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ばたばたしていて、レス、訪問遅れてすみません。

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【ファイルA12】2011.10.25 大阪中之島の大阪市立東洋陶磁美術館に行ったよ(その2)

支那の陶磁器だよ。

 前回は朝鮮半島の高麗青磁の逸品をご紹介しました。
 前回はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52667628.html

 陶磁器と言えば支那。

 だから英語でも陶磁器のことをチャイナ(CHINA=支那語で『支那=SINA=シナ』の英語読み)、漆器のことをジャパン(JAPAN=支那語で『日本=リーペン』の英語読み)と言います。

 日本は支那や朝鮮から陶磁器の製法の多くを学びました。

 それで、大阪市立東洋陶磁美術館での支那の展示からいくつかご紹介しましょう。

 なお、作品の解説は原則として東洋陶磁美術館のHPから引用しました。

 HPに掲載のない作品については、作品の館内解説板から引用しましたが、解説板に解説がなかったものや解説板を私がちゃんと撮影してなかったものについては不十分なものがあります。

 その点はご了承くださいね。


黄釉緑褐彩四耳壺(おうゆうりょくかっさい しじこ)


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 北斉時代・6世紀

 北斉時代の鉛釉(なまりゆう・えんゆう)陶器です。

 主として副葬品として墓に納められました。唐三彩の前身となった技法です。


 1500年ほど前の陶磁器とは思えないほど色鮮やかです。

 それにしても、こんな素晴らしい作品が副葬品だなんて、贅沢ですね。よく盗掘を免れたものです。

 北斉時代というのは支那南北朝の頃ですね。

 北斉国内では『勲貴』と呼ばれる鮮卑(せんぴ)系武人と漢族を中心とする文人官僚が内部抗争を繰り広げていました。

 隋も唐も鮮卑系の国ですからね。

 『中国四千年の歴史』といいますが、これは誇大表示もいいところです。

 この国は、支配民族が易姓革命(えきせいかくめい)によりコロコロ変わり、その度に数千万人規模の死者を出し、混血も激しいので、日本ほど歴史の連続性はありません。

 
 『中国』という国があるとしたら、女真族(満州族)が支配した清から、辛亥革命により中華民国が建国されたのが1912年ですから、それを入れても100年しかない新興国家です。

 共産党一党独裁の中華人民共和国は1949年建国ですから、そうなると60年の歴史です。


炉鈞釉 双耳瓶(ろきんゆう そうじへい)


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 清時代・18−19世紀/宣興窯

 炉鈞釉は清時代の雍正年間に誕生した低火度一種の窯変釉で、景徳鎮の「宣鈞」などに倣ってつくられました。この作品は胎土などから宣興窯の製品と考えられています。


 清涼なエメラルドグリーンがとても美しい作品だねえ。


茶葉末釉 双耳方形瓶(ちゃようまつゆう そうじほうけいへい)(「大清乾隆年製」銘)


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 清時代・乾隆年間(1736−95)/景徳鎮窯 

 乾隆官窯の茶葉末釉の典型的な作品です。胎土は良く見ると景徳鎮特有の真っ白な磁土を用いています。


 深い茶葉の色が渋くてモダンなデザインの瓶です。

 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』で、鑑定士の中島 誠之助さんが、鑑定依頼された作品を見て、「これは『乾隆年製(けんりゅうねんせい)の銘(めい)が入っていますねえ』と感にたえたように言っていたのを聞いたことがあります。

 景徳鎮(けいとくちん)の陶器というのは歴史の教科書にも出ていましたが、『乾隆年製銘』が入った物は値打ちがあるのですね。


緑釉 壺(りょくゆう つぼ)


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 後漢時代 2〜3世紀 高:42.0cm

 鮮やかな発色を見せる緑釉は、銅を呈色剤とした鉛釉であり、後漢時代に大いに流行した。

 低火度焼成の緑釉陶はもっぱら明器としてつくられたが、その美しい釉色は青銅器にも似た輝きを放っている。

 実際、本作品も両肩に貼花された型抜きの鋪首(ほしゅ)や、肩及び胴の圏線(けんせん)などから、銅器の「鐘(しょう)」をイメージしてつくられたと考えられる。

 長く土中にあったため、一部表面には銀化(ぎんか)が生じており、それが見所のひとつにもなっている。外反した盤口形の口部上縁に、目跡や釉だまりが見られるのは、上下逆さにして焼成されたためである。

