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【ファイルT196】2013.08.24 大阪倶楽部は歴史的建造物(下)

新進気鋭の建築家だった頃の安井武雄氏の“自由様式”の代表作。

 前回の(上)からの続きです。
(上)から見られる方はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54430419.html

 それでは、建物の細部を見てみましょう。
 南欧風の様式に東洋風の手法(インド風の正面列柱―高砂市の竜山石(たつやまいし/凝灰岩)が取り入れられていて、

 玄関とイスラム建築風のアーチ、

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 玄関両脇のトーテムポールの天辺にある異形の妖獣の彫刻。

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 トーテムポールの妖獣の彫刻の下の部分。

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 トーテムポールの台座。

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 4階南テラス上の富を象徴する甕、【写真左端】

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これらを配した建築は、安井武雄氏の“自由様式”の代表例とされているそうです。


 この建物も、米軍による大阪大空襲(昭和20年3月13日夜半から14日夜明け)の翌日3月15日、大日本帝国海軍の接収により、大阪府を通じ「明渡し命令」を受け退去を余儀なくされます。

 恐らくこれは本土決戦に備えたものなのでしょう。海軍が陸の建物を接収するということは、戦局はもう末期的状況だったのです。

 帳簿、記録、備品の一部はようやく搬出することができたものの、殆んど凡ての什器備品が徴用されるに至ります。

 大空襲下で市内は大混乱状況であったものの、幸いなことに社員の加賀正太郎氏から東区高麗橋二丁目53番地の控家が提供されたことにより、倶楽部の活動は、一日も停止することなく続けることができました。

 空襲により、都心部を中心に大阪市の1/3が灰燼に帰しましたが、幸い大阪倶楽部は爆弾の直撃を免れたことと、窓に設けた鉄製シャッターの効果により延焼被害を受けることなく建設時の姿を保つことが出来ました。

 というより、アメリカは空襲の際、あらかじめ占領したときに接収する施設を選定していて、そこは攻撃目標から外す精密爆撃をしたのだと思われます。

 それで、敗戦に伴ってこの建物は、今度はGHQ(占領軍総司令部)に接収されることになりました。

 GHQによる接収の間、倶楽部は転々疎開先を変えました。加賀正太郎邸の次には朝日新聞社所有の朝日会館三階に、さらには朝日ビル9階に移転しつつ運営を続けてきました。

 昭和26(1951)年、サンフランシスコ講和条約が締結され、昭和27(1952)年4月28日、我が国は独立を回復。7年にわたる軍事占領が終結します。
 これに先立つ4月10日、ようやく会館の接収が解除されました。

 会館の接収は解除されたものの、記録類は散逸、エレベーターや照明具等内部の什器備品は見る影もない有様で、内部施設は倶楽部として到底使用に耐えない状態でした。

せめて現状復帰して返還するのが常識なのですが、米軍に常識なんてありません。接収した建物の備品や美術工芸品を盗むのも日常茶飯事でしたから。

 理事長の堀 新氏をはじめ役員及び各委員は、懸命に倶楽部復興に取り組みました。

 住友商事、関西電力、竹中工務店、日本銀行、富士銀行、第一銀行の6社からの400万円の寄付金提供や倶楽部債の発行(住友銀行の100万円を筆頭に87法人が引き受け)を通じて復興資金を調達。

社員の竹腰健造氏の設計監督、大林組の工事請負により同年秋、ようやく復興改修工事を終え往時の壮容に近づけることができました。

 なお、この建物の修復前の設計者である安井武雄さんは、当倶楽部竣工年に片岡事務所から独立。その後、野村財閥の総帥野村徳七の後援を受けて高麗橋野村ビル(1927年)や大阪ガス南館(1933年)などを手がけることになります。

 そのうち、この大阪倶楽部と大阪ガス南館(通称ガスビル)が文化庁の登録有形文化財に指定されています。

つまり、この建物は安井武雄さんが40歳になる前の新進気鋭の建築家として世に出た際に設計されたものなのですね。

  正面玄関の扉。

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 アーチに施された植物の模様。

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 洒落たデザインの窓。

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 二階の窓は、窓枠のしつらえが凝っています。

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 壁面は、ざらざらの表面のスクラッチタイルに櫛引された縞模様が入っているので、独特の風合いを醸し出しています。

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 西側の窓の下の装飾。

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 実は、この建物は、内装も凝っているようなのですが、紳士の社交場である大阪倶楽部なので、会員以外は入れないものかと思っていたら、公開見学会をやっているみたいです。
http://www.osaka-club.or.jp/shisetsu/index.html

 それから、ここで、古楽器演奏団体の日本テレマン協会(コレギウム・ムジクム・テレマン) がここで定期的にバロック音楽コンサートを開催しているようですから、機会が有れば一度観てみたいものです。
http://www.cafe-telemann.com/

 それで、最後に南東から撮った写真がこれ。
 
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 それで、なにげなく大阪倶楽部の東隣の建物を見たらびっくり!

