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これは京阪三条駅入り口に立っている『高山彦九郎像』です 高山彦九郎像正面 台座の字は東郷平八郎筆 夕日を浴びる高山さん。なんとなく寂しそう・・・・。 京都の若者の間では『土下座のおっさん像』と呼ばれ、東京渋谷の『忠犬ハチ公像』同様、待ち合わせ場所として親しまれています。繁華街に近くて便利だからね☆ 歴史を知っている人は、この呼称に『それはないだろう!』と慨嘆します。 高山彦九郎さん(1747〜93年)は、江戸時代中期の勤皇思想家です。 彦九郎は上野国新田郡細谷村(群馬県太田市)の農家の生まれです。 高山彦八正教・しげ(武蔵野国旛羅郡台村の剣持家から嫁す)の次男として生れました。 幼い頃読んだ『太平記』に衝撃を受け、自分の先祖が新田義貞の家臣であったことに感激して、垂加流の尊王思想を学び、武士の姿で日本全国を旅しながら勤皇論を説きました。 前野良沢・大槻玄沢・林子平・藤田幽谷・上杉鷹山・広瀬淡窓・蒲池崑山など多くの人々と交友し、蝦夷地(北海道)へ渡ろうとするが果たせずにいます。 銅像は、そんな彦九郎が啓発活動のため入洛した際、東海道と中山道の発着点「三条大橋」で、崇敬する『すめらみこと(天皇陛下)』のお住まいになる、京都御所のあまりにも荒廃した様(応仁の乱以降、塀がボロボロに崩れていた)を望見し、もったいなさに思わず落涙に及び、平伏して遥拝した様子を表しているのだといいます。 高山彦九郎さんは、十八歳の時以来、前後五回、京都に上洛したんですけど、出入りする度に、この銅像の姿のように、京都御所に向って平伏して遥拝したんだって。 その姿は 大御門 その方向きて 橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと 橘曙覧 と和歌に詠まれています。 明治の中頃の俚謡、サノサ節には、 人は武士/ 気概は高山彦九郎/ 京の三条の橋の上/ 遥かに皇居をネ伏し拝み/ 落つる涙は鴨の水アサノサ と謡いつがれました。 京では岩倉具選宅に寄留し、光格天皇にも拝謁しました。 尊号一件と呼ばれる事件に遭遇し、公家中山愛親の知遇を得た事が老中の松平定信など幕府の警戒を呼びました。 1791年(寛政3)には九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとしますが退けられ、一時は豊後国日田において捕縛されます。 その後も幕府の嫌忌・圧迫・監視を受け、筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃しました。 享年46歳でした。 多年にわたる日記を残しており、彦九郎の名が高まったのは幕末。その思想や生き方が高杉晋作や西郷隆盛といった維新の志士に影響を与えました。 特に吉田松陰は「武士たるものの亀鑑(きかん=かがみの意味)」とあがめ、彦九郎の戒名「松陰以白居士」から自らの号を付けたといわれます。 林子平・蒲生君平(がもう・くんぺい)とともに寛政の三奇人といわれています。 また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物でもあります。 実は、今の銅像は2代目なのです。初代が建立されたのは昭和3年。京都府向日市の石塔寺という寺の住職が発起人となって銅像建立を全国に呼びかけ、台座の文字は東郷平八郎が書きました。 東郷平八郎さんは薩摩藩出身なので、銅像には薩摩藩(島津家)の家紋である「丸に十の字」が刻まれているんだね! 先の大戦中に出された金属類回収令で姿を消した銅像は昭和36年、京都の有志の呼びかけで再建。 さらに、バスターミナルや商業施設の新設など一帯の整備に伴って、当初の三条大橋詰めから東に約30メートル移動し、現在地にその身を落ち着けました。 ですから、京都の基幹産業が観光である以上、せめて京都の人ぐらいは、『高山像』か『遥拝像』と呼ぶべきです。あんたたち、それでご飯食べてるんでしょ? ※ ※ ※ 『高山彦九郎像』に対抗して、今度建てられる予定の『熊山ぴこ九郎(ピコリン)』さんのお昼寝像。ノレン画伯作。今回のノレン君たら、サインするの忘れてるねえ。 完成したら、待ち合わせのとき使ってね☆ ピコリンさんは、『寝るより楽は無かりけり』という『お昼寝思想を』世に広めようとしたんだけど、サボってお昼寝ばかりして旅に出なかったので、ぜんぜんその思想は広がりませんでした。 だいたい『がんばらなくていい』っていう思想の持ち主は、その思想を広めるために、がんばらないんだよねえ。 『がんばれ』っていう思想の持ち主は、喧嘩も頑張って強いから、力づくで思想を他人に押し付けることができます。とほほ・・・。 だから、世の中『がんばれ』っていう、はた迷惑な思想しか広がらないんだね。困った困った。 『今度、ピコリンのお昼寝像前で会おうね!お約束だよお!』 |
