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【ファイルT168】2012.02.17 大坂(大阪)長堀【島之内、鰻谷(うなぎだに)】の住友本宅跡だよ(その1)

大坂は世界一の銅の精錬都市だったんだねえ。

 江戸(東京)の金座、銀座は有名ですが、銅座は大坂(大阪)や長崎にありました。

 大阪の銅座跡。

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緒方洪庵(おがたこうあん)の『適塾(てきじゅく)』の近所にある、愛珠幼稚園(あいしゅようちえん)正門の前にこの碑は建っています。


 諸国で産出した荒銅は、ひとまずこの銅座が買い上げて銅吹屋に精錬させ、国内需要を満たし、あるいは長崎に送られて海外に輸出されました。

そして、大坂というより日本最大にして世界有数の銅吹屋(どうふきや)が住友家だったのです。


昔の日本は金も銀も銅も採れた資源国でした。


そういえば、『日本はずっと人間以外の資源がない国だった』と全くのデタラメを言っている日本の歴史も大阪の歴史も全く無知な人が、最近大阪市長になって、大阪市政をほっぽり出して、権力欲むき出しの維新塾なんて馬鹿なことをやっています。


 『平成の売国TPP』を支持しておいて、『船中八策』って何を考えてるんでしょう。

 大阪市長って激務なはずなんですが、余程暇なんでしょうかね?

 この人、大阪府知事になるまで楠正成公で有名な『千早赤阪村(ちはやあかさかむら)』を知らなかったんですよ。大阪の人って一体何を考えているんでしょう?

 それで、

特に元禄時代の一時期、17世紀末から18世紀初めにかけて、日本は『世界一の銅の産出国』でした。


 日本銅の生産量は年産約六千トンで、その大半は国内用としてよりも輸出に回されていて、幕府は銅の生産量に応じて、輸出の総枠を決めていました。

 それまでの日本は銀を最大の輸出品としていました。

 最盛期の17世紀初頭には年二百トン。世界の生産量の三分の一を占めていましたが、鎖国に入る頃から生産が衰え始めて銀から銅へと主要輸出品目が交代したのです。

 日本の銅は、清船やオランダ船によって、清、東南アジア、インドにもたらされた外、アムステルダムの銅相場を通じてヨーロッパに持ち込まれました。

 オランダは当時、スウェーデン産の銅と主導権争いを演じていましたが、日本産の銅によって主導権を掌握しようとしたのです。

1670年代前半、ヨーロッパに入った日本銅はスウェーデン銅の三分の一から二分の一にも達しました。


1776年に刊行されたアダム・スミスの『国富論』にはこう書かれています。


 『貴金属のばあいはなおさらそうであるが、卑金属のばあいでも、世界きっての多産な鉱山におけるその価格が、世界の他のあらゆる鉱山における価格に多少とも影響せざるをえないのである。日本の銅の価格は、ヨーロッパの銅山におけるその価格にいく分か影響するに違いない』

そして、元禄時代の日本銅の約三分の一は、当時最大の銅吹屋であった泉屋住友(いずみやすみとも)の銅だったのです。


だから、皇居前広場の楠木正成公の銅像も住友さんが寄贈したのですね。


 楠木正成公の銅像の記事はこちら。

 『七生報国(しちしょうほうこく)』で皇居を守る楠木正成公の銅像だよ(上)
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51551744.html

 『七生報国(しちしょうほうこく)』で皇居を守る楠木正成公の銅像だよ(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51584157.html

 泉屋住友のほかにも大坂屋(おおざかや)、平野屋(ひらのや)、大塚屋(おおつかや)などの吹屋があったといいます。


 住友の姓は、戦国時代の末、もともと先祖に順美平内友定(すみへいないともさだ)という人物がいて、桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)の二十二代目にその子・小太郎(忠重)が父の姓と名をとって『住友』の姓を称して室町将軍に仕え、備中守(びっちゅうのかみ)に任じられたことに始まるそうです。

ですから住友家のご先祖様は桓武平氏の末裔(まつえい)の戦国武士だったのです。


 家祖住友忠重の子・頼定は、足利義晴に仕え、頼定の子・定信は刑部丞(ぎょうぶのじょう)と称しました。

 そして、定信の子・定重は、名門今川義忠(今川義元の祖父)に仕えますが、定重の子・信定の代になって、今川義元が織田信長に桶狭間の戦いで敗れ今川家が衰退したので、摂津(せっつ)の中川清秀に仕え、入江土佐守(いりえとさのかみ)と称し、中川十六騎の一人として勇名をはせましたが、尾崎の陣で戦死してしいます。

