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ばたばたしていて、レス、訪問遅れてすみません。

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【ファイルF51】2012.10.20 大阪道頓堀(どうとんぼり)の『大黒 (だいこく)』さんだよ

『かやくご飯』が名物だねえ。

 大阪道頓堀『大黒』さんの創業は、明治35(1902)年。日露戦争より前なんだねえ。

 とても有名な老舗店です。

 作家の池波正太郎さんも劇団公演で来阪の際に愛用していたお店です。

 【『散歩の時に何か食べたくなって』池波正太郎著 新潮文庫P82より】

※   ※   ※

 朝食をすますと、道頓堀を歩いて新歌舞伎座へ出かけ、公演中の劇団の人たちと打ち合わせなどをするうち、昼過ぎになる。自分の出番を終えた辰巳(たつみ)隆太郎と共に昼飯に行くのが、御堂筋(みどうすじ)の西を少し入ったところにある〔大黒(だいこく)〕である。

名物の〔かやく飯〕に、熱々の粕汁(かすじる)か味噌汁。それに焼魚をとって食べるそのうまさは、旅に出ていることだからというのではなく、どこの家庭の日常にも食膳にだされるような変哲もないものが、これほどにうまいのは、やはり大阪の、“知る人ぞ知る”食べ物屋だからだ。

※   ※   ※

 現在の新歌舞伎座。

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 仕事場の新歌舞伎座からほど近い便利な場所に、美味しいお店があって、池波正太郎さんも良かったねえ。

 もちろん地元吉本の芸人さんも利用していて、大御所の西川きよしさんも大のお気に入りなのだそうです。

 関西では『炊き込みご飯』、『五目飯(ごもくめし)』のことを、『かやくご飯』とか『かやくめし』と言います。

 そういえば、笑福亭仁鶴(しょうふくていにかく)師匠が噺(はなし)の枕に、「お茶碗にかんしゃく玉が入ったのを知らずに食べて口の中で爆発。ぱぱんぱんぱんぱ〜ん!これが本当のかやくご飯や〜。ちゅうたりしてね」というのがあったけれど、関東の人には分からないねえ。

 仁鶴師匠には申し訳ないのですが、この場合の『かやく』は『火薬』ではなく、『加薬』と書きます。

 本来は漢方薬の効果を高めるために補助的な薬を加えることや、その薬を表す漢方の用語なのだそうです。

 この補助的な薬から転じて、炊き込みご飯やうどんに入れる具(主材料を引き立たせる副材料)を『かやく』と呼ぶようになり、その後、炊き込みご飯のことを『かやくご飯』と呼ぶようになったそうです。

 そういえば、大阪には道修町(どしょうまち)という有名な薬問屋の町がありますからね。

 納得!

 食物に添え、料理の味を引き立たせる、香辛料や野菜などの総称のことも『かやく』と呼んでいたのですが、現在では『薬味(やくみ)』と呼ぶことが多いようです。

 大黒さんの場所は、観光地でもある道頓堀(どうとんぼり)はグリコの看板で有名な戎橋(えびすばし)の近くです。

 ロイヤルホストの路地を入って、

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 この看板を目当てにするといいねえ。

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 ということで到着。
 
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 平日の開店前に到着して、開店と同時に入った時には私を含めお客さんが7名。


 お客さんが入りやすいように、暖簾の左端がわざと半分からげてあるのが粋だねえ。

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 ところで、『粋』という字。東京は『いき』と読みますが、大阪での読みは『すい』です。

 屋号の『大黒』様は商売繁盛の神様だから、縁起がいいねえ。それで特に大阪の人は好きなんだろうねえ。

 近くの道頓堀川には大黒橋(だいこくばし)という名前の橋まで架かっています。

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 店内は8名程坐れる大きなテーブルが2つ。

 結果、当然のごとく相席になります。

 椅子の背もたれに『大黒』の透かしが。

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 こちらが、レギュラーメニューです。

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 池波正太郎さんの頃にあった『粕汁(かすじる)』はメニューに見あたりません。

 大阪でお商売をされる人の必需品、今宮戎(いまみやえびす)の福笹(ふくざさ)の下にはおすすめセットと、季節のメニューが。

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 私は、かやくご飯(中)450円と、さわら焼物600円と、白みそ豆腐300円+消費税外税の計1,410円也を注文しました。

