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【ファイルMK11】2010.01.23 京都の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は冥界への入り口(その3)

小野篁(おのたかむら)さんが冥界に向かう入口の井戸があるよ。

 小野篁(おのたかむら)さんは夜に冥界に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたということを書きました。

『その1』からご覧になられる方はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50020335.html

 それで、ここ六道珍皇寺には、小野篁さんが、夜になって冥界に出勤する際の入口の井戸があります。

 ところが、八月七日から十日までの四日間に行われる『六道まいり』の時期は、小野篁さんや閻魔大王さんの像が見やすくてよいのですが、本堂前に、おまいりのための受付が設けられるので、井戸を見ることができません。

 それで、別の機会に訪れた時の写真を改めてUPします。

 普段の珍皇寺さんはひっそりとしています。

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 門の右手に碑が建てられています。

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 謡曲『熊野』 【『熊野』と書いて『ゆや』と読みます。喜多流では『湯谷』】
の清水詣より、一節が刻まれています。とても古い作品で、作者は世阿弥とする説や、金春禅竹とする説があるそうです。

地:『げにや守りの末すぐに。頼む命は白玉の。愛宕(おたぎ)の寺も打ちすぎぬ 六道の辻とかや』

シテ:『げに恐ろしや この道は。冥土に通ふなるものを。心ぼそ鳥辺山』

 平宗盛の愛妾熊野が、老母からの手紙をみて病であることを知り、見舞いのために暇乞いをするのですが、宗盛は寵愛する熊野を手放したくないので、熊野の気持ちを引き立てようと、牛車で清水寺の花見に誘います。

 その道中、冥界の入口である『六道の辻』や葬送の地の『鳥辺山』を通り、母の病を案じて心細くなる熊野の気持を表しているのです。その辺のところが分からないと、作品の理解が皮相的になるんですね。

 ここにある『愛宕(おたぎ)の寺』というのは、8世紀中頃、稱徳(しょうとく)天皇により、ここの近くに愛宕寺として創建されたお寺です。平安時代初めには真言宗東寺派の末寺となっていたのですが、鴨川の洪水で堂宇を流失し廃寺同然に打ち捨てられていたのを醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(せんかんないぐ=伝燈大法師)が復興しました。

 千観が念仏を唱えていたところから名を愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)と改め、天台宗に属しましたが、興廃を繰り返し、最後は本堂、地蔵堂、仁王門を残すばかりとなってすっかり荒れ寺になりました。

 1922年それらを嵯峨野に移築して再起を期しますが叶いませんでした。

 そのまま、嵯峨野に移った愛宕念仏寺は、すっかり荒れはてたのですが、五つ子ちゃんの名付け親としても有名な清水寺の大西良慶貫主(おおにしりょうけいかんす)から住職を命じられた西村公朝(にしむら こうちょう:僧侶で、有名な仏師)さんが復興し、今では『愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)』=別名『千二百羅漢のお寺』は、嵯峨野めぐりの始発点として知られています。


 話が脇道にそれましたが、六道珍皇寺に戻って、薬師堂です。

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 ここには

○本尊の木像薬師如来坐像(重要文化財)=伝教大師 最澄の作と伝えられている。
○毘沙門天=弘法大師の作と伝えられている。
○地蔵菩薩

 が祀られています。

 それで、肝心の六道珍皇寺の由来ですが、

 創建については諸説あって、平安京遷都以前に東山阿弥陀ヶ峰山麓一帯に住んでいた鳥部氏の氏寺(宝皇寺)が由来とも、

 平安時代前期の延暦年間に、大和(奈良)の真言宗大安寺住持であった慶俊僧都(きょうしゅんぞうず)によって建立された珍皇寺が始まりであるとも言われているそうです。

 平安時代、鎌倉時代には東寺を本寺として隆盛しましたが、その後衰退。

 室町時代前期 に建仁寺(けんにんじ)の聞渓良聰(もんけいりょうそう)によって再建され、臨済宗に改められ現在に至っているそうです。

 石のお地蔵さんが並んでいます。

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 閻魔の本地が地蔵菩薩であるといわれていますからね。

『閻魔堂』です。

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 ここに、『その1』『その2』でご紹介した小野篁さんや閻魔大王さんの像が安置されているのですが、普段はこのように戸が閉まっていて、ガラスの入った格子の隙間から覗き見ることができます。

