旅行・お散歩の部屋
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その1から読まれる方はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52534735.html 前回は、三島由紀夫事件のあった現場、旧東部方面総監室の記事でした。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52963429.html 三島由起夫事件については、事件から今に至るまで、いろいろな解釈がなされていますが、結局のところ、氏が事件当日に東部方面総監室前のバルコニーで撒いた檄文が、氏の訴えを余すところ無く伝えているはずなのです。 檄文を撒く三島由紀夫氏(写真右)。写真左は森田必勝(まさかつ)氏。 決起した五名の写真(事件直前に、伊達宗克【だてむねかつ:NHK社会部記者】氏が三島氏から受け取ったもの)。【裁判記録「三島由起夫事件」伊達宗克 講談社より】 上記写真の裏側(筆跡は三島由紀夫氏のもの) 中央に三島由紀夫氏を囲んで写真左から森田必勝(もりた まさかつ)氏、古賀浩靖(こがひろやす)氏、小川正洋(おがわまさひろ)氏、小賀正義(こがまさよし)氏。 三島由紀夫氏の『檄文(げきぶん)』の全文及び、『要求書』を、そのままここに掲載します。 ※ ※ ※ 檄 楯の会隊長 三島由紀夫 われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同士として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。 われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凜烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。 われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜(注・【けが・す】「さんずい」の右側は「士」の下に「買」の字)してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた、自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることはなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。 四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体があきらかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。 しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰めともいふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本精神に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。 これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる!政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。 銘記せよ!実はこの昭和四十五年(注・昭和四十四年の誤り)十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だった。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であった自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢には我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上がるのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだった。 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主主義的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは志純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。 (原文のまま) ※ ※ ※ (以上全文掲載) 今回は三島氏の檄文に対して真摯に耳を傾けるということを趣旨とした記事ですので、何も付け加えません。これについての考察は次回以降書きたいと思います。 ということで、次回に続きます。 |
【ファイルT166】2012.01.20 大阪曾根崎の曾根崎(そねざき)天神は露天神(つゆのてんじん)だよ(下)曽根崎心中のお初さん、徳兵衛さんを偲ぶ人が沢山いるんだねえ。前回からの続きです。(上)はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52945641.html 露天神社内にある水天宮(すいてんぐう)金比羅宮(こんぴらぐう)です。 露天神社のHPによると、 御祭神は、 天乃御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇(あんとくてんのう)、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、崇徳天皇(すとくてんのう)、住吉大神(すみよしのおおかみ)、他二柱です。 安徳天皇は源平の合戦で壇ノ浦に沈み幼くして崩御された方ですね。 また、崇徳天皇は、保元の乱(ほうげんのらん)で讃岐に流され、五部大乗経を写経して京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河天皇から「呪詛が込められているのではないか」と送り返して来られたことに激しく怒り、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている方ですね。 