【ファイルA12】2011.10.25 大阪中之島の大阪市立東洋陶磁美術館に行ったよ(その2)支那の陶磁器だよ。前回は朝鮮半島の高麗青磁の逸品をご紹介しました。前回はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52667628.html 陶磁器と言えば支那。 だから英語でも陶磁器のことをチャイナ(CHINA=支那語で『支那=SINA=シナ』の英語読み)、漆器のことをジャパン(JAPAN=支那語で『日本=リーペン』の英語読み)と言います。 日本は支那や朝鮮から陶磁器の製法の多くを学びました。 それで、大阪市立東洋陶磁美術館での支那の展示からいくつかご紹介しましょう。 なお、作品の解説は原則として東洋陶磁美術館のHPから引用しました。 HPに掲載のない作品については、作品の館内解説板から引用しましたが、解説板に解説がなかったものや解説板を私がちゃんと撮影してなかったものについては不十分なものがあります。 その点はご了承くださいね。 北斉時代・6世紀 北斉時代の鉛釉(なまりゆう・えんゆう)陶器です。 主として副葬品として墓に納められました。唐三彩の前身となった技法です。 1500年ほど前の陶磁器とは思えないほど色鮮やかです。 それにしても、こんな素晴らしい作品が副葬品だなんて、贅沢ですね。よく盗掘を免れたものです。 北斉時代というのは支那南北朝の頃ですね。 北斉国内では『勲貴』と呼ばれる鮮卑(せんぴ)系武人と漢族を中心とする文人官僚が内部抗争を繰り広げていました。 隋も唐も鮮卑系の国ですからね。 『中国四千年の歴史』といいますが、これは誇大表示もいいところです。 この国は、支配民族が易姓革命(えきせいかくめい)によりコロコロ変わり、その度に数千万人規模の死者を出し、混血も激しいので、日本ほど歴史の連続性はありません。 『中国』という国があるとしたら、女真族(満州族)が支配した清から、辛亥革命により中華民国が建国されたのが1912年ですから、それを入れても100年しかない新興国家です。 共産党一党独裁の中華人民共和国は1949年建国ですから、そうなると60年の歴史です。 清時代・18−19世紀/宣興窯 炉鈞釉は清時代の雍正年間に誕生した低火度一種の窯変釉で、景徳鎮の「宣鈞」などに倣ってつくられました。この作品は胎土などから宣興窯の製品と考えられています。 清涼なエメラルドグリーンがとても美しい作品だねえ。 清時代・乾隆年間(1736−95)/景徳鎮窯 乾隆官窯の茶葉末釉の典型的な作品です。胎土は良く見ると景徳鎮特有の真っ白な磁土を用いています。 深い茶葉の色が渋くてモダンなデザインの瓶です。 テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』で、鑑定士の中島 誠之助さんが、鑑定依頼された作品を見て、「これは『乾隆年製(けんりゅうねんせい)の銘(めい)が入っていますねえ』と感にたえたように言っていたのを聞いたことがあります。 景徳鎮(けいとくちん)の陶器というのは歴史の教科書にも出ていましたが、『乾隆年製銘』が入った物は値打ちがあるのですね。 後漢時代 2〜3世紀 高:42.0cm 鮮やかな発色を見せる緑釉は、銅を呈色剤とした鉛釉であり、後漢時代に大いに流行した。 低火度焼成の緑釉陶はもっぱら明器としてつくられたが、その美しい釉色は青銅器にも似た輝きを放っている。 実際、本作品も両肩に貼花された型抜きの鋪首(ほしゅ)や、肩及び胴の圏線(けんせん)などから、銅器の「鐘(しょう)」をイメージしてつくられたと考えられる。 長く土中にあったため、一部表面には銀化(ぎんか)が生じており、それが見所のひとつにもなっている。外反した盤口形の口部上縁に、目跡や釉だまりが見られるのは、上下逆さにして焼成されたためである。 裾広がりの小振りの脚部は八角形に面取りされており、丸みを帯びた造形にひとつのアクセントを加えている。 うへえ!1700年前の緑なのですね。 陶磁器は年を経ても退色が少ないのが魅力なんだねえ。 唐時代 7〜8世紀 高:37.7cm 極端なまでに細腰痩身の姿態は、開元年間(713-41)以降の豊満温雅な「樹下美人」式女俑の対極にあり、初唐の理想的女性像を反映したものといえる。 頭上に高く結い上げた髪は、唐の段成式『髻鬟品』にある「半翻髻(はんほんけい)」にあたるとされており、初唐に流行した髪型のひとつである。 額には朱で花鈿(かでん)が施されている。朱、青、緑、黒の彩色に、さらに金彩や箔押しを加えた華麗な衣裳や装身具といい、その秀麗高雅な面持ちといい、あたかも仙女の如き趣が感じられる。 その所作及び持物については諸説あるが、楽妓や舞女というよりは侍女の類であろう。 類例が陝西省長武県などから出土しており、また永青文庫をはじめ、国内外の所蔵例もいくつか知られる。
なんとなく、ポパイに出てくるオリーブさんのようなスレンダー美人さんです。日本から渡航した遣唐使の人達も、このような女官の姿を見たのかな?