名菓『いただき』で有名な老舗和菓子店、『鶴屋八幡』の大阪本店だったよ。


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 以前紹介した、『鶴屋八幡』の記事。↓
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/27928897.html

 この記事を書いたときはデパートで買ったのですが、鶴屋八幡大阪本店がこんなところにあったんだ!
 ここは、大坂商人(おおさかあきんど)の街、船場地区だからねえ。

 丁度三井住友銀行大阪本店営業部のあるブロックの真南のブロックの南に面した道に大阪倶楽部と鶴屋八幡大阪本店が仲良く並んでいました。

 ということで、さすが大阪は、伝統とモダンのまちなのでした。

 何度も言いますが、この建物も現役として活躍しています。需要がある現役の素晴らしい大阪府立図書館を廃館にして観光施設にしようという、おかしな市長は、大阪市役所から歩いてすぐの場所にある、この建物のことを知っているのでしょうか?

【ファイルT195】2013.08.24 大阪倶楽部は歴史的建造物(上)

思いがけない場所に立派な洋館が。

 本ブログでは、三井住友銀行大阪本店営業部(旧住友ビルヂング)について書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53879203.html
 
 三井住友銀行大阪本店営業部(旧住友ビルヂング)上記の建築のための本店臨時建築部が日建設計の源流なのですね。

 日建設計についての記事はこちら。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53963411.html

 それで、住友の本店臨時建築部(日建設計)が黎明期に手掛けたのが、橋下大阪市長が目の敵にしている大阪府立図書館なのですね。
 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53280603.html

 さらに、日建設計からブラブラ北上していたら、立派な煉瓦造りの建物が目にとまりました。

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 私は、このビルの存在を知らなかったので、びっくりだよお!

 この建物は、一般社団法人大阪倶楽部(おおさかくらぶ)の会館で、登録有形文化財に指定されていて有名な建物なのだそうです。

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 大阪倶楽部のHPを覗いて見ると、
http://www.osaka-club.or.jp/

大阪倶楽部のそもそもの歴史は遡ること大正元(1912)年、

大大阪(だいおおさか)にふさわしい、英国に範とった高い風格の倶楽部設立の必要性を感じた住友第三代総理事 鈴木馬左也氏は、同志を募り、同年8月に大阪商法会議所中興の祖といわれる第七代会頭 土居通夫をはじめ「綿の王」と呼ばれた大阪合同紡績社長 谷口房蔵、高山圭三、竹尾治右衛門、田中太七郎、中橋徳五郎、植村俊平、平田譲衛等の大阪財界の有力者により大阪倶楽部設立の発起がなされるに至りました。


 英国の倶楽部といえば、イギリスの文豪、チャールズ・ディッケンズの出世作に『ピクウィック・クラブ』というのがありましたね。

 設立趣意書にはこう記されています。

“…大阪市にありて社交と称せらるるものは旧套を脱せざると共にその範囲もまたすこぶる狭少なり是久しく世人の遺憾とせる所にしてつとに大規模の社交倶楽部設立の議を唱へられたる所以なり

…東洋に於ける商業の中心地たらんとする大阪は120万の人口を有し、郵便、電信、電話のみによって百事を処理し難きものあり、よって各方面の人士を網羅せる大阪倶楽部を組織し好適の位置を択みて部員の集会所に宛てなば百般の処弁に資益するところ莫大なるものと共に社交上益するところ頗る多きものあるべしと信ず…”

 この格調の高い、気概に溢れた趣意書の文章は、大阪府立図書館を寄附した住友家15代吉左衛門氏による巨大な銅板『建館寄付記』を彷彿とさせますね。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53325477.html

 大阪商人の心意気だねえ。

そして、大正元年(1912)11月26日。株式会社設立(大阪倶楽部創立)は実現しました。

 大阪倶楽部株式会社(資本金20万円)を設立することとし、大正元年11月26日創立総会を開催。
 発起人204名、株主数206名(住友吉左衛門の200株を筆頭、総株数2,000株、内法人は大阪商船株式会社と宇治川電気株式会社の2社)からのスタートでした。

 そして、大阪倶楽部会館の建設が始まります
 

大正元年12月30日、大阪市東区今橋五丁目11番地の角屋敷の用地買収を完了し、大正2年10月に会館建設に着工し、翌3年9月に竣工。

  
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設計は当時住友の建築技師であった野口孫市氏(現 大阪府立中之島図書館設計−重文)、長谷部鋭吉(現 三井住友銀行大阪本店設計)。


 設計者の野口孫市氏(大阪府立図書館のものを再掲)です。

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 延坪395坪の木造3階建て、大林組施工、総工費95,000円ですた。
 