 また入江土佐守(信定)の子・政俊は越前国の柴田氏に仕え、若狭守(わかさのかみ)と称し越前丸岡城に配されていましたが、柴田勝家と共に北庄城(きたのしょうじょう)で豊臣秀吉に滅ぼされてしまいます。

 政俊の子・長行は、徳川家康の子で結城家へ養子入りした結城秀康に用いられますが、住友家の武家の歴史はここまでで、武家社会の興亡の激しさと無情を感じた長行は、自分の子供たちには武家を継がせませんでした。

 長行の二男で兄の興兵衛に代わって家督を継いだ小次郎政友は、天正年間に生まれ、涅槃宗(ねはんしゅう)の開祖、及意上人空源(ぎゅういしょうにんくうげん)に弟子入りして仏門に入り『文殊院空禅(もんじゅいんくうぜん)』と称しました。

 小次郎政友はその博識をもって涅槃宗の後継者と見なされていたのですが、寛永年間に涅槃宗が天台宗に吸収されたのを機に還俗し、洛中に、書籍と医薬品を商う『富士屋』を開き、法号を『文殊院外嘉休(もんじゅいんがいかきゅう)』と称し修道三昧の生活を始めました。

 これが「町人・住友家」の興(おこ)りです。

 政友は商売上の心得を『文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)』にまとめましたが、これは現在に至るまで住友グループ各社の社是の原型となっています。

 嘉休こと住友政友(まさとも:家祖)さんには一男一女があって、男児の政以(まさもち)さんには『富士屋』の跡を継がせ、

 女児には、嘉休(政友さん)の姉婿にあたる銅師で、涅槃宗の信徒であり、文殊院空禅(政友さん)の檀家であった蘇我理右衛門さんの長子の友以(とももち)さんを婿養子に向かえました。

 蘇我理右衛門(そが りえもん)さんは、政友さんが『文殊院空禅』から還俗して『富士屋』を開く際に、物心両面で政友さんを助けた恩人でもありました。

そして蘇我理右衛門(業祖)さんの長子、理兵衛友以(住友友以:すみとも とももち)さんを婿養子に迎えたことが、住友家と銅との出会いでした。


 忠重さんから数えて九世にあたります。

蘇我理右衛門さんは、天正18(1590)年、19歳の時に大坂から京都に出てきて京の銅吹所(銅の精錬工場)を五条大橋附近につくり、慶長7(1602)年豊臣秀吉の菩提を弔うために建立された方広寺の大仏さんや、慶長19(1614)年に完成し豊臣家滅亡のきっかけになった有名な『国家安康 君臣豊楽』の梵鐘をに使われた銅(金3%を含んだ82トンにも及ぶもの)は、蘇我理右衛門さんが精錬した銅が使われました。


 蘇我理右衛門さんは京都に来てから『南蛮吹』の技術を開発しましたが、いつまでもその特許を秘伝としていたのではなく、後に同業者たちにその技術を伝授し、日本の初期の銅精錬業界に多大な貢献をもたらしました。

蘇我理右衛門さんの長子、友以さんは元和9(1623)年17歳のときに大坂の淡路町一丁目(現在は三丁目)に銅吹所を開きます。


 そして先述の通り、住友家の婿養子になって『住友泉屋』の看板を掲げました。

 それで、

住友の『家祖』は『富士屋』を創業した『住友政友(すみとも まさとも)』さんで、


銅商人としての『業祖』は『泉屋』を創業した『蘇我理右衛門(そが りえもん)』さんとなっているのです。


 業祖の蘇我理右衛門さんが創業した泉屋により、住友家は銅業を始めたのです。

だから住友家の商標は『泉屋』の『泉』を表す菱井桁(ひしいげた)マークなのです。


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 泉という字は、『孟子』によると、「源泉(げんせん)は 混混(こんこん)として昼夜(ちゅうや)を舎(お)かず料(あな)に盈(み)ちて而(しか)る後(のち)に進(すす)み四海(しかい)に放(いた)る や」とあるように、清冽な水が昼夜をわかたず滾々(こんこん)と湧き出てつきない意味がありました。

 また、お金のことを「貨泉」あるいは「泉貨」と称したので、商人にとって泉の象徴でもある「井桁」は、非常に縁起のよい商標として一般的に用いられてきたのです。


長堀銅吹所は寛永13(1636)年に開設されましたが、大坂における銅吹屋の主導的役割を担った『住友泉屋』の本店と本家を長堀(島之内鰻谷)に移転させ、本格的にここで銅業を営みはじめたのは元禄3(1690)年、住友泉屋四代目の友芳(ともよし)さんの時です。


同じ年、住友の隆盛を導いた別子銅山の開発も始まっています。


 別子銅山は世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長し、住友家興隆の大きな柱とともに、銅が重要な輸出品として日本を支えることになり、長堀の銅吹所は、明治9(1876)年まで、二百八十年の永きにわたって続くことになります。

