【ファイルT196】2013.08.24 大阪倶楽部は歴史的建造物(下)新進気鋭の建築家だった頃の安井武雄氏の“自由様式”の代表作。前回の(上)からの続きです。(上)から見られる方はこちら。↓ http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54430419.html それでは、建物の細部を見てみましょう。 南欧風の様式に東洋風の手法(インド風の正面列柱―高砂市の竜山石(たつやまいし/凝灰岩)が取り入れられていて、 玄関とイスラム建築風のアーチ、 玄関両脇のトーテムポールの天辺にある異形の妖獣の彫刻。 トーテムポールの妖獣の彫刻の下の部分。 トーテムポールの台座。 4階南テラス上の富を象徴する甕、【写真左端】 この建物も、米軍による大阪大空襲(昭和20年3月13日夜半から14日夜明け)の翌日3月15日、大日本帝国海軍の接収により、大阪府を通じ「明渡し命令」を受け退去を余儀なくされます。 恐らくこれは本土決戦に備えたものなのでしょう。海軍が陸の建物を接収するということは、戦局はもう末期的状況だったのです。 帳簿、記録、備品の一部はようやく搬出することができたものの、殆んど凡ての什器備品が徴用されるに至ります。 大空襲下で市内は大混乱状況であったものの、幸いなことに社員の加賀正太郎氏から東区高麗橋二丁目53番地の控家が提供されたことにより、倶楽部の活動は、一日も停止することなく続けることができました。 空襲により、都心部を中心に大阪市の1/3が灰燼に帰しましたが、幸い大阪倶楽部は爆弾の直撃を免れたことと、窓に設けた鉄製シャッターの効果により延焼被害を受けることなく建設時の姿を保つことが出来ました。 というより、アメリカは空襲の際、あらかじめ占領したときに接収する施設を選定していて、そこは攻撃目標から外す精密爆撃をしたのだと思われます。 それで、敗戦に伴ってこの建物は、今度はGHQ(占領軍総司令部)に接収されることになりました。 GHQによる接収の間、倶楽部は転々疎開先を変えました。加賀正太郎邸の次には朝日新聞社所有の朝日会館三階に、さらには朝日ビル9階に移転しつつ運営を続けてきました。 昭和26(1951)年、サンフランシスコ講和条約が締結され、昭和27(1952)年4月28日、我が国は独立を回復。7年にわたる軍事占領が終結します。 これに先立つ4月10日、ようやく会館の接収が解除されました。 会館の接収は解除されたものの、記録類は散逸、エレベーターや照明具等内部の什器備品は見る影もない有様で、内部施設は倶楽部として到底使用に耐えない状態でした。 せめて現状復帰して返還するのが常識なのですが、米軍に常識なんてありません。接収した建物の備品や美術工芸品を盗むのも日常茶飯事でしたから。理事長の堀 新氏をはじめ役員及び各委員は、懸命に倶楽部復興に取り組みました。 住友商事、関西電力、竹中工務店、日本銀行、富士銀行、第一銀行の6社からの400万円の寄付金提供や倶楽部債の発行(住友銀行の100万円を筆頭に87法人が引き受け)を通じて復興資金を調達。 社員の竹腰健造氏の設計監督、大林組の工事請負により同年秋、ようやく復興改修工事を終え往時の壮容に近づけることができました。なお、この建物の修復前の設計者である安井武雄さんは、当倶楽部竣工年に片岡事務所から独立。その後、野村財閥の総帥野村徳七の後援を受けて高麗橋野村ビル(1927年)や大阪ガス南館(1933年)などを手がけることになります。 そのうち、この大阪倶楽部と大阪ガス南館(通称ガスビル)が文化庁の登録有形文化財に指定されています。 つまり、この建物は安井武雄さんが40歳になる前の新進気鋭の建築家として世に出た際に設計されたものなのですね。正面玄関の扉。 アーチに施された植物の模様。 洒落たデザインの窓。 二階の窓は、窓枠のしつらえが凝っています。 壁面は、ざらざらの表面のスクラッチタイルに櫛引された縞模様が入っているので、独特の風合いを醸し出しています。 西側の窓の下の装飾。 実は、この建物は、内装も凝っているようなのですが、紳士の社交場である大阪倶楽部なので、会員以外は入れないものかと思っていたら、公開見学会をやっているみたいです。 http://www.osaka-club.or.jp/shisetsu/index.html それから、ここで、古楽器演奏団体の日本テレマン協会(コレギウム・ムジクム・テレマン) がここで定期的にバロック音楽コンサートを開催しているようですから、機会が有れば一度観てみたいものです。 http://www.cafe-telemann.com/ それで、最後に南東から撮った写真がこれ。 それで、なにげなく大阪倶楽部の東隣の建物を見たらびっくり! この記事を書いたときはデパートで買ったのですが、鶴屋八幡大阪本店がこんなところにあったんだ! ここは、大坂商人(おおさかあきんど)の街、船場地区だからねえ。 丁度三井住友銀行大阪本店営業部のあるブロックの真南のブロックの南に面した道に大阪倶楽部と鶴屋八幡大阪本店が仲良く並んでいました。 ということで、さすが大阪は、伝統とモダンのまちなのでした。 何度も言いますが、この建物も現役として活躍しています。需要がある現役の素晴らしい大阪府立図書館を廃館にして観光施設にしようという、おかしな市長は、大阪市役所から歩いてすぐの場所にある、この建物のことを知っているのでしょうか?