 裾広がりの小振りの脚部は八角形に面取りされており、丸みを帯びた造形にひとつのアクセントを加えている。


 うへえ!1700年前の緑なのですね。

 陶磁器は年を経ても退色が少ないのが魅力なんだねえ。


加彩 宮女俑 (かさい きゅうじょよう)


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 唐時代 7〜8世紀 高:37.7cm

 極端なまでに細腰痩身の姿態は、開元年間(713-41)以降の豊満温雅な「樹下美人」式女俑の対極にあり、初唐の理想的女性像を反映したものといえる。

 頭上に高く結い上げた髪は、唐の段成式『髻鬟品』にある「半翻髻(はんほんけい)」にあたるとされており、初唐に流行した髪型のひとつである。

 額には朱で花鈿(かでん)が施されている。朱、青、緑、黒の彩色に、さらに金彩や箔押しを加えた華麗な衣裳や装身具といい、その秀麗高雅な面持ちといい、あたかも仙女の如き趣が感じられる。

 その所作及び持物については諸説あるが、楽妓や舞女というよりは侍女の類であろう。

 類例が陝西省長武県などから出土しており、また永青文庫をはじめ、国内外の所蔵例もいくつか知られる。


なんとなく、ポパイに出てくるオリーブさんのようなスレンダー美人さんです。日本から渡航した遣唐使の人達も、このような女官の姿を見たのかな?

 

【重要美術品】 三彩貼花 宝相華文 壺(さんさいちょうか ほうそうげもん つぼ)


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 唐時代 7〜8世紀 高:30.9cm

 胴のまわり三箇所に貼花された宝相華のメダイヨンが、斑点状に白抜きされた緑釉と褐釉の幻想的なまじりあいの中で、ひときわ華やかな光彩を放っている。

 この宝相華文は、型抜きにより成形されたもので、東京国立博物館の横河コレクションにある重要文化財の三彩龍耳瓶にもこれと同型のものが見られる。

 化粧掛けされた胎土上で鮮やかに発色した釉薬は、裾の締まった端正な長卵形の胴下方で留まっており、露胎部分と絶妙のバランスを保っている。

 口縁及び器内には黄味がかった白釉が施されている。類品がシカゴ美術館にあり、また施釉の仕方がやや異なるが河南省洛陽市金家溝からは蓋付のものが出土している。


 唐三彩(とうさんさい)はシルクロードを通り、13世紀から15世紀半ばころにかけてシリアやキプロス、イタリアにまで伝来しました。

 また、日本等他の東アジアの陶芸品にも多大な影響を与えました。

 唐三彩(とうさんさい)も世界史の教科書に載っていたねえ。この鮮やかさはさすがです。


白磁刻花 牡丹文 瓶 (はくじこっか ぼたんもん へい)


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 北宋時代 10〜11世紀 高:32.0cm

 定窯は、宋代五名窯の一つに数えられ、晩唐時代から白磁を生産している。

 その窯址は河北省曲陽県澗磁村にあり、1941年、小山冨士夫氏によって発見された。

 最盛期の定窯の製品は、碗、皿、深鉢などが多く、いわゆる袋物は少ない。この瓶は最盛期にかかる以前、北宋初期と考えられる珍しい作例で、強い調子で彫られた胴下部の蓮弁文などにもそれがうかがえる。

 口は欠失しているが、おそらく盤口瓶(ばんこうへい)の形であったと想像される。


 とても厚みとコクのある、とろけるような白色です。このような質感は陶磁器ならではですよね。

多少ずんぐりむっくりに見えるのは、口が欠損しているからなのですね。

 ということで、次に続きますね。

【ファイルA11】2011.10.15 大阪中之島の大阪市立東洋陶磁美術館に行ったよ(その1)

まずは高麗青磁の逸品から。

 大阪は中之島に大阪市立東洋陶磁美術館があります。

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 以前テレビを見ていたら、陶芸家の人(有名な人なんでしょうが、陶芸には不案内なので名前は覚えていません。すみません)が、東洋陶磁美術館を紹介していて、大阪に来たらば、必ず立ち寄ると言っていました。

