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これが幽霊子育飴のお店です。 親が子を思う気持ちが伝わってくる切ないお話ですね。 その赤ちゃんは長じて高僧になり、68歳の長寿を全うしたので、ここの飴を舐めると、子供は頭が良くなって長生きするということで、京の名物になったのですね。 さすがは六道の辻は鳥辺野への葬送道で、幽霊さんの往来する百鬼夜行・魑魅魍魎さんたちの原宿です。幽霊さんも相手に手広く商いしてるんだねえ。 飴の袋に同封してある、由来書きを写してみましょう。 ◇ ◇ ◇ 由来 今は昔、慶長4年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に幼児の鳴き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし妻の産みたる児にてありき、然るに其の当時夜な夜な飴を買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。此の児八才にて僧となり修業怠らず成長の後遂に、高名な僧になる。寛文六年三月十五日六十八才にて遷化し給う。 されば、此の家に販ける飴を誰いうとなく幽霊子育ての飴と唱え盛んに売り弘め、果ては薬飴とまでいわるるに至る。洵に教育の上に、衛生の上に此の家の飴ほど良き料は外になしと今に及んで京の名物の名高き品となれりと云う。 らんすい みなとや幽霊子育飴本舗 ◇ ◇ ◇ 袋から出してみるよ。なんか黄色い氷砂糖みたいだねえ。 無造作に割った形が嬉しくて、頬張って舐めると美味しいねえ。 こういう由来の飴を売っているところが歴史のある京都らしいのですね。 魔界京都のお土産にいいかも。 |
魔界の部屋
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それで、まず、当魔界の部屋でご案内する各所の位置図をみていただくことにしましょう。 再掲です。 前回ご紹介したように、松原通はもともと、鳥辺野(とりべの)という墓地の葬送道でした。 昔、京の都人は、鴨川により内側が洛中で、外側すなわち洛外は冥界だと考えていました。 鳥辺野(とりべの)は平安時代以前から墓地・葬送の地で、北の蓮台野(れんだいの)、西の化野(あだしの)とともに京都の三大墳墓地です。 826 (天長3)年5月、淳和天皇の第一皇子桓世親王が、22歳で亡くなり、鳥部寺の南の山に葬られた記録があるそうです。 今の五条通より南側の阿弥陀ヶ峰から泉涌寺・東福寺までは、天皇や貴族などの上流階級の墓所で、北側は庶民の墳墓が多く狭義の『鳥辺野』で、親鸞上人の荼毘所(だびじょ)や、藤原一族の火葬の地もありました。 阿弥陀ヶ峰の山頂には、豊臣秀吉の墓所、豊国廟があります。 お墓の『平安京ニュータウン』といったところですね。 さだまさしさんは、鳥辺野の今熊野の剣神社から泉涌寺までの山道がお気に入りだそうです。 『鳥辺野』も『蓮台野』も『化野』も、もともとは風葬の地でした。 風葬というのは、死体を地中に埋めずにさらしておき、朽ちるに任せる風習のことで、輪廻思想の仏教からすると、理に適った葬送の方法だと言えます。 しかしながら、屍肉の腐臭を考えただけでも、洛中(都の中)というわけにはいかず鴨川を隔てた冥界の地を設定しなければならなかったのでしょうね。 風葬の地には、いずれも『野』という地名が付いていて、京都では『野』という言葉に葬送の意味が含まれているそうです。 それがやがて土葬に変化していったのですね。 疫病のことを考えれば、衛生的には火葬が一番良いのでしょうが、キリスト文化圏の人なんかは、最後の審判の時に死者が蘇ることになっているので、土葬にこだわるのですね。 ゾンビの映画なんかは『火葬にすればいいじゃん』って思ってしまうので、怖くありません。