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旅行・お散歩の部屋
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【ファイルT195】2013.08.24 大阪倶楽部は歴史的建造物(上)思いがけない場所に立派な洋館が。本ブログでは、三井住友銀行大阪本店営業部(旧住友ビルヂング)について書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53879203.html 三井住友銀行大阪本店営業部(旧住友ビルヂング)上記の建築のための本店臨時建築部が日建設計の源流なのですね。 それで、住友の本店臨時建築部(日建設計)が黎明期に手掛けたのが、橋下大阪市長が目の敵にしている大阪府立図書館なのですね。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53280603.html さらに、日建設計からブラブラ北上していたら、立派な煉瓦造りの建物が目にとまりました。 私は、このビルの存在を知らなかったので、びっくりだよお! この建物は、一般社団法人大阪倶楽部(おおさかくらぶ)の会館で、登録有形文化財に指定されていて有名な建物なのだそうです。 大阪倶楽部のそもそもの歴史は遡ること大正元(1912)年、大大阪(だいおおさか)にふさわしい、英国に範とった高い風格の倶楽部設立の必要性を感じた住友第三代総理事 鈴木馬左也氏は、同志を募り、同年8月に大阪商法会議所中興の祖といわれる第七代会頭 土居通夫をはじめ「綿の王」と呼ばれた大阪合同紡績社長 谷口房蔵、高山圭三、竹尾治右衛門、田中太七郎、中橋徳五郎、植村俊平、平田譲衛等の大阪財界の有力者により大阪倶楽部設立の発起がなされるに至りました。 英国の倶楽部といえば、イギリスの文豪、チャールズ・ディッケンズの出世作に『ピクウィック・クラブ』というのがありましたね。 設立趣意書にはこう記されています。 “…大阪市にありて社交と称せらるるものは旧套を脱せざると共にその範囲もまたすこぶる狭少なり是久しく世人の遺憾とせる所にしてつとに大規模の社交倶楽部設立の議を唱へられたる所以なり …東洋に於ける商業の中心地たらんとする大阪は120万の人口を有し、郵便、電信、電話のみによって百事を処理し難きものあり、よって各方面の人士を網羅せる大阪倶楽部を組織し好適の位置を択みて部員の集会所に宛てなば百般の処弁に資益するところ莫大なるものと共に社交上益するところ頗る多きものあるべしと信ず…” この格調の高い、気概に溢れた趣意書の文章は、大阪府立図書館を寄附した住友家15代吉左衛門氏による巨大な銅板『建館寄付記』を彷彿とさせますね。↓ http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/53325477.html 大阪商人の心意気だねえ。 そして、大正元年(1912)11月26日。株式会社設立(大阪倶楽部創立)は実現しました。大阪倶楽部株式会社(資本金20万円)を設立することとし、大正元年11月26日創立総会を開催。発起人204名、株主数206名(住友吉左衛門の200株を筆頭、総株数2,000株、内法人は大阪商船株式会社と宇治川電気株式会社の2社)からのスタートでした。 設計者の野口孫市氏(大阪府立図書館のものを再掲)です。 延坪395坪の木造3階建て、大林組施工、総工費95,000円ですた。 野口孫市氏の設計になる旧大阪倶楽部は、現在では、上のような写真でしか偲ぶことが出来ませんが、ハーフティンバー様式の船底天井の3階食堂は工夫を凝らしたものであったといわれているそうです。 会館竣工を機に、現在も使われている倶楽部徽章(OとCの組み合わせ)が決まりました。 それは、現在に至るまで使われています。 現在の大阪倶楽部に掲げられた倶楽部徽章。 大正5年1月15日、井上周、中橋徳五郎、松方正雄、鈴木馬左也等5氏連名で内務大臣に社団法人への組織変更を申請。同年6月7日、許可を取得し、6月15日から社団法人組織を確立しますが、 大正11年(1922)7月24日、3階からの思いがけない出火によってこの会館は烏有に帰します。これを機に、株式会社と社団法人に別れた2法人の合併が進められました。大阪倶楽部株式会社は大正11年8月31日をもって解散、9月1日以降その財産はすべて社団法人大阪倶楽部のものとなりました。 