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【ファイルT205】2014.02.09 大阪北浜の大阪証券取引所ビルを見学したよ。

個人だと飛び込みで資料を見学することが出来るねえ。

 前回は大阪北浜の大阪証券取引所ビルについて記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54747542.html

 今回は、ここで見学をします。

 詳細については、大阪取引所見学のサイトをご確認ください。↓
http://www.jpx.co.jp/learning/tour/ose/

 私は個人で行ったのですが、個人の場合は予約なしで正面玄関から入ってすぐ左の大証直通エレベーターで4階に上がり、降りたところにある受付に住所氏名を書いたらそれでOKです。

 特にHPに書かれているような見学者用のバッジは、渡されませんでした。

 個人の場合見学できるのは、4階の展示コーナーと、5階の大証マレットのみでした。

まず、4階の展示コーナーから。

株式取引所設立趣意書です。発起人の五代友厚さんの名前が記されていますね。


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 大阪証券取引所前に銅像が建っている五代友厚さんの記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54717262.html

大阪株式取引所創立株主人員姓名便覧(株式名簿)です。


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大阪株式取引所の発起人、五代友厚さんが、筆頭に書かれています。

五代友厚さんのみが士族ですが、その後に控えているのは、平民とはいえ、鴻池善右衛門【こうのいけぜんえもん=江戸時代を代表する富豪=鴻池家により1877年5月に設立された第十三国立銀行が、三和銀行の前身。現在は三菱東京UFJ銀行に統合されている】、三井元之助、住友吉左衛門、という江戸時代の豪商から近代財閥に繋がるビッグネームです。

実力主義の実業界で、五代さんがこんれほどの豪商をまとめたのは、いかに五代さんの能力とリーダーシップが凄かったかということが分かります。


株式会社大阪株式取引所株券 拾株券(10株券) 金五百圓(金五百円)です。


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 大正拾年壹月拾五日(大正10年1月15日)とあります。10株500円ということは、一株50円だったんだねえ。

ところで、この証券に描かれている証券取引所のビルが、円筒形ドームじゃありません。

実は、円筒形ドームの証券取引所ビルは2代目で、初代株式取引所は、こんな形をしていて、下の絵はがきの左に写っています。


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 それから以前当ブログでも御紹介した、今『北浜レトロ』という、お洒落なティールームとして使われている『株仲買商の商館』も写っていますね。

 『北浜レトロ』の記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53096604.html

ついでに、オリジナルの絵はがきも掲載しますね。


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立会場内の場電席(証券会社が注文を受ける場所)で使用していた電話、レシーバーです。


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活況時商いを一時中断させる際、合図に使用していた笛です。


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 今でも、値幅制限(ねはばせいげん)というのがあって、株価の異常な急騰・暴落を防ぐために、株価の1日に変動できる上下の範囲を制限して売買を中断します。この制限値幅の限界まで上昇することをストップ高、下落することをストップ安といいます。

立会開始の合図に使われていたハンドベル(振鈴)です。


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 なんか、昭和初期の映画で、小学校の授業が始まるときに、小使いさんがカラカラ鳴らしていた鐘みたいですね。

 ニューヨーク証券取引所では、今でも、立会開始と終了の合図として鐘を鳴らしているそうです。こういう歴史の浅い国ほど、案外と昔の慣例を大切にします。

札掛け当時の札です。


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 上のような黄色の札は、特定銘柄(銘柄府だが一般名柄より大きい)及び貸借銘柄なのだそうです。

 『平和』ということは、大阪証券取引所の建物を所有する平和不動産(株)の特定銘柄・貸借銘柄札なのかな?