キリスト教徒にすれば、最後の審判まで土中で待機して、やがて神の国に行くはずが、中途半端に蘇って彷徨いっぱなしというのは、異教徒には想像できない恐怖なのでしょう。 ちなみに、インドの有力なビジネス集団パルシーはペルシア系ゾロアスター教徒の集団で、ムンバイ(もと英名のボンベイ)を中心に中世から有力商人を輩出してきました。 もともとは古代イランに住んでいたのですが、7世紀にササン朝ペルシアがイスラム教徒に征服されて、国教のゾロアスター教からイスラム教に改宗させられたのです。 イスラム教への改宗を拒否したゾロアスター教徒の一部が、イラン(ペルシア)からインドに逃げてきてパルシーになりました。 インド国内のパルシー7万人のうち5万人がムンバイで暮らしていて、その人たちは『鳥葬』によって葬儀を行います。 『鳥葬』というのは、鳥に遺体をついばませる葬礼方法です。 ゾロアスター教の鳥葬場はムンバイの中心部の森にあって『ダフマ(沈黙の塔)』と呼ばれています。 しかしながら、都市化の進展で遺体をついばむハゲワシさんの数が減少して、『鳥葬』の存続が危ぶまれているんだって。自然破壊はいろんなところに影響を及ぼしています。 ということで、葬儀というのは人々の死生観にかかわっているのですね。 それで、旧五条橋(松原橋)を少し東進したところに、六道の辻(とくどうのつじ)の石塔が立っています。 仏教では解脱して仏様にならなければ、6つの世界のうちのどれかに生まれ変わるのですね。この6つの世界のことを六道(りくどう、ろくどう)といいます。 天道(てんどう)、人間道(にんげんどう)、修羅道(しゅらどう)、畜生道(ちくしょうどう)、餓鬼道(がきどう)、地獄道(じごくどう)が六道です。 六道輪廻(りくどうりんね)とか言いますね。 だから六道の辻は、冥界への入り口ということなのですね。 六道の辻の南西角にある小さなお寺が西福寺です。 弘法大師が自ら土でつくった六波羅地蔵を安置したことに始まる古刹で、檀林皇后(だんりんこうごう)が皇子(のちの仁明天皇)の病気平癒を祈願したことから、子育て地蔵として信仰を集めています。 夏に建仁寺に行った時に立ち寄った際には、ちょうど『精霊お迎え(8月8・9・10日)』の時期で多くの善男善女が訪れていました。 お不動さんにお参りします。 この期間だけ、地獄絵図や壇林皇后の死生観を表した掛け軸「壇林皇后九想図(だんりんこうごうくそうず)」が展示されます。 檀林皇后(だんりんこうごう)=橘 嘉智子(たちばな の かちこ、786年-850)様は、第52代嵯峨天皇皇后。橘奈良麻呂の孫、贈太政大臣・橘清友の娘です。 奈良の法華寺の十一面観音立像は光明皇后をモデルにしたものと云われていますが、檀林皇后をモデルにしたという説もあるそうです。 それほど檀林皇后は美しかったのですね。 檀林皇后は、鳥や獣の飢を救い、諸行無常を我が身をもって示すために、自分の死後に埋葬を禁じて道端で朽ちるにまかせ、腐乱して蛆がわき、白骨化していく過程を絵師に描かせたという伝説が残っています。 それが「壇林皇后九想図(だんりんこうごうくそうず)」だそうですが、9世紀のものにしては新しいので、この伝説を題材にした掛け軸なのでしょう。 鎌倉時代に鴨長明によって書かれた『方丈記』の世界ですね。 『行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し』 ちなみに、方丈記の記述では、養和年間(1181-1182)の2年間にわたって飢饉があり、多くの死者が出たそうです。 旱魃、大風、洪水が続いて作物が実らず、朝廷が様々な加持祈祷を試みても甲斐なく、諸物価は高騰し、さらに翌年には疫病が人々を襲いました。 仁和寺の隆暁法印がおびただしい数の餓死者が出たことを悲しみ、死者の額に「阿」の字を書いて結縁し、その数を数えたところ、養和二年四月・五月の左京だけで、四万二千三百余に達したといいます。 六道の辻付近は轆轤(ろくろ)町という町名がついていますが、昔は髑髏(どくろ)町と呼ばれていたという話もあるそうです。 昔の都は、京都に限らず、死の存在がとても身近なものだったのですね。 |
