アトモス部屋

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【ファイルT166】2012.01.20 大阪曾根崎の曾根崎(そねざき)天神は露天神(つゆのてんじん)だよ(下)

曽根崎心中のお初さん、徳兵衛さんを偲ぶ人が沢山いるんだねえ。

 前回からの続きです。
(上)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52945641.html

 露天神社内にある水天宮(すいてんぐう)金比羅宮(こんぴらぐう)です。

イメージ 1



 露天神社のHPによると、

 御祭神は、

 天乃御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇(あんとくてんのう)、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、崇徳天皇(すとくてんのう)、住吉大神(すみよしのおおかみ)、他二柱です。

 安徳天皇は源平の合戦で壇ノ浦に沈み幼くして崩御された方ですね。

 また、崇徳天皇は、保元の乱(ほうげんのらん)で讃岐に流され、五部大乗経を写経して京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河天皇から「呪詛が込められているのではないか」と送り返して来られたことに激しく怒り、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている方ですね。

 『菅原道真公』と並ぶ大怨霊ですね。


 御神徳は、

 安産、児童守護、交通安全、水関係職種の守護

 この水天宮(すいてんぐう)さんはもともと寛政9年(1797年)6月に大阪中之島・久留米藩蔵屋敷(くるめはんくらやしき)内に祀られたお社(やしろ)です。

 明治維新に際して、蔵屋敷は朝廷に返上、水天宮の御神霊は丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀されました。

 しかし、この丸亀藩蔵屋敷も返上することになったため、高松藩蔵屋敷の金刀比羅宮に遷され、その後、堂島中二丁目に遷座されます。

 さらに明治42年の『北の大火』で社殿が罹災したため当地に遷され、露天神社の境内社として斎祀されるようになったのだそうです。

 明治天皇御誕生の際、孝明天皇が御安産を御祈誓、無事御降誕の後、本水天宮(久留米藩蔵屋敷内)へ鳥の子餅を御奉納されたと伝えられています。

 また、金刀比羅宮は江戸時代、中之島にあった高松藩、丸亀藩両蔵屋敷の中にそれぞれ祀られ、霊験があらたかだということで、毎月縁日には参詣人が群れをなしたと伝えられています。

 当時大阪では毎月十日が金刀比羅巡りの日とされ、土佐堀川常安橋北詰西の高松蔵の金刀比羅様と上町空堀の遥拝所、千日前法善寺の金刀比羅様は特に賑わったといいます。

 明治期以降の変遷は『水天宮』と同じです。

 お宮の歴史が蔵屋敷の歴史というのが、さすがは天下の台所、商都大阪らしいのですね。

 当時の交通は紀伊国屋文左衛門の『蜜柑舟伝説』にもあるように、『板子一枚下は地獄(いたごいちまいしたはじごく)』の海運でしたし、商売、特に米相場なんて運による部分が多かったので、大阪商人にとって、神頼みというのは大切だったのでしょうね。

 いまだに大企業の屋上なんかに神社がお祀りされていますからね。

 玉津稲荷です。

イメージ 2



 御祭神
 玉津大神、天信大神、融通大神、磯島大神

 御神徳
 商売繁盛、五穀豊穣、皮膚病治癒

 水天宮さんの説明にもあるように、明治42年『北の大火』によって近在各地に祀られていた四社の稲荷社が烏有(うゆう)に帰します。

 そのため、翌明治43年に本社境内地に四社が合祀され御奉斎されました。

 古くは皮膚病の治癒を願って『鯰』の絵馬が多数掛けられ、お百度を踏む人々で混みあうほどだったと伝えられています。

 現社殿は一部修復工事を施したものの往時のままで、正面左右の扉を開放すると社殿内を一巡することができ、当時のお百度詣り(おひゃくどまいり)の様子をうかがい知ることができます。

 なお、明治42年の「北の大火」で焼け残った御神木でつくられた神號額が、その旨の裏書とともに伝わっているそうです。


 難転石(なんてんいし)です。

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 『玉石を回して難を転じます』だって!これを回すと困難が転じて幸運になるんだよ。

 これは、回さないわけにはいかないねえ。

 
 それで、天神さんといえば、牛さんが乗り物ですね。

 神牛舎です。

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 これは「神牛さん」「撫で牛さん」と呼ばれ

  『己が身体の病む処と、神牛さんとを交互に撫で摩(さす)り、身代わりになっていただくことができる』、『神牛さんの霊力をもって病を治療して戴く』という信仰が古来より続いているのだそうです。