 本堂です。

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 写真右の赤い矢印の箇所にある格子の隙間から、小野篁(おのたかむら)さんが冥界への入り口にしたといわれる井戸『冥途通いの井戸』を覗き見ることができます。

 ここのお寺は、人に覗かせるのが好きなようです。

『冥途通いの井戸』です。

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 ドラえもんのタイムマシンはのび太くんの勉強机の最上段の引き出しですが、こちらは井戸が冥界への入り口なのですね。

 冥界への入口はこの井戸なのですが、篁さんが冥界から現世に帰って来る出口は、京都の西の葬送地にあたる化野(あだしの)の大覚寺門前六道町辺りにあった福生寺の井戸と伝えられているそうです。

 残念ながら、福生寺は明治時代に廃寺となって今はありません。

 ということは、今この井戸から冥界に行っても、行きっぱなしで帰ってこれないのですね。大変だあ!

 都の人々は、珍皇寺の井戸を『死の六道』、福生寺の井戸を『生の六道』と呼んでいました。


 門の屋根にあった笹龍胆(ささりんどう)の家紋です。

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 珍皇寺は建仁寺の塔頭なので、建仁寺にあったのと同じ獅子の瓦が載っています。

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 ということで、京都の魔界スポット六道珍皇寺でした。

 小さいのですけれど、とても不思議なお寺ですね。



 次は八坂の塔から、清水寺に向かいます。

【ファイルMK10】2010.01.17 京都の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は冥界への入り口(その2)

閻魔大王さんの像は小野篁(おのたかむら)さんが彫ったんだよ。

 前回の小野篁(おのたかむら)さんの記事で、篁さんは夜に地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたということを書きました。


 それで小野篁(おのたかむら)さんの像を前回と違う角度から。

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 これらと一緒に安置されているのが

 閻魔大王座像(えんまだいおうざぞう) 伝小野篁卿作です。

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 実際に閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていた小野篁さんが彫ったものだから、これほど確かなものは無いねえ。

 それにしても、おっかない顔をしているねえ。

 閻魔大王はもともとはインドの冥界の王=神ヤマさんです。それが閻魔さんとして支那・日本に伝わりました。

 閻魔天(天部の衆生)、閻王Yanwang、閻羅王Yanluowangともよばれています。

 閻羅は閻魔羅闍(えんまらじゃ)の略です。

 ヤマという名前のラージャ(王)ですから、その音を漢字に写して閻魔羅闍(えんまらじゃ)さんです。だから日本では奈良時代、閻羅王と書かれました。

 そういえば大ヒットしたインド映画『『ムトゥ 踊るマハラジャ』というのがありましたが、『マハラジャ・マハーラージャ(Maharaja)』という言葉はラージャ(王)の中で強盛な(マハー)もの=大王という意味です。

 宇治拾遺物語『広貴炎魔王宮へ召るる事』には『炎魔』の表記があるそうです。

 日本霊異記には閻魔国が出てきます。
 閻魔さんは冥界で人間の生前の所業を調べ、裁判をするお仕事をなさっています。

 閻羅、閻羅王の名は『仏説閻羅王五天使経』や『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経(預修十王経)』に見られます。
『預修十王経』では閻魔王のほかに九王を加えて十王とし閻魔王を裁判長として裁判官を構成しています。