『菅原道真公』と並ぶ大怨霊ですね。 御神徳は、 安産、児童守護、交通安全、水関係職種の守護 この水天宮(すいてんぐう)さんはもともと寛政9年(1797年)6月に大阪中之島・久留米藩蔵屋敷(くるめはんくらやしき)内に祀られたお社(やしろ)です。 明治維新に際して、蔵屋敷は朝廷に返上、水天宮の御神霊は丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀されました。 しかし、この丸亀藩蔵屋敷も返上することになったため、高松藩蔵屋敷の金刀比羅宮に遷され、その後、堂島中二丁目に遷座されます。 さらに明治42年の『北の大火』で社殿が罹災したため当地に遷され、露天神社の境内社として斎祀されるようになったのだそうです。 明治天皇御誕生の際、孝明天皇が御安産を御祈誓、無事御降誕の後、本水天宮(久留米藩蔵屋敷内)へ鳥の子餅を御奉納されたと伝えられています。 また、金刀比羅宮は江戸時代、中之島にあった高松藩、丸亀藩両蔵屋敷の中にそれぞれ祀られ、霊験があらたかだということで、毎月縁日には参詣人が群れをなしたと伝えられています。 当時大阪では毎月十日が金刀比羅巡りの日とされ、土佐堀川常安橋北詰西の高松蔵の金刀比羅様と上町空堀の遥拝所、千日前法善寺の金刀比羅様は特に賑わったといいます。 明治期以降の変遷は『水天宮』と同じです。 お宮の歴史が蔵屋敷の歴史というのが、さすがは天下の台所、商都大阪らしいのですね。 当時の交通は紀伊国屋文左衛門の『蜜柑舟伝説』にもあるように、『板子一枚下は地獄(いたごいちまいしたはじごく)』の海運でしたし、商売、特に米相場なんて運による部分が多かったので、大阪商人にとって、神頼みというのは大切だったのでしょうね。 いまだに大企業の屋上なんかに神社がお祀りされていますからね。 玉津稲荷です。 御祭神 玉津大神、天信大神、融通大神、磯島大神 御神徳 商売繁盛、五穀豊穣、皮膚病治癒 水天宮さんの説明にもあるように、明治42年『北の大火』によって近在各地に祀られていた四社の稲荷社が烏有(うゆう)に帰します。 そのため、翌明治43年に本社境内地に四社が合祀され御奉斎されました。 古くは皮膚病の治癒を願って『鯰』の絵馬が多数掛けられ、お百度を踏む人々で混みあうほどだったと伝えられています。 現社殿は一部修復工事を施したものの往時のままで、正面左右の扉を開放すると社殿内を一巡することができ、当時のお百度詣り(おひゃくどまいり)の様子をうかがい知ることができます。 なお、明治42年の「北の大火」で焼け残った御神木でつくられた神號額が、その旨の裏書とともに伝わっているそうです。 難転石(なんてんいし)です。 『玉石を回して難を転じます』だって!これを回すと困難が転じて幸運になるんだよ。 これは、回さないわけにはいかないねえ。 それで、天神さんといえば、牛さんが乗り物ですね。 神牛舎です。 これは「神牛さん」「撫で牛さん」と呼ばれ 『己が身体の病む処と、神牛さんとを交互に撫で摩(さす)り、身代わりになっていただくことができる』、『神牛さんの霊力をもって病を治療して戴く』という信仰が古来より続いているのだそうです。 また、神牛さんは学問の神様、菅原道真公のお使いですから、学業成就や、合格を祈願する学生さんが多数参詣するそうです。 ここは、梅田でお買い物ついでにお詣りに来ることができて便利だねえ。 だから、絵馬もびっしり掛けられています。 菅原道真公(天神さん)には神牛さんがつきものですが、これは菅原道真公の御生誕が、丑の年にあたる承和十二年六月二十五日の丑の刻で、薨去の後、太宰府にて初めて祭祀を営まれたのも、延喜五年八月十九日という丑の年、丑の日だったからだそうです。 また、道真公は『御存命中よりこよなく牛を愛(め)で給い、或る夜、自ら牛の姿を描かれて、これを日常親しく祀られた』と伝えられていることに由来するのだそうです。 露天神社(つゆのてんじんしゃ)は、お初天神と呼ばれるだけあって、『お初さんと徳兵衛さんのコーナー』というべき一角があります。 「誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。 取伝へ貴賤群集の回向の種。 未来成仏疑ひなき恋の。 手本となりにけり。」 近松門左衛門作「曽根崎心中」より 広く民衆の涙を誘うこの作品はその後も繰返し上演され、今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々がこの地を訪れています。 なお、昭和47年7月、曽根崎中1丁目の有志によって、恋に殉じた二人を慰霊するための「曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」という石碑が建立されました。 また、二人の300回忌の後、氏子さんの一人から「お初さんのために」と100万円の寄付がありました。それをきっかけに、地元の商店街などから寄付金が寄せられ、平成16年4月にブロンズ像が製作されました。 お初と徳兵衛のブロンズ像 また、二人をかたどった石碑もありました。 大阪の人の温かい思いやりと、心意気が感じられます。 世間では『大阪人=ケチ』といった、誤った偏見が流布されていますが、確かに大阪の人は始末して、こつこつと地道にお金を貯めますが、生きた金は惜しみなく使うのです。 そうでなければ、豊かな上方文化なんか生まれるはずがありません。 裏参道(北側) 提灯と千社札が、雰囲気ありますね。 裏参道はお初天神通り商店街になっています。 裏参道とはいえ、今ではこちら側が、JR大阪駅、阪急・阪神・大阪市営地下鉄梅田駅からの導線なので、実質的には表参道のような役割を担っています。 ということで、今回は、曾根崎天神、こと露天神、もしくは初天神でした。 JR大阪駅から歩いて行ける距離ですから、大阪にお立ち寄りで時間が余ったときなんかはお詣りされては? |