歴史の部屋
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三菱の創始者泣く子も黙る岩崎弥太郎さんです。 私は一目観るなり『くわまんさんの写真だ!』って思いました。 うへえ〜!そっくりだよお! 『くわまん』さんこと桑野信義さんは1957年4月4日生まれ東京都出身の☆ラッツ&スターのトランペッターです。私も大好きな、人気タレントさんです。 『くわまん』さんこと桑野信義さんのホームページはこちら 一方、岩崎弥太郎(いわさき やたろう)さん、天保5年11月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は高知県安芸市の出身の日本の実業家で、三菱財閥の創業者です。 波乱万丈、ビッグ・トゥモローの世界です。 私は大金持ちのスジャータちゃんの話を書いていますので、『くわまん』さんの前世、日本を代表する実業家の生い立ちを参考までにご紹介しましょう。 岩崎弥太郎(いわさき やたろう)さんは、土佐・安芸郡の地下浪人の家に生まれました。 子供の頃から極貧の中で暮らしたんだけど。頭脳明敏で12歳で儒者・小牧米山に弟子入りし、14・5歳になると詩才を発揮するようになったといいます。 まあ、立志伝中の人は、大概、若い頃苦労したことになっています。 安政元年(1854年)藩士・奥宮周二郎の従者となって江戸へ出、安積艮斎(あさかごんさい)の門人になりました。 1856年、父が投獄されたため、土佐に帰国。免罪の訴えがたたり自らも入牢しました。 1859年 土佐藩参政吉田東洋の門下生になります。後藤象二郎とも親しく交わったそうです。それで、藩の命で長崎へ派遣されます。 1860年 藩費を浪費し無断帰国、解職されます。とほほ・・・。司馬遼太郎の『竜馬が行く』では、実際に藩費を浪費したのは後藤象二郎だという話になっていたという記憶があります。 そうでなけりゃ、また土佐藩に雇われるわけがありません。 1866年 藩の開成館貨殖局に勤務し貿易に従事。同じころ、勝海舟が、薩摩藩の西郷隆盛に龍馬たちの世話を頼み、慶応元(1865)年、長崎に「亀山社中」を設立。龍馬たちに運営を任せました。 慶応3(1867)年4月、「亀山社中」は、龍馬が脱藩罪を許されたため土佐藩が引継ぎ、場所も隊員もそのままで「海援隊」となりました。 龍馬が隊長となりましたがその海援隊の会計を担当していたのが岩崎弥太郎です。 1867年海援隊の船「いろは丸」=45馬力、160トンが伊予大洲藩から海援隊が借り受け初航海に出ましたが、瀬戸内海、讃岐・箱の岬近くで、紀州藩船明光丸(150馬力、887トン)と衝突して沈没しました。 この時、後藤象二郎、龍馬、そして弥太郎が交渉にあたり、結果、紀州藩が7万両の賠償金を支払う事で事件(いろは丸事件)は決着しました。その交渉の攻防戦は激しいものがあったそうです。 しかし、弥太郎が紀州藩より賠償金の支払いに応じた知らせを聞いた頃(7万両が届いた頃という説あり)、龍馬は近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されたとの知らせが入ったといいます。 龍馬の暗殺は、この事を恨みに思った紀州藩士の犯行という説はこの前、ちらりと紹介しましたね。 1868年 明治維新により土佐商会閉鎖。大阪土佐商会での仕事に専念。 維新後の明治3年(1870年)10月から、土佐開成商社を九十九商会と改称。海運業を行う私商社の指揮者となります。 同商会は1871年8月29日(明治4年旧暦7月14日)の廃藩置県を受け。1873年に三菱商会と改名し、岩崎弥太郎個人の企業になりました。 1874年 台湾出兵の際の軍事輸送を手がけます。 