 支那では道教と習合して道教の神にもなっています。道教にも冥界があって、そこで閻魔さんは十殿という十の法廷を統べる(すべる=統治する)王をなさっています。

 だから、霊幻道士のキョンシーみたいな道服を着ているんですね。

 日本では奈良時代までは死者は閻羅王宮に引き立てられ、その裁判によって地獄の責め苦を受けることになっていました。

 インドの冥界の王が善行を奨励するために仏教の中に取り入れられたのですね。

 日本では閻魔十王と三仏を十三仏にあて、初七日忌から三十三回忌までの供養本尊としています。

 つまりあの世に行った人は裁判にかけられ、十三仏によって審理されるのです。

 参考に、十三仏を列記しましょう。

十三仏     裁判官     読み       忌日
不動明王   秦広王   しんこうおう   初七日(7日目・6日後)
釈迦如来   初江王   しょこうおう   二七日(14日目・13日後)
文殊菩薩   宋帝王   そうていおう   三七日(21日目・20日後)
普賢菩薩   五官王   ごかんおう       四七日(28日目・27日後)
地蔵菩薩   閻魔王   えんまおう       五七日(35日目・34日後)
弥勒菩薩   変成王   へんじょうおう   六七日(42日目・41日後)
薬師如来   泰山王   たいざんおう   七七日(49日目・48日後)
観音菩薩   平等王   びょうどうおう   百か日(100日目・99日後)
勢至菩薩   都市王   としおう       一周忌(2年目・1年後)
阿弥陀如来   五道転輪王   ごどうてんりんおう   三回忌(3年目・2年後)
阿?罠(あしゅく)如来   蓮華王   れんげおう   七回忌(7年目・6年後)
大日如来   祇園王   ぎおんおう       十三回忌(13年目・12年後)
虚空蔵菩薩   法界王   ほうかいおう   三十三回忌(33年目・32年後)
 

 上の表を見ると、第五法廷の五七日に地蔵菩薩=閻魔王が裁判を担当することになっていますね。

 閻魔さんは「地獄の業火(ごうか)は自らが作った業(ごう)によって燃え上がるのだ」と罪人に言い渡します。

 嘘をついたら、獄卒(ごくそつ)という地獄の鬼に舌を引っこ抜かれてしまいます。

 初七日とか四十九日の追善供養(回向)などと言いますが、これは、それぞれの裁判の際に生きている人たちが供養をしてあげると、裁かれる人がそれだけ善行をしたことになって、点数アップして裁判が有利に運ぶわけなんですね。
 冥界の福がアップするので、『冥福を祈る』と言うのですね。

 インド仏教では四十九日の第七法廷、薬師如来=泰山王が最終判決を下し、死者に六つの道が示され、選ぶように言われます。

 死者が自分で選んだ先が『輪廻』の行き先で、これが判決です。

 冥土は死者が生と死・陰と陽の狭間にあるため中陰と呼ばれ、判決が下り輪廻するので、『満中陰(四十九日、尽七日)』といわれるのですね。

 六道は以前紹介したように、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つです。

 その後、浄土思想ができたりして、十三仏とか百か日や一周忌、三回忌…五十回忌までの結縁(けちえん)の法要が加わったようです。


 閻魔さんの全身はこんな感じです。

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 前に置かれている鏡は『浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)』といって、水晶でできた鏡です。

 死者(亡者)の生前における善悪の所行を、そのまま映しだし、これによって閻魔様は裁判の審理を行うのです。

 手に持った笏(しゃく)にいろいろとメモします。

 小野篁(おのたかむら)さんは、こんなおっかない人の横で仕事をしていて、大変だったろうねえ。
 

 閻魔さんの隣に、あと2体の像が安置されています。

 大統院開基 仏観禅師(青山慈水)像です。

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 青山慈水さんは夢窓国師の侍者を勤め、後光厳天皇の帰依も受けた人です。勅諡(ちょくし=勅命によって諡《おくりな》を与えること)は仏観禅師です。

 大統院(だいとういん)は、六道珍皇寺のすぐ近く(北東)にある建仁寺の塔頭で、観応年間(1350年から1352年)に青山慈永(せいざんじえい)さんを開基として創建されました。

 六道珍皇寺も同じく建仁寺(けんにんじ)の塔頭(たっちゅう)ですから、ここにお祀りしているのですね。

 
 六道珍皇寺を中興した弘法大師(空海)像です。

 
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 この前ご紹介した西福寺
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49788952.html
も、弘法大師が自ら土でつくった六波羅地蔵を安置したことに始まる古刹でしたね。弘法大師はこの辺一帯で活躍なさったのですね。