【重要美術品】 三彩貼花 宝相華文 壺(さんさいちょうか ほうそうげもん つぼ) 唐時代 7〜8世紀 高:30.9cm 胴のまわり三箇所に貼花された宝相華のメダイヨンが、斑点状に白抜きされた緑釉と褐釉の幻想的なまじりあいの中で、ひときわ華やかな光彩を放っている。 この宝相華文は、型抜きにより成形されたもので、東京国立博物館の横河コレクションにある重要文化財の三彩龍耳瓶にもこれと同型のものが見られる。 化粧掛けされた胎土上で鮮やかに発色した釉薬は、裾の締まった端正な長卵形の胴下方で留まっており、露胎部分と絶妙のバランスを保っている。 口縁及び器内には黄味がかった白釉が施されている。類品がシカゴ美術館にあり、また施釉の仕方がやや異なるが河南省洛陽市金家溝からは蓋付のものが出土している。 唐三彩(とうさんさい)はシルクロードを通り、13世紀から15世紀半ばころにかけてシリアやキプロス、イタリアにまで伝来しました。 また、日本等他の東アジアの陶芸品にも多大な影響を与えました。 唐三彩(とうさんさい)も世界史の教科書に載っていたねえ。この鮮やかさはさすがです。 北宋時代 10〜11世紀 高:32.0cm 定窯は、宋代五名窯の一つに数えられ、晩唐時代から白磁を生産している。 その窯址は河北省曲陽県澗磁村にあり、1941年、小山冨士夫氏によって発見された。 最盛期の定窯の製品は、碗、皿、深鉢などが多く、いわゆる袋物は少ない。この瓶は最盛期にかかる以前、北宋初期と考えられる珍しい作例で、強い調子で彫られた胴下部の蓮弁文などにもそれがうかがえる。 口は欠失しているが、おそらく盤口瓶(ばんこうへい)の形であったと想像される。 とても厚みとコクのある、とろけるような白色です。このような質感は陶磁器ならではですよね。 多少ずんぐりむっくりに見えるのは、口が欠損しているからなのですね。 ということで、次に続きますね。 |
美術の部屋
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以前テレビを見ていたら、陶芸家の人(有名な人なんでしょうが、陶芸には不案内なので名前は覚えていません。すみません)が、東洋陶磁美術館を紹介していて、大阪に来たらば、必ず立ち寄ると言っていました。 ここの収蔵品は、国宝2点を含む名品揃いで、陶芸に特に興味がなかった私が観てもみごたえ充分なのでした。 大阪を訪問される際にはここを覗いてみることをお勧めします。隠れた名所です。 ここはもともと大阪一の格式を誇った大阪ホテルがあった場所です。その跡地にこの美術館は建てられました。 東洋陶磁美術館の所蔵品は『旧安宅(あたか)コレクション』が中心です。 昔、『安宅産業(あたかさんぎょう)』という日本の10大商社に数えられる大商社がありました。 安宅産業は、もともとは、官営八幡製鐵所(やはたせいてつしょ)の指定商として発展し、堅実経営で知られていたのですが、オイルショック時に不慣れな石油ビジネスに参入する一方、多角化を目指すために、1970年代に既に不況に入っていた繊維部門の取引を拡大し、かえって債権の焦げ付きを増やすなどにより、経営が徐々に悪化していきました。 そんな中、安宅産業では創業者安宅弥吉の長男・安宅英一元会長が、『安宅ファミリー』の勢力をバックに人事権を掌握し、事実上最高権力者として君臨していました。 安宅一族は公私混同が激しく、とりわけ安宅英一氏は、安宅産業内に美術品部を設け、『安宅コレクション』と呼ばれる支那・朝鮮(高麗)陶磁器の膨大なコレクション蒐集しました。 また、英一氏の息子・昭弥氏(専務)も子会社の「安宅興産」を通し、40数台にも上るクラシックカーを購入したりしていました。 それで、安宅産業は1975年に発覚したカナダにおける石油精製プロジェクトの失敗に端を発し、とうとう経営破綻をしてしまったのです。 