 野口孫市氏の設計になる旧大阪倶楽部は、現在では、上のような写真でしか偲ぶことが出来ませんが、ハーフティンバー様式の船底天井の3階食堂は工夫を凝らしたものであったといわれているそうです。

 会館竣工を機に、現在も使われている倶楽部徽章(OとCの組み合わせ)が決まりました。

 それは、現在に至るまで使われています。

 現在の大阪倶楽部に掲げられた倶楽部徽章。

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 大正5年1月15日、井上周、中橋徳五郎、松方正雄、鈴木馬左也等5氏連名で内務大臣に社団法人への組織変更を申請。同年6月7日、許可を取得し、6月15日から社団法人組織を確立しますが、

大正11年(1922)7月24日、3階からの思いがけない出火によってこの会館は烏有に帰します。

 これを機に、株式会社と社団法人に別れた2法人の合併が進められました。大阪倶楽部株式会社は大正11年8月31日をもって解散、9月1日以降その財産はすべて社団法人大阪倶楽部のものとなりました。

 ただちに会館を再建すべく、谷口房蔵委員長をはじめ財務委員の努力により70万円の社債を発行します。

そして、大正12年(1923)1月19日から大正13年(1924)5月19日にかけて建設されたのが、現在の大阪倶楽部。


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 設計者は、片岡安(やすし)設計事務所の新進気鋭の

安井武雄さん、(1884年-1955年 千葉県佐倉市出身)


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【上の写真は安井建築設計事務所HPより】
http://www.yasui-archi.co.jp/

施工は、大阪発祥の株式会社 大林組です。

竣工 大正13(1924)年5月
階段 地上4階 地下1階
延床面積 約3,442m2(1,043坪)
構造 鉄筋コンクリート造り(外壁 化粧煉瓦 テラコッタ)

屋上― ゴルフ練習場
4階― ホール
3階― 1号室、2号室、3号室、別室、和室
2階― 常食堂(「花外楼」直営)、談話室、図書室
1階― ロビー(喫茶・酒場)、受付・玄関、囲碁・将棋室、撞球場
地下― 理髪室

 やはり、この手の倶楽部には撞球場=ビリヤードが必須アイテムなのですね。

 建設途上の関東大震災の災禍から、当初設計に再検討が加えられ、防災を重視した構造とされました。

 屋根は洋瓦葺き、外壁は瀬戸産の素焼きタイルで、総工費55万円でした。


 次回(下)に続きます。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54430454.html

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【ファイルT194】2013.08.07 福沢諭吉さんの生誕地跡だよ(その3)

齋藤孝氏は何故福澤諭吉さんが『中華思想』差別と『四つ足の畜類』差別を批判したという事実を隠蔽する?

第一回から読まれる方は、はこちら。↓
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54253241.html

そもそも『学問のすすめ』自体が、旧弊な封建主義差別のプロテストの書でもあるので、『中国』の名のもととなった『華夷秩序(かいちつじょ)』に基づく『中華思想』は最も憎むべきものであり、しかも、福沢諭吉の時代には『支那』と呼ばれていた国のことを『中国』と呼ぶなんて、時代錯誤も甚だしい、悪意のある捏造改竄(ねつぞうかいざん)です!


私は、メディアがキャンペーンをはっている『支那という呼称は差別語だ』というのが大嘘だと言うことを分かっていました。『学問のすすめ』で福沢諭吉が『支那』と呼んでいるのを知っていたからです。

封建的差別を憎んでいた福澤諭吉さんが『支那』と呼んでいる以上、『支那』が差別語であるはずがないからです。

慶應義塾の在学生、卒業生の人達は、あなたがたの福澤諭吉先生を『支那という差別語を使った差別主義者』と上から目線で決めつけ、勝手に『中国』に改めるという無礼を働いた東大出の明治大学文学部教授齋藤孝氏に断固として抗議すべきです!


それにしても、福沢諭吉さんの『反封建思想』と『時代考証』をねじ曲げてまで、『支那』という歴史的呼称を『中国』という語に改竄する齋藤孝氏というのは一体どういう了見なのでしょう?

この人、『声に出して読みたい日本語』という本がベストセラーになって有名になった人だと記憶しているのですが、齋藤氏にとって『支那』という呼称は『声に出して読みたくない差別語』にしたい、中華人共和国共産党のプロパガンダ(政治宣伝)のお先棒担ぎの反日日本人なのでしょうね。まあ、マスメディアでちやほやされるということは、とどのつまり、そういうことなのです。


 清代後半になると、近代化を果たした欧米諸国の圧倒的国力が中国周辺にも波及し、清は諸外国と対等な国際社会の一員として近代国民国家としての名称を名乗る必要が生じてきました。

そういった近代的な主権国家=国民国家の概念での『中国』という国名が使われたのは、1842年阿片戦争の敗北で清朝がイギリスと結んだ南京条約で、漢文の「中国」が使われた事例が最初なのです。