 なお銅吹所閉鎖後も長堀(島之内鰻谷)の住宅は大正4(1915)年までは住友家本邸として、昭和20(1945)年3月の空襲によって焼失するまで、別邸として使用されました。


 今日の住友家の基礎、住友財閥の出発点は、この住友友芳さんが開発した別子銅山によって築き上げられたものであるといっても過言ではありません。

ですから、住友の社史において、この『四世吉左衛門友芳(よんせいきちざえもんともよし)』さんのことを『住友家中興の祖(ちゅうこうのそ)』としているそうです。


 そして現在、長堀の豪商住友の邸宅跡はこんな感じになっています。

 三井住友銀行事務センターです。

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 東側にはかつての住友銅吹所跡の史跡公園があります。

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 昭和20(1945)年3月まで住友の別邸として使用されていたこの地は、その後住友銀行社員寮跡地として使用されていたのですが、銀行事務センターの建設計画が持ち上がり、平成2(1990)年から平成5(1993)年にかけて発掘調査が行われました。

 そこからは、100基を超える精錬炉、棹銅、住宅で使われていた高級陶磁器など、数多くが出土しました。

 このことにより、かつてここで大規模な銅の精錬が行われていたことが明らかになったのです。

 ということで、長くなったので、次に続きますね。

【ファイルT167】2012.02.02 大坂の堂島米市場跡だよ

大坂は世界最先端の商業地域だったんだねえ。

 江戸時代の大坂(大阪)は天下の台所として栄えました。
 日本全国の年貢米がこの地に集まって、各藩はこれを売ったお金を参勤交代で詰めていた江戸で消費したのですね。

 当時はトラックがないので、米は船で運びました。
 昔の商都は大坂といい、ヴェニスといい、運河が発達していたのです。
 
 だから、大坂は運河が張り巡らされ、その結果橋がいっぱい架けられ、『八百八橋(はっぴゃくやばし)』って言われました。

 今はトラック輸送になったので、運河は埋め立てられ、道路になっています。

 江戸時代の大坂は経済の中心として重要だったので、大名や藩を置かずに、幕府の直轄地として幕府が直接支配をしていました。

 堂島川沿いには、堂島米市場がありました。

 ここが、堂島米市場跡の記念碑です。

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 二人の子供が稲穂で遊んでいますね。

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 この像は1953年(昭和28年)彫刻家横江嘉純氏により製作され、(昭和30年)堂島米市場跡建設により、寄贈されたものです。

 堂島米市(どうじまこめいち)の様子です【大阪歴史博物館】。

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 ここでは春・夏・冬の三期に分けて取引が行われました。

 取引期間をまたがっての取引はできません。

 上の絵にはお米が描かれていませんね。

 それもそのはず、お米の現物をもちよらず、蔵屋敷(くらやしき)で発行された米切手(こめきって)を米仲買(こめなかかい)たちが売買するのが米市場(こめいちば)なのです。

 ここで決まった米相場は飛脚(ひきゃく)などで各地に伝えられ、全国の米価や物価に大きな影響力がありました。

絵では、男の人が柄杓(ひしゃく)で取引している人に水をかけています。失礼だねえ。


 『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』の絵でも柄杓で水をかけているし。

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 これは何かというと、まず一日の堂島米市場の取引の流れを御紹介しましょう。

 取引は午前8時から午後2時まで開かれました。
 まず前日の火縄値段(後述)を元に寄付き値段(始値)を決めます。
 午前に取引を行い、正午に一旦引けます。

 午後に入って立合いを再開します。
 午後2時の終了時刻前になると長さ一寸ぐらいの火縄に火をつけて立合場の軒先に吊るし、それが燃え尽きた時点で取引終了としました。この時の値段を火縄値段といい、次回の始値となります。

 火縄が消えれば、場に集まった仲買は直ちに散会しなければならないのですが、なおも未練がましく売買を続ける者もあって、そのときは水方役が水を撒き追い散らしたのです。

 これが水方役という役職の名称の由縁です。 これには一番水、二番水、三番水があって、三番水のときの値段を「桶伏値段」といって相場触に記入されました。

 それにしても、取引が過熱してルールを守らなかったからとはいえ、水をかけるなんて酷いねえ。

 ということは、二人の子供の像も、本当は稲穂じゃなくて、水をかける様子を表しているているのかも。

 江戸時代、諸藩はこの中之島周辺に蔵屋敷を置き、領国から送られてきた蔵米や国産品を換金しました。

 広島藩蔵屋敷復元模型(1/50)です【大阪歴史博物館】。

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 蔵屋敷の外観と中の様子の両者とも慶応2(1866)年の「大坂御蔵屋敷全図」をもとにしています。