1875年 台湾出兵の功により、政府から補助金を受けます。 このように岩崎さんちの三菱は、新政府の軍需輸送を独占して巨利を得、全国汽船総トン数の73%を手中に収めました。これと並行して海運業からの多角化によって三菱財閥の基礎を築きます。 三菱の「スリーダイヤのマーク」は、土佐藩藩主だった山内家の家紋「三つ葉柏」と岩崎家の家紋「三階菱」をあわせたものです。 明治10年(1877年)に勃発した西南戦争時には、三菱の所有する汽船はほとんど軍用船として需要を独り占めにし、これによって得た運輸代金は1300万円という莫大な額にのぼりました。更に戦争終了後の軍需品の処分でも大きく儲けます。 明治14年(1881年)、三菱の最大の保護者であった大隈重信が失脚し、弥太郎は三井家の背後にいる井上馨・渋沢栄一を敵に回し、共同運輸会社と死闘を繰り広げます。 そのさなか、健康の衰えにより明治18(1885年)年2月7日50歳で亡くなりました。 岩崎さんは、くわまんさんに似た単なる実業家ではなく、維新の歴史を生き抜いた志士でもあったのです。 ※ ※ ※ 特別付録 この前、クマちゃんが、南禅寺三門で『ぜっけいくま〜』ってやっていたときのノレン君デザイン特製ミトン。リバーシブルだよ! http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/24056221.html これであなたも『ぜっけいくま〜』 |
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石川五右衛門さんを演じる江戸後期に京都・大坂・江戸で活躍した中村歌右衛門さん。文化7年に江戸中村座で上演された「楼門五三桐」の役者絵から。七曜星(北斗七星)を見て、自らの命運を占う石川五右衛門の姿を描いているんだって。 五右衛門さんのことはあまりよく分かっていないらしいね。 幼名は五郎吉。幼い頃から非行を繰り返して14、15歳の頃に父母を亡くします。 19歳の頃からについては、諸説あって、伊賀にわたり忍者の弟子になったとか、京を出て盗賊になったとか、奉公先の奥さんと駆け落ちしたとか…。 盗賊の彼が人気を博したのは、権力者に対してしか盗みを働かない義賊として浄瑠璃や歌舞伎の演題としてとりあげられたからみたい。 特に豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが面白いから。 歌舞伎『金門五山桐』(楼門五三桐)の京都南禅寺の場で『絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とは小せえ、ちいせえ』と見得を切る場面は有名です。 私は南禅寺の三門に登って『絶景かな、絶景かな』って五右衛門気分を味わったことがあります。いい気分だねえ! それで、最期に、『豊臣秀吉譜』(寛永19年)等の限られた記録によると、あまりの悪逆非道ぶりのために、三条河原で釜煎の刑に処せられたんだって。 しかし当時の釜煎刑とは、熱した巨大な鉄釜で死刑囚を空焚きで炒め殺す(煎り殺す?)処刑で、舞台で演じられるように煮殺したのではないらしいよ。また油で揚げ殺したとも言われてます。 なんか、煮物、揚げ物、炒め物って、お料理教室みたいな話になっちゃったねえ。 へーんなの! まきぞいに、五右衛門の母や一族も連座で処刑されて、母親らは熱湯の釜茹刑で煮殺されていると記録にあるらしいんだ。 石川五右衛門の辞世の句 「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」 って有名だねえ。 五右衛門さんの戒名は『融仙院良岳寿感禅定門』です。 最後に、全くもてず、情けないシルベさんから、言いたいことがあるそうです。 ※ ※ ※ 京都三条から四条にかけての加茂(賀茂)の河原は、夕暮れになると、わらわらとアベック、がどこからともなくボウフラのように湧いてきます。 こんなところでデートしたら、五右衛門の祟りがあるのです。ざまあみろ! 因みに『アベックは死語だ!』っていう人がいますが、これは間違いです。 『カップル』って言うのは知り合いの仲の良い二人を祝福する場合に使う言葉で、『アベック』は単に男女二人組みのことをいいます。また、連中を憎憎しく思う人も『アベック』といいます。 