1689年に調印されたネルチンスク条約では、清朝の外交使臣が自らの身分を称する時に、「中国」という用語を『満州語』で使いましたから、漢字で『中国』と表記なんて南京条約よりずっと後なのです。

かたや、『学問のすすめ』の初編 が発行されたのは、1872年(明治5年)2月ですから、日本において、支那を近代国家として『中国』と呼称するという発想は定着しておらず、福沢諭吉が支那のことを『中国』と呼ぶはずがないのです。


中国人と訳していますが、ここは絶対に支那人でなくてはならないのです。


それから同じ文章で、もう一つの許せない改竄があります。

岩波版では『四足にてあるく畜類のやうにこれを賎しめこれを嫌ひ』になっている箇所。

ところが、齋藤孝氏の現代語訳という名の改竄では、この部分が『動物のように扱い、これを嫌い』に、

つまり齋藤先生が現代語に訳すと、『四足にてあるく畜類』 が『動物』に、『賎(いや)しめ』が『扱い』になるのだそうです!


あのですね。福澤諭吉さんは、旧弊な封建的差別を嫌っていました。だから、『四足にてあるく畜類』を不浄として忌み嫌う差別的偏見を憎んでいました。


 その証拠に、福澤諭吉さんは若い頃から平気で四足の肉を食べていたのです。福澤さんの自叙伝である『福翁自伝』(講談社学術文庫)のP69には緒方洪庵の適塾生時代の様子がこう書かれています。

 ※    ※    ※

 さてその飲みようも至極お粗末殺風景で、銭の乏しい時は酒屋で三合か五合買って塾中でひとり飲む。それから少し都合のよい時には一朱か二朱もってちょいと料理茶屋に行く、これは最上の奢(おご)りで容易に出来かねるから、

まずたびたび行くのは鶏肉屋(とりや)、それよりモット便利なのは牛肉屋だ。

そのとき大阪中で牛鍋(うしなべ)を喰(く)わせるところはただ二軒ある。一軒は難波橋(なにわばし)の南詰(みなみづめ)、

一軒は新町の廓(くるわ)のそばにあって、最下等の店だから、人間らしい人で出入りする者は決してない。文身(ほりもの)だらけの町のごろつきと緒方の書生ばかりが得意の定客(じょうきゃく)だ。どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やらそんな事には頓着(とんじゃく)なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛はずいぶん硬くて臭かった。


 ※    ※    ※(引用終わり)

つまり、福澤諭吉さんの頃から学生は蛮カラなのでした。それにしても、『町のごろつき』と『緒方の書生』を同格にならべるなんて、福澤さんは偉いねえ。


 それどころか、さらに、同書P73にはこう書かれています。

 ※    ※    ※

 豚を殺す

 あるとき難波橋(なにわばし)のわれわれ得意の牛鍋屋(うしなべや)の親爺(おやじ)が豚(ぶた)を買い出してきて、牛屋商売であるが気の弱い奴で、自分に殺すことが出来ぬからといって、緒方の書生が目指された。

 それから親爺に逢って、「殺してやるが、殺す代わりに何をくれるか」−「さようですな」−「頭をくれるか」−「頭ならあげましょう」それから殺しに行った。

 こっちはさすがに生理学者で、動物を殺すに窒塞(ちっそく)させればわけはないということを知っている。幸いその牛屋は河岸端(かしばた)であるから、そこへ連れて行って四足を縛って水に突っ込んですぐ殺した。そこでお礼として豚の頭を貰(もら)って来て、奥から鉈(なた)を借りて来て、まず解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、さんざんいじくったあとを煮て喰ったことがある。

これは、牛屋の主人からえたのように見込まれたのでしょう。


 ※    ※    ※(引用終わり)
 

福澤先生は人間は平等だと思っているから、自分が当時の被差別階級だった『穢多(えた)』と思われても全然平気だったのです。

 

ちなみに、牛肉食のススメである仮名垣魯文(かながきろぶん)の『牛店雑談(うしやぞうだん)安愚楽鍋(あぐらなべ)』は明治4〜5(1871〜72)年刊です。


『学問のすすめ』の初編 が発行されたのは、同時代の明治5年(1872)2月ですから、四つ足不浄差別の払拭、牛肉食の奨励にこの二書が大きな影響を与えたのに違いないのです。


『牛店雑談(うしやぞうだん)安愚楽鍋(あぐらなべ)』
○西洋好(すき)の聴取 (きゝとり)より引用

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 ※    ※    ※

 「モシあなたヱ牛(ぎう)は至極高味(しごくかうみ)でごすネ此肉がひらけちやアぼたんや紅葉(もみぢ)はくへやせんこんな清潔なものをなぜいままで喰(く)ハなかつたのでごウせう