 模型は広島からの年貢米の米俵を積み上げて乾燥させ蔵に収納する場面、蔵屋敷の役人や年貢米の販売を行う商人が米の落札者を決めている場面、御殿(ごてん)で藩主が出入りの大坂商人たちと面会している場面を設定しています。

 広島藩の蔵屋敷は近年発掘調査が進み、大きな船入(ふない)り跡や御殿の遺構などが発見されていて、更に遺跡・絵図・古門書などいろいろな側面から、その姿が浮かび上がりつつあるそうです。

 このような蔵屋敷の販売事務を町人(掛屋)が代わって行うようになり、町人蔵元が出現しました。


 蔵米の取引を最初に開いたのが、淀屋(よどや)の2代目淀屋个庵(よどやこあん)といわれ、そのため「淀屋の米市」と称されていました。

 ところが宝永2(1705)年、隆盛を極めていた淀屋が幕府から『町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る』と闕所(けっしょ:財産没収)所払いになった後、堂島の地に米市場が移転して堂島米市場が成立しました。

 その後江戸商人による公認の市場開設などありましたが、享保15(1730)年公認の帳合米市場である「堂島米市場」が発足しました。

江戸時代、大坂のほかに江戸、京都、大 津、下関にも米市が立っていましたが、堂島米市場で立った相場で取引がなされ、ここで立った相場が全国の米相場の基準とされたのです。


 当時大坂は全国の年貢米が集まる一大経済センターで、米会所では米の所有権を示す米切手が売買されていました。ここでは、正米取引と帳合米取引が行われていましたが、前者は現物取引、後者は先物取引です。

 帳合米取引は、米の値が上がったり下がったりして損をしないように、リスクヘッジのため予め売買価格の予約を行う先物取引(さきものとりひき)で、敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済による先物取引が可能で、投機(とうき)的な性格を持った取引も行われていました。

ここの先物取引は、大阪証券取引所を始めとする、世界各地の組織化された商品・証券・金融先物取引の先駆をなすものであり、世界の先物取引発祥の地とされています。


 今は世界中で、やれ金融工学だ、リスクヘッジだ、レバレッジだとか言いますが、そもそもの元祖がここ大坂堂島の米市場だったのです。

 この頃の大坂は名実共に、世界一でかつ世界最先端の商業都市だったのです。

 凄いねえ。

 徳川吉宗の時代の享保16(1731)年2月、幕府は初めて米仲買株441株を許可し、米方年行司を定め、17年4月に521株、20年7月に351株を許可し、合計1313株となり、別に米方両替株50をも許しました。

 天保13(1842)年8月、幕府は天保の改革の一環として株仲間を解除することとなり、堂島市場組織も変革を余儀なくされました。

 これにより従来の仲買に限らず、誰でも米方年行司に届済の上、市場に出て払米その他の売買ができるようになりました。

 ただし従来通り市場の取締は、年行司がこれに任じられました。

 嘉永4(1851)年、株仲間再興の結果、堂島は仲間人員の検査取締のため、再び鑑札を下付されます。

 天下の台所として賑やかだった米市場でしたが、幕末になると国内が騒然とし、貨幣制度が乱れて米価が甚だしく変動したため、4ヶ月を1期間とする帳合米取引が困難になり、幕府の許可を得て石建米商を実施しました。

 しかしながら、財政難に陥った幕府や諸藩が極端な投機に走り、米がないにもかかわらず空手形を乱発したために米の価格は高騰して市場は混乱し、堂島米会所はその機能を喪失していきます。

 なんか、リーマンショックを連想しますね。

 その結果、幕府崩壊と共に、堂島米会所は明治2(1869)年に明治政府により廃止されました。

 それに伴い堂島周辺の諸藩の大名蔵屋敷も没収されました。

 その後、明治26(1893)年に堂島米穀取引所として再建されるのですが、過剰投機により米騒動を引き起こすなどしたため、これも昭和14(1939)年に廃止されました。


屋根の上で旗を振っている人が居るねえ【大阪歴史博物館】。


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 江戸時代後期から、明治・大正時代頃まで、大阪堂島の米相場を各地に伝えるのに飛脚以外に、「旗振り通信」が使われました。ここから、見通しの良い櫓や山の上に設けた中継所を次々と連絡して、手旗信号によって伝えていたのです。その通信所が設けられていた山が「旗振り山」です。

 当時は堂島の米相場が諸物価の基本となっていて、商人たち は、米相場をいち早く知ろうとしていたのです。

 米相場は、一日に3〜4回程度伝えられ、熟練した手旗通信手が通信にあたっていました。中継所の間隔は、地域によって様々ですが、望遠鏡を用いれば約24km先まで通信できたそうです。