かつての立会取引(たちあいとりひき)の情景です。


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かつての証券取引所のイメージはこんな感じだったんだねえ。東京築地のマグロの競り(セリ)みたいに、立会場で証券会社の売買担当者が、ハンドサインで株の売買をしていました。

大阪証券取引所のハンドサインです。

数字


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業種


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ハンドサインは、立会場における証券会社の売買担当者の主要な情報伝達の手段で、売買注文の内容や売買結果を正確・迅速に表すとことができます。これは取引所によって違うようです。


ところが、平成11(1999)年、売買の全面システム化によって売買は全てコンピューターによる電算処理で行われ、このような情景を見ることができなくなりました。

そのお陰で、今では昔のように証券会社の社員を通さずに、一般の人でも、直接パソコンから株の取引ができるので、東証(兜町)だ大証(北浜)だという区別をする意味が無くなってしまいました。


そもそも北浜(大阪証券取引所)の地盤沈下は、関西の人でも電話で兜町(東京証券取引所)の取引ができるようになってから始まったと聞いたことがあります。

株式の取引は売買量の多い市場に集中するのは理の当然です。


それで、北浜(大阪証券取引所=大証)は、江戸時代の堂島米会所(どうじまこめかいしょ)時代の原点回帰により経済都市の座を復権しようとします。


大坂は堂島米会所で行われた帳簿上の差金(さきん)の授受によって決済を行う『帳合米取引(ちょうあいまいとりひき)』が、世界で最初の公設の商品先物取引(しょうひんさきものとりひき)だということを以前記事に書きました。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53022987.html

つまり、今経済アナリストや経済評論家が『リスクヘッジ』とか『リバレッジ』とか『デリバティブ』と能書きを垂れていますが、それらの世界発祥の地が江戸時代の『天下の台所』=大坂だったのです。

この伝統から、大阪株式取引所では、草創期から帳合米取引をベースにした定期取引(および後の清算取引、現行法でいう先物取引(futures)の方法にあたる)が行われていました。

ただし敗戦後、証券業界では証券取引法に基づく証券取引所開設の際に証券業界で清算取引の再開を求めていたのですが、GHQにより清算取引の禁止を求められた経緯もあり個別株式の先物取引の復活は、今日に至るまで実現されていないようです。

前後の大阪証券取引所の沿革をみてみます。(【 】内は証券業界に関係する事象)。


昭和62(198)7年6月9日 - 「株先50」の取引開始(日本初の株価指数先物市場)。


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昭和63(1988)年9月 - 日経225先物市場開設。

平成2(1990)年 - 世界最大の株先物市場に発展。

【平成10(1998)年 - 外国為替及び外国貿易法が改正され、ダイワフューチャーズ(現・ひまわり証券)、豊商事などがFX(外国為替証拠金取引)取扱いを開始、ブロードバンドの普及も手伝って市場が急速に拡大する。】


平成11(1999)年売買の全面システム化による立会場廃止。


平成19(2007)年12月4日 - デリバティブの売買高が国内で初めて年間1億枚を突破。


【平成20(2008)年9月15日-アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズが破綻し、これが世界的金融危機の大きな引き金となったいわゆるリーマン・ショックが発生。】


平成21(2009)年7月21日 - 国内の証券取引所では初めて、外国為替証拠金取引(FX)市場である「大証FX」を開設。

平成25(2013)年1月1日 - 大阪証券取引所(初代)より取引所運営部門を承継し、現商号に社名を変更。大阪証券取引所(初代)は東京証券取引所グループを吸収合併し、社名を日本取引所グループに変更。


そして、ついに!


平成25(2013)年7月16日 - 現物市場(第一部・第二部・ジャスダック)を東京証券取引所へ統合。


これにより、以降、大阪証券取引所は、デリバティブ(金融派生商品)特化型の取引所となります。


4階の資料コーナーを見終わって、5階の大証マレット(売買監視ルーム)を見学します。


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 フラッシュは禁止ですが、職員の顔が写らなければ撮影はOKということです。

株の売買は、コンピューターがやっているので、ここでは、株の不正取引が行われていないか監視業務をしているということです。

 活気の漲(みなぎ)る立会(たちあい)があった時代と様変わりです。

 ということで、大阪経済の中心、北浜の大阪証券取引所についての記事でした。

【ファイルT203】2014.01.28 大阪北浜の大阪証券取引所ビルだよ。

前身の大阪株式取引所の発起人、五代友厚像が建っているねえ。

 前回は五代友厚さんについて記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54717262.html

前身である大阪株式取引所の発起人、五代友厚像が建っている大阪証券取引所ビル(再掲)。


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本体は背後に見えている地上24階の高層ビルなのですが、正面の特徴のある円筒型エントランスホール『アトリウム』は、昔の外観を今に留めています。