最終的には、1977年に伊藤忠商事に吸収合併されることで解決をみたのですが、『安宅コレクション』の所有権はメインバンクだった住友銀行(現三井住友銀行)が引き継ぎました。 ところが『安宅コレクション』はただ持っていても管理の場所、手間と費用がかかるだけで、売り飛ばさない限り、なんの値打ちもありません。 しかしながら、これだけ貴重で体系的なコレクション売却して散逸すると、日本文化にとって、大きな損失だという声が多く寄せられました。 そこで、住友銀行を中心とした住友グループ各社の協力のもと、965件、約1000点が大阪市に一括寄付されることとなりました。 やれやれ・・・。 『安宅コレクション』は、いわば安宅一族の独裁による放漫経営の負の遺産なのですが、これだけの値打ちのある美術品を購入したという意味では文化的な意義はとても大きかったのですね。 1982年に東洋陶磁美術館の開館後も、さらに複数のコレクターからの寄贈を受け、展示は充実していきました。 ということで、東洋陶磁美術館の収蔵品をご紹介していきましょう。 ここの展示品は、三脚やストロボを使わなければ、原則として撮影OKなのです。 ですから撮影は私がしました。暗くて写すのが難しかったよ。 高麗時代 12世紀前半(高:27.0cm 径:15.4cm) 12世紀における高麗青磁の器形は、中国北宋代の器形に祖型を持つものが多いが、なかには高麗独自の造形的変容を遂げたものもある。 この傾向は、特に梅瓶と水注の器形に多く見られ、高麗的造形の特質を示している。 この水注もその典型例の一つである。中国の瓢形は上胴と下胴がそれぞれ球状に近く、中央の結帯部で強く結ばれる形を取るのが一般的である。 それに反して高麗の瓢形水注は、上胴と下胴の区別が劃然とつけられないまま、自然に流れるように連結していることが多い。本作品は胴部を6面に区切り、それぞれ半陽刻による牡丹文と蓮花文を交互に配している。 釉色はむらのない艶やかな灰青色で、釉色、器形、彫技がよく調和し、高麗青磁の優美な味わいを示す佳品である。 器底は中央が凹んだ平底で、釉が一部流れこんでいる。蓋は共伴のものではないであろう。 ということで、蓋だけオリジナルじゃないのですが、そう言われて良く見ると、色つやが違いますよね。みなさんは分かりましたか? 高麗時代 12世紀前半(高:22.5cm) 香炉のほか、水注にも物象の形を写したものが多い。 筍形のほか、神亀、水鳥、官人などがあり、いずれも彫刻技法が最盛期を向かえる12世紀前半の作例とされている。 この水注は、筍(たけのこ)の苞(ほう:花あるいは花序の付け根に出る葉)が浮き彫り風にあらわされているが、それが四層になる例はほかになく、類品中もっとも華麗な作例である。 フリーハンドによる繊細な線彫りによって、竹の脈があらわされ、釉色もすこぶる良い。 全羅南道康津郡沙堂里窯系の作と見られる。 高麗時代 12世紀前半(高:20.4cm) 高麗青磁のうち、何ら装飾を伴わないものを素文(そもん)青磁と呼び、高麗陶磁の基調となった。 とりわけ11世紀後半から12世紀前半にかけては、この瓶のように釉色と器形の美しさをほこる完成度の高い素文青磁がつくられた。 玉壺春(ぎょっこしゅん)風の器形は宋磁を本歌とするが、重厚感のある胴のふくらみと深い釉色の持つゆったりとした印象は、高麗青磁特有のものである。 高台裏の硅石(けいせき)目も小さく、全羅南道康津郡沙堂里窯址で同種の陶片が発見されている。 これはとっても姿が良かったので、感心しました。 高麗時代 12世紀後半(高:14.3cm) 蓋を皿として、鉢と一組をなす器である。統一新羅の金属器に登場し、先行例は金属器そのもので、皿と鉢の高台が高く広い。 本品では高台が低く狭いものとなっており、陶磁器らしい形に変容を見せている。主文は、円圏内に菊花文を入れたものを四方に配し、その周囲を逆象嵌(ぎゃくぞうがん)による唐草文で埋めている。