 ここの収蔵品は、国宝2点を含む名品揃いで、陶芸に特に興味がなかった私が観てもみごたえ充分なのでした。

 大阪を訪問される際にはここを覗いてみることをお勧めします。隠れた名所です。

 ここはもともと大阪一の格式を誇った大阪ホテルがあった場所です。その跡地にこの美術館は建てられました。

 東洋陶磁美術館の所蔵品は『旧安宅(あたか)コレクション』が中心です。

 昔、『安宅産業(あたかさんぎょう)』という日本の10大商社に数えられる大商社がありました。

 安宅産業は、もともとは、官営八幡製鐵所(やはたせいてつしょ)の指定商として発展し、堅実経営で知られていたのですが、オイルショック時に不慣れな石油ビジネスに参入する一方、多角化を目指すために、1970年代に既に不況に入っていた繊維部門の取引を拡大し、かえって債権の焦げ付きを増やすなどにより、経営が徐々に悪化していきました。

 そんな中、安宅産業では創業者安宅弥吉の長男・安宅英一元会長が、『安宅ファミリー』の勢力をバックに人事権を掌握し、事実上最高権力者として君臨していました。

 安宅一族は公私混同が激しく、とりわけ安宅英一氏は、安宅産業内に美術品部を設け、『安宅コレクション』と呼ばれる支那・朝鮮(高麗)陶磁器の膨大なコレクション蒐集しました。

 また、英一氏の息子・昭弥氏(専務)も子会社の「安宅興産」を通し、40数台にも上るクラシックカーを購入したりしていました。

 それで、安宅産業は1975年に発覚したカナダにおける石油精製プロジェクトの失敗に端を発し、とうとう経営破綻をしてしまったのです。

 最終的には、1977年に伊藤忠商事に吸収合併されることで解決をみたのですが、『安宅コレクション』の所有権はメインバンクだった住友銀行(現三井住友銀行)が引き継ぎました。

 ところが『安宅コレクション』はただ持っていても管理の場所、手間と費用がかかるだけで、売り飛ばさない限り、なんの値打ちもありません。

 しかしながら、これだけ貴重で体系的なコレクション売却して散逸すると、日本文化にとって、大きな損失だという声が多く寄せられました。

 そこで、住友銀行を中心とした住友グループ各社の協力のもと、965件、約1000点が大阪市に一括寄付されることとなりました。

 やれやれ・・・。

 『安宅コレクション』は、いわば安宅一族の独裁による放漫経営の負の遺産なのですが、これだけの値打ちのある美術品を購入したという意味では文化的な意義はとても大きかったのですね。


 1982年に東洋陶磁美術館の開館後も、さらに複数のコレクターからの寄贈を受け、展示は充実していきました。

 ということで、東洋陶磁美術館の収蔵品をご紹介していきましょう。

 ここの展示品は、三脚やストロボを使わなければ、原則として撮影OKなのです。

 ですから撮影は私がしました。暗くて写すのが難しかったよ。

 なお、作品の解説は東洋陶磁美術館のHPから引用させていただきました。
 http://www.moco.or.jp/
 
 まず、高麗青磁(こうらいせいじ)から。


青磁半陽刻 蓮花牡丹文 瓢形水注 (せいじはんようこく れんかぼたんもん ひょうけいすいちゅう)


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 高麗時代 12世紀前半(高:27.0cm 径:15.4cm)

 12世紀における高麗青磁の器形は、中国北宋代の器形に祖型を持つものが多いが、なかには高麗独自の造形的変容を遂げたものもある。

 この傾向は、特に梅瓶と水注の器形に多く見られ、高麗的造形の特質を示している。

 この水注もその典型例の一つである。中国の瓢形は上胴と下胴がそれぞれ球状に近く、中央の結帯部で強く結ばれる形を取るのが一般的である。

 それに反して高麗の瓢形水注は、上胴と下胴の区別が劃然とつけられないまま、自然に流れるように連結していることが多い。本作品は胴部を6面に区切り、それぞれ半陽刻による牡丹文と蓮花文を交互に配している。

 釉色はむらのない艶やかな灰青色で、釉色、器形、彫技がよく調和し、高麗青磁の優美な味わいを示す佳品である。

 器底は中央が凹んだ平底で、釉が一部流れこんでいる。蓋は共伴のものではないであろう。


 ということで、蓋だけオリジナルじゃないのですが、そう言われて良く見ると、色つやが違いますよね。みなさんは分かりましたか?