 1回の手旗送信に要する時間はほぼ1分程度で済み、大阪の堂島から和歌山間が3分、京都 まで4分、大津まで5分、神戸まで7分、桑名まで10分、広島まで40分で伝わったというから、びっくりだねえ。

 手旗送信は電信(電話、電報)の発達によって次第に廃れて いきますが、大正時代頃まで残っていたそうです。

 大江橋から堂島川を望んだ風景です。

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 堂島川に中之島ガーデンブリッジが架かっていますが、写真右のたもとのあたりが堂島米市場跡です。記念碑・記念像の上を覆い被さるような高架橋が阪神高速1号環状線です。

 堂島米市場跡の後ろの堂島川の風景です。

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 昔はこんな堤防が無かったのですね。それにしても、今の堤防でも、大津波がきたら危ないかも。

 いまはビルが建ち並んで、大阪経済の中心であることは間違いないのですが、大阪本社だった企業が、どんどん本社を東京に移しています。

 首都移転とか副都とかいうんだったら、その前にまず東京に行った企業から大阪に本社を戻さないと。世界一の商都だった過去の栄光の思い出に浸るにはまだ早いねえ。

 日本の、そして地方の再生は大阪が先頭に立たなければならないと私は思います。





【ファイルET57】2012.01.27 防衛省市谷ツアーに参加したよ(その16)

三島由紀夫事氏の檄文(全文)。

 防衛省ツアーの市ヶ谷記念館大講堂の記事の続きです。

 その1から読まれる方はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html
 
 前回は、三島由紀夫事件のあった現場、旧東部方面総監室の記事でした。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52963429.html
 
 三島由起夫事件については、事件から今に至るまで、いろいろな解釈がなされていますが、結局のところ、氏が事件当日に東部方面総監室前のバルコニーで撒いた檄文が、氏の訴えを余すところ無く伝えているはずなのです。

 檄文を撒く三島由紀夫氏(写真右)。写真左は森田必勝(まさかつ)氏。

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 決起した五名の写真(事件直前に、伊達宗克【だてむねかつ:NHK社会部記者】氏が三島氏から受け取ったもの)。【裁判記録「三島由起夫事件」伊達宗克 講談社より】

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 上記写真の裏側(筆跡は三島由紀夫氏のもの)

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 中央に三島由紀夫氏を囲んで写真左から森田必勝(もりた まさかつ)氏、古賀浩靖(こがひろやす)氏、小川正洋(おがわまさひろ)氏、小賀正義(こがまさよし)氏。

 三島由紀夫氏の『檄文(げきぶん)』の全文及び、『要求書』を、そのままここに掲載します。

※  ※  ※

 檄


                            楯の会隊長   三島由紀夫

 われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同士として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。

 われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凜烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。

 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜(注・【けが・す】「さんずい」の右側は「士」の下に「買」の字)してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた、自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。

 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体があきらかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。

 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰めともいふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本精神に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。

 これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。

 銘記せよ!実はこの昭和四十五年(注・昭和四十四年の誤り)十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だった。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。

 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢には我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだった。

 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主主義的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう

 われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。

 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは志純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
(原文のまま)


※  ※  ※

(以上全文掲載)

 今回は三島氏の檄文に対して真摯に耳を傾けるということを趣旨とした記事ですので、何も付け加えません。これについての考察は次回以降書きたいと思います。

 ということで、次回に続きます。

【ファイルT166】2012.01.20 大阪曾根崎の曾根崎(そねざき)天神は露天神(つゆのてんじん)だよ(下)

曽根崎心中のお初さん、徳兵衛さんを偲ぶ人が沢山いるんだねえ。

 前回からの続きです。
(上)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52945641.html

 露天神社内にある水天宮(すいてんぐう)金比羅宮(こんぴらぐう)です。

イメージ 1



 露天神社のHPによると、

 御祭神は、

 天乃御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇(あんとくてんのう)、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、崇徳天皇(すとくてんのう)、住吉大神(すみよしのおおかみ)、他二柱です。

 安徳天皇は源平の合戦で壇ノ浦に沈み幼くして崩御された方ですね。

 また、崇徳天皇は、保元の乱(ほうげんのらん)で讃岐に流され、五部大乗経を写経して京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河天皇から「呪詛が込められているのではないか」と送り返して来られたことに激しく怒り、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている方ですね。

 『菅原道真公』と並ぶ大怨霊ですね。


 御神徳は、

 安産、児童守護、交通安全、水関係職種の守護

 この水天宮(すいてんぐう)さんはもともと寛政9年(1797年)6月に大阪中之島・久留米藩蔵屋敷(くるめはんくらやしき)内に祀られたお社(やしろ)です。

 明治維新に際して、蔵屋敷は朝廷に返上、水天宮の御神霊は丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀されました。

 しかし、この丸亀藩蔵屋敷も返上することになったため、高松藩蔵屋敷の金刀比羅宮に遷され、その後、堂島中二丁目に遷座されます。

 さらに明治42年の『北の大火』で社殿が罹災したため当地に遷され、露天神社の境内社として斎祀されるようになったのだそうです。

 明治天皇御誕生の際、孝明天皇が御安産を御祈誓、無事御降誕の後、本水天宮(久留米藩蔵屋敷内)へ鳥の子餅を御奉納されたと伝えられています。

 また、金刀比羅宮は江戸時代、中之島にあった高松藩、丸亀藩両蔵屋敷の中にそれぞれ祀られ、霊験があらたかだということで、毎月縁日には参詣人が群れをなしたと伝えられています。

 当時大阪では毎月十日が金刀比羅巡りの日とされ、土佐堀川常安橋北詰西の高松蔵の金刀比羅様と上町空堀の遥拝所、千日前法善寺の金刀比羅様は特に賑わったといいます。

 明治期以降の変遷は『水天宮』と同じです。

 お宮の歴史が蔵屋敷の歴史というのが、さすがは天下の台所、商都大阪らしいのですね。

 当時の交通は紀伊国屋文左衛門の『蜜柑舟伝説』にもあるように、『板子一枚下は地獄(いたごいちまいしたはじごく)』の海運でしたし、商売、特に米相場なんて運による部分が多かったので、大阪商人にとって、神頼みというのは大切だったのでしょうね。

 いまだに大企業の屋上なんかに神社がお祀りされていますからね。

 玉津稲荷です。

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 御祭神
 玉津大神、天信大神、融通大神、磯島大神

 御神徳
 商売繁盛、五穀豊穣、皮膚病治癒

 水天宮さんの説明にもあるように、明治42年『北の大火』によって近在各地に祀られていた四社の稲荷社が烏有(うゆう)に帰します。

 そのため、翌明治43年に本社境内地に四社が合祀され御奉斎されました。

 古くは皮膚病の治癒を願って『鯰』の絵馬が多数掛けられ、お百度を踏む人々で混みあうほどだったと伝えられています。

 現社殿は一部修復工事を施したものの往時のままで、正面左右の扉を開放すると社殿内を一巡することができ、当時のお百度詣り(おひゃくどまいり)の様子をうかがい知ることができます。

 なお、明治42年の「北の大火」で焼け残った御神木でつくられた神號額が、その旨の裏書とともに伝わっているそうです。


 難転石(なんてんいし)です。

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 『玉石を回して難を転じます』だって!これを回すと困難が転じて幸運になるんだよ。

 これは、回さないわけにはいかないねえ。

 
 それで、天神さんといえば、牛さんが乗り物ですね。

 神牛舎です。

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 これは「神牛さん」「撫で牛さん」と呼ばれ

  『己が身体の病む処と、神牛さんとを交互に撫で摩(さす)り、身代わりになっていただくことができる』、『神牛さんの霊力をもって病を治療して戴く』という信仰が古来より続いているのだそうです。

 また、神牛さんは学問の神様、菅原道真公のお使いですから、学業成就や、合格を祈願する学生さんが多数参詣するそうです。

 ここは、梅田でお買い物ついでにお詣りに来ることができて便利だねえ。

 だから、絵馬もびっしり掛けられています。

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 菅原道真公(天神さん)には神牛さんがつきものですが、これは菅原道真公の御生誕が、丑の年にあたる承和十二年六月二十五日の丑の刻で、薨去の後、太宰府にて初めて祭祀を営まれたのも、延喜五年八月十九日という丑の年、丑の日だったからだそうです。

 また、道真公は『御存命中よりこよなく牛を愛(め)で給い、或る夜、自ら牛の姿を描かれて、これを日常親しく祀られた』と伝えられていることに由来するのだそうです。


 露天神社(つゆのてんじんしゃ)は、お初天神と呼ばれるだけあって、『お初さんと徳兵衛さんのコーナー』というべき一角があります。

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 「誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。
 取伝へ貴賤群集の回向の種。 未来成仏疑ひなき恋の。
 手本となりにけり。」
                              近松門左衛門作「曽根崎心中」より


 広く民衆の涙を誘うこの作品はその後も繰返し上演され、今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々がこの地を訪れています。

 なお、昭和47年7月、曽根崎中1丁目の有志によって、恋に殉じた二人を慰霊するための「曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」という石碑が建立されました。

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 また、二人の300回忌の後、氏子さんの一人から「お初さんのために」と100万円の寄付がありました。それをきっかけに、地元の商店街などから寄付金が寄せられ、平成16年4月にブロンズ像が製作されました。