『熱々のカップル』と言うけど、『熱々のアベック』とは言わないでしょ? 私も、知り合いの仲の良い『熱々のカップル』は祝福しますが、赤の他人の人目も憚らぬ『いちゃいちゃアベック』には腹立ち紛れに投石します。 『カップル』という言葉は、ブライダル産業が客に世辞を使うときの言葉で、ちなみに『アベックホームラン』と言いますが『カップルホームラン』とは言いません。 どうして、縁もゆかりも無い赤の他人の『つがい』を『カップル』って祝福しないとならないんだ!私には理解もできないし、納得もいきません。 加茂川や、河原の真砂は 尽きるとも 世にアベックの 種は尽きまじ 河原の真砂を 投げつけぬるかも いとをかし 詠み人:シルベ・スタスタローン お粗末 ※ ※ ※ 本当にシルベさんって情け無いねえ!スジャータ、けいべつ〜! (スジャータちゃんより) 熊川五右衛門の三門の場 そら豆くんに石川五右衛門さんを体感してもらいました! |
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弥治郎兵衛喜多八の像 東海道五十三次の終点、京都三条大橋 京都三条大橋は、お江戸日本橋を起点とする東海道五十三次の終点です。東海道中膝栗毛で有名ですね。十辺舎一九作でお馴染みの弥治郎兵衛さんと喜多八さんの珍道中の話ですけど、彼等も、ここに来たことになっています。それで、橋の袂に銅像が建っています。 私は、こんな像が建ってるなんて、知りませんでした。 でもねえ、東海道中膝栗毛って、学生の頃、岩波文庫の冒頭読んでひっくり返ったんだよ。 弥治郎兵衛って、中年のオヤジで、喜多八っていうのは、旅役者の花水多羅四郎(はなみずたらしろう)の弟子で、串童(かげま=陰間)だったんだねえ。 それでもって、串童=陰間って何かって言うと、おメカケさん(男でも女でも使う)のことで、どうして、おメカケさんのことを陰間って呼ぶかというと、 源義家の家来に鎌倉源五郎景政(かまくらげんごろう『かげま』さ)っていう家来がいて、この人が片目だったから、目が欠けているから『カケメ』。 それを引っ繰り返して、『メカケ』になって、メカケ=『かげま』さ=かげま=陰間になったんだよ。これは、岩波文庫の『東海道中膝栗毛』の欄外注に書いてあります。 日本語の年輪だねえ! それで、いきなり、弥治郎兵衛さんが、奥さんを騙して離縁して、若い美少年でおメカケさんだった喜多八君と出奔するところから、話が始ります。 東海道中膝栗毛って、弥治さん喜多さんの愛の逃避行の話だったんだねえ。 へーんなのお! 私は、小学生の頃、『東海道中膝栗毛』の子供向けの抄本が好きだったので、原作を読んで、びっくりしました。でも、『東海道中膝栗毛』は岩波版の原作の方がずっと面白いよ! それから、東海道中膝栗毛には、二人とも五右衛門風呂の入り方を知らずに、喜多さんが下駄で入って釜底を踏み抜いて大騒ぎになる話が出てきます。 五右衛門風呂って、今でも田舎にはあるみたいだけど、江戸っ子の弥治さん喜多さんは、入ったことがなかったんだね。 五右衛門風呂ってどんなのかっていうと、鉄の丸い釜の大きい奴で、それがそのまま湯船になってるんだ。それを直に薪で熱して沸かします。当然鉄でできた釜は熱いんだね。そのまま裸足で入って、釜の底に直に足をつくと、火傷しちゃうよ! ですから、どうやって入るかっていうと。湯船に湯船より一回り小さい丸い木の板が浮かんでいて、これが保温の蓋の役割を果たしています。 その蓋にそのまま足を乗っけて、底まで沈めてその板の上に乗っかったまま入るんだよ。 弥治さん喜多さんはそれを知らなかったから、蓋を取り除けて入って、あちちって足を火傷して、横にあった下駄を見つけてそれを履いて入ったんだ。 ところで、この五右衛門風呂の『五右衛門』って、かの有名な大泥棒の石川五右衛門の名前から来ています。 石川五右衛門は捕まって、釜茹でになって殺されちゃうって話なんだけど、それに因んで鉄の釜でできたお風呂を五右衛門風呂っていうんだねえ。 実は、五右衛門さんは、この三条大橋の河原で釜茹での刑に処せられたらしいんだ。 十辺舎一九作って言う人は駄洒落が好きな人で、『東海道中膝栗毛』は全編駄洒落のオンパレードです。 五右衛門風呂のエピソードを挿入したのは、『終点の三条河原のことを意識して』に違いありません。 面白いねえ! ということで、次回は石川五右衛門さんの話をします。