【ファイルF47】2011.06.04 新宿中村屋本店のインドカリーだよ
インド独立の闘志ビハリ・ボースさん直伝インドカリーが日本における本場カリーの草分けなんだねえ。
新宿の老舗カレー店に中村屋さんがあります。
中村屋さんは支店も沢山あるし、レトルトカレーも売っているねえ。
それで、新宿中村屋本店2階のインド・カリーレストラン『ルパ(REPAS)』に行きました。
ルパに行くにはエスカレーターを利用します。
お店に入るとボーイさんが席に案内してくれます。
すぐにお姉さんがお水を持ってきてくれて、オーダーを取ってくれます。
インドカリーのセット2,131円也を注文しました。
右側のテーブルには、年配の作家と編集者2人といった感じのグループで、左側のテーブルは、お姉さんのオーダーで聴かれる前に、てきぱき完璧に注文するいかにも常連のお父さんでした。
いかにもといった感じです。
こういう雰囲気はなんか居心地が悪いのですが、カリーのためにはがまんがまん。
まず、出てきたのが、洋食の正しい、シャキシャキでよく冷えたフレンチドレッシングサラダです。
それでいよいよ、インドカリーの到着です。
薬味や粉チーズがついています。
正しくカレーのポットにルウが入っています。
スパイシーな純インドカリーです。
骨付きの鶏肉は軟らかく繊維がほぐれます。チキンの旨味がルウににじみでていて、ライスに絡んでとっても美味しいねえ。
奥の小皿に骨を入れるようになっています。
粉チーズをいれると、味に更に『こく』が出ます。
大きなジャガイモさんが、ホクホクしています。やっぱりカレーにはジャガイモさんが入っていないとねえ。まろやかさが出ないからねえ。
食後のマンゴージュースは甘くてトロ〜リ。
ラッシーと同様、このとろみが口に残ったカレーの辛みに絡みついて流してくれます。
お水が少なくなったら、すぐに注ぎ足してくれるのも嬉しいねえ。
日本における、さらさらの本格派インドカレーの味の基準というか、教科書的存在がここ中村屋のインドカリーです。
それは、ここ中村屋の沿革をひもとくと、よく分かります。
実は、ここ中村屋のカレーには、近代インドの独立の闘士ラス・ビハリ・ボースの魂が脈々と流れているのです。
ラス・ビハリ・ボースさんの肖像。
イギリスの植民地支配を受けていたインドの独立といえば、マハトマ・ガンジーやチャンドラ・ボーズが有名ですが、もう一人のボーズ=ラス・ビハリ・ボースの存在を抜きにしては語れないのです。
◇ ◇ ◇ ◇
ラス・ビハリ・ボースは明治19年、インドベンガル地方に生まれました。英国の植民地として圧政に苦しんでいた祖国を救おうと、16歳の時親元を離れ独立運動に身を投じます。
しかし、インド総督への襲撃をきっかけに、英国政府から懸賞金をかけられ、大正4(1915)年、日本に亡命します。
一方、日本では、アジア開放運動の志士を守ろうという動きが民間で高まっていました。しかし、日英同盟を結んでいた日本政府は、ボースに国外退去を命じます。
このような日本の外交に反発したのが頭山満(とうやま みつる)、犬養毅(いぬかい つよし)、寺尾亨(てらお とおる)、中村弼(なかむら たすく)などそうそうたるメンバーでした。
また、中村屋の創業者相馬夫妻もこれを新聞上で承知し、志士の身の上を気の毒に思っていました。そしてある日、店に立ち寄った中村弼に、相馬愛蔵(そうま あいぞうは「店の裏の洋館なら彼を匿えるかもしれない」とふともらします。
この一言が頭山に伝わり、中村屋のアトリエでボースを匿うこととなったのです。
その後ボースは4ヵ月半中村屋のアトリエで過ごします。中村屋には外国人を匿うのに都合の良い条件が揃っていました。
部屋がたくさんある、人の出入りが多い、外国人の姿も珍しくない、愛蔵の妻、黒光(こっこう)が英語を話せるなどです。
しかし何よりも大きかったのが、家中の人みんなの心がボースを匿うことで一致団結していたことでした。
中でも大きな存在だったのが相馬夫妻の娘俊子です。
俊子は、イギリスからの追及が厳しさを増し、中村屋を出なければならなくなったボースに嫁ぐことを決意、行動を共にし、支えたのでした。
ボースは相馬家の人々の温かさに触れ、いつしか肉親以上の親しみと敬慕の念を持つようになります。
そして大正11(1922)年、ついに日英同盟の破棄により英国の追及が終了。
