方もない手間がかかるので、今回の復元工事ですごく職人のかたが苦労するとともに、昔の人の技術の高さに驚かれたそうですよ。↓
http://archiscape.lixil.co.jp/feature/vol01/page2.html
たぶんこの展示は、レンガの展示ということのようです。折角展示するのなら、できれば、「覆輪目地」も再現して説明も加えれば、大林組の技術力をさらに天下に自慢できるはずですよね。
ポチありがとうございます。
2015/3/29(日) 午後 11:24