魔界の部屋
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【ファイルMK10】2010.01.17 京都の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は冥界への入り口(その2)閻魔大王さんの像は小野篁(おのたかむら)さんが彫ったんだよ。前回の小野篁(おのたかむら)さんの記事で、篁さんは夜に地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたということを書きました。 それで小野篁(おのたかむら)さんの像を前回と違う角度から。 閻魔大王座像(えんまだいおうざぞう) 伝小野篁卿作です。 それにしても、おっかない顔をしているねえ。 閻魔大王はもともとはインドの冥界の王=神ヤマさんです。それが閻魔さんとして支那・日本に伝わりました。 閻魔天(天部の衆生)、閻王Yanwang、閻羅王Yanluowangともよばれています。 閻羅は閻魔羅闍(えんまらじゃ)の略です。 ヤマという名前のラージャ(王)ですから、その音を漢字に写して閻魔羅闍(えんまらじゃ)さんです。だから日本では奈良時代、閻羅王と書かれました。 そういえば大ヒットしたインド映画『『ムトゥ 踊るマハラジャ』というのがありましたが、『マハラジャ・マハーラージャ(Maharaja)』という言葉はラージャ(王)の中で強盛な(マハー)もの=大王という意味です。 宇治拾遺物語『広貴炎魔王宮へ召るる事』には『炎魔』の表記があるそうです。 日本霊異記には閻魔国が出てきます。 閻魔さんは冥界で人間の生前の所業を調べ、裁判をするお仕事をなさっています。 閻羅、閻羅王の名は『仏説閻羅王五天使経』や『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経(預修十王経)』に見られます。 『預修十王経』では閻魔王のほかに九王を加えて十王とし閻魔王を裁判長として裁判官を構成しています。 支那では道教と習合して道教の神にもなっています。道教にも冥界があって、そこで閻魔さんは十殿という十の法廷を統べる(すべる=統治する)王をなさっています。 だから、霊幻道士のキョンシーみたいな道服を着ているんですね。 日本では奈良時代までは死者は閻羅王宮に引き立てられ、その裁判によって地獄の責め苦を受けることになっていました。 インドの冥界の王が善行を奨励するために仏教の中に取り入れられたのですね。 日本では閻魔十王と三仏を十三仏にあて、初七日忌から三十三回忌までの供養本尊としています。 つまりあの世に行った人は裁判にかけられ、十三仏によって審理されるのです。 参考に、十三仏を列記しましょう。 十三仏 裁判官 読み 忌日 不動明王 秦広王 しんこうおう 初七日(7日目・6日後) 釈迦如来 初江王 しょこうおう 二七日(14日目・13日後) 文殊菩薩 宋帝王 そうていおう 三七日(21日目・20日後) 普賢菩薩 五官王 ごかんおう 四七日(28日目・27日後) 地蔵菩薩 閻魔王 えんまおう 五七日(35日目・34日後) 弥勒菩薩 変成王 へんじょうおう 六七日(42日目・41日後) 薬師如来 泰山王 たいざんおう 七七日(49日目・48日後) 観音菩薩 平等王 びょうどうおう 百か日(100日目・99日後) 勢至菩薩 都市王 としおう 一周忌(2年目・1年後) 阿弥陀如来 五道転輪王 ごどうてんりんおう 三回忌(3年目・2年後) 阿?罠(あしゅく)如来 蓮華王 れんげおう 七回忌(7年目・6年後) 大日如来 祇園王 ぎおんおう 十三回忌(13年目・12年後) 虚空蔵菩薩 法界王 ほうかいおう 三十三回忌(33年目・32年後) 上の表を見ると、第五法廷の五七日に地蔵菩薩=閻魔王が裁判を担当することになっていますね。 閻魔さんは「地獄の業火(ごうか)は自らが作った業(ごう)によって燃え上がるのだ」と罪人に言い渡します。 嘘をついたら、獄卒(ごくそつ)という地獄の鬼に舌を引っこ抜かれてしまいます。 初七日とか四十九日の追善供養(回向)などと言いますが、これは、それぞれの裁判の際に生きている人たちが供養をしてあげると、裁かれる人がそれだけ善行をしたことになって、点数アップして裁判が有利に運ぶわけなんですね。 冥界の福がアップするので、『冥福を祈る』と言うのですね。 インド仏教では四十九日の第七法廷、薬師如来=泰山王が最終判決を下し、死者に六つの道が示され、選ぶように言われます。 死者が自分で選んだ先が『輪廻』の行き先で、これが判決です。 冥土は死者が生と死・陰と陽の狭間にあるため中陰と呼ばれ、判決が下り輪廻するので、『満中陰(四十九日、尽七日)』といわれるのですね。 六道は以前紹介したように、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つです。 その後、浄土思想ができたりして、十三仏とか百か日や一周忌、三回忌…五十回忌までの結縁(けちえん)の法要が加わったようです。 閻魔さんの全身はこんな感じです。 死者(亡者)の生前における善悪の所行を、そのまま映しだし、これによって閻魔様は裁判の審理を行うのです。 手に持った笏(しゃく)にいろいろとメモします。 小野篁(おのたかむら)さんは、こんなおっかない人の横で仕事をしていて、大変だったろうねえ。 閻魔さんの隣に、あと2体の像が安置されています。 