ボースは、翌年には日本に帰化、また中村屋の役員を務めるようになります。しかし平和な日々は長くは続きませんでした。大正14(1925)年、逃亡生活の心労がたたり、俊子が亡くなってしまいます。28歳の若さでした。
自分を支えてくれた人を幸せに出来なかった・・・。ボースの無念は計り知れないものだったに違いないでしょう。
このように相馬家に強い愛情と感謝を抱いていたボースは、昭和2(1927)年中村屋の喫茶部開設時に一番の恩返しをします。それは純印度式カリーの紹介でした。
大正末、百貨店の新宿進出に中村屋は少なからず脅威を感じていました。
また、以前から馴染み客より「買い物の時一休みできる場所を設けてほしい」との要望が上がっていました。そこで愛蔵さんは喫茶の開設を検討。
しかし喫茶のような丁寧なお客扱いは容易には出来ないだろうとしり込みしてしまいます。
それを聞いたボースは、相馬家へのお礼のため、また、祖国インドの味を日本に伝えるため、インドカリーを名物料理にした喫茶部をつくろうと提案します。
そして昭和2年(1927)、喫茶部を開設。同時に、日本で初めての純印度式カリーが発売されました。
ところが、ボースが作ったのは本場のインドカリー。
お米はインディカ米を使用し、スパイスの強烈な香りが漂います。またお肉も日本人が見慣れない骨付きのゴロっとした大きな鶏肉。
初めはその異国の料理に日本人は戸惑いをかくせませんでした。そこで相馬夫妻はお米をインディカ米のようにソースが浸透し、なおかつジャポニカ米のようにモチモチ感がある白目米にします。
それでも、しばらくするとお客様が骨付き肉やスパイスの香りにも慣れ、次第に売上が伸びていくようになりました。
当時一般のカレーが10銭から12銭程度でしたが、中村屋のカリーは80銭。それにも関わらずと飛ぶように売れたそうです。
こうして、純印度式カリーは中村屋の名物料理になりました。そこにはボースの、祖国に対する愛情、相馬家に対する感謝があったのです。
(中略)
ラス・ビハリ・ボースは昭和20(1945)年1月21日、インドの独立を見ることもなく亡くなり、ボースと俊子の長男、正秀も日本陸軍戦車隊の一員として沖縄戦を戦いこの年6月に戦死します。
また、チャンドラ・ボースも8月19日、台湾上空で航空機事故に遭い共にインド独立を見ることなく亡くなります。
2人のボースが一生を捧げたインドの独立は2年後の昭和22(1947)年、インド国民の蜂起により果たされました。
◇ ◇ ◇ ◇
このように、中村屋のインドカリーの味は、暖かい日印の交流の結晶なのですね。
【注意】
中村屋とビハリ・ボーズに関連した著作として、
『中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義』中島 岳志 (著)
がありますが、これは私としては全くお勧めできません。
アマゾンの紹介では、
内容(「MARC」データベースより)1915年日本に亡命したインド独立の闘士ボース。新宿中村屋に身を隠し、極東の地からインド独立を画策する。アジア主義と日本帝国主義の狭間で引き裂かれた懊悩の生涯。「大東亜戦争」の意味とナショナリズムの功罪を描く。
↑とありますがこの本が食わせもののトンデモ本なのです。
これは、保守の皮を被った成りすまし左翼のプロパンダ本で、インドの解放のため国を追われ、日本で独立運動を続けたボーズさんと、中村屋の相馬家との温かい交流をダシに、頭山満、犬養毅、寺尾亨、中村弼、大川周明、内田良平、宮崎滔天等、アジアの独立のために彼を支援した人々や日本国を糾弾しています。
というより、戦時中の日本を糾弾するのが目的の本で、これは、ドキュメンタリーの風上にも置けないルール違反で、取材に協力した中村屋さんに対しても、とても非礼な内容です。
この中島 岳志という人は『同じ穴の狢(むじな)』という言葉が余程好きなようで、日本の半島大陸における歴史を無視して「インドを支配したイギリスも半島大陸を侵略した日本帝国主義も同じ穴の狢(むじな)」という自分の言いたいことをボーズさんを腹話術の人形代わりにして語らせているんですね。
本書の出版当時に、中村屋本店のレジに本書が展示されていましたが、さすがに今は撤去されています。
こんな本が大佛次郎賞論壇賞、アジア太平洋賞「大賞」同時受賞だって!
日本って本当に大丈夫?買って読んで損したよ!
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