 西洋(せいやう)では干六百二三十年前から専(もつぱ)ら喰(く)ふやうになりやしたがそのまへハ牛や羊(ひつじ)はその国の王か全権(ぜんけん)と号(い)ツて家老(かろう)のやうな人でなけりやア平人の口へは這(は)入りやせんのサ追々(おひおひ)我国も文明開化(ぶんめいかいくわ)と号(い)ツてひらけてきやしたから我々(われわれ)までが喰(く)ふやうになつたのは実にありがたいわけでごス

 それを未だに野蛮(やばん)の弊習(へいしう)と云(い)ツてネひらけねへ奴等(やつら)が肉食(にくしょく)をすりやア神仏(しんぶつ)へ手が合(あは)されねへのヤレ穢(けが)れるのとわからねへ野暮(やぼ)をいふのは究理学(きうりがく)を弁(わきま)へねへからのことでげス

そんな夷(ゑびす)に福澤(ふくざは)の著(かい)た肉食(にくしょく)の説(せつ)でも読(よま)せてへネモシ西洋(せいやう)にやアそんなことはごウせん・・・・



 ※    ※    ※(引用終わり)

上記にある『福澤(ふくざは)の著(かい)た肉食(にくしょく)の説(せつ)』というのは、福澤諭吉が明治3(1870)年に腸チフスにかかり牛乳を用いて回復した後、牛乳を提供した築地牛馬会社のもとめに応じて書いた宣伝文で、肉食の効用を説いたものなのです。つまり、仮名垣魯文の牛肉食のすすめである『安愚楽鍋』にも、福澤諭吉さんは大きな影響を与えたのです。


冗談じゃありません。『学問のすすめ』から『四つ足』という言葉を狩ったら、福澤諭吉さんが『四つ足不浄差別』、『穢多(えた)差別』に異議申し立てをしていた事実も、文明開化時の、日本のスキヤキブームの風俗的な時代背景も分からなくなってしまいます。

 齋藤孝氏は、福澤諭吉さんの思想よりも、マスコミ界における自分の保身が大切なとんでもない学問と無関係な俗物なのでした。

学問と無関係な俗物が『学問のすすめ』の現代語訳という名の捏造改竄するという皮肉な現象を目の当たりにするに付け、現代がいかにイカサマで、欺瞞に満ちた時代かと言うことが分かろうというものです。


【追記】

齋藤先生って、朝鮮焼酎広告で数度に亘り『日本海(東海)』と併記したあげく「ふ〜んわいりわりい」と開き直り、『クレヨンしんちゃん』著作権問題や、上海万博テーマソングにおける日本楽曲盗用問題で揉めている最中に日本の名曲をわざわざ支那語に訳して歌ったパクリ奨励CMを流し続けた

特定アジアのエージェントS社のサプリメント広告で小銭稼ぎ(大銭稼ぎ?)をなさっていたのですね。道理で・・・。納得しました。

↓↓齋藤先生のS社東大自慢広告の、詳細記事はこちら↓↓

【ファイルT193】2013.08.07 福沢諭吉さんの生誕地跡だよ(その2)

現代語訳という名の歴史改竄!何故そこまで支那に媚びなきゃならない?

前回は福沢諭吉さんの生誕地と、『学問のすすめ』では諭吉さんは『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』なんて言っていないというお話しをしました。


 それで、私がもともと持っていたのは岩波文庫版です。

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 ところが、この本は格調高いと言えば聞こえは良いのですが、旧字体でしかも漢字にフリガナ(ルビ)がふっていないのです。

 再読しようにも、そのへんがしんどいのです。

 それで、福澤諭吉さんの生誕地跡に行ったこともあって、じゃあ大意だけでもつかめればいいので現代語訳でも読んでみるかと思って、評判でこの出版不況時に10万部突破したという齋藤孝氏の読んでみてびっくり!

現代語訳ということを良いことに、とんでもない改竄・捏造がされているのです。

『現代語訳 学問のすすめ』福澤諭吉 齋藤孝=訳(?)


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 初編の岩波版P14で諭吉先生は、日本が外国と付き合うにあたっての心構えについてこう書きます。

 岩波文庫版の叙述ではこうなっています。(変換できない字は現代の字にしています)

 ※    ※    ※

 『(前略)日本とても西洋諸国とても同じ天地の間にありて、同じ日輪に照らされ、同じ月を眺め、海を共にし、空氣を共にし、情愛相同じき人民なれば、こゝに余るものは彼に渡し、彼に余る物は我に取り、互に相教へ互に相学び、恥ることもなく誇ることもなく、互いに便利を達し互いに其幸を祈り、天理人道に従って互いの交を結び、理のためには「アフリカ」の黒奴にも恐入り、道のためには英吉利、亜米利加の軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては日本国中の人民一人も残らず命を棄てゝ国の威光を落さざることこそ、一国の自由独立と申すべきなり。』