青磁陽刻 筍形水注 (せいじようこく たけのこがたすいちゅう)


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 高麗時代 12世紀前半(高:22.5cm)

 香炉のほか、水注にも物象の形を写したものが多い。

 筍形のほか、神亀、水鳥、官人などがあり、いずれも彫刻技法が最盛期を向かえる12世紀前半の作例とされている。

 この水注は、筍(たけのこ)の苞(ほう:花あるいは花序の付け根に出る葉)が浮き彫り風にあらわされているが、それが四層になる例はほかになく、類品中もっとも華麗な作例である。

 フリーハンドによる繊細な線彫りによって、竹の脈があらわされ、釉色もすこぶる良い。

 全羅南道康津郡沙堂里窯系の作と見られる。


青磁 瓶 (せいじ へい)


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 高麗時代 12世紀前半(高:20.4cm)

 高麗青磁のうち、何ら装飾を伴わないものを素文(そもん)青磁と呼び、高麗陶磁の基調となった。

 とりわけ11世紀後半から12世紀前半にかけては、この瓶のように釉色と器形の美しさをほこる完成度の高い素文青磁がつくられた。

 玉壺春(ぎょっこしゅん)風の器形は宋磁を本歌とするが、重厚感のある胴のふくらみと深い釉色の持つゆったりとした印象は、高麗青磁特有のものである。

 高台裏の硅石(けいせき)目も小さく、全羅南道康津郡沙堂里窯址で同種の陶片が発見されている。


 これはとっても姿が良かったので、感心しました。


青磁象嵌 菊唐草文 盒 (せいじぞうがん きくからくさもん ごう)


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 高麗時代 12世紀後半(高:14.3cm)

 蓋を皿として、鉢と一組をなす器である。統一新羅の金属器に登場し、先行例は金属器そのもので、皿と鉢の高台が高く広い。

 本品では高台が低く狭いものとなっており、陶磁器らしい形に変容を見せている。主文は、円圏内に菊花文を入れたものを四方に配し、その周囲を逆象嵌(ぎゃくぞうがん)による唐草文で埋めている。釉色が美しく、象嵌文がよく映える。

 文公裕(ぶんこうゆう)墓出土の碗よりも図式化がすすんでおり、12世紀後半の作例と見られる。


【重要美術品】 青磁彫刻 童女形水滴 (せいじちょうこく どうじょがたすいてき)


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 高麗時代 12世紀前半(高:11.1cm)

 最盛期の高麗青磁には、珠玉のような小品がときどきある。人や動物、果実などの姿を写した文房具や、化粧具と思われるものに多いがこれもそのひとつ、可憐な童女の姿をかたどった水滴である。

 蓮の蕾の形をした髷(まげ)がすっぽりと取れ、そこから水を入れ、童女の抱える水瓶の口から水が出る。童女の瞳には鉄彩を点じ、衣服と瓶には細かい花文が、細く浅く毛彫りされている。ひそやかな表現に、高麗的美感が溢れる絶品である。


 この像は写真では実物は高さが11.1cmとちっちゃくて可愛いのですが、写真に撮ると、大きく見えるねえ。

 このように、高麗青磁は淡い翡翠色なのに、色に深みがあって、青磁釉薬(せいじゆうやく)がとろけるように澄んでいます。


 高麗青磁(こうらいせいじ)というのは、朝鮮半島の高麗時代に製作が始まった青磁釉を施した磁器のことです。

 支那・宋代の越窯(現在の浙江省)から技術を導入して焼き始められたもので作られ始めたのは、最も早い説で9世紀前半、最も遅い説で10世紀後半だといわれています。

 12世紀前半には最盛期を迎え、翡翠色(ひすいいろ)に輝く翡色(ひしょく)青磁を完成させました。

 北宋宣和5年(1123年)、高麗の都・開城を訪れた支那の、徐兢(じょきょう)が著わした『宣和奉使高麗図経(せんなほうしこうらいずきょう)』には、青磁が翡色と呼ばれ、色・艶ことのほか美しく、塗金や銀製の器皿(きべい)より貴ばれていたと伝えています。