 どうやらここのお店は、消費税10円未満切捨てのお会計みたいです。あとで、季節のサンマ焼物の方を頼んでも良かったなあと思いました。

 お魚を焼くのに少々時間がかかるので、店内を拝見。

 店名どおり、大黒様の置物がおいてありました。

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 額に入った絵が飾ってあったよ。

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 これは、美人画で有名な東郷青児(とうごうせいじ)画伯が、来店の折にその場で描いてくれたものなのだと、女将さんがおっしゃっていました。

 こちらにはキュービズムっぽい大黒様の絵が。

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 この絵は中村真(なかむらしん)画伯が描かれたものだそうです。

 後で調べたら、画伯は洋画家でモダンアート協会運営委員。昭和44年5月14亡くなるまで、万国博日本政府館展示設計者として尽力。日本美術家連盟関西支部委員長、大阪芸術大学デザイン科主任教授でもあり、関西美術界で幅広い業績を残した偉い先生なんだって(間違っていたらすみません)。
 

 アカデミックで、さすがは老舗のお店だねえ。サランラップで包んだ芸能人のサイン入り色紙を画鋲で貼り付けるのとえらい違いです。


 ということで、おわんに香の物が乗っかった、かやくご飯(中)とさわら焼物が来ました。

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 ふたを開けると、湯気とともご飯のいい香りが。

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 薄口醤油の上品な味付けがされた、暖かいふわふわしっとりご飯と、細かくて歯に嬉しいかやくのアクセントがなんともいえません。『かやく』は、細かく刻んだこんにゃく、油あげ、ごぼう。


 やっぱり日本の甘くてもちもちおコメはお醤油味だねえ。

 さわら焼物は最初は何もつけずに。

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 程よい塩味だったので、お醤油を少したらしていただきました。
 
 ここのお店は、看板メニューのかやくご飯に負けず劣らず、焼き魚が美味しいのです。

 ぷりぷりした食感で、焼き加減も丁度良く、さわら独特の淡白で上品な味わいが咬む度に口中に広がります。当然ぱりぱり香ばしい皮ごと食べます。

 それから、ここで忘れてはならないのが、白みそ豆腐のおみおつけ。

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 私は白味噌独特の甘みがどちらかというと苦手なのですが、ここのおみおつけは、白味噌の甘みがコクに転換したみたいな感じの味で、その分関西風昆布かつお出汁の旨みが引き立ちます。
コクがあるのに後味にキレがあるねえ。なんかビールの宣伝みたいになりましたが、そうなのだからしょうがないのです。

 お豆腐がつるるんと入り、三つ葉の爽やかな味が利いています。

 池波正太郎さんがここでの食事を『どこの家庭の日常にも食膳にだされるような変哲もないものが、これほどにうまい』と評したように、シンプルなお料理を真面目にきちっとした仕事でちゃんと出すというのは本当に偉いなあと思いました。

 ごはんと焼き魚とお味噌汁という定番メニューで老舗を張り続けるというのはなんと凄いことでしょう。

 これが信用を重んじる大阪商人の誠実さなのですね。

 お昼食に1,410円で少し値が張りますが、この味ですから、とてもリーズナブルです。

 なにかというと揚げモン粉モンのイメージがつきまとう大阪ですが、あれは基本的には戦後のもので、この上品なお味が上方(かみがた)の特徴なのだと改めて思いました。









【ファイルF51】2012.03.23 大阪高麗橋(こうらいばし)の柴藤(しばとう)さんの大阪まむしを食べたよ

大坂風の腹開きの鰻(うなぎ)さんだねえ。

 江戸のうなぎは背開きで、大坂のうなぎは腹開きだと言われています。

 それは、

 江戸は武士の街ですから、腹開きは切腹に通じ、縁起が悪いから背開き。

 大坂は町人の街だからそんなの関係ないので、『腹を割って話せるように』腹開きという俗説がありますが、これは、あくまで『俗説』で本当の理由では無いそうです。


 第一、うなぎなんて江戸でも基本的に町人の食べ物だし、大坂商人は「腹を割って話す」というのが良く分かりません。商売には相手の腹を探って駆け引きする腹芸も必要だからです。

 そうではなくて、

 江戸の場合は開いてから蒸す工程があるので、腹開きにして脂分たっぷりの柔らかいお腹側が外になると、蒸されて更に柔らかくなったお腹の身が、いざ本焼きするときになったら、ぐずぐず崩れるから、堅い方の背中側が外に来る背開きなんだって。