【ファイルMK6】2009.11.23 京の新五条大橋・旧五条橋(現松原橋)に行ったよ。京都の鴨川は、都と冥界との境界(その1)以前、三条大橋が東海道中膝栗毛のゴール地点で、三条河原が石川五右衛門が処刑された地だという記事を書きました。http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/23905574.html それから、祇園祭では、鴨川の外(東側)は異界で、京の都の魔を払うために異界に位置する祇園社から、主祭神の素戔嗚尊(スサノヲノミコト) さん達が御神輿に乗って橋を渡って、御旅所まで出張されるという記事も書きました。 というように、鴨川は京の都すなはち洛中と冥界を隔する境界の川なのですね。 ということで、五条大橋に着きました。 中央分離帯のある、交通量が多い大きな橋です。 橋の袂には、弁慶さんと牛若丸さんの可愛い像が建っています。 ちょっとタンマと言っている弁慶さん。 弁慶さんと牛若丸さんについては、以前紹介した祇園祭の橋弁慶山の記事を参考にしてくださいね。 擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)はとても古くて立派です。 雒陽ラクヨウ(ラクヤウ)というのは、洛陽のことで、支那の洛陽です。東周に洛邑と称され都が設置されて以来、後漢・曹魏・西晋・北魏・隋・後唐などの都城が設置され、また長安を都とした王朝でも、洛陽を副都とした王朝が多く中国古代の政治経済の中心地でした。 元々は平安京を東西に分割し、西側(右京)を『長安』、東側(左京)を『洛陽』と呼んでいたのですが、右京すなわち『長安』側は湿地帯が多かったことなどから程なくして廃れ、市街地は実質的に左京すなわち『洛陽』だけとなったのです。 現在でも京都以外の地方から京都へ行くことを「上洛する」「入洛する」といいますね。 正保2年は1645年で、干支は乙酉(きのと-とり)です。『し』が『乙』を表すのかな? ちなみに正保2年がどんな時代かというと、前年1644年に明が滅んでいます。 五条大橋の袂から、鴨川の岸辺に降ります。 川のほとりには、サギさんがいました。 ユリカモメさんもいます。 ジャンプして、急降下して川の魚を食べていました。 ユリカモメさんは、現在鴨川に公園の鳩なみに沢山いますが、実は京都に来たのは、1970年代になってからだそうです。 ユリカモメさんは、昔の本に都鳥という名前で出てくる鳥のことだという説が有力だそうで、『伊勢物語』の「九段 東下り」に出てきます。 なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。 隅田川に『京には見えぬ鳥』がいて、渡しもりに名前を聞くと『都鳥』ということなので、舟のお客さんは京都のことを偲んで泣いたのですね。 私はてっきり京都に沢山いるからユリカモメのことを都鳥と呼んでいたのだと思っていましたよ。 五条大橋から北側に松原橋を望むことができます。 ということで、旧五条橋の松原橋に向かいます。 途中にあった小公園で、ムギマキさんが赤い実をくわえていました。 中世の五条橋は、東の橋と西の橋に分かれていて、2つの橋を中継する中洲が鴨川の真ん中にあったそうです。 『雍州府志(ようしゅうふし)』などの記載によると、この中洲には法城寺(大黒堂)という真言宗の小さなお寺があったそうです。法城寺は陰陽師で有名な安倍清明ゆかりの寺で、清明が亡くなったとき、この寺に葬り、晴明塚を立てました。 その後、改宗・改号して京都知恩院の末寺となり。数度の洪水に遭い、慶長12(1607)年に三条大橋東詰、京阪三条駅のすぐ北側の現在地に移転。この折、晴明塚もともに移築されたそうです。(現在の心光寺=法城山晴明堂)。 