お食事の部屋
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【ファイルF35】2010.03.11 東京銀座の洋食の老舗、煉瓦亭(れんがてい)さすがは、銀座の歴史だねえ。以前、この隣の洋食屋さんでカツカレー発祥の店、グリルスイスをご紹介しました。http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/40807852.html それで、今回はお隣の煉瓦亭です。ここは並んでいることが多いので、例によって中途半端な時間に行きました。 ここに来た目的は ポークカツレツ1,300円也 元祖オムライス1,300円也 です。 ポークカツレツやトンカツ・オムライスは、れっきとした日本料理なのです。 明治初期に日本に入ってきたカットレットは牛肉や鶏肉が使用され、パン粉をつけたものをバターで焼くという手法の料理が一般的でした。 それを、明治28年に開業した東京銀座の洋食店「煉瓦亭」がそれらの肉材を豚に変更し、料理法をバターで焼くものから油で揚げる方法に変化させたのがトンカツの起源です。 その後、昭和4(1929)年、宮内省大膳部で西洋料理を作っていた島田信二郎さんが、上野御徒町に開いた洋食店『ポンチ軒』で、分厚く切った豚肉にたっぷりのパン粉をつけ、大きな丸鍋になみなみ注いだ油で揚げ、箸で食べさせる今風のトンカツを売り出します。 トンカツ御三家と言われる『蓬莱家』『本家ぽん多』『双葉』がすべて上野にあるのはこういった訳があるのですね。 日本のカツレツ・トンカツは、西洋料理のカットレットに、野菜や魚をたっぷりの油で瞬時に揚げる江戸前の天ぷら技法を取り入れた日本料理=洋食なのですね。 だから、煉瓦亭さんはカツレツの元祖なのですね。 それで出てきたのが。カツレツです。 このポークカツレツはころもはぱりっとか、かりっとというより、サクサクとしたとても軽い歯ごたえなんです。 上品にさらさらパン粉をまぶしたような感じです。 中のポークは噛んだら、独特の旨みと香りがします。 適度な弾力を伴いつつ、それでいて筋が残らず歯がすっと入って噛み切れるのです。 私はカツはポークで、ビーフカツレツは今ひとつピンと来ません。 コロモ・脂とお肉の相性はやはりポークです。 ウスターソースと洋辛子でいただきます。 それから、元祖オムレツです。 カツレツの元祖がここ煉瓦亭さんなら、オムライスの元祖も煉瓦亭さんなのです。 がわがトロリとした卵なのは、他店と変わりませんが、なかのライスにはケチャップが入っていません。 少し堅めのライス、マッシュルーム、ミンチ、タマネギ、グリーンピースがとろり卵と和えてあって、食感が『卵かけご飯』なのです。 薄味の洋風具いり卵かけご飯をオムレツで包んで、その上にケチャップを添えた味といったら伝わるかな? 元祖なのに、新食感なのです。 ちなみに、『オムライス発祥の店』を自称する店は実は全国にいくつかあって、中でも有名店で有力な説とされているのが、ここ東京銀座の『煉瓦亭』と大阪心斎橋の『北極星』なのだそうです。 それで、ご紹介したように、ここ東京銀座の煉瓦亭が明治34年から売り出した元祖オムライスの中身はケチャップのチキンライスではないのです。 ポピュラーなケチャップライスのオムライスの元祖が大正15年に大阪心斎橋の北極星が生んだオムライスなんだって。 東京と大阪の繁華街でオムライスが生まれたというのが面白いですね。 今でこそ卵は物価の優等生と言われ安く手に入りますが、昔の卵は贅沢品でした。 その頃に、買い物をして、洋食屋さんでオムライスを食べるなんて、とてもハイカラで贅沢なことだったんでしょうね。 ということで、そういうことを考えながらここでお食事をするととても贅沢な気持ちになります。
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【ファイルF34】2010.02.15 神田淡路町の松榮亭(しょうえいてい)の洋食は夏目漱石が愛した味(下)松榮亭にまつわる偉人たち。(上)はこちら。http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50190647.html 松榮亭創業1907のプレート(再掲)。 イギリス留学から帰国した夏目漱石さんが東京帝国大学のラフカディオ・ハーンの後任として英語リーダーの講師に赴任したのは明治36(1903)年です。 『吾輩は猫である』の執筆開始が明治38(1905)年『坊っちゃん』が明治39(1906)年 松榮亭がオープンした明治40(1907)年には朝日新聞社に入社して、職業作家としての活動を始め『虞美人草』を執筆しています。 漱石と松榮亭の縁については、池波正太郎さんの『散歩の時に何か食べたくなって(新潮文庫)』に、こんなエピソードが書かれているので引用してみましょう。 ※ ※ ※ この松榮亭の初代店主・堀口岩吉には、明治中期に東京帝国大学が哲学教授としてドイツから招聘したフォン・ケーベル博士との結びつきがある。 〔ケーベル博士随筆集〕一巻は、私も戦前の岩波文庫で愛読したものだった。 初代は、麹町の有名な西洋料理店〔宝亭〕で仕上げた料理人(クック)だが、ケーベルの専属となってからの或る日。