 腹開きだとこんな風になるんだねえ。

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 外側が柔らかいお腹になって、蒸し焼きすると身が崩れて外側に打つ串も外れるんだね。

 ところが、大坂は開いてすぐに焼く直火焼きなので、普通に腹が外側に来る腹開きというのが本当の理由のようです。

 東京(江戸)と大阪(大坂)の基本的なうなぎの焼き方を見てみましょう。

 江戸は背開きで、割いたうなぎの頭を落として半分に切って竹串を打ち、皮の方から一度白焼きしたものを、せいろで蒸して脂を抜いて柔らかくし、タレの中にうなぎをつけ込んで本焼きします。

 大坂は腹開きをし、頭をつけたまま金串を打って身の方から白焼きした後、タレをかけながら、じっくり本焼きし、焼き上がってから頭を落とします。

 ですから、一旦蒸す江戸のうなぎの方が蒸して脂を落とすので、柔らかく淡泊なお味。

 大坂のうなぎはパリパリで、脂がのって濃厚だと言われているそうです。


 ところが、なんか大阪でも大坂風(関西焼)の鰻屋さんが減ってきて、『竹葉亭(ちくようてい)』のような江戸風(関東焼)の鰻屋さんが氾濫しているようです。

 それは、大坂上方風の『まむし』、つまり腹開きの直火焼きで仕上がりを柔らかくするには、蒸しという工程が入る江戸風の鰻より高度な技量が必要なので、大阪でも、本来の『大坂風(関西焼)』の蒲焼きを出すお店が年々少なくなっているからなのだそうです。

 つまり、蒸せば柔らかくなるのは当たり前で、鰻独特の味を閉じ込めたまま、直火焼きだけで柔らかく仕上げる大坂風の鰻の高度な技術の継承がうまくいっていないのですね。

 大阪の人達は、口を開く度に『ぶっこわす』という橋下市長を支持している場合じゃなくて、こういう貴重で誇るべき文化を絶やさないように努力すべきだと思うねえ。

 鰻に限らず、今は東京では関西風の出汁のうどんが増えてるし、逆に大阪では江戸風のにぎり寿司が増えているようなのです。困ったもんだねえ。


 でも、大阪で鰻を食べるからには腹開き直火焼きの大坂風のうなぎに限るねえ。

 ということで、今回訪れたのは大坂風の鰻の代表格、大阪市中央区高麗橋(こうらいばし)2丁目の大阪うなぎ及び日本料理の老舗 享保年間創業十四代目本家柴藤(しばとう)さん。

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 まだ準備中のお店です。

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 和歌山の備長炭で焼いています。

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 本日は宮崎産のうなぎを使用しているそうです。

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 柴藤さんのうなぎは、昔と違って”産地うんぬん”ではなく、今日はどの産の鰻が“うまい”かを市場で判断して仕入れているそうです。


 お店に入ると、1階で夕刊をくれました。

 つまり、「焼くのに時間がかかるので、新聞でも読んで待っててね」ということみたいです。

 それで2階に案内されました。

 それで、せっかく大阪でうなぎを食べるので、奮発して『大阪まむし』の『蘭』4,350円也を注文しました。『柴藤流おひつまむし』というのも魅力的なんですけどね。 

 養殖鰻は、卵から育てる完全養殖は技術的にまだ不可能なので、シラスウナギという鰻の稚魚を海で獲って、それを育てます。

 ところが、最近このシラスウナギが不漁で、鰻の値段が業界始まって以来の高騰をし、柴藤さんも最近値上げをしたそうです。鰻価格の高騰のため、店を畳む鰻屋さんも出てきて、事態は深刻なのです。


 お汁は赤だしにするか、肝吸い(きもすい)にするか訪ねられたので、肝吸いをお願いしました。お店の方がとても気さくで丁寧に応対していただきましたよ。

 思ったほど時間がかからずに、『大阪まむし』の『蘭』が出てきました。

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 うなぎさんがご飯の上を泳いでいます。
 
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 この、ほんのりキツネ色の焦げ目とタレと脂の照りが美味しそうだねえ。