 ということで、次に続きます。

【ファイルMK9】2010.01.10 京都の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)は冥界への入り口(その1)

『六道まいり』は迎え鐘を撞くんだねえ。小野篁(おのたかむら)さんゆかりのお寺だよ。

 京都では毎年8月16日に有名な『五山送り火(ござんのおくりび)』(大文字の送り火)が行われます。これは、諸説あるそうですがお盆に迎えたお精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送り届けるために焚かれる火とされているそうです。

 では、お精霊さんをお迎えするときにはどうするのでしょう。
 
 京都の六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)では毎年八月七日から十日までの四日間『六道まいり』が行われ、先祖の精霊をこの世へ呼び戻す『迎え鐘(むかえがね)』を撞く参詣者でにぎわうのです。

 実は以前ご紹介した建仁寺の記事は、珍皇寺に行く途中で立ち寄ったものです。

 建仁寺の記事はこちら、
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49365223.html

 もう一度位置関係の地図をご覧ください。

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 冥界への入り口六道の辻から昔葬送の道だった松原通を東に少し行ったところに六道珍皇寺があります。

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 小さな境内に大勢の人がお参りしています。

 六道珍皇寺の『六道まいり』の参詣の仕方を書いた看板が立っていたので、書き写しますね。

 参詣順序
1・境内参道に於いて高野槙(コウヤマキ)を買い求める。
2.本堂前で先亡の法名(戒名)俗名を水塔婆に書いてもらう。
3.迎え鐘を撞く。
4.水塔婆を線香で清める。
5.地蔵尊宝前に於いて備え付けの高野槙にて水回向の後その場所に収める。
6.8月17日当山に於て盂蘭盆会施餓鬼法要を厳修申し上げ本堂前「六道の辻」と称する場所において全ての水塔婆への総供養を行う。

 本堂前の受付には笹龍胆(ささりんどう)の家紋の幕が張られています。

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『笹竜胆紋(ささりんどうもん)』は源氏、とりわけその中でも村上源氏の代表紋だそうです。

 六波羅蜜寺の南に鎌倉幕府が六波羅探題を設置したから、清和源氏がその際に六道珍皇寺に寄進をしたのかもしれませんね。

 迎え鐘を撞く人たちが並んでいます。

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 鐘のお堂から紐が出ていて、これを引っ張ると鐘が撞かれ、ご先祖様をお迎えします。

 本堂の前に『三界萬霊十方至聖』と刻まれた石柱と、『あの世への入口 六道の辻』、『閻魔王宮の臣 小野篁(おのたかむら)卿旧跡』と書かれた提灯が下げられています。

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 それでもって、ここでは『閻魔王宮(えんまおうきゅう)の臣 小野篁(おのたかむら)』さんや閻魔大王さんたちの像が毎年八月七日から十日までの四日間『六道まいり』の時期に公開されているのです。

 普段はお堂の中に仕舞われていて、小さな格子窓から覗くようになっているのですが、この時だけは戸が開け放たれ、お日様の光の下、拝むことができるのです。

 小野篁(おのたかむら)さんです。

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 小野篁卿立像とその脇侍に善童子立像(左)、獄卒鬼立像(右)が控えています。

 お寺に掲示されている看板には、
 小野篁卿木立像は江戸時代(元禄2年)に旧篁堂の本尊として製作され、作者は京都右京の法橋院達(ほっきょういんだつ)だと書かれてあります。

 また、脇侍の善童子立像、獄卒鬼立像はどちらとも伝小野篁卿の作だそうです。

 小野篁さん(802〜852)は、
 延暦21(802)年生れ、遣隋使を務めた小野妹子(おののいもこ)の子孫で、父は参議小野岑守(みねもり)です。

 孫に三蹟の一人小野道風(おののとうふう)がいて、また平安時代前期の有名な女流歌人で絶世の美女小野小町も孫だと言われているそうです。

 もの凄い家系だねえ。

 嵯峨天皇に仕えた平安初期の政治家で文人、歌人です。

 若い頃は、父に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしましたが、嵯峨天皇のお言葉に触れ発奮し学業に励んだそうです。