ただちに会館を再建すべく、谷口房蔵委員長をはじめ財務委員の努力により70万円の社債を発行します。 【上の写真は安井建築設計事務所HPより】 竣工 大正13(1924)年5月 階段 地上4階 地下1階 延床面積 約3,442m2(1,043坪) 構造 鉄筋コンクリート造り(外壁 化粧煉瓦 テラコッタ) 4階― ホール 3階― 1号室、2号室、3号室、別室、和室 2階― 常食堂(「花外楼」直営)、談話室、図書室 1階― ロビー(喫茶・酒場)、受付・玄関、囲碁・将棋室、撞球場 地下― 理髪室 やはり、この手の倶楽部には撞球場=ビリヤードが必須アイテムなのですね。 建設途上の関東大震災の災禍から、当初設計に再検討が加えられ、防災を重視した構造とされました。 屋根は洋瓦葺き、外壁は瀬戸産の素焼きタイルで、総工費55万円でした。 |
【ファイルT194】2013.08.07 福沢諭吉さんの生誕地跡だよ(その3)齋藤孝氏は何故福澤諭吉さんが『中華思想』差別と『四つ足の畜類』差別を批判したという事実を隠蔽する?第一回から読まれる方は、はこちら。↓http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/54253241.html そもそも『学問のすすめ』自体が、旧弊な封建主義差別のプロテストの書でもあるので、『中国』の名のもととなった『華夷秩序(かいちつじょ)』に基づく『中華思想』は最も憎むべきものであり、しかも、福沢諭吉の時代には『支那』と呼ばれていた国のことを『中国』と呼ぶなんて、時代錯誤も甚だしい、悪意のある捏造改竄(ねつぞうかいざん)です!私は、メディアがキャンペーンをはっている『支那という呼称は差別語だ』というのが大嘘だと言うことを分かっていました。『学問のすすめ』で福沢諭吉が『支那』と呼んでいるのを知っていたからです。封建的差別を憎んでいた福澤諭吉さんが『支那』と呼んでいる以上、『支那』が差別語であるはずがないからです。慶應義塾の在学生、卒業生の人達は、あなたがたの福澤諭吉先生を『支那という差別語を使った差別主義者』と上から目線で決めつけ、勝手に『中国』に改めるという無礼を働いた東大出の明治大学文学部教授齋藤孝氏に断固として抗議すべきです!それにしても、福沢諭吉さんの『反封建思想』と『時代考証』をねじ曲げてまで、『支那』という歴史的呼称を『中国』という語に改竄する齋藤孝氏というのは一体どういう了見なのでしょう?この人、『声に出して読みたい日本語』という本がベストセラーになって有名になった人だと記憶しているのですが、齋藤氏にとって『支那』という呼称は『声に出して読みたくない差別語』にしたい、中華人共和国共産党のプロパガンダ(政治宣伝)のお先棒担ぎの反日日本人なのでしょうね。まあ、マスメディアでちやほやされるということは、とどのつまり、そういうことなのです。 清代後半になると、近代化を果たした欧米諸国の圧倒的国力が中国周辺にも波及し、清は諸外国と対等な国際社会の一員として近代国民国家としての名称を名乗る必要が生じてきました。
1689年に調印されたネルチンスク条約では、清朝の外交使臣が自らの身分を称する時に、「中国」という用語を『満州語』で使いましたから、漢字で『中国』と表記なんて南京条約よりずっと後なのです。
かたや、『学問のすすめ』の初編 が発行されたのは、1872年(明治5年)2月ですから、日本において、支那を近代国家として『中国』と呼称するという発想は定着しておらず、福沢諭吉が支那のことを『中国』と呼ぶはずがないのです。それから同じ文章で、もう一つの許せない改竄があります。 岩波版では『四足にてあるく畜類のやうにこれを賎しめこれを嫌ひ』になっている箇所。ところが、齋藤孝氏の現代語訳という名の改竄では、この部分が『動物のように扱い、これを嫌い』に、つまり齋藤先生が現代語に訳すと、『四足にてあるく畜類』 が『動物』に、『賎(いや)しめ』が『扱い』になるのだそうです! その証拠に、福澤諭吉さんは若い頃から平気で四足の肉を食べていたのです。福澤さんの自叙伝である『福翁自伝』(講談社学術文庫)のP69には緒方洪庵の適塾生時代の様子がこう書かれています。 ※ ※ ※ さてその飲みようも至極お粗末殺風景で、銭の乏しい時は酒屋で三合か五合買って塾中でひとり飲む。それから少し都合のよい時には一朱か二朱もってちょいと料理茶屋に行く、これは最上の奢(おご)りで容易に出来かねるから、 まずたびたび行くのは鶏肉屋(とりや)、それよりモット便利なのは牛肉屋だ。