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 さっそく山椒の粉を振りかけて食べるよ。
 
 焦げ目の付いた香ばしい皮に弾力がありますが、身は柔らかいねえ。

 鰻独特の風味が口に広がって鼻に抜けますが、脂はしつこくありません。

 焼かれて香ばしい香りの甘辛いタレが鰻とご飯の味を引き立たせて、山椒の粉のスパイシーさが味を引き締めます。

 このタレは、本たまり、本味醂、灘の酒が使われ、それが創業以来の製法を守り続けた柴藤さんの味なのだそうです。タレだけでもご飯が進むねえ。

 鰻はご飯の上だけでなく、ご飯とご飯の間にも入れてあって蒸されているので『間蒸し=まむし』なのですが、その名の通り、ご飯の間にも鰻が入っていて、これも美味しいのです(現在はごはんの間に小2切れ、上に大3〜4切れのせてあるそうです)。


 肝吸いです。

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 関西風の上品な薄口のお澄ましです。
 うな肝はぷにゅっと弾力があってつるんと喉を通りました。

 それで、ご飯が足りなければ、値段はそのままでご飯の増量が可能だそうですが、これだけでお腹いっぱいです。

 ごちそうさまでした。


 うなぎの蒲焼きはサキ三年、クシ八年、焼き一生といわれ、どれだけ手早く包丁で裁き、串うちをするか、その仕事次第でその後の焼きがうまくいくかどうか影響するんだって。


 本家柴藤さんは、享保年間創業です。

 創業者の初代治兵衛さんは将軍家に魚を献上する川魚商を営み、八代将軍 吉宗さんからの勧めで料理屋「柴藤」を大阪城付近で開業したのが始まりだと伝わっているそうです。

 享保の改革で有名な、暴れん坊将軍の出入りの魚屋さんなんて、凄いねえ。

 江戸武士の棟梁(とうりょう)である、八代将軍 吉宗さんからの勧めで開いたお店で出されるうなぎが『腹開き』だということだけでも、『江戸=武士=切腹を嫌う=うなぎは背開き説』は破綻していますね。

 そういえば、三代将軍徳川家光の時代に贔屓にされたという一心太助(いっしんたすけ)さんという魚屋さんがいましたね。太助さんは伝説上の人物なんだそうですが、将軍様は魚屋さんと縁が深いのかな?


 川の多い水都大阪の町では、屋形船でおいしい料理を楽しむのは風流とされ、柴藤さんもとても繁盛しました。

 しかし、ところがそれだけでは満足しなかった創業者の治兵衛さんはうなぎの美味しい食べ方を研究して、ついにうなぎの代表的料理の『間蒸し(まむし)』=鰻重(うなじゅう)を考案したんだって。

 間蒸しというのは、ご飯とご飯の間にうなぎを挟んで蒸すもので「ご飯の間(ま)で蒸す」というのが語源といわれています。

 また、まぶす(混ぜるということ)が言いにくいので、いつの間にか「まむし」と 言うようになったという説もあるそうです。

 蛇の蝮(マムシ)さんとは関係ないんだねえ。

 柴藤さんのお店は、創業享保年間御拝領の屋形船から土佐堀、淀屋橋、今の高麗橋へと時代とともに移り変わりましたが、治兵衛さんが発明した大阪まむしは上方鰻の代表として、280年経った今もみんなに愛されているんですね。

 ということで、今回は大阪風腹開きの鰻で有名な柴藤さんの『大阪まむし』でした。

 大阪の味を味わいたいという鰻好きの方はどうぞ。








【ファイルF50】2012.02.11 大阪名物のインデアンカレーだよ

大阪の有名カレー店だねえ。

 カレーはいろいろとご紹介してきましたね。私はカレーが大好きです。

 まあ日本人というのは概ねカレーが好きで、インドから大量のカレー用のスパイスが輸出されています。

 本場カレーや、欧風のカレーがありますが、今回は大阪の有名欧風カレー店のインデアンカレーです。

 大阪では人気のカレー屋なので、大阪に来たときにはいつかご紹介しようと思っていました。

 インデアンカレーは大阪に7店舗、兵庫県の芦屋に1店舗、そして東京の丸の内に1店舗の計9店舗あるそうですが、今回はJR大阪駅から歩いて行ける地下モールの阪急三番街B2『三番街店』にお邪魔しました。

 『インディアン』じゃなくて、『インデアン』なのです。

 インデアンカレーHPはこちら。
http://www.indiancurry.jp/

 『三番街店』です。

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 ガラスのウインドウには、ターバン野口さんのようにターバンを巻いて白いおひげを蓄えた大きなインド人さんのステンドグラスがしつらえられています。

