白川のせせらぎを聴きながら、京町屋で甘味を味わえるねえ。今回は京都の「花街(かがい)」祇園新橋通り、伝統的な京の町家の保存地区にある『甘味処 ぎをん小森』さんです。ということで、初春を寿ぐ(ことほぐ)場所として、これ以上の場所はない日本の古都・京都の甘味処についてご紹介しますね。『ぎをん 小森 (ぎをん こもり)』さんは、先の大戦後すぐにお茶屋として営業を始め、甘味処として現在の姿に形を変えた後も、この建物とそれが醸し出す独特の雰囲気、そしておもてなしの心をずっと守り続けて来られたそうです。『ぎをん 小森 (ぎをん こもり)』さんのHPはこちら。↓http://www.giwon-komori.com/ ぷるるんと自重を弾力で支えています。健気だねえ。黄な粉の風味と柔らかい食感がとても嬉しいのでした。それもそのはず。わらびもちはわらび粉100パーセント。毎朝練って練って練って、つくっているのだそうです。東京では、こういうのを『田舎汁粉(いなかしるこ)』というのですが、関西では、『ぜんざい』です。上野『『あんみつ みはし』の『田舎汁粉(いなかしるこ)』の記事はこちら。↓http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/56028733.html小豆が香ばしく、甘さも程よく、粘りのあるお餅と、大ぶりの甘い栗がほろっと割れて、とてもバランスが取れています。桜の塩漬けが華やかでワンポイントになります。小豆は十勝の大納言。一日使う量だけ毎朝炊いているそうです。お味はとても結構なのですが、小豆は割れてお汁が濁っています。ネットで調べると、こういったのが京都の「ぜんざい」の一般的傾向らしいのです。下段Bは、数年前に訪れた時にいただいた『くり・もちぜんざい』で、小豆がしっかりとそのままの形をとどめ、お汁は、澄まし汁のように、透明です。見た目が新鮮で、しっかりした小豆も噛みごたえがあって、まさに絶品でした。塩昆布も、少量ではありましたが、松葉の形で味に旨味とこくがありました。ただし、この写真でさえ、閉店間際に伺ったせいか、更にそれ以前に午前中に伺った時よりは濁っていたので、写真もこんな感じで、ちゃんと撮らず、記事は、また午前中に伺ったとき、お汁の澄みきった善哉の写真をじっくり撮って改めて記事を書こうと思って、今回伺ったわけですが、ぎをん小森さんは、完全に澄まし汁善哉という方向性を放棄しているようなのでした。もし、これが、方針転換ではなく、今回たまたまであったらと淡い期待でもって、食べログ等最近の他の方の記事を拝見しても、そういうことのようです。初めて、今回のような『くり・もちぜんざい』を食べたのなら、十分に美味しい京風お勧め善哉として紹介できたのですが、以前の絶品の善哉の記憶があるので、もしできることなら、以前の澄まし汁スタイルに戻していけたらと切望します。この時は、秋季限定マロンパフェ1,650円がお勧めだったようです。これは、東京の高級テナントにも出店している他の某京都有名甘味処と同じ傾向で、パフェを主流にしたメニューが最近の顧客のニーズに合わせたものなのでしょう。その、某京都有名甘味処の本店で、有名なパフェをいただいたときも、この素材でパフェはもったいないと思って、うちのブログでは記事にしませんでした。客のニーズに合わせて、メニューを作れば無理が生じます。特にパフェを中心に作るとなると、手間がかかり、そうすると、パフェほど人気が無く、地味で伝統的なメニューに手間をかけて透明なお汁の善哉を作ることができなくなってきたのも無理はありません。京都祇園祭の粽(ちまき)は、童謡『背くらべ【海野厚作詞・中山晋平作曲】』のような『粽(ちまき)たべたべ 兄さんが はかってくれた 背のたけ♪』の方の食べ物ではなく、笹の葉で作られた厄病・災難除けのお守りです。宮本組が祇園祭で供奉なさっていたご神宝を当ブログでご紹介していたことがあります。↓ ↓ ↓去年の夏の京都祇園祭だよ。その35 神様が御旅所に出張してるよ。 