お楽しみに! 弥治喜多珍道中 特別図解 ノレン君が描いた五右衛門風呂の入り方 ※ ※ ※ オマケ 前回字数オーバーのため、掲載できなかった 池田屋事件に関する、わたくしめの暴説 どうも、おかしいんですよね。 古高さんを捕まえたんで、ものは試しに長州藩の定宿の池田屋に踏み込んだら、思いがけずに尊攘派が集まって、余裕をこいて、いい気分で宴会やってたから、これ幸いと討ち取って、新撰組の名前を天下に知らしめようとして、襲撃したんじゃないですかね。 それで、御所の焼き討ち計画とか、武器とか書面って本当にあったのかな? 後からでっちあげた言いがかりだったりして・・・・。 拷問による自白っていうのは、結局のところ誘導尋問だからねえ! 第一、拷問とか自白とかも、どういう資料・根拠に基づいているか分からないし・・・。 小高さんは、元治元年、五月下旬頃か6月1日か6月5日、新選組に踏み込まれ捕縛されたんだけど、直後の禁門の変の際、7月20日に六角獄で斬首されちゃったんだよ(享年36歳)。 殺されるまで、一度も牢屋から出てきてないんだから、真相はどうだか分かんないよ。 そもそも、密室で行われた拷問・自白の詳細について、後の維新政府が分かるわけないし、自白はともかく、『酷い拷問しました』っていうことを新撰組側が記録してたって信じられないし。 『この人たちが、御所に火をつけるってとんでもないこと計画してたから、やっつけたんだよお!』ってことにしたんだったりして・・・・。 それを未然に防いだってことにしたら、有名になれるもんね。 近藤勇の手紙なんか、そんな感じだもの。 功名心に駆り立てられた血気盛んな若いもんのすることだからねえ。 それに、みんなやる気なくして、大勢新鮮組から脱走してたわけでしょ? 心機一転、巻き返しのための、無理やり因縁つけた殴りこみじゃないの? 私としては、この人たちの年格好から考えたら、暴走族の抗争みたいなもんだと考えた方が当たってるような気がするんだけどねえ・・・。 こう考えたら、みもふたもないけどさ。 維新政府としても、それが真実だとしたら、尊攘派の幹部がそんなことで命を落としたっていうのは不味いわけだから、大それた計画立ててたことにした方が維新を正当化できるでしょ? おまけに、「殉難七士」っていうのをでっちあげることができるし。
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池田屋事件の石碑。 池田屋事件(いけだやじけん)は、江戸時代後期の元治元年6月5日(1864年7月8日祇園宵山=ぎおんよいやま=八坂神社の祇園祭りで最も人出の多い日》)に、京都三条小橋の旅館池田屋で京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が、潜伏していた長州藩の尊皇攘夷派を襲撃した事件です。 幕末の京都は、尊皇攘夷などの思想を持つ諸藩の浪士が潜伏・活動していました。 長州藩は会津藩と薩摩藩による宮中クーデターである八月十八日の政変で失脚し、朝廷では公武合体派が主流となっていました。 尊皇攘夷派は勢力挽回をしようとしてたから、危険を察知した京都守護職は、新選組に市内の警備や探索を行わせていたんだねえ。 五月下旬頃か6月1日か6月5日午前1時(調べるたびに違うんだ。うえーん分かんないよお!)、 諸士調役兼監察の山崎烝(やまざき すすむ)、島田魁(しまだ かい)が四条小橋上ル真町で炭薪商(古道具、馬具商の説あり)を経営する枡屋(古高俊太郎=ふるたか しゅんたろう)で不穏な動きがあることを突き止め、会津藩に報告したことから話が始まります。 大量の武器火薬、長州藩その他の志士が遣り取りした文書(血判との説あり)、それに会津藩の「会」の字のある提灯などが見つかったらしいんだよ。(本当かなあ?分かんないよお。イラクの大量破壊兵器みたいだねえ) よく時代劇にでてくる、山崎烝が薬屋に変装して突き止めたというのは、子母澤寛(しもざわ かん)の「新選組始末記」の影響らしいんだけど、これは明治27年に発表された西村兼文(西本願寺侍臣だった人物)の「新撰組始末記(壬生《みぶ》浪士始末記)」によるんだって。 これが古高俊太郎さん(変名:湯浅喜右衛門)が商っていた枡屋跡です。