 弘仁13年(822年)文章生に補せられ、大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下に叙せられ、翌天長10年に仁明天皇が即位し、淳和上皇の皇子恒貞親王が皇太子になると、東宮学士に任ぜられました。

 順調に出世して、承和元年(834年)、遣唐副使に任ぜられますが、承和5年(838年)に正使藤原常嗣の専断に憤慨し争い、病気と称して乗船を拒否します。

 さらに、『西道謡』という朝廷を批判する詩を作ったため、嵯峨上皇の怒りを買い、官位剥奪の上隠岐への配流に処されました。独立独歩で頑固な人だったんですね。

 篁さんは、その反骨精神から「野相公」、「野狂」という異名があります。

 篁さんが流刑地の隠岐に流される時に読んだ歌は特に有名で、百人一首にも入っています。


 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(百人一首11番)
 

 そののち承和7年(840年)2月許されて帰京・本位に復します。

 その後も蔵人頭・左中弁と要職を歴任。承和14年(847年)には参議として公卿に列し、仁寿2年12月(853年1月)従三位に叙せられますが、まもなく薨じました。

『令義解(りょうのぎげ=文章博士菅原清公ら12人によって撰集された令の解説書)』の編纂にも深く関わるぐらい法理に明るく、政務能力に優れていました。

 一方で漢詩文では平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人で、『経国集』や『和漢朗詠集』にその作品が伝わっています。

 また和歌にも秀で、『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に18首が入首しています。

『日本文徳天皇実録』の薨伝によれば、篁さんは身長が六尺二寸=180センチを超える巨漢だったそうです。

 これだけの身分でスーパーマンのような活躍をしたのですが、金銭に淡白で禄を友人に分け与えていたため貧しかったんだって。


 さらに、篁さんが有名なのは、昼は高級官僚として朝廷に仕え、夜は井戸を通って冥界に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたということです。寝る暇がないねえ。

 篁さんのアップ

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 睡眠不足のせいで、目が充血しています。

 京都市北区にある篁さんのものと伝えられる墓の隣には、紫式部のものと言われる墓がありますが、これは愛欲を描いた咎で地獄に落とされた式部を、篁さんが閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものだそうです。

 その他にも、篁さんは逸話に事欠きません。

『今昔物語集』には、病死して閻魔庁に引据えられたた藤原良相が篁さんのとりなしによって蘇生したという逸話があります。

『宇治拾遺物語』などには、嵯峨天皇のころ、「無悪善」という落書きがあったのを「悪[さが(嵯峨のこと)]無くば、善けん」と読み、それに立腹した嵯峨天皇の出した「『子』を十二個書いたものを読め」というなぞなぞを、見事に「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いてみせ事なきを得た、という逸話が書かれています。

 まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白楽天の詩の一文字を変えて篁さんに示したところ、改変したその一文字のみを添削して返したといいます。

 中唐の大詩人、白楽天は、篁さんが遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみにしていたそうです。

 凄い人だったんだねえ。

 次に続きます。
 次回はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/50060253.html

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【ファイルMK9】2009.12.11 六波羅蜜寺には、有名な木造空也上人立像があるよ(下)。

京都の鴨川は、都と冥界との境界(その5)

(上)からの続きです。
(上)はこちら。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/49854748.html

 本堂の裏の宝物館では、有名な木造空也上人立像(重要文化財)や木造僧形坐像(伝・平清盛像・重要文化財)などが展示されています。

 当然のように撮影禁止なので、お寺に貼ってあったポスターの写真を載せます。

 木造空也上人立像(重要文化財)

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 教科書に載っている有名な像ですね。

 鎌倉時代、運慶の四男・康勝の作。空也上人が草鞋履きで鉦(かね)を鳴らし、念仏を唱えながら悪疫退散を祈りつつ歩くさまを表しています。
 念仏を唱える上人の口からは6体の阿弥陀仏の小像が出ていますが、これは「南無阿弥陀仏」の6字を象徴し、六体の小像は針金でつながっています。

つまり、唱えた言葉が一体一体の仏様に化身したのですね。凄い発想です。

 私は、昔からこの口から出た針金の枝にくっついた6体の阿弥陀仏の小像が気になってしょうがなかったので、実物にお会いできてとても感動しました。

 一度見たら忘れられない強烈なインパクトのある像ですからね。この像は必見!