 また、神牛さんは学問の神様、菅原道真公のお使いですから、学業成就や、合格を祈願する学生さんが多数参詣するそうです。

 ここは、梅田でお買い物ついでにお詣りに来ることができて便利だねえ。

 だから、絵馬もびっしり掛けられています。

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 菅原道真公(天神さん)には神牛さんがつきものですが、これは菅原道真公の御生誕が、丑の年にあたる承和十二年六月二十五日の丑の刻で、薨去の後、太宰府にて初めて祭祀を営まれたのも、延喜五年八月十九日という丑の年、丑の日だったからだそうです。

 また、道真公は『御存命中よりこよなく牛を愛(め)で給い、或る夜、自ら牛の姿を描かれて、これを日常親しく祀られた』と伝えられていることに由来するのだそうです。


 露天神社(つゆのてんじんしゃ)は、お初天神と呼ばれるだけあって、『お初さんと徳兵衛さんのコーナー』というべき一角があります。

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 「誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。
 取伝へ貴賤群集の回向の種。 未来成仏疑ひなき恋の。
 手本となりにけり。」
                              近松門左衛門作「曽根崎心中」より


 広く民衆の涙を誘うこの作品はその後も繰返し上演され、今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々がこの地を訪れています。

 なお、昭和47年7月、曽根崎中1丁目の有志によって、恋に殉じた二人を慰霊するための「曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」という石碑が建立されました。

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 また、二人の300回忌の後、氏子さんの一人から「お初さんのために」と100万円の寄付がありました。それをきっかけに、地元の商店街などから寄付金が寄せられ、平成16年4月にブロンズ像が製作されました。

 お初と徳兵衛のブロンズ像

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 また、二人をかたどった石碑もありました。

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 大阪の人の温かい思いやりと、心意気が感じられます。

 世間では『大阪人=ケチ』といった、誤った偏見が流布されていますが、確かに大阪の人は始末して、こつこつと地道にお金を貯めますが、生きた金は惜しみなく使うのです。

 そうでなければ、豊かな上方文化なんか生まれるはずがありません。

 以前も大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)のことを書きましたね。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51849966.html
 
 立派な石灯籠です。

イメージ 10



 裏参道(北側)

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 提灯と千社札が、雰囲気ありますね。

イメージ 12



 裏参道はお初天神通り商店街になっています。

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 裏参道とはいえ、今ではこちら側が、JR大阪駅、阪急・阪神・大阪市営地下鉄梅田駅からの導線なので、実質的には表参道のような役割を担っています。

 ということで、今回は、曾根崎天神、こと露天神、もしくは初天神でした。

 JR大阪駅から歩いて行ける距離ですから、大阪にお立ち寄りで時間が余ったときなんかはお詣りされては?








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【ファイルT165】2012.01.07 大阪曾根崎の曾根崎(そねざき)天神は露天神(つゆのてんじん)だよ(上)

近松門左衛門の代表作『曾根崎心中』の舞台だから『お初(はつ)天神』とも呼ばれているねえ。

 大阪市東洋陶磁美術館のご紹介をしましたが、そこから北上して歩いて行くと、さほど遠くない場所に曾根崎天神があります。

 大阪市東洋陶磁美術館の記事はこちら。
 近松門左衛門の代表作『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)』の舞台だねえ。

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 天神様の南側の表参道(おもてさんどう)です。『露天神(つゆのてんじん)』と表示されていますね。

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 これは、菅原道真公が筑紫の太宰府へ流されて行く途中、太融寺(たいゆうじ)に参詣しようとして、ここを通りかかり、このあたり、露が深かったので

 「露と散る涙の袖に朽(く)ちにけり 都のことを思ひいづれば」

 と、「都のことを想うと涙が露のように落ちる」という歌を詠み、それに因んで露天神と名づけられたということです。


 それから、梅雨のころに神社の前の井戸から水が湧き出たためとだという説もあります。

 浪速七名水(なにわしちめいすい) 神泉 露之井

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  この解説板を参考に説明すると。

御井社(みいしゃ)・祓戸社(はらえどしゃ)

 御祭神
 
  御井神(みいのかみ)
    古くより露ノ井と称され、人々の暮らしを支え信仰の対象でもありしこの御井に坐す神

  祓戸四柱ノ大神(はらえどよつはしらのおおかみ)
 
    瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す

    速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む

    気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・
                     底の国に息吹を放つ

    速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れを
                         さすらって失う

 社殿直下の御井は、往時四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸等と共に「浪速七名水」の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より湧出せし、という。

 名井「露ノ井」として当社社名の由来の一つともいわれ、周辺地域を始め、社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。