 【それで、反面教師として、こうならないようにという例を挙げます。】

『然るを支那人などの如く、我国より外に国なき如く、

外国の人を見ればひとくちに夷狄(いてき)々々と唱へ、四足にてあるく畜類のやうにこれを賎しめこれを嫌ひ、

自国の力をも計らずして妄(みだ)りに外国人を追払はんとし、却て其夷狄に窘(くるし)めらるゝなどの始末は、実に国の分限を知らず、一人の身の上にていへは天然の自由を達せずして我儘放蕩(わがままほうとう)に陥(おちい)る者と云ふべし。』

 ※    ※    ※

 ところが、齋藤孝氏の現代語訳(?)P15では、ここがこうなっています。

 ※    ※    ※

『中国人のように、自国よりほかに国がないように思い、

外国人を見れば「夷狄夷狄(いてきいてき=野蛮人め!)」と呼んで動物のように扱い、これを嫌い、

自分の力も客観的に把握せずに、むやみに外国人を追い払おうとして、かえってその「夷狄」に苦しめられている〔アヘン戦争など〕という現実は、まったく国として身のほどを知らないところからきていいる。個人の例で言えば、自由の本質をわきまえないでわがまま放題におちいったものといえるだろう。』

 
 ※    ※    ※

日本はこの頃、支那のことを中国なんて呼んでいないのです。


 清朝の支那という意識しかなかったのです。

 しかも、清朝というのは満州族(女真族)の支配する漢民族とは関係がない国だったのです。

福沢諭吉が支那のことを中国なんて言うわけがないのです!


例えば銭形平次が『江戸八丁堀』のことを『東京八丁堀』のと呼ぶはずがないように。


 諭吉にとって、『中国』とは、広島岡山鳥取島根山口の一体のことをさします。あと、山鹿素行の『中朝事実』に従えば、『中国』とは『中つ国(なかつくに)』である『日本』を指すはずです。

諭吉が書いた『支那』は『支那』なのであって、断じて『中国』ではないのです。歴史的文書の現代訳での歴史的呼称の言い換えは犯罪的な捏造改竄(ねつぞうかいざん)です。


それは、あとの「夷狄夷狄(いてきいてき)」という言葉が表す差別意識にも繋がるのですが、支那人は古来より中華思想という支那の文明の及ぶ首都以外の生物学的なヒト=ホモ・サピエンスに対して、やっかいで強固な差別意識を持っていました。


支那の歴代皇朝は、自らが人類で唯一の皇帝であり、それ以外は中華世界における辺境に過ぎないという態度を取っていました。対等な国が存在しないのだから、対等な外交関係は存在せず、周辺民族との関係は全て朝貢という形式となるのです。



支那の属国は朝貢の際に『三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)』という屈辱的な行為を強要されます。

 
「跪(き)」の号令で跪(ひざまづ)き、
「一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
「二叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
「三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
「起」の号令で起立する。
これを計3回繰り返すので、合計9回、「手を地面につけ、額を地面に打ち付ける」ことになるのです。

こういう考え方を華夷秩序(かいちつじょ)といい、これに基づいた体制を冊封体制(さくほうたいせい)といいます。


それで中華思想による呼称の『中国』は、西戎(せいじゅう)、東夷(とうい)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)といって、自分達人間の住む都(みやこ)以外は妖怪・化け物・魑魅魍魎のたぐいが住む異界だったのです。したがって、「夷狄夷狄(いてきいてき)」というのは、東夷(とうい)・北狄(ほくてき)のことですから、支那人以外を見下した表現なのです。

だから、孫悟空の出てくる西遊記なんかは、唐の城壁都市である長安の都を出た途端に妖怪・化け物・魑魅魍魎(ちみもうりょう)のたぐいに襲われるのです。


『中国』というのは支那人の皇帝や中央官僚が自分たち『人間』の住む都会のことを中華と見なし、『俺様たち人間の住むところ』=『中国』と威張って呼ぶことはあっても、当時の日本人が支那のことを中国なんて言うことはありえないのです。

 
 ですから、いまだに中華人民共和国は都市と農村部の戸籍が別で、『盲流(もうりゅう)問題』というのが存在するのです。

 中華人民共和国では元来戸籍に「農業戸籍」と「都市の戸籍」の二種を分けて、人口移動を厳しく制限していたため、国営企業しか存在しない純粋な共産主義だった改革開放前には大きな人口移動は起こらなかったのですが、経済の自由化によって農民にとっての戸籍の重要性が低下すると、内陸部の人々が政府の許可無く沿岸部に職を求めて移動するようになったのです。これを盲流というのです。
 盲流によって都市部に流れた移住者を「民工」と呼ぶようになり、80年代後半以降、移動の人口が都市部での雇用需要を上回り、都市部に出たものの仕事に就けない者も現れます。
 2005年の時点で1.5億の民工がいるものと推測され、主に建築業、採鉱業、第三次産業および労働力密集型産業に従事しているのですが、低い賃金、劣悪な労働環境の下、いまだに差別貧困の問題を抱え支那の政情の不安定要因として問題になっているのです。