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大阪証券取引所ビル

用途 事務所、店舗
設計者 三菱地所設計、日建設計
施工 竹中工務店、大林組、その他JV
建築主 平和不動産
敷地面積 4,721 m²
延床面積 53,932 m²
階数 地上24階・地下2階
高さ 116.8 m
着工 2002年5月22日
竣工 2004年12月1日

それで、今回は、円筒型の旧市場館について御紹介しましょう。

円筒型の旧市場館は昭和10(1935)年長谷部竹腰建築事務所の設計で竣工。施工:大林組

 構造・規模:鉄骨鉄筋コンクリート造6階建、地下2階

(大阪名所)水都難波橋畔に聳(そび)ゆる大阪株式取引所の偉観(『絵ハガキ帖』より)


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大阪証券取引所ビルは、江戸時代の寛保3(1743)年に大坂高麗橋筋から移ってきた金相場会所【きんそうばかいしょ:主に金為替・銀為替の売買を行うために大坂に設置された取引所。ここでの交換比率が標準相場となった】以来、大阪経済の中心であり続ける北浜(きたはま)のシンボルです。

明治11年(1878)。大阪株式取引所の創立・取引開始から約130年。大阪証券取引所と、その名を変えながら、広く親しまれてきました。

 株式会社大阪証券取引所(おおさかしょうけんとりひきじょ、英語:Osaka Securities Exchange Co., Ltd.)は、株式会社日本取引所グループの子会社で金融商品取引所です。

東京証券取引所、名古屋証券取引所と共に、日本の「三市場」の一つで、略称は大証(だいしょう)です。

大阪証券取引所は、所在地の大阪府大阪市中央区北浜一丁目にちなんで『北浜(きたはま)』とも呼ばれ、東京証券取引所の日本橋の『兜町(かぶとちょう)』と並び称されていました。

白亜の円筒型のレトロな建物は北浜のランドマーク的存在で、付近には多くの証券会社が立ち並んでいます。

この建物の建て替えにあたっては、建物を所有する平和不動産(株)と設計者、証券界の代表者や商業コンサル、そして、学識経験者で構成された委員会によって昔の姿をいかに留めるか、計画について検討されました。

大阪の人達の大きな思いが、どれだけこのビルにこもっているかが分かります。

その結果、正面玄関にあたる円筒型の旧市場館部分をオリジナルのまま残し、その他の部分は新たに立て替え、オリジナルの部分と背後の高層部分は視覚的に切り離し、旧市場館の姿が以前と違和感のないものになるよう設計されました。

建物正面から、五代友厚さんの銅像の背中が見えます。


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円筒型のドーム屋根が特徴的です。外壁は当時のものが保存されています。


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実は、元の外壁部分は、経年で微妙に傾いていたので、新築高層ビルとの接合部もその角度に合わせて造られたそうです。

窓枠の金属格子の模様も綺麗です。昔の写真から推測して復元されたそうです。


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大阪証券取引所のプレートです。


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旧市場館正面玄関から中に入ります。


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旧市場館玄関ホール『アトリウム』の床です。


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 使用された新しい石張りは、オリジナルと同じ産地から取り寄せ、目地幅も同じに合わせたというこだわりです。

『アトリウム』の壁面の曲線と大きなステンドグラスの窓が美しいねえ。


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 アトリウムのシャンデリアや既に失われていたディテールも昔の写真から推測して復元されたということです。

 ホールの明るさに露光を合わせて撮影すると、ステンドグラスの模様が光って飛んでしまいます。

ステンドグラスに露光を合わせて撮影します。ステンドグラスはオリジナルの再利用です。


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アトリウムのシャンデリアのアップです。


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玄関側からアトリウムの奥を臨みます。


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玄関から入った1Fアトリウムの左側のエレベーター大証直通エレベーター(2基)です。


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エレベーター扉もオリジナルのものが再利用されています。


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 このエレベーターに乗って、4階に行くことができます。

 ということで、今回は、大阪証券取引所の建物についてでした。

 次回は、このエレベーターに乗って、4階展示コーナーと5F大証マレットを見学します。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54769515.html