釉色が美しく、象嵌文がよく映える。 文公裕(ぶんこうゆう)墓出土の碗よりも図式化がすすんでおり、12世紀後半の作例と見られる。 高麗時代 12世紀前半(高:11.1cm) 最盛期の高麗青磁には、珠玉のような小品がときどきある。人や動物、果実などの姿を写した文房具や、化粧具と思われるものに多いがこれもそのひとつ、可憐な童女の姿をかたどった水滴である。 蓮の蕾の形をした髷(まげ)がすっぽりと取れ、そこから水を入れ、童女の抱える水瓶の口から水が出る。童女の瞳には鉄彩を点じ、衣服と瓶には細かい花文が、細く浅く毛彫りされている。ひそやかな表現に、高麗的美感が溢れる絶品である。 この像は写真では実物は高さが11.1cmとちっちゃくて可愛いのですが、写真に撮ると、大きく見えるねえ。 このように、高麗青磁は淡い翡翠色なのに、色に深みがあって、青磁釉薬(せいじゆうやく)がとろけるように澄んでいます。 高麗青磁(こうらいせいじ)というのは、朝鮮半島の高麗時代に製作が始まった青磁釉を施した磁器のことです。 支那・宋代の越窯(現在の浙江省)から技術を導入して焼き始められたもので作られ始めたのは、最も早い説で9世紀前半、最も遅い説で10世紀後半だといわれています。 12世紀前半には最盛期を迎え、翡翠色(ひすいいろ)に輝く翡色(ひしょく)青磁を完成させました。 北宋宣和5年(1123年)、高麗の都・開城を訪れた支那の、徐兢(じょきょう)が著わした『宣和奉使高麗図経(せんなほうしこうらいずきょう)』には、青磁が翡色と呼ばれ、色・艶ことのほか美しく、塗金や銀製の器皿(きべい)より貴ばれていたと伝えています。 また、12世紀中ごろには、高麗独自の技法といわれる象嵌(ぞうがん)青磁をつくりだしました。 これは、成形した器物の生乾きの表面に文様を彫りこみ、そこに白土・赭(あか)土を埋めこんで素焼したのち、青磁釉をかけて焼きあげたもので、青磁釉の下で織りなされる白黒象嵌文様は、鮮麗な味わいを持っています。 これら翡色青磁や象嵌青磁の優品は、全羅南道康津、全羅北道扶安などで主に生産されました。 その造形は宋の青磁が緊張感に溢れるものであるのに対し、優美さを基調としたものだといわれています。 品質上の全盛期は一般に12世紀と言われていて、13世紀以降の作品の評価は低いのだそうです。 その理由は諸説あって、モンゴルの侵入による社会の混乱、大量生産による品質低下でなどがあげられているそうです。 14世紀いっぱいで青磁の流行は止み、粉青沙器(ふんせいさき)に交替しました。 それにしても、こんな凄い技術がすたれてしまったというのは、残念ですね。 大陸や半島では、皇帝、王朝が変わるたびに、それ以前の文化が滅んでしまうのです。 韓国内では高麗青磁製品は高級品として『王侯貴族』の使用する物として庶民では手が届かず、一般家庭ではおろか一流料亭でもあまり使われていない高嶺の花でしたが、最近では高麗青磁食器の製造が復活し、人気が出ているようです。 そういえば、テレビの人気番組『開運!なんでも鑑定団』でも先日、高麗青磁の名品だって張り切って鑑定してもらった人が、最近作られたものだって言われてとほほだったねえ。 でも、素人の私が見ても、ネット通販の写真を見ただけで、本物は全然違うっていうのは分かります。 なお、この番組でも高麗青磁の作例として、ここ東洋陶磁美術館と、東京国立博物館のものが紹介されていました。 やはり、この美術館は権威があるんだねえ。 『鑑定団』の鑑定士、中島 誠之助さんは東京国立博物館で本物を見て、見る目を養って下さいっておっしゃっていましたが、本物を見ると骨董品には手を出せないねえ。 ということで、次に続きますね。 |
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