 このインド人さんがインデアンカレーのトレードマークなんだねえ。

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 ターバンを巻いておひげを伸ばしているからには、カールサー派のシーク教徒の人なんだろうねえ。

 インドの最大派のヒンドゥー教の人達は、一般的にターバンしないのに、インド人=ターバンというイメージは世界的に広がっています。

 インデアンといえば、普通『インデアン嘘付かない』の、アメリカの西部劇に出てくるような頭に羽根飾りを付けたインデアンを思い浮かべるのですが、そういう意味ではなく、正真正銘のアジアのインドにお住まいのインド人という意味です。

 新大陸に来たコロンブスが、てっきりインドに付いたものだと思い込んだために、アメリカ大陸の先住民をインディアン(インド人)と呼ぶようになってややこしいんだね。

 ところで、以前大阪ミナミの自由軒の名物カレーをご紹介しました。
 記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/39052286.html

 自由軒のおばちゃんも『名物カレー』のことを「インデアン一丁!」と呼んでいたから、大阪の人は辛いカレーのことをインデアンって言うんだろうねえ。

 ということで、ここのメニューはいかにもカレー専門店らしく、インデアンカレーとハヤシライスのみです(店舗によって、あとインディアンスパゲッティ、ピラフ、ミートスパゲッティがあるようですが)。

 悩まなくて良いから楽ですね。

 私はインデアンカレーのレギュラー730円也をいただくことにしました。

 先にレジでお会計をすませて、小判型の黄色いプラスチックの札(食券)を受け取って、カウンター席医に座り、店員さんに渡すと、すぐカレーが出てきます。

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 早い!牛丼の吉野屋さんより早い!

 まあ、ライスにカレールーをかけるだけですからね。

 美味しそうだねえ。

 早速食べるよお。

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 インデアンと言っても本場インドのさらさらカレーではありません。

 口に入れるとご飯と一緒にとろっとしたまろやかルーが口いっぱいに張り付きます。

 フルーティーな甘みのある“こく”とともに、ビーフの旨味にやや遅れて刺激的な辛さで舌がぴりぴり!

 牛肉は長時間煮込んであって、繊維がほどけていくねえ。

 甘みとこくと辛さのバランスが絶妙だねえ。このお味は創業昭和22(1947)年以来変わらないそうです。

 インデアンカレーは、インドの先生を招いて、カレー作りを教わるほどに料理が好きだった創業者(現在の店主のお母様)が、戦後の不景気の中で活力のある美味しいものを出そうと大阪にお店を開いたのが始まりなんだって。

 戦後大阪復興のお味なんだねえ。

 食べ終わるまでお水は我慢して、食べ終わったら、ほどよい酸っぱさのキャベツのピクルスで口の中を落ち着かせ、お水を飲みます。

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 お店を出てからしばらくしても、口の中がカレーでぴりぴりして幸せだねえ。

 ということで、今回は大阪名物インデアンカレーでした。

 東京の丸の内のお店でも良いけれど、大阪にお立ち寄りの際にはお越しくださいね。





【ファイルF50】2011.10.08 大阪千日前の『家庭料理 あずま食堂』に行ったよ

『生姜の天ぷら』も美味しいねえ。

 大阪千日前の『なんばグランド花月』の裏手にやってきました。

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 裏には駐車場や通用口があって、人気芸人さんの出待ちをする追っかけの子たちがここに張り込んでいるそうです。

 昔ダウンタウンが売り出し中の頃は凄かったらしいねえ。

 そういえば、島田紳助さんの引退の時は、駐車場の車に乗り込む他の芸人さんのインタビューを撮ろうと、ここにマスコミが貼り付いていました。

 通用口の横には『吉本興業株式会社』の看板があります。

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 ここからすぐ目と鼻の先にあるのが、『家庭料理 あずま食堂』です。

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 地の利もあり、美味しいことから、吉本の芸人さんが良く来る食堂なのです。

 吉本の芸人さんって結構大阪じゃない地方出身者が多いからねえ。

 明石家さんまさんは奈良だし、西川きよしさんは高知だし、宮川大助・花子さんの大助さんは島根の境港だし、今いくよ・くるよさんは京都出身。ダウンタウンは二人とも兵庫県尼崎市。桂文珍師匠は兵庫県の山奥の篠山市。友近さんは愛媛県松山市・・・・。