【ファイルT202】2014.01.12 五代友厚さんは、大阪経済近代化の功労者。

「東の渋沢、西の五代」と称された大阪の大立て者だねえ。

 前々回に今の難波橋について記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54652587.html

その際に、大阪証券取引所が写っていたのですが、今回はその前に立っているのが、五代友厚さんの銅像です。

難波橋のライオンさん越しに見える五代友厚像。


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大阪証券取引所ビル前に、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)初代会頭五代友厚さんの銅像が建っています。


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 右足を半歩前に、右掌を上に一寸前へ出していますが、これは示現流【じげんりゅう:、薩摩藩を中心に伝わった古流剣術。流祖は東郷重位】の使い手がいつでも拔刀できるポーズなのだそうです。

 この五代さんの人物と業績を知る人は、今日大阪でもごく少ないのだそうですが、この五代さんこそが近代大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人なのです。だから、こんな立派な銅像が建つんだねえ。

五代 友厚【ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日】さんは、日本の武士(薩摩藩士)、実業家です。【※以下、日付は明治5年までは旧暦】

 『三国名勝図会』の執筆者で記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)に生まれました。幼名は徳助。通称才助。

 質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学びます。

14歳のとき、琉球公益係を兼ねていた父親が奇妙な地図を広げて友厚少年を手招きました。そこにあったのは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図でした。友厚少年はお父さんからこの世界地図の複写を命じられます。

そこで、友厚少年はそれを2枚写し、1枚は藩主に献上し、1枚は自分の部屋に掲げ、日がな一日ながめていたということです。


幕末の五代さんの経歴は以下の通りです。

 安政元(1854)年、ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となりました。その折、五代さんは「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったということです。

安政4(1857)年、藩の選抜で長崎海軍伝習所へ藩田習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びます。

安政6(1859)年 水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航、藩のために汽船購入の契約をします。

文久3(1863)年 生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となり、横浜で釈放されます。

 国元ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀さんの取り成しによって、ようやく帰国を許されることとなりました。

慶応元(1865)年 藩命により寺島宗則・森有礼らとともに英国留学に出発し、欧州各地を歴訪。ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたのですが、諸事情により失敗に終わりました。

しかし、この時の経験が、のちの五代さんの経営手腕に大きな影響を与えることになるのです。

慶応2年(1866年) 長崎の小菅に日本初となる近代ドッグ(小菅修船場)建設に着手し、その後、長崎製鉄所(現・三菱重工業長崎造船所)を設立します。

御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任。

長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めました。ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので、いまだに現存しています。

慶応3(1867)年 幕府が崩壊。御納戸奉公格という商事面を担います。

慶応4(1868)年 戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍しました。

 薩摩藩時代から、波瀾万丈の人生を歩んできたのですね。

明治維新で、幕藩体制は終結しましたが、五代さんはこのような経歴と欧州留学経験を持ち、外国事情にあかるいことから、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛に任用されました。

そして外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの重大事件の外交処理にあたりました。

また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開けることになります。

これらが、五代さんが大阪と関わるきっかけとなります。

江戸時代の大坂は全国の藩の蔵屋敷が建ち並び、年貢の集積地として、全国の米相場の基準を発信する、まさに『天下の台所』として繁栄しました。

 それについては、以前書きましたね。

 大坂の堂島米市場跡の記事はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53022987.html

 大坂の豪商だった淀屋の栄枯盛衰にもついて記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54547552.html

このように、大坂は江戸の幕藩体制における商業の中心として、大いに栄えたのです。

ところが、降って湧いたような明治維新。

廃藩置県によって、藩が消滅します。従って大坂の各藩蔵屋敷も無用の長物となり、大阪独自の銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や両替商の資産消失も大きな打撃でした。

明治2(1869)年 五代 友厚さんは新政府の参与という要職に任ぜられていたのですが、当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代さんの言)といった感のあった大阪経済を立て直すために、官を辞し実業界へ。商工業の組織化、信用秩序の再構築を図りました。