 お初と徳兵衛のブロンズ像

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 また、二人をかたどった石碑もありました。

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 大阪の人の温かい思いやりと、心意気が感じられます。

 世間では『大阪人=ケチ』といった、誤った偏見が流布されていますが、確かに大阪の人は始末して、こつこつと地道にお金を貯めますが、生きた金は惜しみなく使うのです。

 そうでなければ、豊かな上方文化なんか生まれるはずがありません。

 以前も大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)のことを書きましたね。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/51849966.html
 
 立派な石灯籠です。

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 裏参道(北側)

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 提灯と千社札が、雰囲気ありますね。

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 裏参道はお初天神通り商店街になっています。

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 裏参道とはいえ、今ではこちら側が、JR大阪駅、阪急・阪神・大阪市営地下鉄梅田駅からの導線なので、実質的には表参道のような役割を担っています。

 ということで、今回は、曾根崎天神、こと露天神、もしくは初天神でした。

 JR大阪駅から歩いて行ける距離ですから、大阪にお立ち寄りで時間が余ったときなんかはお詣りされては?








【ファイルT165】2012.01.07 大阪曾根崎の曾根崎(そねざき)天神は露天神(つゆのてんじん)だよ(上)

近松門左衛門の代表作『曾根崎心中』の舞台だから『お初(はつ)天神』とも呼ばれているねえ。

 大阪市東洋陶磁美術館のご紹介をしましたが、そこから北上して歩いて行くと、さほど遠くない場所に曾根崎天神があります。

 大阪市東洋陶磁美術館の記事はこちら。
 近松門左衛門の代表作『曾根崎心中(そねざきしんじゅう)』の舞台だねえ。

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 天神様の南側の表参道(おもてさんどう)です。『露天神(つゆのてんじん)』と表示されていますね。

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 これは、菅原道真公が筑紫の太宰府へ流されて行く途中、太融寺(たいゆうじ)に参詣しようとして、ここを通りかかり、このあたり、露が深かったので

 「露と散る涙の袖に朽(く)ちにけり 都のことを思ひいづれば」

 と、「都のことを想うと涙が露のように落ちる」という歌を詠み、それに因んで露天神と名づけられたということです。


 それから、梅雨のころに神社の前の井戸から水が湧き出たためとだという説もあります。

 浪速七名水(なにわしちめいすい) 神泉 露之井

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  この解説板を参考に説明すると。

御井社(みいしゃ)・祓戸社(はらえどしゃ)

 御祭神
 
  御井神(みいのかみ)
    古くより露ノ井と称され、人々の暮らしを支え信仰の対象でもありしこの御井に坐す神

  祓戸四柱ノ大神(はらえどよつはしらのおおかみ)
 
    瀬織津比売(せおりつひめ) -- もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流す

    速開都比売(はやあきつひめ) -- 海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込む

    気吹戸主(いぶきどぬし) -- 速開津媛命がもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・
                     底の国に息吹を放つ

    速佐須良比売(はやさすらひめ) -- 根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れを
                         さすらって失う

 社殿直下の御井は、往時四天王寺の亀の井・清水寺の井・二つ井戸等と共に「浪速七名水」の一つなりと称され、梅雨時期には清水が井戸縁より湧出せし、という。

 名井「露ノ井」として当社社名の由来の一つともいわれ、周辺地域を始め、社地前旧池田街道を行き通う人々の貴重な清水であった。

 現在では、地下鉄各線や高層ビル群の建設等により、地下水脈が分断され水位が著しく低下している。
 
 ということです。


 また、この神社は曾根崎(そねざき)にあるので、曾根崎天神(そねざきてんじん)ともいいます。

 ギャル曽根ちゃんが行ったら、ギャル曽根崎天神になっちゃうねえ。


 さらに、近松門左衛門が、元禄16年(1703年)4月7日に実際にあった、内本町((うちほんまち)の醤油問屋(しょうゆどんや)平野屋の手代(てだい)徳兵衛(とくびょうえ)と堂島新地天満屋(どうじましんちてんまや)の遊女お初(はつ)の心中事件に材をとって作った『曾根崎(そねざきしんじゅう)』の心中場所だったので、その女主人公の名をとって『お初(はつ)天神』ともいいます。

 一般的には、『徳兵衛(とくびょうえ)』というより、『お初(はつ)・徳兵衛(とくべえ)』って言われますよね。

 この話は、浄瑠璃語りの竹本義太夫(たけもとぎだゆう)演じる舞台で大当たりを取ると、庶民に熱狂的に受け入れられ、心中事件も増加の一途をたどりました。

 この事態を重くみた幕府は、享保7(1722)年に心中禁止令を出して心中物の出版と上演を禁止、心中を「相対死(あいたいじに)」と呼ぶように定めるなどの対策を講じました。