松原橋(旧五条橋)の上から、現五条橋を望む。 時代は変わっても鴨川は流れ続けています。 鴨川東隣の疎水に落ち葉が浮かんでいました。 さらに松原通を東に進みます。 狭い通りだねえ。 ということで、位置関係を落とした写真を見てください。 鴨川が南北に流れ、その東側に赤で鳥辺野と書かれています。 そして、緑の線で松原通を示しています。 松原通はもともと、鳥辺野という墓地の葬送道でした。 ですから、魑魅魍魎、妖怪、幽霊の原宿通りといった感じなのです。 松原通はそのまま行けば清水寺に通じています。 これから、この一帯をご案内しますね。次に続くよ。 |
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明治大学博物館に展示されている日本唯一のギロチンのレプリカ(模造品)。 手前の板に腹ばいにさせて、 穴に死刑囚の首を突っ込みます。 向こうに見えている絵は、ルイ16世の処刑風景です。 執行人がロープから手を離すと、4メートルの高さから40キログラムの刃がニュートンの法則により重力加速度をつけながら自由落下し、すぱっと首がちょんぎれてごろんと前に落ちます。 ギロチンは、1792年4月25日にフランスで正式に処刑道具として認められました。 当時はフランス革命後の恐怖政治により、毎日何百人もが処刑されていました。 それまでは平民は絞首刑が執行されていましたが、貴族階級には斬首刑が執行され死刑執行人が未熟だったりタイミングがずれたりすると切り損ねて、囚人の首に何度も斬りつることになって多大な苦痛を与えることも多かったそうです。 見かねた内科医で国民議会議員だったジョゼフ・ギヨタンが受刑者に無駄な苦痛を与えず、しかも身分に関係せず同じ方法が適用できる「人道的」で「平等」な処刑を行えるような器具を使用するように議会で提案しました。 最初は馬鹿にされつつも、紆余曲折の後議会でその案が採択され、外科医のアントワーヌ・ルイが設計の依頼を受けて既にあったヨーロッパ各地の断頭台を研究し、刃を斜めにするなどの改良を加えてできたのがギロチンです。 発案者ジョゼフ・ギヨタンの名前からギヨチーヌと呼ばれ、それをドイツ語読みしてギロチンという名称になりました。 それ以降、フランスでは死刑囚に苦痛を与えないもっとも「人道的」な手段として、ギロチンによる死刑が執行され続けました。 その名の由来となったジョゼフ・ギヨタンもルイ16世もマリー・アントワネットも衆人環視のもと、ギロチンの露と消えます。また、恐怖政治を主導し、受刑者をギロチン台に送り続けたロベスピエールもギロチンで処刑されました。 マリー・アントワネットの最期の言葉は、死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」だったと伝えられているそうです。 19世紀のフランスでは大勢の市民がギロチンによる公開処刑を娯楽として楽しんでいました。 ギロチンによる公開処刑が有名になると、ギロチンのミニチュアが玩具として販売されるようになり、子どもたちが捕まえてきた生きた鳥やネズミの首を切り落として遊ぶようになりました。全くもって無茶苦茶です。 無益な殺生を嫌った江戸時代の町人と比べれば、悪魔の所業です。 いまだにフランス革命を素晴らしい市民革命だと勘違いしている人が多いようですが、事実はそうではありません。 こういう残虐非道な公開ギロチンショーの外、教会と僧侶に対する弾圧、国王処刑、増税、30万人徴兵等の不公平等に不満を持って蜂起したヴァンデ地方の農民等に対し、革命政府が反革命勢力の鎮圧の名のもとに森林、畑、家、教会を荒らし30〜40万ともいわれる無差別虐殺を行った『ヴァンデの虐殺』という血なまぐさい事件があったのです。 この事件はフランス革命の本当の意義が再検討されるようになった近年になるまで忘れ去られていて、フランス本国では、いまだにこの事件について語ることはタブー視されているそうです。 