そのとき大阪中で牛鍋(うしなべ)を喰(く)わせるところはただ二軒ある。一軒は難波橋(なにわばし)の南詰(みなみづめ)、一軒は新町の廓(くるわ)のそばにあって、最下等の店だから、人間らしい人で出入りする者は決してない。文身(ほりもの)だらけの町のごろつきと緒方の書生ばかりが得意の定客(じょうきゃく)だ。どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やらそんな事には頓着(とんじゃく)なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛はずいぶん硬くて臭かった。 ※ ※ ※(引用終わり) それどころか、さらに、同書P73にはこう書かれています。 ※ ※ ※ 豚を殺す あるとき難波橋(なにわばし)のわれわれ得意の牛鍋屋(うしなべや)の親爺(おやじ)が豚(ぶた)を買い出してきて、牛屋商売であるが気の弱い奴で、自分に殺すことが出来ぬからといって、緒方の書生が目指された。 それから親爺に逢って、「殺してやるが、殺す代わりに何をくれるか」−「さようですな」−「頭をくれるか」−「頭ならあげましょう」それから殺しに行った。 こっちはさすがに生理学者で、動物を殺すに窒塞(ちっそく)させればわけはないということを知っている。幸いその牛屋は河岸端(かしばた)であるから、そこへ連れて行って四足を縛って水に突っ込んですぐ殺した。そこでお礼として豚の頭を貰(もら)って来て、奥から鉈(なた)を借りて来て、まず解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、さんざんいじくったあとを煮て喰ったことがある。 ※ ※ ※(引用終わり) 福澤先生は人間は平等だと思っているから、自分が当時の被差別階級だった『穢多(えた)』と思われても全然平気だったのです。ちなみに、牛肉食のススメである仮名垣魯文(かながきろぶん)の『牛店雑談(うしやぞうだん)安愚楽鍋(あぐらなべ)』は明治4〜5(1871〜72)年刊です。『牛店雑談(うしやぞうだん)安愚楽鍋(あぐらなべ)』 ○西洋好(すき)の聴取 (きゝとり)より引用 ※ ※ ※ 「モシあなたヱ牛(ぎう)は至極高味(しごくかうみ)でごすネ此肉がひらけちやアぼたんや紅葉(もみぢ)はくへやせんこんな清潔なものをなぜいままで喰(く)ハなかつたのでごウせう 西洋(せいやう)では干六百二三十年前から専(もつぱ)ら喰(く)ふやうになりやしたがそのまへハ牛や羊(ひつじ)はその国の王か全権(ぜんけん)と号(い)ツて家老(かろう)のやうな人でなけりやア平人の口へは這(は)入りやせんのサ追々(おひおひ)我国も文明開化(ぶんめいかいくわ)と号(い)ツてひらけてきやしたから我々(われわれ)までが喰(く)ふやうになつたのは実にありがたいわけでごス それを未だに野蛮(やばん)の弊習(へいしう)と云(い)ツてネひらけねへ奴等(やつら)が肉食(にくしょく)をすりやア神仏(しんぶつ)へ手が合(あは)されねへのヤレ穢(けが)れるのとわからねへ野暮(やぼ)をいふのは究理学(きうりがく)を弁(わきま)へねへからのことでげス そんな夷(ゑびす)に福澤(ふくざは)の著(かい)た肉食(にくしょく)の説(せつ)でも読(よま)せてへネモシ西洋(せいやう)にやアそんなことはごウせん・・・・ ※ ※ ※(引用終わり) 上記にある『福澤(ふくざは)の著(かい)た肉食(にくしょく)の説(せつ)』というのは、福澤諭吉が明治3(1870)年に腸チフスにかかり牛乳を用いて回復した後、牛乳を提供した築地牛馬会社のもとめに応じて書いた宣伝文で、肉食の効用を説いたものなのです。つまり、仮名垣魯文の牛肉食のすすめである『安愚楽鍋』にも、福澤諭吉さんは大きな影響を与えたのです。冗談じゃありません。『学問のすすめ』から『四つ足』という言葉を狩ったら、福澤諭吉さんが『四つ足不浄差別』、『穢多(えた)差別』に異議申し立てをしていた事実も、文明開化時の、日本のスキヤキブームの風俗的な時代背景も分からなくなってしまいます。齋藤孝氏は、福澤諭吉さんの思想よりも、マスコミ界における自分の保身が大切なとんでもない学問と無関係な俗物なのでした。学問と無関係な俗物が『学問のすすめ』の現代語訳という名の捏造改竄するという皮肉な現象を目の当たりにするに付け、現代がいかにイカサマで、欺瞞に満ちた時代かと言うことが分かろうというものです。 |