夏目漱石と幸田延子(露伴の実妹で女流ピアニスト)が予告なしにケーベル邸を来訪したことがある。 「何か、めずらしいものを、すぐにこしらえてください」 と、ケーベルにいいつけられた初代は、突然のことで何の用意もなく、仕方もなしに冷蔵庫の中の肉と鶏卵を出し、小麦粉をつなぎにして塩味をつけ、フライにして出したところ、これが大好評だった。 のちに初代が現在の地で開業をしたとき、これを〔洋風かき揚げ〕としてメニューの中へ加えたについては、そうした由来がある。 ※ ※ ※ ですが、胃弱の夏目漱石さんと女流ピアニストが一緒だというイメージがわきません。 そもそも、漱石さんの時代に女流ピアニストというのが奇異です。 それでふと思い出して、ピアニストの中村紘子さんの『ピアニストという蛮族がいる』という著書を読み直してみると、『幸田延子』ではなく、『幸田延(こうだのぶ)』さんというピアニストが出てくるのです。 実はこの幸田延さん、日本最初のピアニスト、ヴァイオリニストにして作曲家という日本における西洋音楽の基礎を築いたスーパーレディなのです。 音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)伝習生を経て、19歳の時、すなわち大日本帝国憲法の発布された1889年からアメリカ(ボストン)、オーストリア(ウィーン)に留学。 25歳になった明治28(1895)年、に帰国し、演奏・作曲を行うと共に、音楽取調掛から改編された東京音楽学校(現東京藝術大学)教授として後進を育成しました。 門下生の中には、日本最初の本格的な作曲家の滝廉太郎、日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲し、指揮者としても、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やレニングラード・フィルハーモニー交響楽団(現サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団)等を指揮し国際的に活躍した山田耕筰、『蝶々夫人』のタイトルロールで作曲家のプッチーニから絶賛され、欧米で活躍し、メトロポリタン歌劇場に迎えられた初の日本人歌手三浦(柴田)環(みうらたまき)、明治末期から大正初期にかけて日本の代表的ベートーヴェンピアニストと知られた久野久(くのひさ)といった著名な音楽家がいます。 1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、未完)と1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章のみ)は、日本人による初の西洋音楽作品です。 それでは、どうして夏目漱石さんや幸田延さんがドイツの哲学博士と知己があったのでしょうか。 フォン・ケーベル博士がまた凄い人なのです。 1893年(明治26年)から1914年(大正3年)まで21年間東京帝国大学に在職し、カント等のドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えています。美学、美術史も、彼が初めて講義しました。 その教え子は安倍能成、岩波茂雄、阿部次郎、九鬼周造、和辻哲郎、 深田康算、大西克礼等そうそうたる顔ぶれで、皆から『ケーベル先生』と慕われ、敬愛されました。 夏目漱石も大学院に入った時、着任早々の博士から美学の講義を受けています。 漱石さんは、『ケーベル先生』という文章の中でこう書いています。 『文科大学へ行って、ここで一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人学生が九十人までは、数ある日本人教授の名を口にする前に、まずフォン・ケーベルと答えるだろう』 それだけではありません。 ケーベル博士はドイツ人を父に持ちロシアに生まれ、幼いころよりピアノを学び1867年にモスクワ音楽院に入学、大作曲家チャイコフスキーや歴史的ピアニストのニコライ・ルービンシュタインに師事し1872年に卒業したという異色の経歴の持ち主なのです。 モスクワ音楽院創設者でもある名ピアニスト、ニコライ・ルービンシュタインは、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番ロ短調 作品23を『演奏不能』と酷評して、書き直しを要求し、この名曲初演の栄誉を逃したことでも有名です(初演はハンス・フォン・ビューロー。ニコライは後にチャイコフスキーに謝罪し、自らもこの曲を演奏するようになる)。 また、チャイコフスキーのピアノ三重奏曲(作品50)『ある偉大な芸術家の思い出のために』は、ニコライ・ルービンシュタインの死を悼んで書かれました。 ケーベル博士がモスクワ音楽院を卒業した1872年といえば、チャイコフスキーが交響曲第2番ハ短調作品17『ロシア』を作曲している時期で、3年後の1875年にピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23を完成、バレエ音楽『白鳥の湖』 作品20の作曲に取りかかっています。 