大統院開基 仏観禅師(青山慈水)像です。 大統院(だいとういん)は、六道珍皇寺のすぐ近く(北東)にある建仁寺の塔頭で、観応年間(1350年から1352年)に青山慈永(せいざんじえい)さんを開基として創建されました。 六道珍皇寺も同じく建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)ですから、ここにお祀りしているのですね。 六道珍皇寺を中興した弘法大師(空海)像です。 この前ご紹介した西福寺 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49788952.html も、弘法大師が自ら土でつくった六波羅地蔵を安置したことに始まる古刹でしたね。弘法大師はこの辺一帯で活躍なさったのですね。 ということで、次に続きます。 |
【ファイルMK9】2009.12.11 六波羅蜜寺には、有名な木造空也上人立像があるよ(下)。京都の鴨川は、都と冥界との境界(その5)(上)からの続きです。(上)はこちら。 http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49854748.html 本堂の裏の宝物館では、有名な木造空也上人立像(重要文化財)や木造僧形坐像(伝・平清盛像・重要文化財)などが展示されています。 当然のように撮影禁止なので、お寺に貼ってあったポスターの写真を載せます。 木造空也上人立像(重要文化財) 教科書に載っている有名な像ですね。 鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。空也上人が草鞋履きで鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを表しています。 念仏を唱える上人の口からは6体の阿弥陀仏の小像が出ていますが、これは「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、六体の小像は針金でつながっています。 つまり、唱えた言葉が一体一体の仏様に化身したのですね。凄い発想です。 私は、昔からこの口から出た針金の枝にくっついた6体の阿弥陀仏の小像が気になってしょうがなかったので、実物にお会いできてとても感動しました。 一度見たら忘れられない強烈なインパクトのある像ですからね。この像は必見! 木造僧形坐像(伝・平清盛像・重要文化財)です。 鎌倉時代の作。銘文はないのですが、伝来、作風等から運慶の真作とされるそうです。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院に伝来しました。 他にも、木造地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)、木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像(鎌倉時代)、木造四天王立像(平安時代)、木造薬師如来坐像(平安時代)、木造地蔵菩薩立像(平安時代)、木造弘法大師坐像(鎌倉時代)、木造閻魔王坐像(鎌倉時代)、木造吉祥天立像(鎌倉時代)など、重要文化財が目白押しです。 宝物館でお寺の方が、いろいろ説明してくださったのですが、みなさん六道の辻を清水寺の方に曲がられる方が殆どで、南に降りて六波羅蜜寺に参拝する人は少ないと嘆いておられました。 少し分かりにくい場所にあるしねえ。 六波羅探題を開いた鎌倉幕府歴代将軍は六波羅蜜寺の弁財天を祈願所と定め、以来、参拝者が絶えないそうです。 お堂の中のピカピカの弁天様。シタールを持っています。 清盛塚です。 阿古屋(あこや)塚です。 阿古屋さんの菩提を弔うため鎌倉時代に建立されました。石造宝塔で、その下の台は、古墳時代の石棺の石蓋を用いています。 『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』 三段目の『阿古屋の琴責め』が有名です。 代官畠山重忠は平家の残党、悪七兵衛景清の行方を探索するため、景清の愛妾だった五條坂(清水坂)に住む白拍子の阿古屋さんを捕らえ居場所を尋ねます。 畠山重忠は阿古屋さんが景清の所在を秘匿していることを知っていましたが、琴、三味 線、胡弓を弾かせ、その調べに一転の乱れがないことに感動して彼女を釈放します。 歌舞伎では、阿古屋さんが難役なので、演じる人がおらず何十年も上演されなかったのですが、最近坂東玉三郎が復活させたのだそうです。 後鳥羽上皇が起こした承久3年(1221年)の承久の乱ののち、鎌倉幕府が朝廷や西国武士の監視を強化するために、それまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置しました。 お寺の人に聞いたらば、北の六波羅探題はお寺のすぐ南で工事をやっている辺りだったということです。 このへんが北の六波羅探題跡 松原通に戻って少し歩いたらば、ハッピー六原という商店街がありました。 ポップな看板だねえ。 幽霊さんも買い物に来るのかな? ということで、空也上人や平家ゆかりの六波羅蜜寺でした。ここも京都観光の穴場だねえ。 次回は、いよいよ冥界への入り口である六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の記事です。 |