五代 友厚さんの肖像写真です。


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 なかなか押し出しのあるハンサムさんだねえ。

退官後、大阪へ再び戻り、手始めに本木昌造の協力により英和辞書を刊行。また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力します。順を追っていくと。

明治4(1871)年 大蔵省、造幣局(現・大阪造幣局)設立。

明治6(1873)年 弘成館(全国の鉱山の管理事務所)を設立し日本の鉱山王となります。

 明治7(1874)年 半田銀山(福島県)の経営を開始。

 明治8(1875)年 朝陽館(染料の藍の製造工場)を設立。

明治9(1876)年 堂島米商会所を設立する(堂島米会所の復興)。


明治11(1878)年 大阪経済の低迷打開策として、五代さんを筆頭とした財界指導者の有志15名が明治11年7月に大阪商法会議所設立の嘆願書を政府に提出。これが今日の大阪商工会議所の礎となりました。

 嘆願書の集め方は、交渉手腕に長けた五代さんらしい強引な勧誘で、その決め台詞が「万が一、後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」というものだったようで、結果的に60人の同志を募ることができました。

初代会頭が、後に銅像になった五代友厚さん。

大阪商法会議所を設立した目的は「大阪の実業家の相互扶助によって新時代の潮流に棹差し大阪商人の伝統である信用第一主義に則り以って自己の利益を増すと同時に大阪の繁栄を軸に国富の増強に資する」というものでした。

大阪商法会議所設立趣意書


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大阪商法会議所開業免状


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 ↑いずれも、大阪証券取引所HPより。
http://www.ose.or.jp/profile/758

役員の構成は、五代さんを初め計11人が創立委員となり鴻池善右衛門、三井元之助(後の三井財閥)、広瀬宰平(後の初代住友総理人)らの150株を筆頭とした、当時の大阪財界を代表する蒼々たる顔ぶれでした。

この時、五代さんは「大阪が日本の産業と金融機関の中枢になるのはすぐだ」と呟いたということです。

明治12(1879)年 大阪商業講習所(現・大阪市立大学)を創設。


明治13(1880)年 東京馬車鉄道、東京電気鉄道(現・東京都電車を)創設。

明治14(1881)年 大阪青銅会社(住友金属工業)、関西貿易社を設立。

明治15(1882)年 共同運輸、神戸桟橋(川崎汽船K-LINE)を設立し大阪湾を近代化させます。

明治16(1883)年 汽船会社を合同で設立。

明治17(1884年)年 大阪商船(旧・大阪商船三井船舶→現・商船三井)、大阪堺鉄道(南海鉄道)を設立。

 大阪北中之島1丁目26番地に初めて自邸を新築。

明治18年(1885年)9月、鹿児島より籍を大阪に移します。東京に於て日本郵船会社を斡旋。勲四等に叙せられ旭日小綬章を賜わります。


このように、五代友厚さんは、近代大阪の経済発展に多大な足跡を残し、まさにこれからという、明治18(1885)年に51歳の若さで亡くなりました。

当時東京において東京商法会議所(現・東京商工会議所)等を設立した渋沢栄一氏と比肩する人物として、『東の渋沢、西の五代』と称され、今なお語り継がれていますが、当時は、市井のおかみさん達までが、「五代はんは大阪の恩人や」と、その死を悼んだということです。

それにしても、51歳という短い生涯でこれだけの業績を成し遂げたのですから驚きです。

大阪を愛し、大阪のために尽力をされた五代さんは、遺言により大阪の土となりました。

 墓所は大阪阿倍野斉場にあります。

 その後大正3(1914)年。大正天皇が演習のため大阪行幸の際、特旨を以て正五位を追贈されました。

 ということで、次回に続きますね。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54747542.html

【ファイルT201】2013.12.25 大阪の難波橋(なにわばし)はライオン橋だよ(下)

江戸時代は船遊びで夕涼みをする名所だったんだねえ。

 前回は、今の難波橋について記事にしました。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54652587.html