早くから宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)らと交流し、長州間者(スパイ)の大元締として情報活動と武器調達にあたったんだって。 この前紹介した、『志る幸』のお店があるところです。『志る幸』で食事をして、ふと石碑を見つけて、高札の説明書きを読んでびっくり!京都ってこんなことがあるんですよ。 計画は祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王 (後の久邇宮朝彦親王=くにのみや あさひこ しんのう)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)、会津の松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去るというものでした。 これって、本当かなあ? たかが、スパイの小高さんがそんな計画まで知っている訳がないという説もあります。 さらに新選組は探索で、長州、土佐藩、肥後藩などの尊王派が古高逮捕による襲撃計画の実行、中止を協議する会合が池田屋か四国屋において行われる事を突き止めます。 新選組は会津藩、桑名藩などに応援を要請しますが、会津らの動きが遅く時刻になっても動かないため、事態は一刻を争うと見た局長の近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊と土方隊の二手に分け捜索を開始します。 池田屋か四国屋において行われる事を突き止めたんだったら、捜索も何もないじゃん! 当時、新選組では病人が多いなどの理由で人手が少なく、実際に捜索に当たったのは、近藤隊10人、土方隊24人の総数僅か34名でした。新選組は 八坂神社から縄手通に土方隊、三条大橋を渡って木屋町通に近藤隊を配備して探索しました。 それでもって、『病人が多いなどの理由で人手が少なく』というのも怪しいねえ。 だって京都守護職に市内の警備をまかされるような屈強な連中が、そんなに病気してどうするの! 実際は脱走があいついで、隊士が減少していたっていうのが本当のところらしいのです。 この探索というのが、嘘だと言う人もいます。そんなローラー作戦を二手でやってたら、時間がかかってしょうがありません。決め撃ちじゃないか?って意見です。 だから、どっちなのさあ! 事件の三日後6月8日の日付で近藤勇が、江戸の養父近藤周斎ほか五名(末尾に勇の長兄宮川音五郎の名があります)に宛てて出した手紙にはこうあるそうです。(カッコ内は眼とろん星人注) 「三条小橋、縄手二箇所屯致居候処へ、二手(近藤隊と土方隊?)に分れ、夜四ツ時(10時半すぎ)頃打入候処、一箇所(四国屋?)には一人も居不申、一箇所(池田屋?)には多勢潜伏致居り。兼て覚悟の徒党の族故、手向戦闘、一時(2時間)余の間に御座候。打取七人、手疵為負候者四人、召捕二十三人、右は局中の手にて働に候」 とにかく、探索の末か、いきなり決め撃ちでいったのか、不明ですが、池田屋で謀議中の尊攘過激派を発見した近藤隊は数名で斬り込み、戦闘開始です。 パチンコに打ち興じていた尊王派の人たちが、フィーバーに夢中になって新撰組の急襲に気がつかなかったという説はありません。 20数名の尊攘過激派に対し、当初踏み込んだのは近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4名で残りは屋外を固めました。 そんな馬鹿な!狭い屋内で自由に刀が振り回せない状況で、相手が4人だったら、尊攘過激が『せーの』で組み付けば簡単じゃないの?大勢で取り囲みながら、1対1でしか打ち込まないチャンバラ劇じゃあるまいし。 裏口を守っていた安藤早太郎、奥沢栄助、新田革左衛門(にったかくざえもん)達に浪士が脱出しようと必死で斬りこみ逃亡。これにより奥沢は死亡し安藤、新田も1ヵ月後に死亡しました。 屋内に踏み込んだ美少年の沖田さんは奮戦しましたが、戦闘中に倒れて戦線離脱します(肺結核での喀血の為という説有り)。 一階の藤堂は汗で鉢金がずれたところに、額を斬られ戦線離脱。近藤、永倉の2人となりますが(なんと!)、土方隊の到着により、戦局は新選組に有利に傾き、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げます。 会津、桑名藩の応援は戦闘後に到着しました。