 現在では、地下鉄各線や高層ビル群の建設等により、地下水脈が分断され水位が著しく低下している。
 
 ということです。


 また、この神社は曾根崎(そねざき)にあるので、曾根崎天神(そねざきてんじん)ともいいます。

 ギャル曽根ちゃんが行ったら、ギャル曽根崎天神になっちゃうねえ。


 さらに、近松門左衛門が、元禄16年(1703年)4月7日に実際にあった、内本町((うちほんまち)の醤油問屋(しょうゆどんや)平野屋の手代(てだい)徳兵衛(とくびょうえ)と堂島新地天満屋(どうじましんちてんまや)の遊女お初(はつ)の心中事件に材をとって作った『曾根崎(そねざきしんじゅう)』の心中場所だったので、その女主人公の名をとって『お初(はつ)天神』ともいいます。

 一般的には、『徳兵衛(とくびょうえ)』というより、『お初(はつ)・徳兵衛(とくべえ)』って言われますよね。

 この話は、浄瑠璃語りの竹本義太夫(たけもとぎだゆう)演じる舞台で大当たりを取ると、庶民に熱狂的に受け入れられ、心中事件も増加の一途をたどりました。

 この事態を重くみた幕府は、享保7(1722)年に心中禁止令を出して心中物の出版と上演を禁止、心中を「相対死(あいたいじに)」と呼ぶように定めるなどの対策を講じました。

 
 祭神は大己貴大神(おほなむちのおおかみ)、少彦名大神(すくなびこのおおかみ)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、豊受姫大神(とようけびめのおおかみ)、菅原道真の五柱です。

 社伝によれば

 当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神(すみよしすむちそねのかみ)」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭(なにわのやそしままつり)」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。

 創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。

 南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。

 以後、明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。


 ということです。

 天照皇大神を祭神として祀ることから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも挙げられました。
 
 とても由緒のある神社なのですね。

 猿田彦大神((さるたひこのおおかみ)の像がありました。

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 立派なお鼻だねえ。

 曾根崎天神は大阪梅田のオフィス街の中にこじんまりと立っています。

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 周囲の環境は、札幌時計台に似ています。

 引退した、島田紳助さんが、『大阪といっても大阪キタ、特に梅田は東京資本の植民地だから大阪ではない』と言っていましたが、梅田は確かにそんなところがありますね。

 梅田は商都の中心船場から外れた場所に大阪駅が出来てから新しく作られたオフィス街なので、『大阪』という雰囲気とはちょっと違います。

 明治時代ですら、梅田駅(JR大阪駅)や曽根崎はこんな感じだったのです。

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 【彩色絵はがき・古地図から眺める 大阪今昔散歩 原島広至 中経出版P86より】

 『梅田ステンシヨウ』の右下にピンク色で着彩されているのが、露天神。

 そもそも、駅なんて、へんぴなところに建てられたのです。

 大阪駅は当初、堂島に建設される予定だったのですが、住民から火の車が町中を走ると火事になると反対され、周囲に何もない梅田(埋田)に建設されました。

 江戸時代の曾根崎はどんなだったのでしょう?

 上方風俗 『大阪の名所図会(めいしょずえ)を読む 宗政五十緒 編/東京堂出版』P24より、図と解説文を引用しますね。

 ※  ※  ※

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 画賛の和歌「露とてもあだにやはみる長月(ながつき)の 菊の千(ち)とせを過ぐと思へば」は、露だといってもいいかげんに考えてはいけませんよ、ということでこの歌を掲げているのです。

 境内地はもと五百七十坪ありました。拝殿は南面しています。その北側に本殿(本社)があります。

 絵では本殿の左手に観音堂があります。

 社殿の後ろの林は梅林。西側と北側に小川が流れています。西側、絵では下(しも)手は曽根崎村で、その北側は北野村。お初・徳兵衛は、堂島新地からこの天神の森に辿り着き、七(なな)つ(午前四時頃)の鐘になごりを惜しみながら心中したのです。

 『曽根崎心中』のこの部分は、道行文(みちゆきぶん)として有名です。

 露天神は曽根崎村の産土神(うぶすながみ)です。例祭(れいさい)日は、当時は九月二十日。近くには、堂島新地(どうじましんち)や北の新地(曽根崎新地)がありました。

 ※  ※  ※

  江戸時代の曾根崎天神は田んぼの真ん中にぽつんと立っていたのですね。

 こんな広い境内で寂しい場所だったから落ち着いて心中でもしようかという気になるのでしょうが、繁華街になった今の曾根崎で心中は、とてもじゃないけれど無理です。

 4月中旬だったので、八重桜(?)が咲いていました。

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 本社前の写真向かって左側の緑のかたまりが右近の橘(うこんのたちばな)です。

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 写真向かって左側の細い木が、左近の桜(さこんのさくら)です。

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 本社にお詣りしました。

イメージ 11



 ということで、(下)に続きますね。
 (下)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52983981.html






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