 今回は、難波橋の歴史について書かせていただきます。

難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれているそうです。

行基(ぎょうき/ぎょうぎ)さんといえば、聖武天皇により奈良の大仏(東大寺など)の建立のために招聘されて活躍した法相宗(ほっそうしゅう)の高僧です。


 この功績によって東大寺の『四聖』の一人に数えられている他、朝廷より『菩薩』の諡号(しごう)を授けられて『行基菩薩(ぎょうきぼさつ)』と呼ばれるようになりました。その時代から行基は『文殊菩薩の化身』崇敬されました。

 全国各地の溜池が弘法大師が造ったことになっているように、行基さんが造ったという建造物の伝承は各地に存在するようですので、行基さんが、ここに本当に最初の橋を架けたかどうかはよくわかりません。

難波橋が『公儀橋(こうぎばし)』となったのは天神橋と同じく、寛文元(1661)年のことといわれています。古くは中之島の先端が、難波橋の下流部にあったので橋は一本で架かっていました。


『公儀橋』というのは、江戸時代、江戸、大阪、京などで、公儀(江戸幕府)の経費で架設、架け替え、修復が行われた橋のことを言います。

町人が経費を負担して架けた『町橋』に対する呼称です。

江戸では『御入用橋』と称し、まれに『公儀橋』と呼ばれていたのですが、大坂、京都では一般に『公儀橋』と呼ばれていました。

どうして天下のお膝元である江戸はともかく、大坂、京都で『公儀橋』が架けられたかというと、大坂は公儀(江戸幕府)の直轄地である『天領』だったし、京は朝廷がおられる都ですから、老中支配で、任地の関係で実際には京都所司代の指揮下で京都町奉行(きょうとまちぶぎょう)が職務を行っていたからです。


ところが、大坂などは、淀屋の二代目言當(げんとう・ことまさ)さんが邸宅の前に自費で架けた『淀屋橋』のように、例えば寛延2(1749)年の記録では、市中の橋の数は151橋でしたが、9割以上の橋は大阪商人が架設費用を拠出し、橋の管理費は橋筋の町々が負担をしていた『町橋』で、『公儀橋』はわずか12橋に過ぎなかったという事は、以前淀屋橋の記事で書きましたね。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54547552.html

江戸時代、この橋は堺筋の西隣にある難波橋筋に架かっていた木橋で、北詰は樋之上町、南詰は北浜一丁目、長さ114間(けん)6尺(しゃく)【約226.3m】、幅が3間【約5.9m】の大きな橋でした。

明和3(1766)年、山崎ノ鼻と呼ばれる中之島東端の新地が難波橋の近くまで埋立造成され、難波橋からの眺めは絶景と言われたそうです。

大阪歴史博物館に展示されていた難波橋の模型です。【橋の中央部を2.7分の1の縮尺で復元。材はヒノキを使用】


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難波橋は、江戸時代は主として『浪華橋』と表記され、天満橋(てんまばし)天神橋(てんじんばし)とあわせて三大橋(さんだいきょう)を称されていたそうです。

反り橋だったため、周辺の16橋や遠くの山々を眺めることができ、橋の上は花火見物や舟遊び、夕涼みの一等桟敷となるなど、絶好の行楽地と多くの人々が繰り出して、たいそう賑やかだったということです。


浪花橋夕涼み −なにわばしゆうすずみ−【一珠斎 国員 筆】


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『浪花十二景之内 難波橋の風景【長谷川貞信 (2代目)画】


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西ひがし みな見にきたれ なには橋 すみずみかけて 四四の十六【蔭山 梅好】

つまり、難波橋からは、“西ひがし(西東)みな見(南)きたれ(北)”というように、東西南北の四方に四つずつ合計十六の橋が見渡せたということなんですね。

前回は、今の難波橋は、パリのセーヌ川に架かるヌフ橋と、アレクサンドル3世橋を参考にして製作されたので、ライオンの像が建っているということを書きましたが、『四四の十六』の『四四=獅子』ということで、ライオンの像が建てられたのだという珍説もあるようです。


人間国宝で落語家の三代目 桂米朝師匠は、『難波橋』より『浪花橋』のほうがしっくりくると仰っています。

ということで難波橋(浪華橋・浪花橋)が舞台の落語『船弁慶』を二代目 桂枝雀師匠の至芸でご覧下さい。

『桂枝雀 Shijaku Katsura 船弁慶 落語 Rakugo』

(43分の大ネタで見応えがあります)