つまり『中国』という呼称のもとになった『中華思想』という差別思想は、まだ生きている現代的問題でもあるのです。


そんなバカバカしい国の冊封体制に組み込まれた属国はいやだから人類唯一の『皇帝』であるという夜郎自大な誇大妄想を持った支那の皇帝に対抗して日本は『天皇』をいただいているとし、支那の冊封(さくほう)から脱したのが聖徳太子。

有能な人材を遭難の危機を冒してまで汚職腐敗した鮮卑(せんぴ)系の皇帝の唐に派遣し、帰った留学僧がいっぱしの支那風を吹かした官僚になるのが有害だと、遣唐使を廃止して、書物等の文物だけを輸入した学問の神様菅原道真。


つまり、『中華思想に基づく中国』という名称は他国を差別する究極の差別語ですから、封建的差別を憎んだ福沢諭吉が支那のことを中国なんて呼ぶわけがないのです。


しかも、外国を『狄(いてき)々々と唱へ』と支那人を批判しているのですが、その批判のターゲットは『中華思想』なのですから、支那のことを『中国』なんて捏造改竄したら、福沢諭吉さんが化けて出ます!


 ということで、現在のところお勧めの『学問のすすめ』は講談社学術文庫版かな?

【ファイルT192】2013.06.09 福沢(澤)諭吉さんの生誕地跡だよ

一万円札のお顔の人は大阪生まれだったんだね。

 福澤諭吉さんと言えば、慶応義塾大学を創設し、近代文明の移入を精力的に行い、文明開化に大いなる貢献をした、言わずと知れた日本の大偉人です。

 日本の近代制度について、大抵のものは福澤諭吉さんが移入しています。

 だから一万円札にも肖像が描かれています。

 福沢諭吉さんの生誕地の場所については、ネットで調べても今ひとつ分からなかったのですが、見当を付けて行ってみたらば、ABC大阪朝日放送の新社屋の南側なので簡単に見つかるのでした。

イメージ 1



 碑の背後のモダンな茶色のチェックの建物が、ABC大阪朝日放送の新社屋です。

 朝日放送が来る前は、ここの土地は大阪大学医学部付属病院だったようです。

 大阪朝日放送と言えば、支那のチベット大弾圧の際に、その事実を穏便に伝えることに躍起となっていた他局を尻目に『ムーブ』という番組で詳細に報道したという朝日系にしては珍しく優秀で良心的な放送局で、私の記事でもYOU―TUBEの動画を紹介した記憶があるのですが、『ムーブ』は大好評だったのに、突然打ち切られたそうです。

 どうせ、支那の大使館からの圧力でしょ?しょせん朝日は売国朝日だったのです。

売国放送局の前に、『一身独立して一國獨立(一国独立)する事』を訴えた諭吉さん生誕の地の石碑があるのは、強烈な皮肉です。

 諭吉さんは、ここ中津藩大阪蔵屋敷の長屋に生まれたのですね。

イメージ 2



『豊前國 中津藩蔵屋舗之跡 大阪堂島 玉江橋北詰
 従是江戸迄 海路二百四十八里 陸路百三十三里』

 東京の施設、大学や公園は大名屋敷の跡地というのが多いのですが、大阪の施設は豪商の邸宅や蔵屋敷の跡というのが多いのです。

 それでもって、江戸時代の経済の中心というより、当時世界でもトップクラスの経済都市大坂に生まれたから、合理的な思考ができたのですね。武士階級と行っても、蔵屋敷に育ったなら、実践的な経済感覚は身についているはずです。

 さらに諭吉さんは、大坂の適塾(てきじゅく)で緒方洪庵(おがたこうあん)の下で学びます。

 こんな石碑が建てられています。

イメージ 3



『天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズ』だって!

うへえ、間違っているよお!諭吉さんはそんなこと言ってないよお!

?H1>これだと、『人類は皆平等』ということになって、『学問のすすめ』じゃなくて『平等のすすめ』じゃないのさ!  福澤さんはこう言ったのです。

『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり(言えり)』

最後の“言えり”を抜いたら、意味が逆になっちゃうよお!

“言えり”の後に『学問』を『すすめ』る理由が縷々と述べられているのです。

 冒頭の部分を、私が勝手に分かりやすく今の言葉で大胆に意訳すると、

 ※    ※    ※

『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と人類はみんな平等だって言われているねえ。

 これは、人はおぎゃあと生まれたときはみんな同じで、その時点ではお金もちとか貧乏とか、身分が上とか下とか関係ない、ただの赤ん坊で、成長して行くにつれて万物の霊長である体と心でもって、自然界のいろんなものを利用して、衣食住を満たして、自分の思うがままに、お互いに他人の邪魔をしないで、人それぞれ、のんきにこの世を渡っていくように、天の計らいがあるという意味なんだねえ。
 そりゃあ大いに結構なことだねえ。良かった良かった。
?H1>だけど、今、この人間世界をぐるっと眺め渡してみると、そんなことないよね? ?H1>賢い人も、愚かな人も、貧しい人も、お金持ちも、高貴な人も、身分の卑しい人もいて、その有様って言うのは、雲泥(うんでい)の差だっていうのは一目瞭然じゃない。  これって、どういうことなのさ!