 木造僧形坐像(伝・平清盛像・重要文化財)です。

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 鎌倉時代の作。銘文はないのですが、伝来、作風等から運慶の真作とされるそうです。運慶一族の菩提寺である地蔵十輪院に伝来しました。

 他にも、木造地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)、木造伝・運慶坐像、伝・湛慶坐像(鎌倉時代)、木造四天王立像(平安時代)、木造薬師如来坐像(平安時代)、木造地蔵菩薩立像(平安時代)、木造弘法大師坐像(鎌倉時代)、木造閻魔王坐像(鎌倉時代)、木造吉祥天立像(鎌倉時代)など、重要文化財が目白押しです。

 宝物館でお寺の方が、いろいろ説明してくださったのですが、みなさん六道の辻を清水寺の方に曲がられる方が殆どで、南に降りて六波羅蜜寺に参拝する人は少ないと嘆いておられました。
 少し分かりにくい場所にあるしねえ。

 六波羅探題を開いた鎌倉幕府歴代将軍は六波羅蜜寺の弁財天を祈願所と定め、以来、参拝者が絶えないそうです。

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 お堂の中のピカピカの弁天様。シタールを持っています。

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 清盛塚です。

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 阿古屋(あこや)塚です。

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 阿古屋さんの菩提を弔うため鎌倉時代に建立されました。石造宝塔で、その下の台は、古墳時代の石棺の石蓋を用いています。

 『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』 三段目の『阿古屋の琴責め』が有名です。

代官畠山重忠は平家の残党、悪七兵衛景清の行方を探索するため、景清の愛妾だった五條坂(清水坂)に住む白拍子の阿古屋さんを捕らえ居場所を尋ねます。

畠山重忠は阿古屋さんが景清の所在を秘匿していることを知っていましたが、琴、三味 線、胡弓を弾かせ、その調べに一転の乱れがないことに感動して彼女を釈放します。

 歌舞伎では、阿古屋さんが難役なので、演じる人がおらず何十年も上演されなかったのですが、最近坂東玉三郎が復活させたのだそうです。


 後鳥羽上皇が起こした承久3年(1221年)の承久の乱ののち、鎌倉幕府が朝廷や西国武士の監視を強化するために、それまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置しました。

 お寺の人に聞いたらば、北の六波羅探題はお寺のすぐ南で工事をやっている辺りだったということです。

 このへんが北の六波羅探題跡

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 松原通に戻って少し歩いたらば、ハッピー六原という商店街がありました。

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 ポップな看板だねえ。

 幽霊さんも買い物に来るのかな?

 ということで、空也上人や平家ゆかりの六波羅蜜寺でした。ここも京都観光の穴場だねえ。


 次回は、いよいよ冥界への入り口である六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の記事です。

【ファイルMK9】2009.12.10 六波羅蜜寺には、有名な木造空也上人立像があるよ(上)。

京都の鴨川は、都と冥界との境界(その4)

 西福寺や幽霊子育て飴のお店がある六道の辻を南に下ってすぐ、六原小学校の隣に、六波羅蜜寺 (ろくはらみつじ)があります。

 由緒ある六原小学校

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『六波羅(ろくはら)』というのは、五条から七条までの鴨川東岸一帯を指します。

 語源は、『麓原』=東山の山麓に広がる原の意とも、東山鳥辺野(とりべの)などと同じく、葬送地であったこの地が『髑髏原(どくろはら)』と呼ばれたからとも言われているそうです。それに仏教の六波羅蜜の字をあてたのでしょうね。

仏教の世界では『波羅蜜多(はらみた)』という言葉が、般若心経(はんにゃしんぎょう)の冒頭に出てきます。

◇  ◇  ◇

 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。 (かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ)