 うまく見られないときはこちら。↓
http://www.youtube.com/watch?v=c372dIuW97o

 おかみさんに内緒で、気安い仲間と板場さんと芸者さんを引き連れて、大川浪華橋に繰り出して、船に乗り込んでわいわいがやがや夕涼みの船遊びで散在をする話です。当時の浪華橋の賑わいが目に浮かんでくるようです。

その後、木橋であった頃は大川の洪水により幾度となく被害を受けたため、難波橋が鉄橋になったのは明治9(1876)年であるとされていますが、橋の架替えに合わせて中之島の先端が上流の方へ延長されたことにより、以降の難波橋は中之島を跨ぐかたちとなり、橋は南北に分けられました。

その際には、橋全体ではなく、北側部分のみが鉄橋になったということです。なお、明治24(1891)年に山崎ノ鼻を含む東端は中之島公園となりました。


その後の現在に至る難波橋については、前回の(上)で書いたとおりです。↓

http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54652587.html
 
 ということで、大阪(大坂)の難波橋(浪華橋・浪花橋)についてでした。

 次回は大阪証券取引所前に銅像が建っている五代友厚さんについてです。↓

【ファイルT201】2013.12.09 大阪難波橋(なにわばし)はライオン橋だよ(上)

パリのセーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋がモデルなんだねえ。

淀屋橋から中之島南側の土佐堀川沿いに東にテクテク歩いて行くとあるのが、難波橋(なにわばし)です。


イメージ 1



 大阪ミナミに難波(なんば)があるのでややこしいねえ。

写真右側に写っている丸い建物の大阪証券取引所をはじめとして、近代のレトロビルも周囲に残っている良い雰囲気の街区です。


 以前御紹介した、ティールームのある『北浜レトロビルヂング』もこのすぐそばです。

 『北浜レトロビルヂング』の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53096604.html


 華麗な照明灯、中央の中之島公園へ降りる広い石造りの階段など、都市景観の創造が図られた設計が高い評価を受けているそうです。

諸元

難波橋(なにわばし)
橋 長:189.65m、幅 員:21.80m
技術者 意匠:宗兵蔵(そう ひょうぞう)、彫刻:天岡均一(あまおか きんいち)
形式 2ヒンジアーチおよび合成桁RCアーチほか
完成:大正4(1915)年【昭和50(1975)年架替え】

 難波橋は、大阪市中央区北浜(きたはま)〜北区西天満(にしてんま)の堺筋(さかいすじ)にかかる、全長189.65mm、幅21.80mの橋です。現在は中之島を挟んで土佐堀川(とさぼりがわ)と堂島川(どうじまがわ)の2つの川を渡る形になっていて、橋の中央で下流側に中之島通を分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられています。

明治45(1912)年に大阪市電が第三期線として天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対運動が起こったため、一筋東の堺筋(さかいすじ)に新橋が架けられることになりました。

大正4(1915)年に完成した橋は、パリのセーヌ川に架かるヌフ橋と、アレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われ、この新橋が現在の難波橋です。

大正4(1915)年に建造された当時の写真。

 
イメージ 2



 国立国会図書館所蔵写真帳より
 Copyright ?? 2008 National Diet Library. Japan. All Rights Reserved.

市電敷設のために、わざわざ場所を変えて建設された橋なので、ちゃんと市電が写っています。市電はもう廃止されてしまったので、当時を偲ぶ貴重な風景ですね。

それにしても、大正4(1915)年に市電が走るこんな立派な橋が既に存在していたこと自体が驚きです!