 ということで、吉本の芸人さんの大阪弁って結構訛ってるんですよね。

 だから、地方出身者が多い吉本の芸人さんに『家庭料理』のおふくろの味が人気があるんだねえ。

 以前、吉本の芸人さんが良く来る食堂として『千とせ』の記事を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/37752783.html

 ここも人気の食堂なのですね。

 『家庭料理 あずま食堂』には、開店時間すぐに行ったので、客は私で2人目でした。

 お店は女性ばかり3名で切り盛りしていて、有名な美人の女将さんがいました。

 ガラスのショーケースから小鉢を3つ選んで、メインは若い頃常連さんだった明石家さんまさんに敬意を表して『秋刀魚(さんま)』にしました。

 また、明石家さんまさんも好物だという、『生姜の天ぷら』も揚げてもらうことにしました。

 写真を撮っても良いですか?って聞いたらば、メインディッシュに注文した『さんま』が出来てから写してねって言われました。

 それでさんまさんが揃って写真を撮ったよ!

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 さんまさんから食べるよ。

 さんまは大きくてぷりぷりと身が締まっていて美味しいのです。しっかりと青いお魚の味がします。

 やっぱり大根おろしとお醤油というのが黄金のコンビだねえ。

 大阪名物『生姜の天ぷら』です。

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 揚げたてだったので、カリッとして、ころもの脂と、生姜の酸味のさわやかさがマッチして不思議なお味・・・。

 これは美味しいねえ。

 女将さんによると、ここで生姜の天ぷらを買って、お土産に東京に持っていく人も多いんだって。

 そりゃそうでしょ。生姜の天ぷらなんて関東には無いし・・・。

 
 小鉢3つは きんぴらゴボウ(ニンジンとこんにゃく入り)、とひじきとカボチャと揚げ豆腐とお漬け物。

 もちろんガラスケースから取ったので、冷めていますが、その分味が馴染んでいるのです。

 きんぴらゴボウさんはとても歯ごたえがあって甘辛いし。

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 ひじきは香ばしくて、カボチャはとろ〜り甘いのです。

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 ごはん(小)たくあん付きとお豆腐のお味噌汁も頼んだよ。

 ほかほか湯気が出ているねえ。

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 やっぱり日本人は白米とお味噌汁です。

 これを食べると元気が出ます。

 常連とおぼしきお客さんのおじさんの大阪弁が味わい深いねえ。お店の人も気さくだし。

 吉本新喜劇の世界だねえ。

 食べ終わってお会計です。

 お店の人がお皿をみて計算します。

 吉本新喜劇だと「いくら?」「400万円」ズテッ!

 と全員がこけるんだけど、

 しめて1240円也。

 リーズナブルでお腹いっぱいになったよ。

 ごちそうさまでした。

 大阪の正しい食堂でした。









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【ファイルF49】2011.07.17 東京銀座の『ナイルレストラン』のカレー『ムルギーランチ』は美味しいねえ

初代ナイルさんは、インド独立の闘士だったんだよ。

 インド料理店のナイルレストランは、東京銀座は歌舞伎座の近くにあります。

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 お店の前にはありがたい仏像が。

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 入店するとナイルレストランご主人の2代目ナイルさんが迎えてくれました。

 席に案内されると、いきなりオーダーを聴かれます。

 『ムルギーランチしましょうか?』

 『はい』

 商談は即決で成立です。

 オーダーを聴くと言うよりも、『この店に来た以上は、ムルギーランチを注文するのだろうね?』という念押しをされるといったほうが正しいのです。

 この店の経営方針は、注文は原則ムルギーランチということになっているのです。

 ややこしいもんは注文しないことです。

 他の皆さんも当然のごとくムルギーランチを注文しています。

 ムルギーランチというのは、ワンプレートのカレーライスセットです。

 店内にはインド料理屋さんではお約束の、インドの歌謡曲が流れています。

 正しくムルギーランチを注文すると、すぐに若いインド人のボーイさんがムルギーランチを運んできました。『餃子の王将』並の素早さです。

 普通ならここで、すかさずボーイさんが鶏肉の身から骨を外してくれるのですが、皆さんに紹介しなければならないので、『先に写真を撮らせてください』とお願いすると、心得たもので、作業をしやすい向きに置かれたお皿を写真を撮りやすい向きに直してくれました。

 鶏肉解体前のムルギーランチ

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 写真を撮り終えると、もう一度お皿の向きを作業しやすい方向に向け、冷めないように手早く鶏肉の骨を外してくれます。