革命というのは狂気です。日本にはフランス革命を賛美し、日本の明治維新は市民革命ではないから日本は遅れていると大真面目に言っていた学者・教師を初めとした進歩的文化人やその弟子がいまだにその世界のボスとしてのさばっています。この人たちは残虐非道なロシア革命や中華人民共和国共産党毛沢東の文化大革命も絶賛していたのです。 日本のマスコミは、いまだに市民(フランス語では「ブルジョア」)革命を素晴らしいと思っているらしく、「国民」という言葉を忌み嫌い、「市民」という言葉を使います。「左翼運動」を「市民運動」と言い換え偽装表示します。マスコミに都合の悪い意見を持つ人は「右翼」です。 ギロチンの話に戻ると、フランスの作曲家エクトル・ベルリオーズが1830年に作曲した幻想交響曲(原題:「ある芸術家の生涯の出来事、5部の幻想的交響曲」)作品14の第4楽章は「断頭台への行進」という題がつけられています。 フランスでは死刑制度そのものが廃止される1981年9月までギロチンによる死刑執行は制度上存在していました。 女性を殺害した罪に問われたハミダ・ジャンドゥビというチュニジア人労働者が1977年9月10日にフランス最後の死刑執行人であるマルセル・シュヴァリエによって死刑に処されました。 これが実際にフランスでギロチンが使用された最後です。 つまり死刑制度が無くなったから、結果的にギロチンが無用の長物になっただけで、裏返すと、フランスで死刑制度が復活すれば、ギロチンが復活する可能性も十分あるわけです。 アラン・ドロン、ジャン・ギャバン主演のフランス映画『暗黒街のふたり(1973)』では、ギロチンによるショッキングな死刑執行の場面があります。 この映画が作成された時点ではまだギロチンは現役で使用されていたんですね。 アラン・ドロンといえば『SMAP×SMAP』の『BISTRO SMAP』に出演して、SMAPのメンバーの料理を食べたり、木村拓哉等に演技論を披瀝したり、とてもお元気でしたけれど一世を風靡した二枚目俳優ですね。 ギロチンが実際に使用されていたのはそんなに昔のことではありません。
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【ファイルMK4】2009.03.19 明治大学博物館の鉄の処女(アイアン・メイデン)だよ刑事資料が充実していて無料だねえ。前回は鈴が森の刑場の記事で、明治大学博物館に展示されている獄門首台木(ごくもんくびだいき)、磔柱、火罪木(かざいき)のレプリカの写真を掲載しました。http://blogs.yahoo.co.jp/metoronjr7/47339510.html 元々この博物館は、「商品博物館」「刑事博物館」「考古学博物館」だったものを、平成16年4月に商品部門・刑事部門・考古学部門の3つの部門(プラス大学史)で構成される「明治大学博物館」として、現在の場所に新たに開館しているものです。 私は以前、「刑事博物館」だった頃に来たことがあります。 例えば、清国が日本の明治維新を範に近代化しようと、日本に留学生を沢山送り込んできた時期があります。 留学生には警察業務を学ぶものが少なくありませんでした。そこで明治大学が1904年に別法人として設置した経緯学堂には警察学科があって、行政警察、司法警察、消防警察、衛生警察などの科目を教えました。 そういうわけで、明治大学の最寄り駅は御茶ノ水です。 私は神田川のこの景色が結構好きです。 たけし軍団のタレントの水道橋 博士(すいどうばし はかせ)は北野たけしさんに憧れてたけしさんの出身校の明治大学に入学したそうです。 明治大学といえば、最寄り駅が御茶ノ水駅で、御茶ノ水といえは、手塚治虫さんの『鉄腕アトム』の『お茶の水博士』です。 師匠のたけしさんが、芸名を付けるとき、明治大学出身だからといって『お茶の水博士』と命名したら、あまりにも恐れ多いのでJR中央線御茶ノ水駅の「ひとつ手前でいいや」と隣駅の水道橋駅にちなんで『水道橋博士』と命名したんだって。 