【ファイルT44】2008.07.15 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/43568851.html ※ ※ ※ (前略) 山鉾巡行の辻まわしを祇園祭のハイライトと呼ぶなら、石段下や御旅所での揃い踏みの神輿振りは祇園祭のクライマックスと呼ぶに相応しい。静の山鉾、動の神輿といわれるが、祇園祭の真髄は神輿であって、山鉾巡行は元来付け祭であった。その付け祭が観光へのプロモーションの結果主体化し、マスメディアの偏向的な報道により、山鉾が祇園祭そのもののように誤解を招いている。京都の祭礼において、神輿の行く手を剣鉾が祓い清め、そこへ神輿が巡幸するのは祭事の常套で、切り離してあることはなく一体のものである。その剣鉾が巨大化し絢爛豪華になったものが山鉾であるから、山鉾は神輿の露払いなのである。そして、氏子町衆の神輿渡御への最大の歓待供応の一つである意味を持っている。つまり、山鉾を見て神輿を知らぬことは、前座を鑑賞して語り、真打を知らず祇園祭りを語るに等しい。平安時代の貞観11年(869年)、京で疫病が流行した際、神泉苑に66本の鉾を立て、祇園の神を迎えて災厄消除を祈った祇園御霊会をルーツとする祇園祭。その御霊会の原点は、現在の7月24日(旧暦6月14日)の後祭(還幸祭)なのである。町衆の鉾による露払いが巡行し、神輿が氏子町を練り歩き、あらゆる災厄を神輿に積み込み祓っていく重要祭事だったのである。1100年を超える歳月の中、祇園祭にも浮沈や変遷の歴史はあった。しかし、消滅することなく継承されてきたのは町衆の愛着と努力であったに違いない。時代が変わり人が変わっても、伝統は、新たな知恵と工夫を道連れにして脈々と引き継がれてきたのである。中でも、八坂神社の氏子組織の結束と奉仕活動が、いつの世もそれを支えていたようだ。例えば、豊臣秀吉が定めたという寄町制度がある。鉾町の山鉾巡行を維持するため、鉾を保有する鉾町を補助する数ヶ町を定め、人力と財力を援助する義務を課したという。祭の執行には最適で優れた制度であったところ、明治5年寄町制度が廃止となり、鉾町は経済的危機に見舞われ、鶏鉾や月鉾は質入、譲渡される事態に陥ったという。清々講社とは、八坂神社の氏子区域全域に亘る旧25学区からなる京都特有の町衆組織である。その町衆組織清々講社の一つに「宮本組講社」がある。八坂神社のお膝元である弥榮学区の住民、店主や地主で構成されている。他学区に比較して歴史の古い講社で、平安時代より神社周辺に住んだ人たちの地域で、熱心に神社に奉仕してい由縁と誇りから、「お宮の本にある宮本組」と称され、清々講社のなかでもその重要な役割を担う筆頭の講社である。神社に奉納されている石灯籠や建造物などを注意して見てもらうとよい。これらの講社の名を目にするはずだ。 ※ ※ ※(以上引用終わり) 当ブログでは、『祇園祭の部屋』を設け、祇園祭の概略についてシリーズ記事にしたことがあるので、こういったことの重要さを身に染みて理解できます。『祇園祭の部屋』はこちらから。↓http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/34800676.html 『「宮本組講社」がある。八坂神社のお膝元である弥榮学区の住民、店主や地主で構成されている』ということですが、ところが、弥榮(やさか)学区は、少子化で弥栄(やさか)中学校が平成22年度末(2011年3月)をもって閉校し平成23年度(2011年4月)から開睛中学校に統合されたということです。つまり、京都都心は空洞化して、ますます、地元の伝統行事の負担は増していっているのです。ですから、京都の文化という大切な日本文化の柱を守るには、費用と手間がかかるのは当たり前なのです。それを余所者がとやかく言うのは控えたいと思うのです。私は『漢字ミュージアム』自体を否定するものではありませんが、地域社会や郷土文化を支えるコミュニティーを破壊して、少子化で廃校になった中学校跡地に『漢字ミュージアム』を建てて、外国人観光客のインバウンド消費だ、観光立国だもないだろう!?というのが私の率直な感想です。 |
全体表示
[ リスト ]