 鶏肉解体後のムルギーランチ。

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 『よくかきまぜてから食べてください』

 これも、このお店のお約束です。

 実際に先によくかき混ぜて食べると美味しいのです。

 中身は鶏肉とシャキシャキキャベツと、マッシュポテト、とグリーンピースです。

 この意表をついたキャベツと、マッシュポテトの組み合わせでまろやかさを出していて、ピリ辛カレーにマイルドなこくを出しているのです。

 ナイルレストランのHPを覗くと、使用されている『ギー』は精製された水分のない純植物性食用油脂で、古くから東南アジア、特にインドでは『ワナスパティ・ギー』という名称で健康の油として非常に広くいろいろな料理に用いられてきたのだそうです。

 これは、カレー料理、及びその他の料理や揚げもの、または菓子やテーブル用に素晴しい味を出しますが、とりわけここナイルレストラン『ギー』は純植物性食用油脂で他の脂肪分は全く含んでいないのが自慢なんだって。

 しゃばしゃばのカレーがターメリックライスによく絡みます。

 客の接遇はご主人のナイルさんの担当のようで、水をついで回っています。


 美味しかったねえ。

 以前、日本に亡命したインド独立の闘士ラス・ビハリ・ボーズさんで有名な新宿中村屋の記事をUPしました。
 
 新宿中村屋の記事はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/52198887.html

 ここナイルレストランの初代ナイルさんもインド独立の闘士で、自ら本も出版されています。

 『知られざるインド独立闘争―A.M.ナイル回想録(新版)』 河合伸訳、風涛社、2008年

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 初代ナイルさん〔A.M.ナイル、またはアイヤッパン・ピッライ・マーダヴァン・ナーヤル, 1905年 - 1990年4月22日〕は、インド独立運動家で事業家でした。

 裏表紙に載っていた、A.M.ナイルさんの肖像写真。

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 A.M.ナイルさんは高校在学中からインド独立運動に参加し、イギリス植民地当局から要注意人物として監視されていたため、昭和3(1928)年に、かつて北海道大学に留学していた5歳上の兄の熱心なすすめにより京都大学工学部に入学、土木工学を学びます。

 来日早々、先に日本に亡命し東京を中心に活動していたインド独立運動家のラス・ビハリ・ボーズを訪ねています。

 昭和7(1932)年に大学を卒業した後は栗本鐵工所へ入社しますが、インド独立運動家としての講演活動などが多忙になり退社し、ビハリ・ボースの腹心として、日本政府の上層部や荒木貞夫や田中隆吉などの軍上層部、頭山満や大川周明などのアジア独立主義者らと関係を結びインド独立運動(反イギリス植民地運動)を行います。

 これにより、ナイルさんはイギリスの植民地のインドには帰れなくなり、事実上の日本亡命を余儀なくされます。

 昭和8(1933)年の夏に国賓待遇として満州国を訪問して以来、満州国と日本を行き来し、インド独立運動を続けつつ、変装してモンゴル奥地の調査旅行や、満州在中のロシア人社会の情報収集をするなど、スパイ映画さながらの活動をします。

 昭和14(1939)年には満州建国大学の客員教授をつとめ、五族(漢・日・蒙・朝・満)の大学生に対して、インドだけではなくアジア各国の独立を説きました。そして、日本人の浅見由久子と結婚。長男が誕生します。

 昭和16(1941)年12月に日本は大東亜戦争に突入し、イギリスと開戦します。

 翌昭和17(1942)年には、東南アジアのインド独立運動を盛り上げるために、ラス・ビハリ・ボーズを総裁とする「インド独立連盟」(のちに後継者のスバス・チャンドラ・ボーズによって「自由インド仮政府」となる)が結成され、ナイルさんは事務総長として活動したほか、日本側との連絡担当・インド向け宣伝活動担当・日本向け広報担当など八面六臂の活躍をします。

 昭和18(1943)年になり、スバス・チャンドラ・ボーズが来日して、インド独立連盟総裁・自由インド仮政府首班に就任しました。

 ナイルさんはチャンドラ・ボーズと意見が食い違うこともありましたが、インド独立と東南アジア在住のインド人のための活動は継続していました。

 昭和19(1944)年には次男(G. M. ナイル)が誕生します。

 この次男のG. M. ナイルさんが、今のナイルレストランの2代目御主人です。

 この人にお水をついでもらって、畏れ多いねえ、

 しかし、昭和20(1945)年にはビハリ・ボーズとチャンドラ・ボーズが相次いで客死した上に、同年8月の日本は敗戦をむかえます。

 ナイルさんは、大東亜戦争終戦後も引き続き日本に留まり、昭和21(1946)年に行われた極東国際軍事裁判(東京裁判)のために来日したラダ・ビノード・パール判事の通訳を務めたほか、裁判情報の提供に協力しました。