 また、12世紀中ごろには、高麗独自の技法といわれる象嵌(ぞうがん)青磁をつくりだしました。

 これは、成形した器物の生乾きの表面に文様を彫りこみ、そこに白土・赭(あか)土を埋めこんで素焼したのち、青磁釉をかけて焼きあげたもので、青磁釉の下で織りなされる白黒象嵌文様は、鮮麗な味わいを持っています。

 これら翡色青磁や象嵌青磁の優品は、全羅南道康津、全羅北道扶安などで主に生産されました。


 その造形は宋の青磁が緊張感に溢れるものであるのに対し、優美さを基調としたものだといわれています。

 品質上の全盛期は一般に12世紀と言われていて、13世紀以降の作品の評価は低いのだそうです。

 その理由は諸説あって、モンゴルの侵入による社会の混乱、大量生産による品質低下でなどがあげられているそうです。

 14世紀いっぱいで青磁の流行は止み、粉青沙器(ふんせいさき)に交替しました。

 それにしても、こんな凄い技術がすたれてしまったというのは、残念ですね。

 大陸や半島では、皇帝、王朝が変わるたびに、それ以前の文化が滅んでしまうのです。


 韓国内では高麗青磁製品は高級品として『王侯貴族』の使用する物として庶民では手が届かず、一般家庭ではおろか一流料亭でもあまり使われていない高嶺の花でしたが、最近では高麗青磁食器の製造が復活し、人気が出ているようです。

 そういえば、テレビの人気番組『開運!なんでも鑑定団』でも先日、高麗青磁の名品だって張り切って鑑定してもらった人が、最近作られたものだって言われてとほほだったねえ。

 でも、素人の私が見ても、ネット通販の写真を見ただけで、本物は全然違うっていうのは分かります。

 なお、この番組でも高麗青磁の作例として、ここ東洋陶磁美術館と、東京国立博物館のものが紹介されていました。

 やはり、この美術館は権威があるんだねえ。

 『鑑定団』の鑑定士、中島 誠之助さんは東京国立博物館で本物を見て、見る目を養って下さいっておっしゃっていましたが、本物を見ると骨董品には手を出せないねえ。

 ということで、次に続きますね。







【ファイルA10】2008.04.25 岡本太郎 太陽の塔

日本万国博覧会EXPO‘70

 
 1970年、大阪千里丘で『人類の進歩と調和』をテーマに日本万国博覧会が開催されました。1964年の東京オリンピックとともに日本の歴史に刻まれるイベントでした。

 今では、未来を先取りした先進デザインのパビリオンが林立した会場も、緑深い森林公園になっています。

イメージ 1



 太陽の塔は、大阪万博のテーマ館のシンボルとして建造され、万博終了後も引き続き万博記念公園に残されました。岡本太郎氏(おかもと たろう、1911年2月26日 - 1996年1月7日)の代表作の1つです。

 岡本太郎氏の言によると、もともと大阪万博のシンボルタワーとしては、EXPOタワーが建てられ、そちらが永久保存される予定で、太陽の塔はあくまでテーマ館のシンボルだったので、会期終了後取り壊される予定だったそうです。

 中央画壇をはじめ、アカデミズムからの評価は散々で、最初のうちは女性や子供の人気が出て、それがやがて大衆的な支持を得て、大阪万国博覧会の顔になっていきました。永久保存だったはずのEXPOタワーの方はすでに撤去されています。

岡本の父がいる(漫画家の岡本一平)♪
岡本の母がいる(小説家の岡本かの子)♪
そして太郎がここにいる♪

 ということで、文化的偏差値が異様に高いこの一家は3人ともそれぞれが著作集を出版しています。

 青年だった岡本太郎さんは、1929年 父のロンドン軍縮会議取材に伴い、渡欧。フランスに一人残ってパリ・ソルボンヌに通い持ち前のバイタリティーで異文化を吸収します。