【 観自在菩薩が般若波羅蜜多(空の智慧)を行じている時】

 ◇  ◇  ◇

 波羅蜜【はらみつ(サンスクリット語でパーラミター):玄奘(げんじょう=西遊記で有名な三蔵法師)以降の新訳では波羅蜜多(はらみた)】は、仏教における菩薩の基本的な実践徳目です。

 波羅蜜は6つあって、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の6つの実践徳目のことを六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。菩薩は、この六徳目を得て自利利他の大行を究竟し、涅槃の彼岸に到るそうです。 

 六波羅蜜はまた、『六度(ろくど)』とも呼ばれます。

 六波羅蜜寺は真言宗智山派の寺院で、山号は補陀洛山(ふだらくさん)。西国三十三箇所第17番札所です。

 補陀洛山といえば、以前、補陀洛渡海(ふだらくとかい)の記事を書きました。
http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/28326205.html

 西方浄土(さいほうじょうど)といって、西には阿弥陀様がいらっしゃる浄土があると言われますが、南方にも観音様がいらっしゃる補陀落(ふだらく)という浄土があるとされているのですね。

 ですから、本尊は補陀落浄土を象徴する十一面観音です。

 観音菩薩様は六波羅蜜(6つの実践徳目)を得て涅槃の彼岸に到り、如来様になるのです。

 開基(創立者)は踊り念仏で知られる市聖(いちひじり)空也(くうや)上人です。

 六波羅蜜寺は空也(くうや)上人が平安時代中期の天暦5(951)年に自ら造立した十一面観音を本尊とする道場が起源で、当初は西光寺と称していました。

 この本尊は国宝に指定されています。

 でも、ご本尊は本堂中央の厨子に中に安置されて見ることができません。
 12年に一度、辰年にのみ開帳されるそうです。

 それではあんまりなので、お寺に入ったところに、ご本尊のレプリカが立てられています。

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 お参りします。

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 空也上人は疫病の蔓延する当時の京都で、この観音像を車に乗せて引きながら歩き、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて病魔を鎮められたそうです。

 また、空也上人は応和3(963)年8月諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営みました。
 これをもって、六波羅蜜寺の創建とするそうです。

 空也上人が亡くなった後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称されました。

 一方六波羅蜜寺の周辺は平安後期、平忠盛が寺内の塔頭に軍勢を止めて以来、清盛(=六波羅殿《ろくはらどの》・泉殿(いずみどの》)・重盛と、一帯に平家一門の邸館(六波羅館:ろくはらやかた)が立ち並びました。

 清盛の代で、敷地が「四丁(四町)」建物は「屋敷百二十余宇」の規模でした。

 その上に清盛邸を中心に平家一門、家臣従者達の住居が「廿余町ニ及マデ造営シタリシ。一族親類ノ殿原及ビ郎従眷属ノ住所ニ至ルマデ、細ニ是ヲ算レハ屋敷三千二百余宇」という栄華を誇りました。

 寿永2(1183)年の平家没落の際に平家自らの手によって六波羅一帯に火がつけられ、六波羅蜜寺の諸堂は焼かれましたが、その際には本堂のみ焼失を免れたそうです。

「驕れる人も久しからず」の「諸行無常」の世界ですね。

 その後、六波羅蜜寺は源頼朝、足利義詮による再興修復をはじめ火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉も方広寺の大仏建立の際、本堂を補修して現在の向拝(屋根を正面の階段上に張り出した部分)を附設し、寺領70石を安堵しました。

 また、徳川代々将軍も朱印を加えました。
 
 現存する本堂は貞治2年(1363)の修営で、応仁の乱の戦火を免れた数少ない建物ですが、明治以降荒廃していたそうです。
 そして、昭和44(1969)年に開創1,000年を記念して解体修理が行われたそうです。

 本堂(重要文化財)です。

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 お地蔵さんも勢ぞろい。

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 こちらの龍さんは、羽が生えて可愛いねえ。

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 次に続きますね。

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