 ラダ・ビノード・パール判事は東京裁判判事の中で唯一の国際法の専門家で、日本無罪論を主張しました。

 昭和22(1947)年8月のインド独立後、ナイルさんは家族とともにインド国籍を得ますが、新政府には戻らずに引き続き日本に住み続けます。

 昭和24(1949)年には、駐日インド大使の顧問に就任するとともに、東京都中央区銀座に日本初のインド料理専門店となる、ここ「銀座ナイルレストラン」を開店します。

 そして、在日本国インド大使館特命全権大使K・K・チェトゥール氏のもとで、『日本国とインドとの間の平和条約(日印平和条約)』締結のために尽力します。

 第二次世界大戦時、イギリス領の植民地として戦勝国側だったインドはサンフランシスコ講和会議に招請を受けますが、1951年8月23日に会議への参加と条約への調印は拒否し、そのかわりに独自に『日本国とインドとの間の平和条約』を締結します。

 その時の事情が前掲の『知られざるインド独立闘争―A.M.ナイル回想録(新版)』の
P374に書かれてあります。

※  ※  ※

 日米安保条約についてはおそらく多くの国々が知っていて、少なくともいくつかの国は、その調印が9月8日に行われることも知っていたに違いない。

 しかしインド以外には、事前に条約の原文を入手していた国は、まずなかったと想う。

 わたしはひょんなことから、完全で正当な手段で、チェトゥール氏のためこれを入手することができたのだ。

 東京の内閣記者会は政府から内密に安保条約の説明を受け、そのコピーをもらっていたが、その発表はサンフランシスコ条約と同時で、それ以前ではならないと指示されていた。

 しかし、わたしが親しくしていたあるジャーナリストは独自の考え方をして、この条約については何ら秘密にすることはないと考え、わたしに写しを分けてくれたので、それをチェトゥール氏に回したのである。

 だからネルー首相は事前にそれを読んで、アメリカはサンフランシスコ条約の傘の下に日本がアメリカの勢力圏内にとどまるよう強要することが分かったのである。

 これは日本に「国際礼譲の中での十分な名誉と平等、満足」を与えないことを意味していたのだから、インドとしてはどうしても、受け入れるわけにはいかなかった。

 もし日本が、完全な独立国となった後に自らの意志で、しかも慎重な検討の後に外国軍隊の駐留に同意すると決めるなら、話は別である。

 しかし独立の回復が、特定の国、すなわちアメリカにとって都合の良い条件に左右されるのは間違っていた。

 インドがサンフランシスコ条約に調印しないと最終的に決断したのは、安保条約の原文を吟味した結果だったとわたしは確信している。

 サンフランシスコ会議に出席した52カ国のうち日本も含めて49カ国が調印した平和条約は、1952年4月28日に発効した。

 日本とインドの平和・友好条約は、同年6月9日に締結された。インドを代表してチェトゥール氏が、日本を代表しては岡崎勝夫外相が署名した。岡崎外相は調印にさいし、次のように語った。

 「この条約には日本に対する友好と好意の精神が貫かれており、一切の賠償請求を放棄して、インドにある日本資産を返還するという条項は、特にその好例である」

※  ※  ※

 日本が主権を回復した昭和27(1952)年には小泉忠三郎とともにナイル商会を設立、インドの食材などの輸入を手掛けます。

 その後もパール判事の来日の際のブレーンとして活動する他、吉田茂、石橋湛山、大野伴睦、藤山愛一郎など日本の政財界人との広い交友関係を生かしながら在日インド人協会の代表などを歴任し、日印両国を行き来し日印親善活動を続けました。

 昭和59(1984)年には、日印親善に尽くした功により日本政府から勲三等瑞宝章を授与され、平成2(1990)年4月22日に故郷のティルヴァナンタプラムで死去。

 インドをはじめとした東南アジアの独立と日印友好に努力されたA.M.ナイルさん。

 ごちそうさまでした。










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