このビルに入って、エスカレーターで地下一階におりたら、明治大学博物館があります。 三角の帽子と、胸のフリフリは、当時の最新流行ファッションです。 素敵な、じゃなくて、不敵な笑みをたたえていますね。聖母マリア様がモデルだという説もあるようです。 以前、栗本慎一郎さんが、「明治大学は鉄の処女を持っている」って書かれていて、どういう意味か分からなかったんですけど、こういうことだったのですね。 これは内側に剣山のような鉄の針が植わっていて、人を中に入れて、がっちゃんって閉めたら、針がぷっちんぷりんって体にささって貫通するので、とっても痛い痛い思いをしながら、死んでしまいます。鉄の針は長いんだよ。鉄の処女は、ドイツ語では「アイゼルネ・ユングフラウ(Eiserne Jungfrau)」、英訳は「アイアン・メイデン(Iron Maiden)」、または「バージン・オブ・ニュルンベルグ(Virgin of Nuremberg)」と表記される場合もあるそうです。「アイゼルネ・ユングフラウ」なんて知らずに聞いたら、美味しそうなケーキの名前みたいです。16世紀にドイツのニュルンベルクで作られたとされるものが特に有名で、各地の模造品も多くはこれをもとにしています。イギリスの代表的なヘヴィメタルバンドに『アイアン・メイデン(鉄の処女)』っていう名前のバンドがありますが、これから取ったみたいです。Iron Maiden - Aces High 鉄の処女は「処刑具」説、「拷問具」説、「脅迫道具(自白を迫るために見せるだけ)」説などに分かれていて、空想上の拷問具の再現であるという説もあるそうです。ビーレフェルト大学のシルト教授は、『鉄の処女、詩と真実』(ローテンブルク犯罪博物館叢書第三巻)で、『「鉄の処女」は、晒し刑(受刑者は樽から頭と足だけを出して市内の広場に立たされる)に用いられる懲罰具「恥辱の樽」の内側に、19世紀になってから鉄の針を付け、頭の部分を覆うよう改造されたものである』という説を提唱し、欧州各地の「鉄の処女」のすべてが「ニセモノ」だと断定しているそうです他方、鉄の処女は名門ハプスブルク家の血を引き、17世紀当時トランシルヴァニアの中で最も伝統があり且つ裕福なバートリ家ハンガリー王国の伯爵夫人、史上名高い連続殺人者であるエリザベート・バートリー(バートリ・エルジェーベト)が作らせたという伝説があります。どことなく雰囲気がタレントの千秋さんににているねえ。 エリザベートは、自分が所有する領内の農奴の娘を誘拐して惨殺していましたが、やがて下級貴族の娘を「礼儀作法を習わせる」と誘い出し、さらにエスカレートして犠牲者は身分の高い貴族の娘にも及びました。 伝説では鉄の処女で犠牲者が死んだ後、棺の扉を開けると棺の床が抜けて死体が水路で城の外に流されるようになっているそうです。水路には刃物が設置されているので、死体が城外に出る頃には原形をとどめていません。 また一説では、「メイドの少女がエリザベートの髪を櫛でとかしていた所、運悪く髪が櫛に絡まってしまった。激怒したエリザベートは、髪留めでメイドの心臓部を刺した。返り血がかかった手を拭うと肌が金色に輝いたように見えたため、処女の血を浴びると肌が綺麗になると信じたエリザベートが、村中の美しい処女を集め、血を絞り取るために作らせた」とも言われているんだって。 鉄の処女から流れた処女の血は、管を通してバスタブへと注ぎ込まれる仕組みだったという説もあります。そのバスタブで入浴して、美貌と若さを保ったんですね。うへえ!ヨーロッパは魔女裁判のおどろおどろしい歴史を持っていますからね。 彼らが有色人種に押し付ける理性なんて眉唾物です。 本当に怖い話です。 明治大学博物館は、無料で楽しくって勉強になる穴場的博物館です。神田、御茶ノ水方面に行くことがあったら、ぜひお立ち寄りください。 |