 
 祭神は大己貴大神(おほなむちのおおかみ)、少彦名大神(すくなびこのおおかみ)、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、豊受姫大神(とようけびめのおおかみ)、菅原道真の五柱です。

 社伝によれば

 当社は上古、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神(すみよしすむちそねのかみ)」を祀り御鎮座されたと伝えられており、「難波八十島祭(なにわのやそしままつり)」旧跡の一社である。曽根崎(古くは曽根洲と呼ばれた)の地名は、この御神名によるとされている。

 創建年代は定かではないが、「難波八十島祭」が文徳天皇の嘉祥3年(850年)にまで遡ることができ、6世紀の欽明天皇の頃には形が整っていたとされることから、当社の起源もその頃と推察できる。なお、承徳元年(1097年)に描かれた「浪華の古図」には、当社の所在が記されている。

 南北朝期には「曽根洲」も漸次拡大し、地続きの「曽根崎」となった。この頃、北渡辺国分寺の住人・渡辺十郎源契(河原左大臣源融公十一世渡辺二郎源省の末)や渡辺二郎左衛門源薫ら一族が当地に移住し、田畑を拓き農事を始め、当社を鎮守の神とし曽根崎村を起こした。

 以後、明治7年(1894年)の初代大阪駅、明治38年の阪急電鉄梅田駅の開業などとともに地域の発展に拍車がかかり、当社も大阪「キタ」の中心、梅田・曽根崎の総鎮守として崇敬を集めるに至っている。


 ということです。

 天照皇大神を祭神として祀ることから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも挙げられました。
 
 とても由緒のある神社なのですね。

 猿田彦大神((さるたひこのおおかみ)の像がありました。

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 立派なお鼻だねえ。

 曾根崎天神は大阪梅田のオフィス街の中にこじんまりと立っています。

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 周囲の環境は、札幌時計台に似ています。

 引退した、島田紳助さんが、『大阪といっても大阪キタ、特に梅田は東京資本の植民地だから大阪ではない』と言っていましたが、梅田は確かにそんなところがありますね。

 梅田は商都の中心船場から外れた場所に大阪駅が出来てから新しく作られたオフィス街なので、『大阪』という雰囲気とはちょっと違います。

 明治時代ですら、梅田駅(JR大阪駅)や曽根崎はこんな感じだったのです。

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 【彩色絵はがき・古地図から眺める 大阪今昔散歩 原島広至 中経出版P86より】

 『梅田ステンシヨウ』の右下にピンク色で着彩されているのが、露天神。

 そもそも、駅なんて、へんぴなところに建てられたのです。

 大阪駅は当初、堂島に建設される予定だったのですが、住民から火の車が町中を走ると火事になると反対され、周囲に何もない梅田(埋田)に建設されました。

 江戸時代の曾根崎はどんなだったのでしょう?

 上方風俗 『大阪の名所図会(めいしょずえ)を読む 宗政五十緒 編/東京堂出版』P24より、図と解説文を引用しますね。

 ※  ※  ※

イメージ 7



 画賛の和歌「露とてもあだにやはみる長月(ながつき)の 菊の千(ち)とせを過ぐと思へば」は、露だといってもいいかげんに考えてはいけませんよ、ということでこの歌を掲げているのです。

 境内地はもと五百七十坪ありました。拝殿は南面しています。その北側に本殿(本社)があります。

 絵では本殿の左手に観音堂があります。

 社殿の後ろの林は梅林。西側と北側に小川が流れています。西側、絵では下(しも)手は曽根崎村で、その北側は北野村。お初・徳兵衛は、堂島新地からこの天神の森に辿り着き、七(なな)つ(午前四時頃)の鐘になごりを惜しみながら心中したのです。

 『曽根崎心中』のこの部分は、道行文(みちゆきぶん)として有名です。

 露天神は曽根崎村の産土神(うぶすながみ)です。例祭(れいさい)日は、当時は九月二十日。近くには、堂島新地(どうじましんち)や北の新地(曽根崎新地)がありました。

 ※  ※  ※

  江戸時代の曾根崎天神は田んぼの真ん中にぽつんと立っていたのですね。

 こんな広い境内で寂しい場所だったから落ち着いて心中でもしようかという気になるのでしょうが、繁華街になった今の曾根崎で心中は、とてもじゃないけれど無理です。

 4月中旬だったので、八重桜(?)が咲いていました。

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 本社前の写真向かって左側の緑のかたまりが右近の橘(うこんのたちばな)です。

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 写真向かって左側の細い木が、左近の桜(さこんのさくら)です。

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 本社にお詣りしました。

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 ということで、(下)に続きますね。
 (下)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52983981.html







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