 抽象運動のアブストラクション・クレアシオンに最年少で加入しますが、純粋抽象画のあり方に疑問を持ち、初期の傑作『痛ましき腕』(1936年)を発表し運動と決別。この作品がアンドレ・ブルドンに認められ、シュールリアリズム運動に参加するのを勧められるも固辞します。私は実物を見た事がありますが、かなりの大作です。

『痛ましき腕』(1936年)Wounded Arm Oil on canvas 111.8×162.2cm © 岡本太郎記念館

イメージ 2



 岡本太郎氏は、天才ジョルジュ・バタイユの親友で、民俗学者のマルセル・モースの弟子です。

 このキャリアからして、適当に世渡りを旨くすれば、日本中央画壇の大ボスになれたのですが、岡本さんは、閉塞した日本画壇を批判して、異端になります。

 岡本さんは、太陽の塔が製作されたときに外国の記者から質問されたそうです。
『パリ万博の時、エッフェル塔を建てたエッフェルは巨万の富を得、エッフェル財団を創りその基金を後進の育成に当てたが、あなたはそのようなことをする気はないのか?』

 それに対する岡本太郎さんの答えは、『私は太陽の塔の仕事でびた一文貰っていない!』だったそうです。

 いまだに万博記念公園では、太陽の塔のミニチュアが売っています。岡本さんは、そういったことに超然としていたんですけど、あまりにも酷い話です。

 それから、『人類の進歩と調和』っていうテーマも気にくわなかったそうです。

『調和』っていう言葉が馴れ合いとか妥協の産物だからです。岡本さんは常にぶつかり合いや闘争から出てくるエネルギーを作品、ひいては人生において追求していました。

 ですから、未来都市をイメージしたパビリオン郡のなかにあって、土俗的な縄文文化を髣髴とさせる太陽の塔をあえて建てたのです。会期中は丹下健三設計のモダンな構造の大屋根を突き抜け異彩を放っていました。

 酷い話といえば、もう一つの代表作、巨大壁画『明日の神話』は、行方不明になっていて、2003年9月、メキシコ国内の倉庫で発見で埃を被っていうち捨てられていたのが発見されたそうじゃないですか!

 それが、今頃になって、誘致合戦でしょ?岡本さんは、生前、中央画壇から完全に無視されていたのです。

 塔の高さは70m、底の直径は20m、顔の直径は11mであり、上部の黄金の顔(未来を表す)、正面胴体部の顔(現在を表す)、背面に描かれた黒い顔(過去を表す)の3つの顔を持ちます。

 黄金に輝く未来の顔。

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 万国博会期中、ここの目玉に立て籠もった『目玉男』がいました。

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 迷惑な話だねえ!それにしても、地上70mは怖いねえ!

 会期中の1970年4月26日 午後5:20ごろ右目の中で赤軍と書いた赤いヘルメットを かぶりタオルで覆面したグレーの上着 黒ズボン姿の学生風の男が黒いバッグのような物をもって登り通路の扉を閉じて『万国博をつぶせ!』とアジ演説を始めたのです。

 黄金の顔の左右の目の中には直径約50cm 5KWの電球が入っており毎夕六時には点灯することになっていましたが、点灯すると、高熱で男が焼け死ぬ恐れがあり、点灯を中止しました(現在はこの電球は点灯ができません)。

 野次馬が押しかけ、作者の岡本太郎氏も姿を見せ『イカスねぇ ダンスでも踊ったらよかろうに。自分の作品がこういう形で汚されてもかまわない。聖なるものは、常に汚されるという前提をもっているからね』と言いながら双眼鏡で覗いたり写真を撮ったりしてご満悦の様子だったそうです。

 それにしても、目玉男の身元が分かりません、そこで機動隊の隊員はひとつ適当な名前で読んでやれと思いついたのが後輩の佐藤巡査の名前。『オオイ 佐藤君!』って呼んだら、目玉男は『下に落とした物から指紋をとったのか』と聴いてきます。実は、逮捕後男の名前が偶然佐藤英夫であったと聞き隊員一同は大笑い!159時間のろう城の後、ついにダウン。ついに男はお縄を頂戴しました。

 胴体中央『現在の顔』

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 間近で見上げた太陽の塔

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 背中には黒い太陽がぎらぎらと輝いています。

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 黒い太陽は煉瓦作りです。

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 旧お祭り広場の大屋根の一部鉄骨が記念に残されています。

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 太陽の塔は、なで肩です。チューリップ型の鉄のオブジェは避雷針です。

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 黒い太陽は、鼻が低いのです。

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 この角度がカッコイイねえ!