日本人にとって、チャイコフスキーがとても親しみやすい作曲家なのも、西洋音楽がエリート必須の教養になったのもケーベルさんの影響が大きいのかもしれません。 ところがモスクワ音楽院を卒業した内気なケーベル博士は、『公衆の前での演奏に対して、私は昔から押さえきれぬ嫌悪を感ずるものであったし、他人数の聴衆は私をして全く度を失わしめるのであった』ということで、ドイツのイエーナ大学、ハイデルベルヒ大学と移り、ショーペンハゥァーの人間的自由に関する論文で学位をとりました。 その後、ミュンヘンに移り住み『ショーペンハゥァーの哲学』『エドゥアルト・フォン・ハルトマンの哲学大系』『哲学史要』等の著作や幾多の論文を発表しますが、ある日のことエドゥアルト・フォン・ハルトマンから東京大学の哲学の教師に推薦したい旨の手紙が届きます。 周りの人は勧めますが、旅行や生活の変化を嫌うケーベル博士は固辞します。 その際、昔の師で、友人でもあったチャイコフスキーだけが唯一手紙で東京行きに反対したという興味深いエピソードが残っています。 結局ハルトマンの情熱に折れた形で、明治26(1893)年に三年の契約で東京帝国大学に着任することになるのですが、その契約が次々更新され、いよいよ帰国が決まったときには第一次世界大戦で帰国の道が断たれ、ケーベル博士は横浜で生涯を終えるまで日本に滞在することになります。 来日後の明治29(1896)年、ケーベル邸のハウスクックとして、松榮亭初代の堀口岩吉さんが住み込むことになりました。 ケーベル博士は東京音楽学校にも出向。ピアノ、音楽史を教えていました。 つまり、ケーベル博士は幸田延さんとは同僚だったのですね。 また、明治34(1901)年の日本女子大学校(日本女子大学)開校式のための『日本女子大学校開校式祝歌』はケーベル作曲なのだそうです。 明治36(1903)年には、東京音楽学校奏楽堂で行われた日本におけるオペラ初演(グルック作曲『オルフェオとエウリディーチェ』の上演。森鴎外訳詞)の際、ピアノ伴奏を行っています。 因みに、エウリディーチェは幸田延さんの弟子の三浦環さんでした。 それでケーベル博士と夏目漱石、ケーベル博士と幸田延のつながりがわかりました。 でも、夏目漱石と幸田延のつながりが分からないのです。 洋風かき揚げ誕生のエピソードは、幸田延さんが25歳で帰国した明治28(1895)年から、松榮亭創業の明治40(1907)年の幸田延さん37歳の年の間のはずです。 ところが夏目漱石さんは明治28(1895)年に愛媛県尋常松山中学校に、明治29(1896)年に熊本県の第五高等学校に赴任、明治33(1900)年から、明治36(1903)年の間イギリスに留学していて東京にはいません。 ということは、洋風かき揚げがケーベル邸で生まれたのは、明治36(1903)年から、松榮亭創業の明治40(1907)年の数年間のある時期ということになります。 その期間、ケーベル博士は神田区駿河台鈴木町19番地に居を構えています。 それで、漱石の『ケーベル博士』では、明治44(1911)年7月10日にケーベル博士を再訪した時の様子が記されています。堀口岩吉さんは松榮亭開業後もケーベル邸には通いでクックをしていたらしいので、この時の食事を作ったのも堀口さんでしょう。 その中で、『京都の深田教授が先生の家にいる頃、いつでも閑な時に晩餐を食べに来いと云われて行かずに経過した月日を数えるともう四年以上になる』とあります。 ということは、漱石さんが初めてケーベル邸を訪問して洋風掻きあげをふるまわれたのは、明治44(1911)年の四年以上前、すなわち松榮亭開業の明治40(1907)年の少し前と考えられます。 漱石さんは、幸田延さんと関係なく、ケーベル邸に住み込んでいた深田教授と知己があった関係で恩師のケーベル博士宅を訪問したのでしょう。だから、幸田延さんについて何の記述もないのだと思われます。 一方、幸田延さんは帰国後、実績と名声をあげるのに反比例して『女だてらに』と見られた西洋的なふるまいや、『ツレビキ(連弾のこと)などと、男と女が身をくっつけてピアノを弾いたり唄ったり、オペラなどという風紀を乱す西洋芝居をやるのはけしからん』という世間の無理解・偏見から、バッシングを受けていました。 1907年(明治40年)には、弟子でソプラノ歌手の三浦環(みうらたまき)の離婚が後にスキャンダルに発展して世間を騒がし、1909年(明治42年)、低俗なメディアの攻撃に居たたまれなくなった延さんは39歳で東京音楽学校教授の職を辞します。 あとは、濁世から逃れるように、渡欧した後、東宮職御用掛となり専ら皇族に音楽を教授するようになります。 モスクワ音楽院を卒業したにもかかわらず、派手なことが嫌いな性格故に哲学者になったケーベル博士は、知人の幸田延さんや、三浦環さんがそういった世間の騒ぎに巻き込まれていく様をどんな気持ちで眺めていたのでしょう。 そんな状況で夏目漱石さんと幸田延さんの二人が誘い合わせて、ケーベル邸訪問はありえません。 幸田延さんは漱石さんとは別にケーベル博士邸に訪れ、偶然、漱石さんの訪問と重なったのでしょう。
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