何やってたの?遅いんだよお! 土方は手柄を横取りされぬように、一歩たりとも近づけさせなかったといいます。そりゃそうですよね。 でもねえ、こんな資料もあるんだよ。 幕府側の犠牲者 新撰組:奥沢栄助(即死)、新田革左衛門(重傷、後日死亡)、安藤甲 太(重傷、後日死亡) ・・・・死亡はこの3名のみ、藤堂平助・・・・額に重傷、永倉新八・・・・右手親指を斬られる 会津藩:即死4名、負傷14・5名 桑名藩:即死2名 一体、どうなってんのさあ!戦ってないはずの会津、桑名藩にどうして犠牲者が出るの? この戦闘で数名の尊攘過激派は逃走しましたが、続く翌朝の市中掃討で会津、桑名藩らと連携し20余名を捕縛したって説もあります。 近藤勇の手紙では、2時間の戦闘で『打取七人、手疵為負候者四人、召捕二十三人、右は局中の手にて働に候』ってしか読めないんだけど、たった34人で(しかも当初は近藤隊10人のみ)こんな戦果を上げるのは不可能です。 それにしても、尊攘過激派の数の勘定が合わないんですけど・・・。 7+4+23=34人と逃走した数人を加えたら、40人近くいたことになります。 それでも、近藤さんったら、『局中の手にて働に候』って、手柄は新撰組の独り占めです。 凄い! 世の中、こんな人間いるんだよなあ! 会津と桑名の犠牲者って、市中掃討の時の犠牲?一緒に池田屋に踏み込んだんじゃないの?・・・・・よく分かりません。 どうやら、近藤さんは会津、桑名藩らと連携して行った市中掃討で捕縛した20余名も、ちゃっかり戦闘中の戦果に加えて水増ししちゃってるようなのです。 夜のうちに帰ったのでは闇討ちの恐れがあるため、翌日の正午に新選組は壬生村に帰宅しました。沿道には物見高い野次馬であふれていたという説があります。 それでもって、御所焼き討ちの計画を未然に防ぐ事に成功した新選組の名は天下に轟きました。えっへん! 現代でも、新撰組ファンの人は沢山います。熱狂的なファンも多数おられます。 逆に尊攘派は吉田稔麿(よしだ としまろ)、北添佶摩(きたぞえ きちま)、宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)、大高又次郎、石川潤次郎、杉山松助(すぎやま まつすけ)、松田重助(まつだ じゅうすけ)らの実力者が戦死し、大打撃を受けます。(彼らは後の新政府により「殉難七士」と呼ばれる)。 本来ならば桂小五郎(後の木戸孝允)もその場にいたはずだったのですが、到着が早すぎた(8時頃)ので対馬藩邸に別の用事で赴き、その間に事件が起こってしまい難を逃れています。運がいい人はこういうものです。 ただ、桂さんは、対馬藩邸に長居しすぎておかしいから、血気にはやった同志の短慮についていけず、ばっくれたのではないかという人もいます。 だって、8時頃来て対馬藩邸に行ったっていっても、10時半頃に事件が起こって、2時間戦闘が続いたんだよ! 4時間半も何やってんのさあ! 桂さんのカツラの具合が悪くて、ハゲランスのお店で調整していたという説はありません。 しかしながら、志士時代には徹底的に闘争を避け「逃げの小五郎」と呼ばれたらしいのです。 やっぱりカツラが気になったのでは? 戦闘でカツラがずれたら大変! 桂という苗字がカツラそのまんまなので、木戸孝允って改名したのでは?やっぱり怪しい! この事件をきっかけに、長州藩は強硬派に引きずられる形で挙兵、上洛し、7月19日の禁門の変を引き起こします。 池田屋事件により明治維新が一年遅れたとも三年遅れたともいわれますが、逆に尊攘派を刺激してしまい維新を早めてしまったという見方もあるんだって! まあ、結果論だから、どうでも言えるけどね。 どっちにしろ、真相は藪の中です。結局池田屋事件ってなんなのさあ? 最後に主要人物の写真を載せます。 近藤勇さん 幕末維新きっての美少年と言われる沖田総司さん。うーん味わい深いなあ!ノレン君が、『この写真は面白すぎるから!』ってイラスト化を拒否しました。 ただ、この写真は、真偽の程を疑問視する向きも多いらしいので、沖田さんファンの人は安心してね☆ 沖田さんが美少年だって根拠も無いらしいけど・・・・。司馬遼太郎さんの小説『燃えよ剣』以降、美少年ってことになったらしいんだ。 土方歳三さん ばっくれカツラ疑惑の桂小五郎(木戸孝允)さん ついでにTシャツに貼りつく前の坂本龍馬さん |