中之島水上公園計画の一環として設計された事により、石橋風の外観、公園と一体となった階段、高欄の獅子像、親柱にはペディメントやメダリオンをあしらい、市章である「みおつくし」をアレンジした意匠が親柱や欄干に施されています。

その後、橋本体の傷みがはげしく、昭和50年(1975)難波橋は3年間に及ぶ補修工事により合成桁形式に変更架け替え、修復されましたが、装飾部分は旧来のものが使われていて、その際に戦時中に金属供出で失われた欄干や橋上灯が復元され、御影石による歩道の改装なども行われ、旧来の姿を保全するように配慮され、近代大阪を彩った当時の雄姿を今にとどめているのです。

 現在の写真に戻ります。

石橋で立派な親柱が建っています。


イメージ 3



イメージ 4



複雑で見事なデザインですね。

大阪市章の『澪標(みおつくし』です。


イメージ 5



大阪市章。(Wikipediaより)


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 『澪標(みおつくし、みおづくし、みおじるし、みをつくし)』というのは、航路を示す標識のことを言います。

大阪・木津川河口の澪標(Wikipediaより)


イメージ 7



澪標は、川の河口などに港が開かれている場合、土砂の堆積により浅くて舟の航行が不可能な場所が多いため、『澪(みお:河川や海で比較的深く舟の航行可能な船水路)』との境界に並べて設置されて、航路を示ました。

海運で成り立っていた、天下の台所で商都だった大阪(大坂)を象徴するに相応しい意匠ですね。

 それで、『澪つくし(みおつくし)』は、昭和60年上半期(1985年4月1日から10月5日まで)に放送された、沢口靖子さんがヒロインのNHK連続テレビ小説の題名にもなっています。

和歌では『澪標(みおつくし』の語を『身を尽くし』との掛詞(かけことば)で用いられる事が多く、代表的なものとしてあげられるのが、

『わびぬれば 今はたおなじ 難波(なにわ)なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ(百人一首20・元良親王)』

(噂が立って、これほど思い悩んでいるのだから、今はどうなっても同じことです。難波の海にある澪漂のように、この身を滅ぼしても貴女にお逢いしたいと思います)
 
 この歌は、作者元良親王(もとよししんのう)が時の宇多天皇の愛妃、京極御息所(きょうごくのみやすどころ)との道ならぬ恋が知られ、謹慎させられて逢瀬がかなわなくなったときに詠んだ歌です。

車道はアスファルトの広い道路に過ぎません。


イメージ 8



あれえ?この後ろ姿は・・・。


イメージ 9



難波橋の南詰めおよび北詰めの両側合計四隈の高欄の上に、それぞれ1対2セットの石造のライオン像が配置されているのです。


橋の南詰め向かって左(西)のライオンさんが口を開いた阿形(あぎょう)のライオンさん。


イメージ 10



阿形の高欄には、『なにわばし』と平仮名で刻まれています。


イメージ 11



橋に向かって右(東)のライオンさんが口を閉じた吽形(うんぎょう)のライオンさん。


イメージ 12



 阿形の高欄には、『難波橋』と刻まれています。

これらは最上級の黒雲母花崗岩を素材にした獅子像(=ライオンの石像、天岡均一作)で、これがあるので『難波橋』は『ライオン橋』の愛称でも親しまれているそうです。


ライオン像は、当時の池上四郎大阪市長が天岡均一氏に依頼して作られたということです。

 名市長だった池上四郎大阪市長の記事は以前書きましたね。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53514053.html

そもそも、古代インドで、仏の両脇に守護獣としてライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされていて、古代エジプトやメソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされているそうです。

また、明治神宮では、起源は古代オリエント・インドに遡るライオンを象った像で、古代オリエント諸国では、聖なるもの、神や王位の守護神として、ライオンを用いる流行があり、その好例がスフィンクスであるとしているという説をとっているそうなので、ここのライオンさんの像が本来の狛犬のあるべき姿なのかも知れません。

それでもって、このライオンは天王寺動物園の当時非常に珍しかったライオンがモデルと言われているそうです。


以前写した、天王寺動物園のライオンさん。


イメージ 13



 少しおっかない橋の像と違って、こちらのライオンさんは、凄く愛想の良い人でした。

 天王寺動物園のライオンさんの記事はこちら。↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50806436.html

最後に、大阪市中央公会堂(旧中之島公会堂)を背景に獅子吼(ししく)するライオンさん。

 カッコイイねえ!

イメージ 14



 ということで、この新橋建設以前の難波橋の歴史については、(下)に続きます。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54680696.html

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