 その理由はとてもはっきり分かるよね。

 『実語教』というご本に、『人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり』つまり、人は学ばないと智恵が身につかないし、智恵が身についていない人は愚かな人だって書いてあるねえ。

だから、賢い人と愚かな人という差は、学ぶと学ばないかによって、出てくるんだねえ。

それから、世の中に難しい仕事や簡単な仕事があります。

その難しい仕事をする人のことを『身分が重い人』と呼んで、簡単な仕事しか出来ない人を『身分が軽い人』と呼ぶんだねえ。

頭を使って考えないといけない仕事は難しくって、単純に体をつかう力仕事は簡単なんだねえ。

だから、ただ横でしゃべるだけだけど、頭脳労働をする市川染太郎師匠の方が、肉体労働で汗を流しながら傘の上で升(ます)をぐるぐる回す、ますますお目出度い肉体労働の染之助師匠よっか偉いんだねえ。


ということで、お医者さんや、学者さん、政府のお役人、あとは大きな商売をするお商売人、沢山の奉公人を働かす豪農と呼ばれるようなお百姓さんなんかは身分が重くて貴い人だって言うことができるのです。

そういった意味で、身分が重くて高貴な人は、自然にお金が儲かって、庶民からみたら、とてもじゃないけど、かなわないなあ、高嶺の花だなあって思うけれど、もともとそれは何故かって考えたらば、結局の所、ただ単にその人に学問の力があるかないかということによってその違いが出来ただけで、予めそういう運命でそうなったということじゃありません。

 こういうことわざがあります。
『天は富貴(ふき)を人に与へずしてこれを其人(そのひと)の働(はたらき)に与(あたふ)るものなり』って。
?H1>つまり、『天は、富や高貴な身分を人に与えるんじゃなくて、その人が努力するかどうかで人生は決まっていくんだよ』っていうことだねえ。

だから、さっきも言ったとおり、人は生まれつき、貴いとか卑しいとか、貧しいとかお金持ちだとか決まっているんじゃないんだねえ。

ただ、一生懸命お勉強をしてひたすら学問を修得して、物事をよく知る人は貴くて、お金持ちになって、学問がないひとは貧しくって、身分が卑しい人になるんだねえ。


 ※    ※    ※(引用現代大胆意訳終わり)

?H1>福沢諭吉さんは、『人の生まれつきは平等だというけど、勉強するかしないかで、身分や収入に差が出てくるから、みんな一生懸命学問をしましょうね』って言っているのです。 ?H1>第一、『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』で、人はみんな平等なら、なにも苦労して勉強しなくてもいいじゃない! ?H1>そもそも、『天は人の上に人を造らず』という思想は、福沢諭吉さんが発明したオリジナルではなく、トーマス・ジェファーソンによって起草されたといわれる1776年のアメリカ独立宣言にある『全ての人は神から平等に作られている・・・(All men are created equal・・・)』を諭吉さん流にアレンジした言葉だといわれていて、そういう当時流行していた天賦人権思想(天は人に平等の権利を与えたとする思想)から出発して『学問の重要性』に論を発展させたことが福沢諭吉さんの真骨頂なのです。

 ちなみに、『学問のすすめ』の原文はこんな感じです。↓
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/gakumonosusume.html

 ですから、福沢諭吉翁の顕彰碑に文字を刻むなら、

『人は生れながらにして貴賎貧富(きせんひんぷ)の 別なし。唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。』

 にするか、ただ単に、

『学問のすゝめ』福澤諭吉翁

 とすれば良いのです。

 『福澤諭吉誕生地』の石柱の下にある碑文はこう書いてあります。

イメージ 4



 幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝに生る 時に天保五年十二月十二日(西暦一八三五年一月十日)。
 こゝは舊豊前中津藩蔵屋敷の長屋跡である。先生の父百助は、一面に於いて、経學者、詩文家であったが、然も、理財の道に精通した循吏であって、金穀會計の俗役に奔命して其生涯を終った人である。彼は妻お順が、大きな、痩せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと傅へられてゐる。封建門閥の世に下級士族が其子をして名を成さしめる道はこれを佛門に入らしめる以外にはなかったのであらう。當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が豫見し得たであらうか。

昭和二十九年一月  慶應義塾社中建之
          題字 小泉 信三
          撰文 高橋 誠一郎
          書  西川 寧

 ということで、次に続きます。↓

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