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 太陽の塔は青空が似合います。それにしても、角度を少し変えると、微妙にフォルムが変るのが太陽の塔です。

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 杯のような未来の顔です。目玉男さんは顔の付け根のパイプみたいな部分を通って目玉にたどりついたそうです。

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 大きく両手を広げています。なんとなく可愛い!

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 最後に、素直に正面から写した写真です。

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【ファイルA9】2007.10.28 レオナルド・ダ・ビンチ「最後の晩餐」の高精細画像を見物しよう!

 テレビでこのニュースを観てびっくりしました。
 それで、ネットを検索したら、エキサイトニュースに載っていました。

[ミラノ 25日 ロイター] レオナルド・ダ・ビンチ作「最後の晩餐」の高精細画像が、インターネット上にお目見えすることになった。

 イタリアのデジタル画像処理会社HAL9000が27日、同社のウェブサイトに160─170億画素の画像を掲載する。

 それでもって、こっちで覗いてみてね☆

http://www.haltadefinizione.com/en/cenacolo/look.asp

 ダウンロードに少し時間がかかるから、少し待ってね。

 これは凄い!

 拡大ができて、キリスト様のお顔の左に教会の尖塔が見えるよ!

 本物なんかじっくり見ることができないものね。

 それにしても、H9という文字は複製防止のためかねえ?これをベースに複製が作れるものね。

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【ファイルA8】2006.10.15 黒川 紀章設計 国立新美術館(東京都港区、2006年)

そのうち記事を載せようと思ってたんだけど

 
 去る10月12日、建築家の黒川 紀章さんが亡くなりました。まだ若かったのにねえ。

 多才な方でいろいろと話題にもなられたんですけど、やはり建築家としては、素晴らしい方でした。以前撮ったまま、いつか記事にしようとしていた国立新美術館の写真を掲載します。

 これが全景です。草書のような少し崩れた曲線が特徴的で、一目見たら忘れられないデザインですね。

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 玄関ポーチです。大きく張り出した円形の屋根と円錐のエントランスが素敵です。

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 円錐のエントランスを見上げるとこうなっています。

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 ホールは光に満ちています。

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 ガラスの曲線の設計はコンピューターがなければできないのでしょうね。

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 壁面は対照的に平面で構成され、和風のデザインです。

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 これは逆円錐の柱の上にある空中のカフェで贅沢な空間構成です。

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 漸近線で収縮していく曲面が意表をつきます。

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 中庭の竹林です。先ほどの平面の壁と対応しています。

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 曲線のガラス壁と、逆円錐の空中カフェと床です。テーブルも緻密に計算された配置で、立体構成には眼をみはるものがあります。

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 シースルーエレベーターの滑車部分は直線で構成されたレトロ調のデザインで、曲面を強調する効果を出しています。

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 シースルーエレベーターから見たカフェです。動き出してから景色に気がついてとっさに撮影したのですが、幻想的ですね。

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 逆円錐のフォルムの大胆さが素晴らしいと思います。

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 吹き抜けに張り出した長方形のバルコニーです。

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 エントランスから六本木ヒルズを望みます。借景になっていることが分かります。

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 ついでに、私が大好きな国立民族学博物館(大阪府吹田市、千里万博公園、1977年)です。古代の遺跡を髣髴とさせる傑作です。

 このころが黒川さんの円熟期で、6年後の1983年にテレビ番組、確かトーク番組の『すばらしき仲間』で番組中に番組をほったらかして口説いた若尾文子さんと結婚されました。

 ひょっとして、これが彼の代表作かも?

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 ということで、今回は作品に語ってもらいましたので、説明は少なめです。

 謹んでご冥福をお祈りします。

 黒川 紀章(くろかわ きしょう、1934年(昭和9年)4月8日 - 2007年(平成19年)10月12日)。日本芸術院会員。日本会議代表委員。黒川紀章建築都市設計事務所所長。

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